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S159 忘却ディストピア

今回はムダにコムツカシイです。


その国は最早行き詰まっていた。しかしそれは既定路線だった。一部の者にとっては。

高度な概念を使い高度な社会を作る。より大きな社会を作る為により多くの者と共通認識を共有しそれをルールとして行動する。大きな社会程管理し辛く、そしてどの様な者が社会に参加しているか分かりにくくなる。

争わない為の報酬も事前に決定して一定の労働にはそれに応じた報酬を支払う取り決めをする。しかし少し先の将来でも現状と同じ状態になっているか分からず、もしその少し先の未来が今より悪化した状態ならその取り決めで支払われた報酬は過分になる。それはつまり、現状の労働がそれに見合った結果を生み出さなかったから、となるが後になりそれを返却させる事など難しく、そして全てが分かりやすく結果を生み出す事もない。そうして社会に属する者達が努力しても一定のエラーは発生する。だからこそ社会に属する者は自分達が争わないで済む枠組みを維持するルールを守りながら、かつ枠組みが壊れないかを確かめながら社会活動する。


逆に言ってしまえば、誰かが支えている社会でズルをすれば自身の働き以上の対価が貰えるのだ。


元々がその商行為の前提が違い、一定の人口と一定の収益を実績に、個々の労働に合った対価が約束出来る。しかしこの国はそれを理解出来なかった。いや、させなかった。膨れ上がる人口はその商行為の前提条件を崩し、変化の激しい商行為の形態は計算の根拠を形骸化させ、より容易く不正に利益を得る事が出来る様に作り変えられていった。Aという商行為に10を払ったとする。そこにAと競合するBという商行為が発生し、これにも10を払ったとする。しかしその対価の根拠となる成果は同じものを根拠としており、どちらかが若しくはどちらも10の対価を受け取った事自体が間違いになる。普通に考えればその商行為に失敗した側が対価を得られずに済むとその商行為だけを見れば簡潔に扱う事が出来る。しかし商行為そのものは生活の為に行われ、娯楽や嗜好品を得る為に行われるのではない。その者の生活の最低限を保証し安全を保障しなければそもそもが商行為が成立する基盤そのものが揺らぎ、商行為を行う事が出来る状態そのものが破綻する。

新しい方法が確立され競合した場合というのは社会に狭義の意味で新たな利益が齎されるわけではない。シェアが変わるだけだ。そこに新たな収益はそもそもが発生していない。新たな方法で競争して勝ち、他者を排除したならその排除された側の生活する手段が失くなる。これが本当の意味で新しい技術を発明して品質や効率を上げながら行われるのであれば、そこまで急激な変化は生じない。それまでにお互いが怠慢せずに役割を果たしていたのなら現状が現在の技術で高い水準にあり、そこから生じる新しい方法はそれほど現状との差を生まない。そうすると競争に負けた者達も数を減らすとは言え急激に数を減らす事もなく、他の役割に移動するか新しい方法を取り入れるか新しい方法を行う者達に合流するか老齢を迎えて廃業するかの穏やかな減少により大きなレスポンスを起こす事なく移行する。

しかし競争に負けた側が廃業する事を拒絶し、品質を落としコストカットする事で対抗しようとすると、スパイラルダウンに陥る。コストカットする事で雇止めや材料品質や完成品品質の低下によりコスト差で競争しようとすると、新しい方法を生み出す努力よりも簡単で、かつ合理化という大義名分で実行出来、問題は全て他へと押し付ける事が出来る。価格を下げ、雇止めするなら自身の集団内のシェアを増やし、シェアを奪われた者を排除する事で保身出来、且つ以前と同じ収益を得るために価格を下げた事で売る総量が増え、結果として自身の集団が属する更に上の集団全体が供給している総量内のシェアを奪い、全体の総量を供給する事で得られる収益全体を減少させ、自身の集団以外の集団にも減益を与え悪影響を及ぼす。その結果として他の集団もコストカットをしなければならない選択を受動的に行い、集団全体が合理化を行い、個人1人当たりの負担は増え、かつ集団に属する人員の総数は減少する。

そのコストカットの方法の1つとしてコストカットされた商品を買った事で得られる差益を競争材料に転換し、他者との競争に用いて自身の集団のシェアを上げようとする。シェアを奪えば、他の集団は同じ様にコストカットされた商品を買って対抗し、それで対抗出来なければコストカットして競争力を強化する。コストカットの為に仕入れる材料の価格を下げる様に強要したり雇止めを行い、コストカットして対抗する。雇止めされた者達はシェアを奪われて排除された事になり、また、価格を下げる様に強要された取引相手は収益が悪化して合理化を行う事になり、元々の収益に余剰分がなければコストカットする事になり同じ状況になる。強要された集団は全体の収益総量が減り、コストカットで対応し、影響は玉突き事故の様に繰り返されスパイラルダウンする。影響はそれだけではなく、コストカットされ雇い止めされた者達は別の集団へと移り、そこに競争を持ち込み労働力での競争が行われ、労働力の提供量の増加による労働対価の実質的な引き下げを行い負担を押し付ける形になる。労働力を提供出来なければ対価が得られず生活出来ないのであれば、奴隷の様に働かされても断れず、その差益で増益する事が出来る。また、1人当たりの労働力の供給量が増す事でコストカット出来、競争力の有利材料になりシェアを奪う事が出来、その影響も他に波及し、他の集団も同様の対処を行う。しかし実質的な対価の低下により以前と同じ収益を得られない人員が商品購入を控え、全体の需要量が低下し、供給側が更なるシェアの奪い合いを行い、こちらの要因でもスパイラルダウンする。そして労働対価を得られない人員は流通の枠組みから離れ、更に需要量は低下し、供給量を奪い合うスパイラルダウンは続けられる。


しかし集団に属する人員の安全を保証しなければ契約社会は成立せず、保証する為に生活する最低基盤を維持しようとすれば、対価が存在しない、つまりは成果が得られる実績が付随しない労働力にも対価を支払い数字上は利益が出ている事になる。これらは雇用対策として臨時雇用という形で行われ、場合により公務員の本来の役割上では無目的な増加という形で行われ、しかしその対価を払う収入源が無く負債という形で行われる為に結果として現状の対価の支払いは行われるが次の結果に対する全体の対価の引き下げに繋がり、それは直接的に収入へと反映されるのではなく税などの外部からの徴収という形で行われるが、減収には違いがない。


逆に言ってしまえば、負債という形で対処してしまえば、ありもしない収益を得る事が出来るのだ。そして臨時雇用で雇われる者達は一時的に生活を安定させる。そこに危機感がなければそれだけで自身は勝ち組になれたと考えてそれ以上何もしないし、勝ち組になる為に譲歩して明確に賄賂と呼べるものは使わなくとも利益を差し出す。だから利権を使い、自身に都合の良い者を選び、より多く利益を差し出した者を雇える様に配慮すればそれだけで利益が得られ、そのコストは他者に押し付ける事が出来る。臨時雇用ならそれを行う団体に費用が発生し、それで利権を使う者は払わなくとも良い。


臨時雇用などで支払われた対価による影響は、次の周期で支払われる対価に影響し、全体量を低下させる。低下しただけの補填が出来る成果が出ていなければ改善はされておらず、もしそれが公務員として継続的に雇うのであれば継続コストとして負担を発生させ続ける。この場合の雇用対策が期待するのは、生活が安定したものが事態の打開の為に努力して成果を出す事が求められているが、大抵の場合はその発想もなくただ生活を保証してもらった事に安堵して終わりになる。そして特権が得られたと錯覚するのも良く起こり得る。


逆に言ってしまえば、そうして安堵させてしまい、自身の生活の安定だけを重視する者に雇用対策という手法を見せれば、人気取りが出来、そういった者はその自身に都合の良い対策を疑う事なく受け入れ、自身がその権利に与れるなら特権を得たと錯覚させる事が出来、結果としてその人員を含む集団から利益を差し出させる事が出来る。そしてその人員は自分達の将来の取り分若しくは権利を放棄している事にも気づかず、感謝すらしてしまう。そうして、気づかれず、若しくは合法的に集団から本来得られない利益を搾取出来る。


その結果として社会の保証で人員を支えようとした為に、違う形で全体の負債として問題を押し付けた反動が返ってくる事になり、やがて膨らんだ負債により大きな枠組みとしての集団が崩壊し、小さな集団だけが生き残る。もしシェアを奪われた者達の安全を保証しなければ人員が減っただけの小さな社会になるが、数の論理で押し負ける為に数が減らせないジレンマがある。大きな枠組みとしての集団が崩壊した時に生き残る集団はシェアを奪う為に富の偏在化により一時的に強い集団になる。しかし生き残る為に行った方法が、コストカットという切り捨て法の為に生き残る為に常に切り捨てる選択をしなければならず、外部からの収支が安定しなければ常に切り捨てる方向で選択を行い、そして利害関係が強く結びつきすぎて切り捨てる事が出来ない規模までになると互いに切り捨てる事が出来ずに、負債を生じさせ続けたまま財政を立て直せずに崩壊する。

そもそもがコストカットでの延命を認めた事に間違いがある。集団を形成する際に受け入れた基本的ルールと反し、強いから生き残れたという錯覚がコストカットなどを肯定させてみせるが、そもそもがその受動的な選択をしなければならなかった事態にまで追い詰められた事を既に忘れている。何もせずただ受動的に行動してきた結果として、環境に追い詰められた後に生き残りを賭けて競争する状況に陥る者を強者とは言わず、考え方の間違いに気づけていない。


逆に言ってしまえば、気づかせなければコストカットでの方法でも競争に勝つ事が出来れば強者だと錯覚させる事が出来、その者に行動させれば簡単に利益を増やしてくれ、その者を媒介して利益を得れば、言ってしまえばマネーロンダリングが出来る。自身が手に入れるのは正当な商行為の取引によるマネー。その者が手に入れるのは、本来してはならない不正行為により得られるマネー。単に取引しているだけだから正当性は確保出来、その者が不正行為をしている事による責任は波及しない。後になって責任追及されるのはその者であり、その頃には縁を切っていれば良いだけの話になる。だからこそそう言った者の育成が必要になる。社会の仕組みが分からずただルールに従っているから自身の分からない部分に自身の持つ情報のみで脚色出来る者は欲望に忠実になりがちで操るのも簡単だ。


そしてシェアを奪われ死ぬしかない状況に追い込まれるのは誰もが拒否し、選択肢はない状況になり、社会は崩壊する。だから初めから過当競争にならない様にするブレーキが必要になり、また、価格統制が、社会に属する人員の性質が悪質であれば必要になる。

もともとの競争に勝つための条件として、自身の属している社会の品質を落とさずに競争するという前提を忘れる事でコストカットが出来る。そして急激な成長が出来ると錯覚すれば、その影響を社会が吸収出来ずに悪影響を与える事になるという事実を忘れ、急激な社会の成長は技術をより早く向上させるかも知れないが、その反動を忘れてしまう事でもコストカットが出来る。


逆に言ってしまえばブレーキを排除すれば過当競争させる事が出来、各種のルールからブレーキになる部分のみを排除しつつ、自由と称して規制を排除させれば過当競争を止めるものはなくなり、過当競争で利益を得る事が出来る。コストカットして利益を貪り、雇用対策と称してありもしない対価を前提に雇用すればその雇用により発生する利益を得られ利権を使えるのだ。その急激な成長が仮に過渡応答でありリンギングしていても構わないのだ。結果的に技術が発達すれば結果論的に誤魔化せる。勿論だれもリンギングで基準ラインより下側、つまりは損失を被り死ぬ側にはなりたくないから、自身の保身のために雇用対策などは当然受け入れるから、誰もそれを否定しないし否定する者をその煽りを受けて死んでいく側にしてしまえば誰も意見を言う事もなく、また、そうなりたくないなら黙るしかない様にして黙らせる事が出来る。そもそもが誰も過渡応答がリンギングしないなどと保証していない。その為のブレーキだと分かってない者達を利用してしまえばよいのだ。


そうして崩壊する社会というのは誰もが責任を取りたくなく、ルール上襲う事も出来ず、そして弱者はその持ち得る財産の為に強者に逆らう事が出来ず、しかしこのままでは死ぬしかないという状況を受け入れられずに打開策を欲する様になる。するとルール上、"仲間に襲い掛かるのが間違い"になるから仲間若しくは味方ではない者に襲い掛かろうとし、ルールを守りながら利益を確保しようとする。


逆に言ってしまえば、味方でない事にすれば、襲い掛かっても良く、何かの口実を見つけて敵として認定出来れば差別だろうが迫害だろうがして良くなり、襲ってはならない相手が権利を持つ為に出来ない事も平然と出来、奴隷の様に扱えればそれだけ利益を稼げる。


そして敵として認定されると迫害される為にどの様な状況であっても黙るしかなく全体が間違った方向へと動いていても黙るしかなく、内部に敵として扱える者が居なくなると、向かう先は外になる。そうして利害が一致しないという名目で戦争を仕掛ける。


逆に言ってしまえば、襲い掛かれば利益を奪う事が出来る相手に対して口実を見つければ襲い掛かる事が出来、口実を作りさえすれば襲い掛かれて利益を奪う事が出来る。そして内部の不満はまず内部の反対勢力へ向けさせて利益を稼げる環境を作る助長にしながら、それが出来なくなれば外部に不満を向けさせてしまえば、本来の問題から目を逸らさせて利益を稼ぐ事が出来る。


そして一番肝心な事は、戦争する事で勝っても負けても利益に繋がる事だ。戦争需要を利用して荒稼ぎし、勝った場合は更に相手側を排除した事で生じた財源で利益を得て、負ければ財産を持ったまま逃亡するかその財産で有利な交渉をして、生きる為には大きな譲歩をしなければならない者達から大きな利益を稼げば良い。


逆に言ってしまえば、"選ばれた"自分達以外の知性を落とし、社会の仕組みを分からなくさせた後に、主観から見れば正しいかの様に見える方法で人気取りしながら利益を搾取し、その相手側の集団には何か特権があるかの様に、"選ばれた"様に錯覚させて問題から目を逸らしつつ、延々と利益を稼ぎ、どうにもならなくなれば自身は無責任だと主張して責任をなすりつけて逃げれば、自身の労力は少なく莫大な利益が稼げるという事だ。だからこそ、周りには自身より知性の高い者は居てはならず、民衆は愚鈍でなければならず、もし自身と同じだけの知性を持っていれば分け前が減るので、出来る限り民衆の知性は低くなければならない。


だからこそ、民衆には都合の良い歴史を受け入れさせ、問題から目を逸らさせ、本来どうあるべきかを忘れさせるようにして、都合の良い様に操り、使い捨てフィルターとして機能させ、粗方使い終われば責任を擦り付けてしまえば良い。


そう。だからここは忘却ディストピアだ。都合の良い夢を見て現実を忘れ、滅んでいくだけの場所。誰もが自分の願望を夢見て自堕落に崩壊していく甘美な夢の都。その夢を見る者達から対価を受け取った後はもう無関係だ。なぜなら取引は終わりビジネスは終了している。彼らと関係ない天国で幸せに過ごすだけだ。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。社会を潰してでも欲望を優先して利益を得ようとする者を放置すると社会がどんどん変えられていきやがて崩壊すると言う事ですね?」


「概ねそう。」


「私達は共通認識を共有しますが、その共有している共通認識というものはそれぞれ個々の知性により制限され、同じルールを見てもその精度の違いが出て曖昧さに個人差が生じます。誰かにとってはその精度によってしてはならないと判断する事も別の者にとってはしても問題ないと判断する場合があります。しかし同じルールを見ており、どこまで精度を保っていれば良いかはその根拠を知らなければ分からず、分からないままに従っているだけでは精度を保つ根拠が分からない為に他者から指摘されない様にする程度の精度しか保てません。そして他者も同じであるなら、お互いに指摘しないままに徐々に精度が低下して曖昧なルールになり、そして曖昧なルールになるという事は形骸化すると言う事であり、その内実が伴わないルールになってしまいます。そうするとルールの効果が薄れ、それぞれのルールが曖昧になり繋がりが少なくなっている部分に出来た瑕疵を悪人が利用しても分からなくなります。つまり悪用出来る様にルールを分からなくする事で本来ならしてはならない行為も社会の中で合法化出来る事になります。


私達は主観の世界に生きています。社会そのものが高度になったとしても、皆で客観的な共通認識を持ったとしてもです。私達は私達の限界により一度に扱える情報量に限界があり、対応する状況に合わせた情報を取捨選択して参照します。つまりその時にはそれ以外の知識は参照しておらず、もし参照した知識と参照していない知識に整合性がなくなってしまっている場合、以前は整合性があり参照した知識に影響を与えていたとしたなら、その差が影響に出る事になります。主観の世界とは個々の状況において多くの情報の中から取捨選択した情報を使って判断しています。まず自身の興味のあるものや好感を抱くものに対して関心が高く、より周囲に配置したがり、次に自身に損害を与えるものやリスクを抱えさせるものが好感の持てるものより外側にあり、それ以外の無関心なものがその外に配置されます。そのそれぞれに名称を付けるとするなら、天国、地獄、辺獄などと呼ばれる事があります。つまり私達の見る世界は常に私達が選んだ情報で形作られた世界になります。

より高度な共通認識で客観的に判断している時でも皆で共有する共通認識を、自身を中心に変換した様な世界観になります。その取捨選択した情報もそれを扱う個人の知性によりどこまで詳細に扱う知識や概念の要素を把握しているかが変わり、知識や概念同士の繋がりの精度もそれだけ違う事になります。そして自身が持つ精度が充分であるかどうかを判断出来る事は少なく、それは認識外の出来事は認識出来ない事に原因があります。ですので、その場合知性を高めて誰かの行った結果から知識を得て情報を活かせないなら、チャレンジアンドレスポンスの結果として失敗した経験で情報を得るしかなくなり、知性という恩恵を充分に活かす事が出来ません。その為に、常に自身が間違っていないかを確認しながら行為行動する事が求められます。それを怠り、誰かがルールを作ってくれシステムを作って維持してくれると他者依存してしまうといつの間にか与えられた知識やルールそのものが改変され、以前とは異なるものになっても気づけない様になります。そして誰かが意図的に改変しようとしなくても、自制出来ずに自身で維持していこうと思えなければ徐々に自身が普段使わない判断材料になる部分から失われていき、精度低下します。

そして同時に扱える情報量の限界から自身の論理性では判断出来ず矛盾に気づけなくなり、ある状況ではAという論理を主張しながら、別の状況でそれと矛盾するBという論理を平然と使う様になります。しかしどちらも、かつては整合性が保たれていた状況があり、体感上の経験として通用するルールや知識だと思い使っているが、同じ知識のセットとしては矛盾を持ったものになるがそれに気づけないという状態に陥ります。例えるなら封建制で通用した習慣を共和制や民主主義で扱おうとしたり、民主主義で通用した習慣を社会主義や封建制で使うのと同じで、封建制でシステムが組まれている時に、Aという状況に対しては封建制で判断するが、Bという状況は民主主義で判断するという、ご都合主義を行うのと同じです。しかし個々の対応そのものはその時代においては概念のセットとしては問題のなかったもので、経験上や過去の結果においては通用したものであり、それを現在にも適用できるかの判断が出来ていない事に問題がありますが、そもそも間違いが認識の外にあれば気づけないままに使ってしまいます。まるで服を気分のままに着替えればそれで問題ないかの様にしてしまうのです。よくある表現としては、ある時は看護師の服を着ればナースになれ、ある時は警察官の服を着れば警察官になれる、といった様にその場その場で主義主張をコロコロと変える様になります。しかし本人は何の問題もないと思えるのです。行った数々の主張に一貫性がなくとも。


そうなってしまえば、悪事を悪事と思えずに行動出来てしまい、制限が排除されれば欲望を止めるものはなくなり、自身が社会を壊すテロ行為を行っていたとしても、自身は正しい社会活動をしているつもりで行動します。端的には命令であれば何をしても許されると思っている兵士などが良い例です。宇宙の中にあって制限を受け、たんぱく質からなる体を持つ制限を受け、個体では生き残れない環境であるという制限を受け、集団行動する為にルールを決めている状況において、ルールそのものが階層構造を持ち、上位のルールは基盤となる下位になる基本ルールを壊してはならず、壊してしまえば上位のルールすら適用出来ない状況へと移行してしまいます。非常時には状況に応じて下位のルールに反する選択を行って、社会を維持する場合がありますが、そこに正当性がなければ当然下位のルール違反に抵触し、誰もがルールを守らなくても良いと思う様になり、上位のルール自体が適用出来ずに社会が潰れます。ですので先ほどの兵士の例では、兵士は役割を果たすために、役割を適用出来る環境を維持する為のルールを破る事は本来なら出来ず、それがルールやモラルとして存在しますが、与えられたルールに従うものは辞書を見る様に、そこに階層構造があるとは分からず命令に従う事もルールだと思い実行します。

しかしその兵士がルールに従い命令通りに行動したからと言って、正当化されるとは限らず、その行動が下位のルールに違反している場合には当然正当性はありません。簡単に言ってしまえば、命令に従ったからと言ってエネルギーが無限になるわけでもなく、たんぱく質からなる体が高温で焼かれても壊れない様になるわけではなく、ルールというものは私達が環境から受ける影響に対して適応する為に作られるものであり、命令に従ったからといってそれが覆るわけもない事を知る必要があります。ですのでその中で、私達同士で取り決める事の出来る部分に自由な選択が存在し、そこに命令に従ってよい範囲が存在します。しかし同時に悪人が存在して社会そのものを潰そうとするので、よりどちらが社会の為になるかという選択の為に下位のルールを破る選択となる刑罰を実行する場合がありますがここでは割愛します。そしてまた、それを見た者がその刑罰における暴力的な物理的手段を行ってよいのだと錯覚する場合がありますがこれも割愛します。


私達の主観が常に客観的な精度を失っていくのは私達の精神と社会という法人格において求められる能力と利害の不一致がある為に起こります。例えるなら体を考えれば分かります。私達の体は数多くの細胞から成り立ちます。そしてその細胞の集まりが個々に特化して役割を果たす機能を持ちます。それを統合して扱う為に私達の精神は存在し、それは個々の細胞の求める結果とは違う選択を行います。私達が死ぬ事を恐れて痛みから逃れようとし快楽を求めようとする様に細胞もそうだとしても、私達の精神から見た体の存続からしてみれば細胞一つ一つの存続よりも大多数の細胞を活かす選択の方がより優先される事になります。例えば、誰かに意志表示をする為にテーブルを叩いたとします。その時、手を構成する細胞のいくつかは死ぬでしょう。しかし私達の精神はそれを顧みません。経験上、意思表示しなければより多くの細胞が死ぬ結果、つまりはより痛みを与えられる可能性を知るからです。他にも暑さを我慢して行動する、熱さを我慢して物をつかむ、など行動を挙げればきりがありません。それでも私達は行動します。より多くを殺すかどうかの選択をしているからです。1つ1つの細胞からしてみれば私達の意志というものは冷酷で傲慢であり、細胞1つ1つがどうなろうと構わない様に見えるでしょう。しかしそれも行き過ぎれば自虐的になり、自身で自身の体に損失を与える結果になりその影響を受けて全体としてより損失を被りやすくなります。ですので個々の細胞の求める生存する為の条件を満たしつつ全体としての意志を示す事が私達には求められます。ですから過度に体を壊すような事をしない行動こそが求められます。それを怠れば、延々自虐的に体を痛め続ければどこかに癌細胞として、体の持つ全体意志に反した行動を示す細胞が現れるかも知れず、それは細胞そのものの自衛行動とも言えるかも知れません。


それと同じ様に社会という法人格は、個人1人1人を重要視しません。選択においてより多くを殺すかどうかを見ているのです。先ほどの例の様に、テーブルを叩く様な行動をする事もありますし、熱さを我慢してものを掴む様な事もするでしょう。その時には社会に属する人員は細胞と同じ様に消費され、個々人の生存を軽視しているかの様に見えるでしょう。冷酷であり傲慢にも見えるでしょうが、しかしより多くを殺すかどうかの選択をしている状況では個々人の生死に拘っている余裕がありません。しかしだからと言ってその選択をしなくて良い状況で選択する様な間違いをせず、そして重要なのはその選択をしなければならない様な受動的な状況に追い詰められない様に普段から行動する事が求められます。

こういった行動の例えとしては行政代執行が挙げられます。全体の利益になるが個人の利益を損ない権利を侵害するものでも全体をより活かすために選択される場合があり、しかしそれまでにその選択をしない様な様々な方法を行う事が必要になります。しかし逆に言えば、権利侵害を目的として様々な方法を試した事にして行政代執行する事も出来ますがここでは割愛します。

しかしそういった強制が本来しなくて良いものなら個人の権利の侵害になり、また、あえてしなくて良いにも関わらず、誰かの利己益の為に選択した、つまりは社会という法人格の利害と不一致となる個人の利益を優先して選択されたものであれば権利侵害であるからそれを受ける個人は抵抗し、その行為を容認した社会に反抗します。先に社会の側から何の正当性もなく社会が与える権利の保証を捨てたのですから個人も社会の側を考える必要がないからです。しかしその力の差は歴然としていますので強制は成功するのがほとんどです。この時、他者はこれを他人事を思ってしまえば利己益目的で行われる本来は不正行為とされるものも合法として処理されてしまい、そして他者も同じ様に権利侵害されて損失を被るリスクを抱える事になります。すると社会での行動に制限がかかり社会はそれまでの様には機能しなくなります。不正行為をしようとする者は助長され、正当な行為をしようとする者は減り、また、リスクを押し付けられない様に行動するので集団としては将来的に損失を被りますが利己益を得た者にはあまり関係なく、社会に属する者全体がその損失を被る事になります。簡単に言えばルールを破られたのであり、ルールがない状態にまで状態が規制緩和され、お互いがそのルールを守っている状態だからこそ適用出来る物事が適用出来ない状態になったと言う事です。そしてそれが分からない知性では気づけず、自身には無関係だと思って行動し、いつの間にか権利を失っている状況に陥り、その状況を作り出す為に他者の知性を成長させない方法を選択する悪人が現れます。


つまり、私達の利害と社会という法人格の利害が一致しないという前提を考慮して常に自身の共通認識がズレていないかを確認していないと、いつの間にか自身の主観だけの世界で社会の基準を見失って、自身の世界の中だけにある都合の良い情報だけを用いて判断する様になり、これを例えて、眠りに落ち甘い夢を見ると言う事があります。勿論、社会そのものが権力者によって歪められて本来あるべき状態から偏向する場合があり、その時にも甘い夢を見ていると評価される事もありますがここでは割愛します。

そうならない為には自身で常に自身の判断が間違っていないかを確認する必要があり、それをしないのであればシステムの側で対処してもらう事になり、システムは変化を伴わない一定のシステムである事を求められます。しかし技術の進歩や人口増加や自然現象といった影響に対処出来なければ一定のシステムを維持する事は出来ません。

そうして世代継承し時代が移り主義思想が変わった場合に自身の持つ主観の世界では新しい体制に適応出来ない状況になり、しかし曖昧な荒い精度では適応出来ている為に表面上は問題無い様に行動出来、しかし個々の判断にズレを生じさせている様になります。


例えば雇用対策として臨時雇用を行う場合があります。これの意図は生活手段を持たない者に生活の保証をする為に行われます。しかしその財源はどこから得るのかという部分に問題がありますが、この方法がかつて有効だった場合の実績がそれを錯覚させます。例えば鉱山があり一時的に増益したい為に産出量を増やす目的で鉱夫を増やしたとします。その際に臨時雇用する事になりますが、そこには根拠となる財源が存在します。それを踏まえて、次に生活する手段が失くなった者に生活を立て直す手段を与えるために一時的に鉱山の産出量を増やして増益して臨時雇用を増やすという対策が行われる事があります。そこにも明確に根拠となる財源が存在します。では雇用対策として臨時雇用した場合にその財源はどこにあるでしょうか。その財源が確保されない場合、生活を安定させた者達が自身の手で何等かの生活手段を手に入れないと継続出来ず、そして支払われる対価はその集団全体の負担としてのしかかります。もし臨時雇用された者が生活の保証をしてくれると考えてそれ以上の何もしなければ新たな財源に繋がるものが発生せず、臨時雇用する事で生活を安定させる機会を手に入れた者達が増やす将来の社会の財源を期待して先行投資した対価は回収出来なくなります。するとそれは費用を投入したが回収出来なかった結果となり負債として計上され、集団が徴収金を基に福祉を行う様な自治体であれば徴収金いわゆる税という形で反動が表れます。

当然社会が高度になるにつれ、新たな財源の元となるものを得るのは難しくなり、臨時雇用対策そのものが賭博要素を示す傾向が強くなり、期待する成果が出ません。例えば開拓する土地がまだあるなら開拓民になる事で財源確保が保証されるかも知れません。しかしそれも状況により、そこから供給される生産物が社会の中で対価を期待できるかが重要になります。大量生産を実現した社会では仕組みが不完全だと供給過剰に陥り、開拓民が土地を耕し生産可能にしても生産物に大した価値も付けられず、開拓という方法そのものが選択肢から除外されます。ですが大抵においてこの場合はどこかにエネルギーの収支に瑕疵があり、廃棄処理を省いているだとか、気づかないところで品質を下げるコストカットに繋がっているだとかが存在する場合がほとんどです。

例えば肥料ですが、急造で生産出来る化学肥料は使用後に副産物を土壌に残す場合があり、自然肥料ではその生産に時間がかかります。つまり後処理の問題を考慮せずに作るのであれば科学肥料の方がメリットが大きくなり大量生産向きになります。しかし後で副産物を追加費用を支払って中和する処理を行えば対処出来ると考えれば大量生産出来、その追加処理対価は大量生産品を価格を下げて販売する事で回収出来ます。そして総量の収益は減少し、他者もコストカットする事態に陥ります。この場合、化学肥料と副産物の処理費用を行う集団を新たに加えてシェアの移動が行われており、農業を直接行う者達の総数は減少する事になります。そして農業従事者は肥料メーカーに依存する事にもなりますがここではその問題は割愛します。問題の焦点は肥料の作られ方に移り、肥料を作る際の廃棄処理や資源の確保部分に利益を稼げる要因が移っているかも知れない様になります。例えば廃棄処理を行わない、または生産に使用する資源の消費と生成のサイクルの収支が合わないなどの浪費により支えられているなど、そこにより大きな次元での環境品質を下げて、小さな次元での品質を上げる方法が選択されている可能性が出てきます。

そして皆が同様な事を行い、資源の確保に困り、以前と同じか以前の状況に加えてそれまで浪費した資源の再処理費用が乗せられる事になり、より早く先取り特権と称して浪費した者勝ちになる可能性があります。


財源のない臨時雇用対策は現在の実績から得られた成果を基に対価を計算しますが、その結果により生じる実績が生じない為にその分の影響は全体収益の中にグロスに反映され負債という形で集団に負担をかける結果になります。丁度、収入を分子、分配人数を分母にした場合に分母だけが増える形になります。しかし雇用を保証した集団が対価を支払い、他の人員もそれまで通りの収益を得て、足りない分を負債として扱い、徴収金つまりは税という形で徴収して収支を合わせます。収支を合わせない場合は負債としてどこかから借りる事になり、国であれば国債などで埋め合わせ、しかしそれを返済出来る根拠はなく、将来の成長という曖昧な部分で吸収出来ると想定して行われる事になります。将来の成長ですが、外部からエネルギーを得るか内部効率を高めて余剰分を見つけ出すかのどちらかでしか成長はなく、単に税の反映による値上げで実質的な向上のない見た目だけの数値上昇では成長にならず、そこに差益を生み出す方法は対外的な取引であたかも自身の集団の扱う商品の価値が上がっているまたは内部負債の増加による経営悪化或いはコストカットして品質が低下した事を気づかせる事なく実質的に価値の下がったものを以前と同等の価値があると錯覚させて取引する以外に方法はありません。

こうした方法では上手く売りぬいて相手に損失を押し付ける事が出来れば利益として集団内に外部から資源を供給して以前に経常した損失を埋め合わせられますが、お互いにお互いで同じやり方をし合う為に、先取り特権の様にまだ誰もほとんどしていない状況なら有利に利益を得られますが、皆が同じ様にする事でその様なアドバンテージも存在しない様になり、いつかは失敗します。必ず成功しなければならないという前提で、失敗する可能性が生じるのですからその方法だけで負債の埋め合わせをしようとしても失敗は確定します。それらの方法はその場しのぎであり、本来求められる外部からエネルギーを得るか内部の無駄をなくして効率を上げる事をしなければいつまでも受動的な対策を取り続ける事になります。


そもそも臨時的な雇用対策とは封建制などの領主制で有効な手段であり、国をまたいで店舗を抱える商人がいない状況で有効になります。グロスで収益が必ず国へと入るので、その配分を国が決める事が出来、その配分が人員の増加に対する負担でも、それで国の財政が健全であれば問題がない、という根拠から行われます。国若しくは領が崩壊すれば王若しくは領主は必ず処刑されるので、国や領に負債を押し付ける対策を取る事は自殺に等しいので行われる事なく実際に行われるのは有効な場合のみとなり、特別な例としてはそれが失策であると気づいていない場合などがありますが割愛します。ですので例えば共和制や民主主義であっても誰も国の負債に関して責任を取らなくて良い状態であれば、ブレーキがかかる事なく初めから方法が疑問視される対策になります。どの様な方法もそれを適用しようとするシステムに合った対策を実行する必要があり、かつての習慣や経験上から行うと、主義思想や社会体制という基盤の違いによる不一致により瑕疵を存在させて悪用される結果になります。


こうして間違った対策を行うと、富の偏在化が加速します。ありもしない実績で利権を扱う事が出来、ありもしない実績を名目に報酬を対価として得られ、そして実質が伴わなくて良いのであれば、何度でも好きなだけ繰り返す事が出来ます。その度に負債を集団へと押し付け利益だけを得て自身は無責任と考えて、集団が崩壊する時には財産を抱えて逃げ出すという方法が常套手段になります。この様なスパイラルダウンの要因になる対策を行わない様に管理する事もシステムの維持には必要になります。


体で例えますと、体全体に充分な栄養が供給できないから一部を切除したとします。その結果として更に外部競争力が低下してしまい、必要な栄養は減ったかも知れませんが今まで得られていた栄養が得られず、以前よりも少ない栄養しか得られなくなり、その状況に対応する為に更に一部を切除するというスパイラルダウンをしている事になります。


そもそもが競争とはルールに従って生活している者達を、ルールに従わせてルールの利点を覚えさせ、自らの意志でルールを守る様にする為に作られた社会において、ルールに従ってさえいれば誰かに守ってもらえると錯覚して思考停止した者達に努力を促す為にあります。ただ与えられたものを与えられた様に行えばよいと思った時点で、能力はそれをこなせる最低限にまで落ち、目的が果たされないので競争させますがその競争が過当競争になるのは想定外になり、目的を達成出来ないどころかルールを適用する基盤そのものを壊しては行う価値がありません。そしてそれを悪用して他者を貶めて利益を得ようとする者が利益を稼げる様では失敗と言えますが割愛します。


競争において人数を増やして有利に立とうとする事が良くありますが、本来であれば人数を増やしたならその集団内で増えた分を調整するのが妥当になります。人数を増やして相手より有利になったから相手の資産を奪ってよいという考えは戦争を仕掛けているのと同じになります。しかし欲望に任せて人口増加を抑えられない集団において自身の失策における解決策は拡大志向になり、相手の資産を奪う前提で計画を建て、実質的に自らの集団の抱える問題を他者へ押し付ける形で解決しようとします。


そもそもが経済を急激に成長させて限界まで飽和しようとして、誰もその過渡応答における状態が、リンギングして目標となる基準を行き過ぎ、そして基準より下降する状態を繰り返す様になっていないと保証してはいません。仮にリンギングしてしまえばより早く目標となる基準に到達出来たとして、その曲線が表すのは私達の生死です。上昇している時の増加分に自身が加わるのは受け入れられるかも知れませんが、下降している時の減少分つまりは死ぬ事が予定される人員になりたがる者は居ません。私達が死を受け入れられない為に求められる曲線は下降する曲線を描かずに、つまりは死ぬ人員が居る事を想定に入れずにより早く目標へとたどり着く曲線です。魔導学を扱う上で錯覚するのは、自身がそのシステムの一部だとしてその選択をすればどういった事が起こり得るのかを想像出来ず、出した解がもっとも良いと仮定してもそれは私達にふさわしい解とは言えないものだと言える場合があると言う事です。例えばある期間に大きな災害が訪れるから、その期間の間だけ死んで、その後に生き返れば良い、と考えてもそれが最適解だとしてもそれを実行する方法がなければそれはふさわしい解とは言えません。それは越えてはならないラインを越えて計算している事になり、選択肢としては採用出来ません。しかし私達は概念を扱う上で形に見えずセンスが足りない為に判断を間違い、同じ様な事を実際に行ってしまうのです。


物事は過渡応答の状態のままいつまでも上昇し続ける事は出来ず、いずれ定常状態となります。先取特権とはこの過渡応答部分における状態を見て行われ、その成果は定常状態の時に行われる評価とは違い、定常状態時に行われる評価よりも過大になります。最初は競合相手が少なくともその方法で利益が得られると分かれば参入者は増え、価格競争が起き、そして消費する資源の獲得も以前の様には行きません。そうであるにも関わらず、定常状態に近づいてもまだ黎明期であった時の評価でそれ以降の結果も評価しては実状との乖離が大きくなっていきます。しかしそれを悪用してさも大きな利益が得られる様に、以前の実績を元に誘導する悪事は行われます。

これらは定常状態がどうなるかを考えずに実行した為に発生します。先にモデルに対してシミュレーションしてある程度の結果を算出してから実行する事で、どの様な事態に陥るのかを確認しない為に起こります。チャレンジアンドレスポンスと言えば聞こえは良いですが、実行したリスクは自身ではなく周囲に押し付ける形になるのがほとんどで、実行した個人が失敗した時に個人で責任が取れるリスクではない場合がほとんどになります。

例えば銀行を考えてみましょう。さも自身の資産は莫大であるかの様に見せかけて実際の資産以上の融資を行います。個々の取引相手からは銀行資産に対して借入を依頼するので資産はあるかの様に見えますが、実際には同じ資産を担保に複数に融資するので実際の資産以上の融資を行います。また、貯金として金銭を預かり、その金銭を運用して利息という形で分配する方法を行います。しかし貯金した金銭は運用されており、銀行には全てを同時に引き出された時の対応は出来ず、そうされると破綻します。もし銀行が一つだけなら、仮に少数でも充分に利益は得られるかもしれません。競合相手が居なければ不安要素もないのです。計画を建ててもほぼ計画通りに進み、利益も安定します。しかし銀行が増えてそれまでと同じ様に対応出来なくなるとリスクは高まります。融資をしようとしても優良な相手は少なくなりリスクが高い相手と取引し、投資をしようとしても同じです。しかし銀行として活動するにはより高い利息で貯金を集めなければなりません。その利息という見返りを払うだけの資金をどこかから調達しなければ銀行として利益が出ないのです。そうしてリスクの高い方法を選択し利益を出そうとしては必ず成功しなければならない状態でも失敗を繰り返し、負債を溜め込んでいきます。しかし総量が銀行を相手とする取引相手には分かりにくく、実際には既に貯金総額に等しい資産より目減りしていても、貯金の引き出しに対応出来ていれば、そして財務上の数字がまだ破綻していない状態だと示していれば銀行としては活動出来ます。しかしその時には既に銀行が破綻した時に生じるリスクを銀行自体が抱えきれておらず、破綻してしまえばその影響は銀行単体が廃業するだけに留まらず、銀行が持っていたとされる資産よりもかなり大きな資産を持つ企業が倒産したのと同じ影響が出ます。黎明期はまだ状態が収束していないので莫大な利益が得られる様に見えても状態が収束して過多となり定常状態に移行すると過渡状態に期待された成果は出ず、競合相手と熾烈な顧客獲得競争が生じ、負ければ貯金に対する利息を払えず破綻し大きな影響を集団に与えます。そのリスクは銀行がそうである様に、集団もまた同じ様に飽和した状態で過渡状態時に期待した成果が出ない状態にまで移行した集団には耐え切れず、銀行と共倒れするか銀行を潰さず負債を肩代わりするかという悪循環に陥ります。そして銀行が次々と以前の様な健全な状態でなくなっていき、資金の投入が必要になればなるほど集団の資産を投入するしかなくなり、集団の崩壊は加速します。

銀行制度を始める時はそれが最終的に破綻した時にリスクを抱えきれないという部分は考慮されず、利益にのみ重点が置かれて始められ、最初にシミュレーション不足があったと言えます。そしてそれを含めた集団である社会は潰す事も出来ない為に取返しのつかない失敗をしない選択しか本来は選べませんが、最悪の結果を予想しておかなかった事が、後になりどうにもならない状況を作り出します。そして、場合により、そうなる結果を知りつつも、得られる莫大な利益を手にする為にあえて似たような制度を実行する者も現れます。最終的に負担を他者になすりつける事が出来れば、責任も取らずに逃げる事が出来るからです。莫大な利益で本来なら出来ない贅沢な暮らしをした後に、破綻させても損失分は払えないと言えば許されるのならば、贅沢な暮らしに夢を見てしまった者にはその選択が出来てしまいます。そしてもし集団が損失を補填してくれるならした者勝ちになります。


そもそもが利益の出し方に問題があり、社会を潰しながら増益する方法がまず社会の在り方と整合性を持たずルール違反になります。それを誰かに指摘されないと分からない時点でその分野でのセンスがないと言えます。しかし追い詰められ生活出来なくなり死ぬしかない者にその様な事を言っても受け入れられず、間違いだと分かってもそこに活路を見出そうとして結果的に他者にリスクを押し付ける方法で生き残ろうとして集団を崩壊へと推し進めます。この様な選択を行ってしまう私達は、自身を含む集団を維持する為のルールを破るものだという前提で集団が行う行動を制限する必要があります。過渡状態におけるより資源が豊富な時に浪費して出来る自由度の高い行為行動を基準にするのではなく、定常状態に至った時に収支が安定して問題ない事を根拠として集団内における行動を定義する必要があります。簡単に例えると、企業が長期計画を建てて企業の安定を図ろうとする場合に、より短期計画で済ませる事が出来れば自由度が高く資源も豊富に使えますが、それでは長期計画が成立しない為に短期計画と同じ様な資源の使い方や企業の運用を行う事はありません。そのような長期計画に合わない短期的な利益の出し方は市場を荒らして将来の需要を減らす結果に繋がり、皆が同じ様にやれば共倒れになります。しかしそうして長期計画を実行する者達の中で、1人だけ短期計画を実行すれば先取特権として大きな利益を得る事が出来、長期計画であろうと他の計画であろうと楽に実行できる資産が手に入るのです。


競争する場合には品質を落としたり人員を減らしたりするコストカットなどの方法を行う場合、競争する事が椅子取りゲームの様になります。生き残ろうとして行った選択が全体の総量を減らしパイを小さくしながらシェアを獲得する方法になり、椅子取りゲームの勝者も更に椅子の数が減った次の椅子取りゲームに参加し続け、社会が崩壊するか競合相手が減ってシェアを維持しながら採算の出る価格に安定させる事が出来るかのどちらかになるまで椅子取りゲームは続けられますが、大抵において競合相手が減る事はまず無く、互いに生き残りを賭けて社会がそのスパイラルダウンに耐えられなくなり崩壊するまで続けられます。

そもそも競争というものは怠慢を防ぐという意味では有効ですが、方法を限定しないと現状の品質を落として差を作り競争に勝つ方法を行う様になります。新しい方法や技術を考えるのは難しく実現も難しいですが、人員を減らしたり品質を落としてコストカットするのは比較すれば簡単な部類に入ります。集団が、ここでは社会を考えますが、社会が求める競争というものは品質を落とさずに自らの能力を高める事で競争力を増しそれにふさわしい対価を得る方法を指します。個人の能力が高まりより多くの対価を得てその能力の向上は社会の向上に繋がる方法です。

体に例えるなら体の各器官の機能性能が向上すれば体はより強くなり出来る事が増え、より快適な状態を維持出来るという様になります。それをもし体の各器官が機能の性能を落としながら以前と同じ栄養の供給を得ようとして体全体を騙したなら体の総合能力は低下し出来る事は減り、その分競争力を落とし快適な暮らしから遠ざかり不自由を被るでしょう。そして競争力の落ちた体では得られる栄養が減り、その影響で各器官に供給される栄養が減り、減った分を補填しようとすれば更に他の器官から栄養のシェアを奪う方法を実行しなければならず、効率の良い方法としてまた機能を落としつつ栄養は以前の様に得る方法を選択したなら同じ悪循環を繰り返す事になります。体にとって器官の行う活動の選択が体の役に立っていなければそれは体の活動の一部とはみなされないように、社会にとって各構成員の行う活動の選択が社会の役に立っていなければそれは社会の活動の一部とはみなされません。しかしここで錯覚を与えるのは、機能を落としても、品質を落としても、絶対量としては活動しているのです。そこに錯覚出来る要素がある事を忘れてはいけません。

そしてその様な競争など社会は望んでいないのです。社会の中での活動は社会に損失を与えないようにするのが前提であり、体全体を統合する精神の利害と細胞1つの利害が完全に一致しない様に、社会の利害と個人の利害が完全に一致しないのは当然であり、だからと言って個人の利害を優先するのであれば社会の利害は考慮されなくなり、より大きな損失を社会に招きます。その結果として、社会が劣化して悪影響が個人に波及し、その波及した影響を排除する為にまた個人の利害を更に優先して行動し、また社会を劣化させる悪循環を繰り返すのであれば、やがて社会は崩壊します。

この様な個人が増える事は社会全体に良い影響を与えず、社会からの恩恵は受けるが社会へは社会活動を返さない存在になり、体で例えるなら癌細胞と言えます。癌細胞は体から栄養を受けながら増殖し体の各器官を乗っ取りながら入れ替わり器官の機能を壊し、やがて体が死ぬ事になります。社会の崩壊とはそうやって起きます。

先ほどの例えで体の器官を使いましたが、もしその器官が体が死ぬ時に体の外に逃げ出す事が出来たならどうでしょうか。体と利害関係が一致していなくても良くなり、先程の社会活動にならない活動も許容される様になり、体はその様な細胞の発生を抑止出来なければ不当に栄養を奪われる事になります。そしてこの場合、もっと適した表現が使われ、"寄生虫"と呼ばれます。体に巣食い栄養を奪い成長し、やがて体が寄生虫の害に耐えられなくなって死ぬまでに卵を排出して生きながらえようとし、その卵を他の体の中に侵入させてまた寄生する。社会の中に巣食い、社会を壊しながら財産を蓄え、社会が崩壊する時にはその社会の外へと逃げ出し、他の社会へと移りまたそこで同じ行為を行う、そういった者を例える時に使われます。


品質を落としてコストカットする競争は個人の収支だけ見れば増益ですが、全体としてはその総量が減り、減った分は競合相手に皺寄せがいき、すると競合相手も生活する為には同様の措置を行い対抗します。すると以前と同じ価格では売れなくなり、以前と同じ利益を得る為にはより多くを売らなくてはならなくなり、するとより多く売る為に更にシェアを奪おうとして値引き交渉や賄賂を用いてシェアを奪い、増々その分野で役割を得られる者達は数を減らし、社会での富の偏在化は加速します。しかし勝ち残る者は自身の能力で勝ち残っていると錯覚出来るために問題の焦点がズレている事に気づきません。その行為をして利益が得られる根拠部分がいまだ誰かに作ってくれたシステム上で得られた経験と習慣によってしか形作られておらず、そしてその経験を積み重ねた社会を自らの手で壊している事に気づけないのです。しかし私達は追い詰められた時に、死ぬ事を拒否した場合に正当な行為を行う事が出来ないなら不正行為を行うしかなくなり、私達の本質として私達は私達をそのレベルで制御出来ません。ですので、どの様な社会においても行為には制限が伴い、それを理解した者だけがより多くの自由を得られるのです。


私達は現在のシステムを受け入れる事で役割を貰います。その役割から得られる報酬を要求し、それを受け取る権利を得ます。そしてそれに対しての労働を対価として支払っているので、自身はしっかりと役割を果たしていると主張しますが、しかしそのシステムそのものに瑕疵があり、そもそも役割を果たしているから自身の望む額を要求して貰えるという考えそのものに間違いがあっても気づきませんし、その根拠は偉い人、つまり誰かがが考えてくれると妄想して、間違っている可能性そのものを自身の保身と欲望の為に排除して生活してしまいます。

例えば10人に10支払う結果100の対価が求められ、数が増え11人に10を支払うと110の対価が求められたとします。村などの小さな規模の集団だと結果はより早く反映され数の変動による影響が大きいのでわかりやすいですが、国などのはるかに大きい数を扱うと、その影響も遅延が大きくなり、分かりにくくなります。そして大きくなればなる程に当事者としての意識が低くなり責任感が薄れる為、そこに付け込めば、利益を貪る事が出来ます。10を11人に増やし全員に10を支払うと110、結果は100しかなく、そこに社会は10の損失を得て、そしてその結果を踏まえて次の支払いは9.1になります。ここで不満を上げられ10支払うとその分も社会の損失になります。

また、管理者が居たとして管理1人当たりに1の対価を貰ったとします。すると結果が100しか出ていなくとも11人を管理する様になれば管理者は1人分の管理報酬を多く貰え、その分も社会の損失として反映されます。過当競争はそこにあるべき結果となる実績に対して全員が、特に管理者が得ても居ない報酬を多く受け取れる状態になり、100の対価しか手に入らなくとも、10人管理していた所に20人を管理する様になれば報酬が得られる実績はなくとも倍の報酬になるのです。

責任感が薄れる事で、互いが互いの利益を主張して、仮に国若しくは銀行へと損失を押し付ける事が出来るなら得ても居ない実績から報酬を得る事が出来る様になり、その方法が国などの自治体が負債を増大し続ける原因になり、その様な対策を行わなければならない企業や集団を国が補填するメリットがなければ延々と損失を出し続ける事になります。こういった対策は臨時雇用対策と同じ様に一時的にしか効果がない方法であり、次の結果に大きな悪影響を及ぼすその場しのぎであり、打開する策がなければ愚策と言えますが、誰もが快感原則に従って楽がしたいと思って行動すれば、本来なら多大な努力を行って対価を得なければならない状況でもその労苦を支払いたくないので楽に利益が得られる方法を拒もうとはしません。そしてそれが薄々間違いだと分かっていても欲望に流されてすぐに破滅が訪れない事は実感しているからそのままの状態に浸ろうとします。これを"ずっとぬるま湯に浸っていたい"などと表現する事があります。」


エールトヘンは締めくくる。


「私達の社会を体に例えたとして、癌細胞などが増えすぎたり病状が悪化して末期的状態になるとホスピス療法で延命するしか手がなくなります。その選択をしないのであればより早く社会を崩壊させてもう一度作り直す選択になり、新しく生まれ変わらせる方法になります。しかし新しく生まれ変わったとしても、癌細胞が混ざりこんでいたり寄生虫の卵を内包したりすればいずれまた同じ結果に陥り、根本的な解決になりません。そしてそういった反社会活動が実際に問題を表面化させるのは原因となる要素が蓄積された後になり、雪崩現象の途中で発見する事になります。早期であればまだ止められるかも知れませんが発見が遅くなればなる程に取返しのつかない事態へと発展し、その場しのぎの対応しか出来なくなります。丁度、虫が大量発生してその虫を排除する事だけに時間を取られるのと同じになり、そうなる前に早期発見して駆除する事でその事態を防ぐ事が出来るのと同じです。先取り特権などの方法が、社会の質を落としていないかを確認せずに実行すると同じ行為を行う者が増え、希少性が失われてアドバンテージが消え去っても、その方法でしか行為を続ける事が出来なくなり、社会の質は下がったままになります。計画が完成形を見て行われるのと同じ様に、過渡状態だけを見ずに定常状態も考慮して判断出来る知性が必要になります。規模が大きくなり自身が大きな権力を持たない事で責任感が薄れると、負担の押し付け先が領や国などの"特定の個人財産でもない皆の共有財産"になった場合、誰もが無責任な考えであればそこに負担を押し付けても"自身には押し付けられていない"と思い込め安易に受け入れてしまいます。するとその負担は税や福祉という形で反映され、実際には負担増となりますが、すぐには影響が出ず、影響が出る時にはすぐには解決出来ない状況になるのがほとんどです。

お嬢様は貴族です。強権を用いて民から財産を吸い上げる事も出来ますが、それは同時に貴族を頭とした場合の体を衰弱させる事になります。より良い方法というのは規則正しい生活をする様に体を律し、計画を建て、行動を改善し、より多くの利益が得られる様に競争力を高める事であり、そして自身を含む集団が属する更に上となる集団の利益に合致した活動をして社会全体を向上させる事で、結果的に自身の生活の安定を図り、過度な争いになる事を防ぐ事が出来ます。そして民衆が自身で自身の属する集団を潰しながら利益を稼がない様に管理し、そしてそれは知性が足りずに何をしているのか分からずにしている可能性もありますので、教化して知性を成長させながら民衆自らの手で自らの生活する環境を守る様にして、管理コストを低減し、その影響は民衆の負担減として良い影響を与えて結果的に民衆の生活を向上させる施策を行う必要があります。

貴族として管理者としてまずお嬢様が知性を高めて物事を判断出来る必要があり、その為にも、さあ、今日も頑張りましょう。」


不況がなぜ起こるのか分かりました?こんな事はね?

-->ここはヘイトスピーチ

ちょっと考えれば分かる事なんです。成人年齢になれば。<-ちょっと傲慢な考えです。現代社会は自由に情報を取得できるという錯覚を与えながら情報統制して印象操作しているので分からなくても当然とは言えます。なぜなら判断材料そのものが隠されるからです。だから分かる人には分かるとは言えますがそのハードルが高くなってます。社会とは1を聞けば1が分かる者でも最終的に社会が理解できる仕組みを作り上げるのが基本ですが、隠されている為に1を聞いたら2が、10が分かる者だけが真相に気づける、という様な状況が作り出されます。

<--ここまでヘイトスピーチ

言語化出来なくても、昔には分かっていた者達は結構居たはずなんです。



後、私に洗脳されないでくださいね?ここは民主主義国家ですw。自身で判断して自身で選択してください^^;

それと気づいていますか?徐々に内容のハードルが上がってる事に。あなたがたに思うところがあって何かやってみようと思うまで徐々にハードルが上がり続けてます(私のネタが尽きるまで)。まあ、もうネタも切れてるんですがw。物事の教え方の基本的なやり方なんで、その方法だけは覚えていてください。それを省けば、難解な教え方も出来るという悪用も出来て、相手の側から拒絶感を得られて自分は悪くない、自分は教えようとした、という自己主張が出来たりしますw。要はどんなものでも使い方次第です。



-->これらは雇用対策として臨時雇用という形で行われ、場合により公務員の本来の役割上無目的な増加という形で行われ

<--封建制などの領主が国と運命を共にする場合に合法になる方法です。国をまたいで店舗を抱える商人がいない状況で有効になります。金を稼いだ後に財産抱えて逃げ出す事が出来ないからです。これを現在の経済システムでやれば、単純にザル法で金を垂れ流して私腹を肥やしながら負担を国に押し付けるだけになります。どこに根拠があるかが問題で、過去に行われたから真似をする、という対処だとこういった間違いが良く起こります。



-->つまり私達の見る世界は常に私達が選んだ情報で形作られた世界になります。

<--ある曲線をテイラー展開する様なもの。個々の点をそのまま拡大解釈してしまえば元の曲線にならない。



-->または生産に使用する資源の消費と生成のサイクルの収支が合わないなどの浪費により支えられているなど、そこにより大きな次元での品質を下げて、小さな次元での品質を上げる方法が選択されている可能性が出てきます

<--例えばリン鉱石とか。土壌に窒素化合物が増えすぎても栄養豊富な生産物には悪影響で、そして化学肥料は使用後に酸を残すのがほとんどだったはずです。堆肥を森から集めすぎて生成サイクルが追い付かずに、本来堆肥に向かないものを森から持ってきて低品質なものを作って誤魔化す、だとか。化学肥料を使った土を削り取ってどこかから持ってきた新しい土に入れ替えるとか。その土は再処理せずに投棄とか。肥料を削減して利益を上げる為に焼き畑とか。CO2の排出なんかも分かりやすいかと。



-->そこに差益を生み出す方法は対外的な取引であたかも自身の集団の扱う商品の価値が上がっているまたは内部負債の増加による経営悪化或いはコストカットして品質が低下した事を気づかせる事なく実質的に価値の下がったものを以前と同等の価値があると錯覚させて取引する以外に方法はありません。

<--商人の腕の見せ所wなどと言われる部分ですw。それを管理者がやってはいけませんw。管理者はその様な事態に陥らない様に手段を講じて、それが失敗したら商人の様なやり方で補填しようとその場しのぎに逃げる事になります。そうやって補填しようとした時点ですでに失敗の後だと言う事をまず気づかないといけません。ですがそれが難しい、だから商人のやり方で利益を得ようとします。そして皆で投資などに手を出すのですw。で、素人は先に経験を積んだ者からはカモにしか見えないので、CMなどで殊更に良いものだというイメージを植え付けてカモろうとしているのが現代社会ですw。そして追い詰めれば投資などの不安材料の多い賭けをするしかないので、追い詰めてから"自分の意志で投資した"と言える状況証拠を作り上げて投資させてそれをカモる。誰でも思いつく手ですw。実際にやるかどうかは別として。


-->そしてその結果として、封建制では村などの末端になる場所に住む者は貨幣を持たなくなり、自給自足か物々交換を行うという状況になり、封建制以外でも同様になるでしょう。

<--封建社会の農民が金を持たなくなる理由ですが、しかしそれでも自給自足は確保された。なぜなら人口が過剰になっていないからまだ自給自足の手段が残されていた。現代はどうかと言えば、どうなんでしょうね?勿論封建制でも都市部は状況が違うでしょう。



ここの話は昔が弁財天ではなく吉祥天だった理由でもあります。功徳の考え方として、品質を高めて競争力を得てより多い対価を得ようとする方法で、その結果として社会は向上し、より多くの対価が得られる様になる。しかしそれは微々たる増加の積み重ねなので、抜本的な対策が必要だとされる状況では不満が出る。だから今すぐ救って欲しい者達は、臨時雇用対策などを歓迎します。この考え方が弁財天のやり方です。しかしその財源がなければそれは単なる人気取りであり、実際はその場しのぎ、という事です。


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