S148 成功+α
ようするに「魔法陣グル○ル」のキタキ○おやじです。
一か月のブランクがあるとやはり内容がイマイチさん。結構グダッてます。
スティーブは論文を書き終えた。これを提出すれば皆から認められる。それが確実と予想出来る程の出来栄えだ。これで一流の研究者の仲間入りだとほくそ笑み、では提出する為に出かけようとするスティーブを友人のクレイグが呼び止めた。
「よぉ!スティーブ。うまく行ったんだって?」
クレイグのそんな言葉に喜びを隠せないスティーブは長時間作業で疲れが出ている顔に満面の笑顔を見せて答えた。
「ああ!長年の苦労がようやく報われるよ。」
スティーブはそう言って提出書類を片手で持ち上げヒラヒラと揺らして見せる。それを見たクレイグは少し考えた後にこう言った。
「なぁ、スティーブ。お前、顔色悪いぞ。あまり寝てないんじゃないのか?」
「まぁな。さっきようやく仕上がったばかりだからな。」
「おい。無理するなよ。それは俺が提出しておいてやる。お前は帰って休め。」
「え、いいよ。ちょっとボォーッとする程度だから。」
「いや、休め。ほら。」
クレイグはそう言ってスティーブから書類を奪ってからスティーブを追い返そうと後ろを向かせて背中を押した。スティーブは友人の気遣いをこそばゆい思いで受け取り苦笑しつつも気が緩めばいつ寝てしまうか分からないのでそのまま甘える事にして大人しく部屋へと足を向けた。
スティーブが部屋へと帰る姿を見送ったクレイグは笑顔のままうまくいったとほくそ笑んだ。スティーブの研究は周囲から評価されていてクレイグの様な周りから期待されていない者から見れば喉から手が出る程に欲しいものだった。しかしさすがに研究成果全てを奪う事は出来ない。誰が何の研究をしているかなんて周りは知っているのだ。
しかしだ。
今丁度、スティーブの提出する論文はクレイグの手の中にある。奪う事は出来ない。だが付け足すなら?
そう考えたクレイグは書類の提出を代わりに引き受けた。そして書類を提出するまでに時間の余裕がある。だから、クレイグは書類をそのまま提出せずに共同研究者の欄にクレイグの名前を追加し。
「これで完璧」
そう言って書類を提出した。
ダスティンは丹精込めて道具を作った。材料にもこだわったし仕込みも気を遣った。細心の注意を払って出来上がったそれは献上するのにふさわしい物だと自負できる。完成した物を見て満足していると友人のケントがやって来てこう言った。
「完成したんだな。おめでとう。でも入れ物がないな。用意してやるよ。」
ダスティンはケントの気遣いに感謝して任せる事にした。
ダスティンが献上した道具は大変喜ばれダスティンの評価も高くなった。そんな中、ケントの評価も上がっていた。
「俺も献上品には関わったんだぜ!」
そんな言葉を周囲に投げかけては皆の関心を得ていた。
ハンナは今日も掃除をしていた。ある日、ごみが散らばっている広場をほんの少し綺麗にしておこうかと思って始めた掃除だが長い期間続いていた。大抵の人はハンナに愛想良く話しかけてくれるが時折ハンナの前で平気な顔してごみを放っていく人も居て、多少は不機嫌になる事もあるが、掃除が粗方終わった後の満足感で許せる気がしている。そんなハンナは今日も掃除の終わりを眺めている女性を目の端で捉え、ボゥッと見ているなら手伝えば良いのになと、自身もボランティアだから押し付ける気もないが暇なら何かしていた方が良いのではなどと思いつつ帰路についた。
ハンナが帰るのを見送ったジョディは『まあ、こんなもんだろ』と広場を一通り眺めて頷いた。そんなジョディの背に話しかける男性が居た。
「ジョディ。今日も掃除は終わったのかい?広場の掃除を格安でしてくれるっていうから依頼したけれど?」
「ええ、ニール。掃除婦がきっちり掃除していってくれたわ。」
ジョディは話しかけてきたニールにそう答えた。ニールは街の顔役である程度予算も自由に出来るのだが、そんなニールにジョディはビジネスを提案し、1か月に一回程度はこうやって確認に来ていた。振り返ったジョディにニールはまた話しかける。
「君が広場の掃除を格安でするって提案してきた時はそんな値段で大丈夫かと思ったんだけど値段分はきっちりしてくれて助かるよ。正規の契約だと高い報酬になるからね。なかなか広場の清掃までは手が回らない。ねぇ?どんな魔法を使ったのかさっぱり私には分からないよ。」
そうニールが話しかけるとジョディはにっこりと笑みを浮かべて簡潔に言った。
「それは企業秘密です。ビジネスのコツは簡単には話せません。」
マルヴィナは今日も機嫌良く料理を作る。彼女の趣味であり実益でありストレス発散法だった。何かある度に料理を作るマルヴィナだがさすがに全部自分で食べるのは横に大きくなりかねないと思い、友人に分ける事でどうにか服のサイズを大きくしなくて済む対策をしていた。そんなマルヴィナが料理を作ると決まって友人のネリーがお裾分けを貰いに来るのが定番になってきていた。マルヴィナの料理をものすごく褒めてくれるネリーに悪い気はせず、マルヴィナもネリーに作った料理を容器に入れて渡し、食べてもらった感想を聞くのが嬉しかった。
「じゃあ、今回も貰っていくわね!ありがとう、マルヴィナ!」
元気にそう言って走り去るネリーを見ながらマルヴィナは満足して自分の分を食べ始め、味付けがどうだもう少し火加減を調節した方が良かったなどの感想を抱きながら、ネリーはどういった感想を持つのだろうかと考えて頬を緩ませた。ネリーはあれで甘いものがあまり得意ではない様でどちらかと言えば肉などのボリュームがある料理を好む。意外と言えば意外だが彼女からの感想はデザートなどより腹にガツンと来るものの方が好感触なのだ。
マルヴィナから料理を受け取ったネリーは上機嫌で持ち帰り、家につくと少し味見をしてからマルヴィナの料理の味を損なわない程度に自分好みのスパイスを振りかけた。このほんの少しがネリーにとっては大事なのだ。スパイスを振りかけた料理を手にネリーはロビンの家に赴き、丁度夕食の準備をしていたロビンにネリーが味付けした料理を差し出してテーブルの上に一品増やす。その料理を見たロビンは笑顔を浮かべ、準備が整ったので食事を始めるとネリーはロビンに話しかける。
「ねぇ?私の味付けどうかな?」
「勿論最高だとも!ネリーの料理はいつ食べても美味しいな!」
サンディーはお客様がお帰りの際に花束を手渡す係だった。パーティーが終わり帰宅する際に希望するお客様にだけ渡すのだ。困った事に歩合があり、花束を受け取ってくれないとサンディーの稼ぎも悪くなる。今回もあまり花束を受け取ってくれなかったのでサンディーの稼ぎは悪くなるのだが、サンディーは最近良い考えを得た。そもそもがこの花束をお客様に買ってもらうのではないのだ。パーティーの参加費用の中に既に含まれており、そして受領証や領収証の類はないのだ。後になってどこかであのパーティーで受け取った花束が良かっただとかの噂はあれど、全ての花束のチェックなどしていない。つまりは、サンディーが持ち帰っても良いし、見つからない所に隠して後で捨てれば何の問題もないのだ。最初に用意した花束の数と最後に残った花束の数の差。それこそがサンディーにとっては重要なのだ。
ポーリーンは皆の掃除を見ながらのらりくらりと程良く行動していた。別段誰がどこの担当だとか決まっておらず掃除さえしていれば文句を言われない。だから皆がそれとなく誰かがそっちに行ったならこっちは私、という様に散らばって行く。だからこそ上手く立ち回る必要があるとポーリーンはそう考える。人の多い部屋の掃除をまず行いながら頃合いを見て他の場所の掃除に行く振りをする。周りは人余りだから移動したと思うから気にも留めず、しかし行き先は知らない。そうすると皆がポーリーンを知らない事になる。多分ポーリーンはあっちで掃除してるんだろう、と皆が皆で思ってくれるのだ。実に良い手だとポーリーンは思う。そうして時間を潰した後、終了間際に皆が集まっている所に何気なく加わり、軽く掃除をした後に道具をしまうのだ。後は報告のみ。皆で滞りなく掃除を済ませたと報告して終わればだれも不満を持たない。
剣技大会も白熱し応援するアランの身にも熱が入る。アランは取り分けて誰かを応援しているわけでもない。目を付けている者は居たがアランの目的は個人ではなかったりする。そんなアランが誰ともなく勝ちそうな側を応援していると最終試合になり、エリオットとジェイソンの戦いになった。どちらも熱狂的なファンが居て応援も激しさを増すのだが、戦いは徐々にエリオットが優勢になってきた。そうなるとアランの取る行動はエリオットの応援をしている連中の傍まで近づいて一緒に応援する事になる。どちらが勝とうがアランにはどうでも良い。必要なのは勝った側を応援していたという結果だ。俺は見る目があるんだぞ、だから最初からあいつが優勝するのは見抜いてた、と言いたいのだ。そうすれば飲んでいる時に自慢出来、普段吹聴している御託も嘘ではないと認めて貰える。だからここであのエリオットという奴に勝ってもらわなければならない。そしてここでエリオットが勝った時にエリオットを応援している連中と共に喜び語り合う結果が必要なのだ。そんなアランの前でエリオットは勝利し、アランはエリオットを応援している者達と一緒に勝利を祝った。
ロレンス国は今こそ開戦のタイミングだと決断した。ロータスヘイムはネリヴァールの攻勢に耐え切れず戦線は崩壊し、主要な部隊は潰走、今や国を守る部隊など無いに等しかった。今ならばネリヴァールが奪い取る領土に合わせてロレンスも宣戦布告して領土を掠め取る事が出来る。ネリヴァールとの戦争で疲弊したロータスヘイムから領土を奪う事も難しくはなく、和平交渉も有利に進み、交渉により正当な権利として領土を割譲出来るだろう。そして今更、こんな旨味のある話を撤回する気のある者も居なかった。
カイルがいつもの様に通りを歩いていると見知らぬ男が前から歩いてきた。別段、道なのだから何か特別な事でもなく気にせず通り過ぎようとしたその時。
「うわぁ!」
すれ違う時にその男が大きな声を出して倒れた。突然の事にカイルが驚いて男に話しかけ手を差し伸べた。
「大丈夫か!?」
そんなカイルの言葉を聞き、男は不満そうな顔を浮かべながらも手を払いのけ、立ち上がったかと思うとカイルを睨み付けながら立ち去った。
「何だったんだ、一体。」
その男の後ろ姿を呆然と見ながらカイルは一人呟く。
一方、立ち去った男は仲間と合流して話していた。
「おい、どうだった?上手く見えたか?」
「ああ。まぁまぁだな。あいつがお前にぶつかった様には見えただろう。周りの連中もすれ違う瞬間なんて見ちゃいない。見たのはお前が倒れた所とあいつと話している所だけだ。この調子で行くぞ。塵も積もればだ。」
カイルは体術の練習をしていた。正拳突きを繰り返して練習しているとカイルと同じ様な練習生が近くを通りかかった。丁度横を通り過ぎるときにカイルが正拳を繰り出すとなぜか目の前を通っていた練習生が声を上げてカイルの方を向きながら後ろへと倒れた。
「うわぁ!」
一体何が起こったのか。カイルには全く分からなかった。
気功だとか不思議な力でも出たか?そんなわけはない。
カイルがそう思っていると倒れた練習生はカイルを睨みつつも立ち上がり不満げな顔をして立ち去った。その後ろ姿を見送ったカイルは良くわからないままに『まぁいいか』と思い、練習を続けた。
そんなカイルから立ち去った練習生は仲間と合流して話し合った。
「どうよ?」
「ちょっとあからさますぎるけどまぁいいんじゃないか?カイルが正拳を突いた。お前が倒れた。お前が睨み付けて立ち去った。これも状況証拠になるだろうよ。」
ラッセルはソフィーから報告を受けた。どうやらソフィーは研究で成果を出したようでその報告だった。報告内容に満足したラッセルはソフィーに道具を与える事にした。
「ソフィー。よくやった。次からはこの道具を使うと良い。更に良くなるぞ。上には私からも良く言っておく。」
「はい!ありがとうございます!」
その言葉にソフィーは感激して大事そうに道具を抱えて立ち去った。
ソフィーと話した後にラッセルはソフィーの持ってきた報告書と共に上司であるヴィンスの所へと向かい報告した。
「ヴィンスさん。ソフィーが良い結果を出しました。今回私が道具を与えたところ、充分な成果が出た様です。」
「そうか。ソフィーの努力も大したものだが、ソフィーが結果を出せる様にアドバイスしてサポートするお前も良くやった。」
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。誰かが成した成功にあたかも自身も関わったと錯覚させて成功した結果から得られる利益の一部若しくは全てを奪い取るという事ですね?」
「概ねそう。」
「私達は集団の規模を大きくしながら役割分担を高度化させる事で利便性を手に入れましたが、大きな規模を管理する為に管理する側と管理される側を持つ事になりました。それぞれが個別に自身の方針で行動していては互いの共通認識を作り出す事が出来ず、また、役割分担する上で要求される基準が満たせないからです。基準を満たさずそれぞれが品質の異なった物を作り出せば役割分担における基本的な信頼部分に疑問が生まれ、疑うので専門知識だけでは自身の生活を維持出来ない為に専門知識以外の知識を必要性から得る事になり、どこまで得られれば自身の求める品質が得られるか分かるまで時間を割き、また、騙されない為にも時間を割き、専門知識に特化する事が出来ずに効率が低下します。そのような競争に不利となり自らも集団も生存出来ないリスクを抱えない為にも実際に活動する側とそれを管理する側に役割分担し、全体の意思統一が出来ているかを確かめる方法が取られます。コントローラーとアクチュエーターに分け、コントローラーの配下に複数のアクチュエーターを配置して管理する方式になります。コントローラーが管理出来るだけの数のアクチュエーターを管理し、アクチュエーターの数が増えれば新たにコントローラーを配置してその配下に置き、コントローラー間の意志統一が必要な程に各コントローラーの基準がずれたならその上位にコントローラーを置き、今までのコントローラーをサブコントローラーとして配置する事になります。そうして規模を増しながら現在の技術力で維持できる限界の規模を作り出し、維持しつつも技術向上を試行錯誤し、高度な技術を発明するとその技術力で維持できる限界の規模へと更に拡大し、より多くの階層を作り出していきます。私達の社会においてこの階層を位階と呼びます。
具体的には個別では生きられない者が小さな集団を成し助け合う事で生存出来る様になり、その集団内部の揉め事を解決する為にリーダーを配置し、同じ様な成り立ちで出来た他の集団とまた争い、互いに生存する為に同じ集団になり、その集団を管理するリーダーを配置し、それを繰り返す事で小さな集団から大きな集団へと、その呼び名も家族、一族、民族などとなり、また、村、町、都市、国と言った呼び名になります。
その社会の中で私達は世代継承し、いつまでも同じリーダーで居る事は出来ません。ですので新たにリーダーを再任命する事になりますがそれが世襲となるか能力主義になるかはその体制に依ります。
封建制では、それまでの過程として集団をまとめ上げた功績により世襲制が採用されます。集団をまとめ上げた才覚を示した者の子孫に任せる事でこれまでと同じ様に集団をまとめ上げてもらうというものです。集団をまとめる事が出来るか分からない他の人物に任せるよりもより確実な選択をした結果と言えます。また、リーダーの再任命が必要な際に、現状で集団をまとめる事が出来ているのは現在のリーダーの成果と言え、その実績を評価して再任命するというのが世襲制です。世襲制を行う上でのデメリットは他の物事でも言える事ですが、基本的な私達の原罪とも言える"忘れる"事です。世代継承する中でそれまでの過程により得た経験から導き出した知識と感覚を忘れ、現状の環境のみを考慮する様になり、どの様にして現状が維持されてきたかが分からなくなり実状と乖離した方法を実行して集団の管理が出来なくなる場合があり、また、新たな技術により方法が変わるが管理者として行動するが為に実働せず、その新たな方法が実際にどの様な影響を与えるかが分からず今までの方法を繰り返し実状とズレた方法を行って管理出来なくなる場合もあり、また、管理する側になった事のない者が力をつけ、管理するために必要な諸条件を考慮せずに形に見える成果だけを追求してその成果の大きさによって管理する側を打倒する場合も管理出来なくなります。1つ目は管理する側が忘れる事によって、2つ目は管理する側と管理される側の信頼関係が希薄で連携出来ない為に生じ、3つ目は管理される側が管理してもらってきていた事を忘れる事で発生します。
より多くの条件を同時に成立させようとする事と少ない条件を同時に成立させようとする事では難易度が変わり、それだけマトリクスの大きさも変わる、或いはマトリクスの精度が変わります。多くの条件を同時に成立させようとすると効率は低下し、より少ない条件で済むのであれば効率は向上します。すると管理する側よりも管理される側が有利になり、管理される側が今までの過程を忘れ、管理する為の条件を考慮しないならば管理者を打倒する事が出来ます。なぜなら管理する側は実働に必要な知識と管理に必要な知識を維持しなければならず、そして結果を得るためにそれらを考慮しなければならず、しかし管理される側は実働の知識だけで良いのです。どちらが効率良く行動出来るかは分かり切っています。
また、管理者の受け持つ管理という役割はコントロールに必要なものであり、アクチュエーターの様に実働の為の役割ではありません。アクチュエーターの管理をしている間、実働という面では何の成長も見込めない若しくは低い成長率になり、アクチュエーターの成長率に劣ります。過去にまずアクチュエーターとして能力があり、その能力によりリーダーとしてコントローラーになった者も、コントローラーとしての役割を果たす内にアクチュエーターとして実働する者の成長に追いつかれ、アクチュエーターとして行動する者の能力がコントローラーとして行動する者の持っているアクチュエーターとしての役割に必要な能力よりも低くなった時に問題が生じます。もしその時にアクチュエーターとして行動する者が、自身の方がコントローラーとして行動する者よりも能力があると錯覚出来てしまえば、自身の方が強く、そして役割について実権も持ち上手く役割を運用出来ると思う様になるとコントローラーの命令を聞かずに行動する様になります。するとそのアクチュエーターは自身がよりうまく管理出来ると錯覚し、コントローラーに成り代わろうとし、成功すれば成り代わります。しかし実際にはコントローラーとしての役割を考慮せずに成り代わる為に、自身がいざコントローラーとして行動し始めると今まで自身がしてきた様にアクチュエーターとして行動する者が能力を得て、そしてその者もコントローラーが何をしているのかを知ろうとせずに自身の方がコントローラーよりも能力があり強いと思い込むと同じ様に成り代わられます。また、そうやって新たに能力を成長させてくるアクチュエーターに負けない様にアクチュエーターとしての能力を優先させたコントローラーはコントローラーとしての役割を充分果たせず、集団は競争に負ける様になり、その結果をもってコントローラーから引きずり降ろされます。こうしてコントローラーとしての役割を行う者は自身がアクチュエーターとしての能力を失う事と引き換えにコントローラーとしての能力を得て役割を果たします。ですのでコントローラーはコントローラーとしての役割を果たしつつアクチュエーターにコントローラーとしての役割がどのようなものかを教えていく必要があります。つまり、どうやって環境が維持されているかを教えなければ知性のない者は知ろうとせず、自身の能力だけを成長させて自身の利益だけを見て行動する為にいずれ集団に不利益をもたらす存在になります。そうならない様にアクチュエーター自身が自身で知ろうとする性質、つまり知性を育みながら役割を果たすための能力を身に付ける様に教育していく必要があります。そしてアクチュエーターの中でコントローラーの役割も果たせる者を選び出し、その者をコントローラーとして新たに任命し、もし上位に更にコントローラーが必要であれば自身がその位階につき、そうでなければ自身はアクチュエーターに戻り、もう一度能力を成長させるという循環を行います。こうする事で、もし上位にコントローラーが必要ないとすれば、コントローラーのポジションに付く者は現状のアクチュエーターとしての能力も持つ事で現状に適応したコントローラーとしての役割を行う事が出来、集団全体の技術は向上した事になります。そしてかつてコントローラーであった者がアクチュエーターに戻りまた能力を向上させる事で、コントローラーとしての役割を知っている者が集団内部に増え、コントローラーの役割を知らない事で自身に能力があると錯覚する者の数が減り集団の精度が高められます。
具体的には例えば男爵などの地位にある者が領地を栄えさせようとしますが、領地経営を考えずに利益を得ようとする者からすれば男爵は邪魔な存在になります。そしてもし男爵よりも権力を持ち男爵を排除して自身が男爵に成り代わったとした場合、その時からその人物は自身が想定していなかった領地経営という役割を持つ事になります。領地経営に時間を割かれ、先代の男爵を打倒した能力を成長させたり維持したりするリソースを割く事になり、すると以前と同じ様に能力を維持出来ないか他者がリソースを専門分野だけに割り振る事によって生じる差により不利となり、かつて自身がした様に打倒される結果になります。その繰り返しにより無駄な争いが生じその領地若しくは集団は停滞若しくは後退してしまい、他の集団との差が生じ更に競争に不利になります。他者も同じ様な繰り返しをしているのであればその差はそれほどないかもしれませんがやがてその争いをしなくなった集団が生じた差により有利になります。ですのでこの場合の男爵は領地内の者達に無駄な争いをさせるのでなく教育を施し専門分野で不正な争いをしない様にした後、次の段階に進むに足る資格があると思える者に次の段階としての知識を施し、そして自身の後継にふさわしい者が居ればその者と交代して自身は領民に戻る、というのがシステムから求められる方法になります。交代する際には養子でも良いし、婿養子でも良く、世代継承などの他の要因を含めて問題のない方法が適用されます。
もし領内にまだ開発の余地があれば、新たな街を興し管理させるのも良いでしょう。そして充分に発達すればいずれ男爵から子爵へと昇爵するでしょう。また、内部に開発の余地がなくとも外部に開発されていない土地があれば新たに拝領し開発して領土を富ませて昇爵します。その際に男爵位を配下の、大抵は血族に与えて領土の一部を管理する事があります。
しかし新たに開発出来ず経済力を増す事が出来ないのであれば昇爵はなく、領土内で順位を入れ替える対処になります。そうやって教化された人員を増やし領土を安定させ技術力を高めていきます。
こうした繰り返しにより規模を拡大させ、やがて国としての形を持つ様になると、国自体を崩壊させれば集団の生存が危ぶまれるために形を、つまりはシステムを維持する為の人材が足りなくともシステムを維持しようとし、能力が足りなくともある程度は維持出来る様に制度を取り決めます。一度、能力がある者が出現し国を興したとしてもそれを継承する人材が居らず国を維持出来ないのであればすぐにまたそれまでの成果は消えてしまいます。そしてその成果を得るための人材を育成する為にも得られた成果を維持する事でよりよい環境を提供する事が出来、人材が足りないのであれば育成しながら人材が育つまでの時間を維持すればよいという考えに至ります。しかし私達は快感原則に則り行動し、与えられたシステムの中で与えられたシステムを形作るルールに従ってさえいれば良いという考えに依存しようとします。全て誰かが決めてくれ、それに従ってさえ居れば何の問題も生じないのであればこれ程楽な生活はありません。ですので役割として取り決められたルールに従うだけの人材は育てやすいですが、実際に役割としての本来の行動を理解できる人材を育成するのは困難になります。その為、制度化されたルールに従って役割をこなす者は本来の役割を果たす者からすれば一つ下の次元で行動する事になり、率直に言ってしまえば代行者という位置づけになります。しかし制度が高度化すると、代行出来る人物と本来の役割を果たせる者の行動の差は少なくなり、区別が難しくなります。そしてその差が現れるのは非常時になります。非常時などの例外措置が必要な時にはルールに従っている者はルール通りにしか行動出来ません。しかし例外とされる状態においてはそのルール通りでは対処出来ないからこそ発生しているのであり、そこにその状況を分析する能力が求められ、能力が足りない場合はルール通りに行動して対処出来ていると判断したとしても、実際には対処出来ていない要因が存在し、認識と実状が乖離し、やがてその負の遺産は蓄積して新たな問題として表面化し、対処出来なければ崩壊する事になります。
今ある現状を現状のシステムとルールで対処出来るかを明確に判断出来る者は居らず、その実績でのみ把握が出来る為、管理者は常に最善の努力を求められますがここでは割愛します。
こうして人材が足りなくともシステムを維持しようとすると、その役割を果たすために必要な知識や能力というものを持たない者を代行者として使う事になります。いずれ教化出来て役割を充分に果たすという考えで運用するからです。しかしその者の知性が足りなければ、自身は形だけ見て、ルールに従って充分に役割を果たせていると思い込んでいても実際には役割を果たす上での能力が足りず、そして能力が足りないからこそ気づけないという問題がシステムを維持する為に必要な能力を下限にまで引き下げる結果になり、その過程において気づけない要因を気づけなくともルールを守っていれば成立出来る条件が分からず、条件が分からないままルールが不必要だからと考えて省き、変更し、そこに生まれる自由度に利益を生み出す余地を見出し、気づかずとも利己益を貪る結果になります。
そしてそこに利益が得られる方法を知る事で、『少しくらいなら』、『これくらいなら大丈夫』などと思い、更には『自身は有能だから誰も思いつかない事を思いつける』と思い込んでルールを破り利益を得る様になれば、ルールを守っているつもりが守っておらずルールを破り社会を混乱させる行為をする者が増える事になり、それが罰せられず、明確な不正であるという根拠を示されないなら、誰もが快感原則を原因として効率を上げ競争に勝つ為に不正行為を繰り返す事になります。
また、私達は集団を形成する事で個人の時とは違う部分にも判断能力を要求されます。集団を形成せずに個人で活動した結果は個人の行った行為の結果を直接反映します。しかし集団の一部として行った結果は個人の結果を直接反映するわけではなく、行う行為によっては大きな遅延を伴って結果を生じさせます。個人のみでの活動であれば自身の行為の結果がそのまま個人へと返ってくるので能力が高ければ高い程、掛けたリソース分だけ良い結果に繋がりやすくなります。しかし集団の一部として活動した場合、総量に対して結果が返ってくるので個人単体での活動の結果がどう影響したかを判別しにくくなります。個人から見た主観では個人の行った行為による結果への影響は分かりやすいですが、それを他者から判別するのは難しくなり、また、その難しい判別をするのが管理者となります。集団を形成した直後であれば、まだチャレンジアンドレスポンスの試行回数が少ない為に例外などの特殊な状況を発生させる結果は少なく、それだけ経験と呼べるものの種類が少なくなります。常に成功出来る、若しくは外部からの影響が常に同じであるならそこにバリエーションはなく、新たな選択を生み出す思考すら必要ありません。しかし外部環境は常に変化し、また、技術の進歩により方法が変わるなど常に一定の方法を取り続ける事も出来ない為に、求める結果とは違う結果が生じやすくなり、その中でルールを逸脱しているが罰せられず利益になる結果が得られる事があり、その利益は罰せられずに得られる為に得てよいと思う様になり繰り返し、それまでの管理では維持出来ない様になっていきます。
今回の話にある様に、それまでの管理方法で問題なく管理できる性質の者だけであった状況から、外部からの新規参加や、"ラッキー"な状況を知り罰せられないで他者より多くの利益が得られる事でそれまでの行為とは違う行為をするようになり性質を変えた者が存在する様になれば、それまでの管理方法では不正行為を判別出来ず管理出来ない状態になります。
もし個人のみの効率を考えれば、何もしていなくとも報酬だけ貰える結果が一番効率が良くなります。個人のみで活動する結果として活動しなくとも活動した結果と同じ結果が得られる事はありません。"ラッキー"な出来事などの例外でのみ起こり得ます。では集団の中でその状況を望むとすればどうすれば良いかと考える事になると、集団としての結果はグロスで発生し、その中に個人がどれだけ貢献したかを判別できる基準がなければ特定の個人がどれだけの貢献をしたかが分かりません。そうであれば、他者が貢献している時に自身は貢献せず、しかし結果はグロスとして発生し、その結果によって分配されるが個人の貢献が分からないのであれば等分配するしかなく、貢献していなくとも利益が得られる結果を得る事が出来、一度でも似たような経験を得るとその経験は快感原則に非常に適しており得られた利益が大きければ大きい程に、通常の方法で得られる利益よりも優先される経験になります。その経験に対してそれが正当な行為である根拠を示し不正ではないと言えるだけの知性を持っているかが重要になり、また、充分な知性を持っていなくとも誰かが取り決めたルールやモラルに合致しているかを判断出来れば問題ないのですが、日常を日常のままに生活する事でルールの根拠を忘れ、ルールの重要性が分からなくなる事で利益を優先してしまい、そして元々ルールやモラルを遵守する意志が小さいのであれば容易くルールを破り利益を優先し、結果として管理されていない状況を作り出します。
以前にも話しました様に、それぞれの役割において役割を受け持つ個々人が自制する前提で役割は与えられます。誰も成人したとみなされる、つまりは自身で自身の行動は管理出来るとみなされた者の管理をする事はなく、そして常に管理する事も出来ない為に、個人の裁量で行動出来る自由が存在します。しかしその自由を使って決められたルールやモラルを破る為に、管理する側は今までの方法よりも厳しい管理方法を行う必要に迫られ、管理コストの増大へとつながります。しかしその管理方法を厳しくする為にはまず現状の管理方法では管理出来ない事を判別できる必要があり、その能力が足りなければ管理出来ているつもりで管理できていない状況が作り出されます。また、管理コストが払えない為に管理方法を厳格に出来ず管理したくても管理出来ない状況が作り出されます。
そうなると今回の話の様な状況が作り出されます。誰かの成功した結果に自身に都合の良い事実を付け足し、相手を錯覚させて欲しい結果を得る方法を、管理されていないのを利用して実行する様になります。
個人であれば結果を得るまでに他者を間に媒介する事はありません。しかし集団であるという事実は、個人の行動の結果を管理し、報告されたものを評価し、その結果で個人の行動の結果を確定します。それだけ個人から見て外部の意志が介入し、予期しない結果になる場合があります。本人が善人でも相手が悪人であれば、相手が善人でも本人が悪人であれば、本人も悪人で相手も悪人であれば、個人が個人として行動した結果とは違う結果に繋がりやすくなります。その結果は個人が10人集まって個別に行動した結果と個人が10人集まって10人で集団を作り行動した結果とは違う事を意味します。2者間においてコミュニケーションが成立する為には自身がコミュニケーションを取ろうという意思を示し、かつ相手も同様の意志を示した場合にしか成立出来ず、4値ある内の1つの状態、つまりは1,1の状態でしか成立出来ません。それ以外の場合には通常以外の確認方法が必要になると言う事であり、私欲なく客観的にコミュニケーションを取ろうとしなければ、個人のみで行動した時と同じ様な結果の得られ方は出来ません。自身が悪人で虚偽の報告をし相手が善人でそれを信じて評価し対価を払うならそれは正しい結果が得られたとは言えません。自身が善人で正しい報告をしたにも関わらず相手が悪人で報告内容をあえて曲解し評価を不当に操作し対価を減らす若しくは対価を増やすなどが起こった場合も正しい結果が得られたとは言えません。そして自身が悪人で虚偽の報告をして相手も悪人でその報告を曲解して評価して正しい結果になる事は奇跡と言えるかも知れません。
本人が報告、相手が評価、そして対価という段階において不正を行う余地が存在し、個人の行為として役割を果たせるから管理も出来ると考える事が出来るのは、先ほどの4値の内の1つの状態である、本人が善人で相手も善人という状態にしか適用出来ません。管理する場合には発生する様々な結果から生じる派生を含めて対処する必要があり、その対処を含めた結果として管理される者の行動が評価方法で調べる事の出来る範囲に収まる様にルールを決める事で状態を維持する事が出来ます。
システムをそこに参加する人員の性質に左右される事なく運用出来る状態にしようとするなら、先ほどの4値の状態のどの場合であっても、2者間においてコミュニケーションが成立する為に必要な状態である自身がコミュニケーションを取ろうという意思を示し、かつ相手も同様の意志を示した場合である4値ある内の1つの状態、つまりは1,1の状態になる様にルールを取り決める必要があります。多くの取り決めをして、運用する者が悪人でも或いは知性が足りずにシステムを維持する為のルールの根拠が分からなくとも従っていればルールの根拠部分となる条件を満たす事が出来る様に形作るのが私達の社会であり、しかし専門化する事で得られる知識を繋ぎ合わせて形作るので全体像を把握し辛く、そして一部の高い能力を持った者以外はルールに従うだけになり、ルールの根拠を知るには高い知性が要求され、かつ役割分担した全ての分野で満たすべき条件を網羅出来ないのであれば整合性を欠き、その結果は遅延がかかり時間が経過してからでしか分かりません。その結果としてどれだけルールを厳密に定義しても、努力義務を果たさない管理される側となる従事者を管理するとどうやっても問題は蓄積しシステムそのものが余剰分を用意して想定しない問題を吸収しようとしなければ蓄積した問題はやがて表面化し、そして対処してまた更にルールは厳密になります。しかし最善の努力義務を怠る者を管理すると管理コストは増大していく傾向を示し、管理コストを増大させない為には目先の小さい利益を得る為の利己的な行為で管理される側自身の権利を制限させていってしまっている事を分からせる必要があります。
最悪は、親がする様に子が道具や玩具をまともに使えない為に、道具や玩具そのものを取り上げる様に、権利そのものを取り上げる事になります。正しく扱えないなら初めから与えないという考え方です。例えば、銃火器を与えると犯罪行為しかしないのであれば、まともに扱う事が出来ないのだから初めから与えない、という考えになります。それと同様に初めから犯罪行為や不正行為を行えない様に知識を与えないと言う方法もありますがここでは割愛します。
ですので管理者は管理される側である従事者を性悪説でもって管理する必要があります。ルールやモラルの根拠が分からずただ従っているだけであるなら、全てを管理出来ない状況で発生する自身の裁量つまりは自由を行使出来る状況でどの様な判断をするのか分からないからです。例えば以前にも話したように買い物を頼んだとしても利権を扱って、自身に賄賂を贈る者を優先して、結果的に質の悪い物を購入してくる可能性があり、そういった行動をしないという実績若しくは管理者の判断による評価がなければ、疑うのが前提となります。しかし同時に管理者が利己益を優先した場合、そうやって不正行為をした者が不正行為をして得た利益の一部を管理者に提供して不正行為を見逃してもらおうとしてそれを受け入れる、という状況も発生し、管理者は管理者自身の行為も性悪説で客観的に分析して管理する為のシステムを構築する必要があります。しかしどの様に厳密に定義しても、性悪説で語られるべき者が曲解して解釈しようとすると行われる行為の中で都合の良い部分だけを見てさも行為の目的がその曲解した目的であるかの様に意図的にも過失的にも主張するのでその主張の正当性から判断出来る必要があります。そして管理される側というのは管理する側と同じ能力を持っている事は少なく、分からないから、気づけないから、個人の主観から主張する事があり、自身の主観を作る情報を取り囲む客観的な情報を教えて分からせる必要があります。しかしだからと言って管理者が世界の全てを把握して分析出来るわけではなく、しかし従事者は管理者が全てに正しく答えてどうにかしてくれると思って従っている場合が多く、従事者が自身の生活に不満を抱えても管理者が不満を解消してくれないとその理由を管理者の不正に結び付けやすく、そしてそうする事で自身を正当化出来、どこに間違いがあったとしても自身は悪くないという免罪符を手に入れようとします。実際には従事者から見た管理者の不正というのは、管理者が管理する環境の外部からの影響に対処する為に今までの選択とは違う選択をしている可能性が含まれており、しかし従事者は管理する経験を持たずに自身の主観のみで世界を見ているのでその事実に気づかず、自身の知り得る情報のみで判断している場合があります。そうした錯覚をさせない為にも従事者にも管理者としての視点で物事を判断出来る様な教育が必要になります。
従事者を教育しなければ、従事者の知性が低ければ永遠に従ってさえいれば管理者が、もっと具体的には誰かがどうにかしてくれると思い込んだままになり、しかし自身はルールやモラルの根拠を知らず、管理者が全て管理出来ない状況において、"ラッキー"な状況に遭遇し、自身の利己益を優先して行動して、管理者の指示に従っているつもりでルールやモラルを破り管理出来ない状況を作り出し、管理者が管理しきれずシステムを維持出来ず、しかし自身は維持する為にルールやモラルを守っていると主張して、問題の責任を他者へ、管理者へと転嫁し、しかし自身が間違っているとも気づけないままに他者を弾劾します。
そうやって行動した結果、罰せられない経験を蓄積させると個人的に利己益を得るにはより効率の良い行為を行う様になり、ルールやモラルを劣化させる事でしか対処出来ない状況を生み出し、それを避けるには管理を厳密にするという対処法に発展します。そのどちらも従事者にとって不利益でしかなく、しかし従事者には自身がどの様な行為をすれば自身の不利益になる状況になるかを判断出来るだけの知性がなく、管理しなければ自らの手で自虐的に貶める結果になろうとします。
その為、従事者の様な女性的な役割をする者、一般的には民衆は、自身の体を維持しようと食べる為に自身の住む環境を汚しても自身で掃除する事も出来ない家畜などと比喩される事があります。その家畜という表現において性善説で語っても良いだけの信用がある者を羊、性悪説で語られるべき者をヤギと表現する事もあります。羊従順で大人しく、羊毛も取れる有益な動物であり、管理される恩恵の代わりに羊毛という利益を返し、自身の手で自身の済む環境を欲望に流されずに汚さないという例えになります。ヤギは食欲が旺盛であとの事など考えずに食べ繁殖し、食べるものがなくなって自身を含めて飢えて死んでいく結果になり、自身で自身の行動を管理出来ない者の例えになります。
そうして自らで自らの住む環境を壊しつつ利己益を求めて競争に勝ち自身の属するシステムを崩壊させる繰り返しの末にその失敗の結果として生き残る者は反省して改善しようとする者と今までと同じ様に利己益を得ようとする者に大きく分けられます。しかし同じ集団の中に居て、そして忘れるという事実が世代継承の度に発生し、知性の足りない者は一度経験して改善する意志を示したとしてもやがて忘れてその性質そのものが善良と言えるだけ教化されていなければまた不正行為を過失や意図して行ってしまいます。どうであれ、集団の従事者というのは管理する面では性悪説に則り、不正する者だという前提でシステムを構築して管理する事になります。子供であれば知性が未熟な為に、大人であれば性質がまだ悪質である為に、年月をかけて教化し教え導き繰り返させ遺伝子に刻み付けていきます。
しかしある程度教化して遺伝子上の性質を改善していなければ、世代継承する度に間違う可能性を高くなり、その間違いを修正できなければ性質を悪化させてしまい、それまでの教化を後退させます。
そうして誰かが作った環境の中でルールに従っているだけの管理者とその管理者に従っているだけの従事者で作られる社会はやがてそこに属する人員の性質が悪化し、悪化した者がルールやモラルを破り競争で優位に立ち権力を得て更にルールやモラルを破る繰り返しによりやがて崩壊します。その崩壊を止めるには属する人員の性質を改善するか、有り余る資源を使って失敗しても補填するか、厳密なルールと膨大な管理コストで厳しく管理するかのどれかになります。その為、唯一有効だと思われる性質の改善がやがて潰れるという前提を受け入れない為に選択されます。
しかし性質を改善するには何が正しく何が間違っているかを識別出来る必要があり、社会が高度になるにつれ細分化と明文化は難しくなっていきます。どこに原因があるかの判別も難しくなり、そして原因を分析するにも多くの要因から発生していると思われる因果関係を突き止める事になります。
そして今回の話の様に本来の評価されるべき行動とは異なる行動を判別出来なければ不正行為を判別出来ない事になり、社会はそれだけ本来得られる成果を得る事は出来ず、しかし成果が得られたとみなされてその対価を支払う事になり実質的に損失を生み出します。
今回の例でいえば、報告、評価、対価の支払いという手順の中で、それらを錯覚させる方法とそれぞれに時間的猶予がある事を悪用して錯覚させる方法を行っています。
例えば、報告が必要な状況では報告するまでの間に時間的猶予があれば、そこに自身に都合の良い事実を付け足す事が出来ます。それによりさも自身が成果につながる関与をしたという錯覚を与える為の事実を用意出来たり、報告の順序で得られる報酬を変える事も出来ます。自身に利害関係が一致する人物とそうでない人物が同じタイミングで同じ成果を出したとして、先取特権や先着順という様な権利が存在する場合に利害関係が一致する人物を優先して評価する事で見返りに利益の一部を還元して貰うなど、若しくは利害関係の一致しない人物が先に成果を出し、その後に利害関係の一致する人物が同じ成果を出したとして、報告から評価までに時間的猶予があり、評価するまでに両者が成果を出したとするなら、評価する時に利害関係の一致する人物の成果を認めれば、それだけ自身の利益になる様に事実を捻じ曲げられます。こういった方法は個人のみで行動しその結果を受ける状況では発生し得なかったものであり、管理特有の問題になります。
しかし同じ成果を出しているからあえて自身に都合の良い選択をした事実に問題はないとは言えません。同じ成果を出している為に、どちらを優先して選択し評価しても問題ないかの様に見えるかもしれませんが、その評価方法の根拠となる部分に不都合を押し付けた場合がほとんどになります。先取特権で先ほどの例の中で利害関係の一致する人物を認めたとします。しかしそれを俯瞰して客観的に眺めた場合、数多くの中からチャレンジャアンドレスポンスしてより早く成功に辿り着いた者をあえて選ばないのです。その選択は次のチャレンジアンドレスポンスに影響し、言ってしまえば、成果により更新された新しい世界に挑む時に、質の悪い方を選択して効率を低下させた結果になっていると言えます。個人の利己益で集団を不利な状況へと導く選択をする者が管理するのではいくらでもこういった選択が行われ、日常は問題なく過ぎている様に見えても本来あり得た世界とは違う世界に代わっており、例えば1着の者を選んだ世界と2着の者を選んだ世界では、その者の行動による差が生まれます。その繰り返しと同じ様な選択を行う事で、表面上は何の問題無く環境を維持出来ている様に見えながら、利己益を得ようとして社会を維持出来るポテンシャルを失っている状況になり、しかし本来なら正しい選択がされるべきだが既に間違った選択がされた為にあり得なかった世界との差は目に見えない為に指摘するのは難しく、指摘するには過去の同様の例がある事からの推測となります。
しかし同時にルールに則り評価する場合に、この例では先取特権を得るために不正をして1着になった者を認めるのも間違いになり、その判別が必要になります。間違った評価を与えた場合も先ほどと同じ様に本来あるべき世界とは違う世界になると言え、簡単には評価した事で与えられる報酬があるとすればその報酬が本来の使われ方をしない事で望む結果を得られない可能性が生じます。例えば、1着になり報酬を得たとします。その報酬を元に生活の安定と次の試行の資金とすると考えた場合に、評価される側が評価する側に利益の一部を還元する約束で1着にして貰ったとすると、その還元する額の分だけ次の計画に必要な資金が減ります。そうすると出来る行為に制限がかかり可能性は減ります。そしてその様な賄賂などを使わなければ勝てない能力の者に報酬として資金が渡り、本来それを受け取るべき者へは資金が渡らない。それだけ可能性を減少させる事になり効率的ではなくなります。この様に個人から見て利権を使うなどのたいして差がない様に見えるものも状況を俯瞰して客観的に見た場合には、簡単に言えば1つ上の次元で考えればその行為がどの様に影響を与えるのかを知る事が出来ますが、先ほどから言っています様に、個人の主観から見た世界のみで物事を判断するとその様な事実には気づけず、高い知性を持ち事前に推測して答えを導き出せるか管理を行って経験を積んだ先でしか判別出来ず、しかし経験で得た場合には既に問題が表面化するまでに悪化しており、そして大抵の場合は、多くの結果に紛れ込み、自身では気づけない為にその経験を積む事も出来ず、同じ間違いを繰り返す事になります。最終的にいつか気づくかも知れませんが、気づいた時には自身の積み重ねた間違いをどうにも出来ず、ただその時点より改善しようとする事しか出来ません。
そうならない為にも普段から知性を成長させ、普段の活動から抽象概念を構築し、新たな状況を出来るだけ事前に判別出来る様にするのが基本的な方針になります。そうして知性を育む性質を示した者を、管理者は教育して次の段階として管理する側に任命し、ある程度事前に判別出来る様にしながら経験を積ませて補完するという方法が実行されます。
この様に集団を形成する事で個人の時とは違う判断が必要になり、与えられた物事を他者より出来るだけでは管理する側にはなれません。その与えられたルールを定義するのが管理者であり、ルールに従って管理するのが管理者ではありません。しかしかつて存在した高い能力を持つ管理者と同じだけの能力を持つ者が居ない限り同じ様な管理は出来ず、管理出来ないならシステムを維持する恩恵が得られない為にルールを定義して模倣しようとします。しかし能力が足りなければルールの根拠を知る事は出来ずに、新たな細分化により生じる違いを見出す事が出来ず、管理しているつもりが管理出来ていない状況を作り出します。
その様な状況で不正行為は起こしやすく、なぜならかつてその不正行為は集団を維持する為には守って当然と言えるようなものでも時間が経過して環境が改善されるとその根拠が薄れるために実行して良いと思い込み、また、方法が変わるか状況の組み合わせでいままでにない"ラッキー"な状況が生じれば罰せられずに利益を稼ぐ事が出来る場合が発生し、守って当然と思っていたものも新たにルール化する事になり、高度になるにつれより多くの組み合わせにより発生する"ラッキー"な状況の全てを事前に把握する事も難しく、ラッキーな状況で本来なら得られない利益を得ても罰せられない者はその知性が低ければなぜしてはいけないのかを知る事も出来ずに繰り返す事になり、より多くの手口が生まれます。
例えば先ほどの様に報告する際に順序を変える、評価に利己的な条件を混ぜる、報告を遅らせる事で利益を得る、ルールとして明文化されていない曖昧さに付け入る隙を見出す、報告するまでの間に自身の都合の良い報告が出来る様に既成事実を捏造し詳細に話せば虚偽が露見するので都合の良い所だけ話す、他者の活動の成果を自身の活動した成果の様に錯覚させて報告する、他者が作り出した状況に便乗して利益を得る、実際に該当する能力を持っていなくとも既成事実を捏造して錯覚させて能力を持っているかの様に振る舞う、かつての結果を報告する際に抽出された要素と同じ要素を持つ状況を作り出せば同じ評価を受ける事が出来その評価で錯覚させる事が出来るなど、報告は見たままありのままの全てを報告する事が出来ず要点を抽出して報告する為、報告の様式が多岐に渡り厳密でない程に報告者の信用が重要になってきます。そして報告の様式が多岐に渡り厳密でないと性質が悪質な者はそこに付け入る隙を見つけ利己益を得ようとします。やがてその罰せられずに利己益を得る方法によって蓄積して表面化した問題により新たに報告に必要な項目が追加されますが、管理する側も悪人であればそれまでの期間を最大限に延ばし利益を最大化させるなどの方法は当然の様に行われ、その対策でも更にルールが厳密になるという繰り返しになります。」
エールトヘンは締めくくる。
「私達の大部分は能力の高い誰かが作ってくれた社会の中でルールに従って日常を過ごしさえすれば自身は社会の中での生存権を主張出来ると思い込みます。それは正しいとは言えるかも知れませんが、しかし全てを明文化出来ない若しくは明文化しても時間の関係上全てを教える事が出来ず、また、日々更新されていく環境に合わせて全てを新たに明文化する事が時間の関係上出来ず、その明文化出来ない部分を基本的な方針で補完します。ですので基本的な方針を遵守しようとする性質の善良な者だけで集団が形成されるなら例え不和が生じても話し合いで解決してシステムを維持しようとするでしょうが、性質が悪質な者が混ざっていれば基本的な方針に従わずに利己益を求め、話し合いで解決出来る事も解決出来なくなります。お嬢様は貴族です。民衆は立場上弱き者であり、受動的に行動する為追い詰められやすく保身の為にルールを少しだけ破ってしまう事が生じやすくなります。その際に性質が善良でなく知性も低ければ、罰せられない事でその不正行為をしても良い事だと錯覚してやがてどんどん不正行為を増やしていってしまい、その様な者達が徒党を組んで社会を潰してしまう様になるでしょう。ですので管理者として貴族は民衆が自らの手で自らの持つ権利を自虐的に失おうとしていないかを識別し、また、環境を知らず知らずの内に若しくは辿り着く結果を予想出来ずに目先の利己益の為に破壊しようとしていないかを識別する必要があります。性質の悪い者を多く抱え込むと、例えとしては悪いですがたくさんのネズミを食糧庫から排除しようとするかの様に対処に追われ、やがて管理出来なくなるでしょう。そうならない様に、民を教化して性質を改善し、知性を成長させながら世代継承させて行動を収束させてシステムを維持する必要があります。その為にもまずお嬢様が高い知性を身に付け、民の行動を識別出来る様になる必要があります。ですので、さぁ、今日も頑張りましょう。」
これも「お菓子の家」の話と同様のものです。他者に気づかれない様に"ラッキーな状況"を作り出す方法です。童話のどこと対応するかと言えば、誰か(管理者や社会を維持していこうとする者)が取りこぼした不正が出来る瑕疵、を拾って食べる、という描写に対応します。
こうやって社会を潰す事が出来ます。