S135 漫画は駄目よ
もっと色々と例を挙げたかったんですがどうにも時間制限をくらっていると中身の質が良くなりません。
「お前らの悪行は充分知っている。覚悟しろ!」
デクスターはそう言い、魔法使いに切り掛かりました。魔法使いはデクスターが切りかかってきて驚き何とか反撃しようとしましたが、デクスターの剣の前に抵抗出来ずに倒れました。周りの皆は魔法使いが倒れたのを見て喜び拍手喝采しました。そうしてデクスターは魔法使いが持っていた杖を手に入れ王様に献上したのでした。
イーサンとフランクは漫画「騎士デクスターの物語」を見て思った。フランクは騎士になれば悪い奴をやっつけて偉い奴だと周りから尊敬されるのだと。イーサンは相手が悪い事にすれば襲って奪っても許されるのだと。
グレタは叫んだ。
「どうか私達の窮状を知ってください!このままでは私達は声を上げる事も出来なくなって加害者が何の罰も受けずに平然と暮らせてしまいます。そんな理不尽な社会でいいのでしょうか!」
その言葉を聞いた周囲の者はどうやら放置すれば不味い事態になりそうだとグレタの言葉に耳を傾けた。そしてグレタの訴えは周囲に受け入れられ、無事グレタ達を不当に痛めつけようとした者達は法によって裁かれた。
アニメ「嵐の中で輝いて」を見たシドニーとタバサは思った。シドニーは世の中頑張っていればいつか報われる日が来ると。タバサはそうやってアピールすれば助けてもらえて欲しい結果が得られると。
ルークは言った。
「『許す』と言うまで償い続けろ」
漫画『ざまぁ列伝』を読んだモリスは思った。そうすればずっと搾取出来るんだと。
トニーは言った。
「したらだめだぞ?いいか?ぜったいしたらだめだぞ?」
しかしそれを聞いたヴィッキーはダメだダメだと言われているのになぜかしてしまうのだった・・・。
漫画『笑いの坩堝』を読んだヨアンは思った。そうやって言えば強制しても罰を受けないんだと。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。見たままの物事を受け入れるときにはそれが知性を成長させながら受け入れるのでなければ自身の思い付く内容だけで判断してしまうという事ですね。」
「概ねそう。」
「絵を見る時には視覚で識別して情報を得ます。日常において最も頼る感覚器であり、それだけ経験を多く積む事が出来る情報とも言えます。それだけに現状で問題がないと判断出来るのならそこに知性を伸ばす性質が備わっていないと現在自身が持っている情報だけで見たものを判断してしまいます。そこに問題があり、見たままの状況が、今まで自身が想定した事もない新しい状況であるなら以前の状況と混同して錯覚してしまい、そこで実際に何が行われているのかも目の前で起こっている出来事でも分からない可能性が出てきます。
言うなれば自身の持つ情報を見た状況に投影して判断する為に、自身から見た世界を鏡写しに見る結果になり、その鏡写しに見た世界に含まれる情報が状況を充分に識別出来るだけの情報を持っていなければ実際に行われている出来事と違う出来事が起きていると判断して錯覚してしまいます。その為、絵を用いて物語を語る時にはその内容を読み手が充分理解出来るだけの知性があるかが前提条件になりそれはその読む対象の物語が与えてくれません。勿論その物語が何等かの知識を与えてはくれるかも知れませんが、それを得るための知識がまず足りているか、条件を満たしているか、資格があるかというのが前提になります。その前提条件が崩れると対象の物語を読んで読み手が作者の意図した知識を期待通りに手に入れたかどうかが分からなくなります。
知性の低い者は自身の経験したものを中心に判断する傾向があり、普段から自身に直接利害が及ぶ部分だけを見てより多くの知識を得ようとしていないのでそれだけ判断材料は主観的なものが多くなり、その判断も主観になりやすく、しかし他者が客観的だと判断された情報を流用するので自身も客観的に判断したとその表面だけを見て主観で行動します。その際に重要なのは私達は視覚に頼りその視覚情報から知性の高さによって得る情報量が変わるという点です。
もし同じ状況を見る2者が居たとしてもそれまでに蓄積した知識の差により見ている状況をどう判断するかが変わり、その性質次第ではその受け取り方も変わります。その者の性質が善良なら、間違いをした者の状況を今後の自身に起こりうる状況だと想定して同じ間違いをしない様に考えたり、正しい行いをした者の行動で世の中が改善されたとするならその行動を自身も心掛けると言ったものの見方をします。しかし性質が悪質なら自身の考え方そのものが相手を脅し、奪い、屈服させるのが基本となっているとすれば見る状況で着目する点も違う様になり、いかにして相手を脅し、奪い、屈服させる事が出来る方法かを見てしまいます。その時、善良な者と悪質な者とで見ている対象が逆になっている事が大半になります。
今回の話の様に着目している部分が違い、個々人がそれまで経験したり知性を伸ばしたりして手に入れた知識で
その状況を見る事になります。
誰かが悪人を裁く状況を見たとします。その状況を見た者で、ある者は罪を犯せば法に裁かれるのだ、悪人が不正をしても必ずいつか裁きが下るのだと思うかもしれません。しかしある者はその悪人を裁く状況を相手に言い掛かりをつけて屈服させて自身に都合の良い結果を得ようとしそしてその方法なら周囲から罪だと言われずに罰せられないのだと思うかも知れません。また、罰を受ける者を見て、ある者は不正をしたら苦しい思いをするからしない様にと思うかも知れません。またある者はその罰の程度が不正をする事で得られる利益と天秤にかけてリスクの小さいものだと判断したら、不正行為をした後に罰せられれば良いと思うかも知れませんし、不正行為をした後に反省している振りをすれば罰から逃れられると思うかもしれません。
誰かが悪人を裁く状況を見て、自身も悪い事をして裁かれない様にしようと思っている者がいる時に、別の者は相手に言い掛かりをつけて屈服させる方法なのだと思う者も居て、見ている対象が丁度逆になっていたり見ている部分が加害被害と能動受動で逆になっていて違うという状況が起こりえます。ある者は不正を正して世の中を維持するのが当然だと思っている時に、ああやって媚びて反省している振りをすれば軽い罰で済むか罰から逃れられるかするのだと思っている可能性があります。
また、誰かが自身が不当に追い込まれ何とか打開しようと周囲の者にその窮状を訴える状況を見たとします。ある者はその問題を放置すればいずれ自身にも同じ様な出来事が起きて不利益を被るかも知れないと思いリスク管理としてその者を助けようとする可能性があり結果として窮状を訴えた者が助かった結果があると、その結果を見て同じ状況にもかかわらず、そうやって窮状を訴えればさも自身が正しい様に見せかける事が出来、相手が悪い事に出来ると思う可能性が出てきます。社会が性善説を基本とした風潮で動いている時には、まさかその悪事が行われたら自身を含めた周囲にとってのデメリットが大きいからやらないだろうと思ってしまうものもだからこそ悪事に利用出来ます。その悪事が行われている事実から皆が助け合わない様になれば影響は大きいから最低限のモラルとしてルールを守る必要があるものも、それを理解出来るだけの知性が足りず性質が悪質なら平然としてしまいます。そういった者にとってその結果を得るための状況というのは"何だかよくわからない"がそれを真似れば欲しい結果が得られるという程度のものに過ぎません。
また、誰かが『『許す』と言うまで償い続けろ』と言った状況を見たとします。その状況からの結果として長い期間の償いが必要だったとします。その結果を見た者で、ある者は罪が重くて損失を償うのに時間が掛かったのだなと思うかもしれません。また、別のある者は、そのやり取りが親子の様な関係で行われていて、反省して二度と同じ過ちを犯す事がなくなるまでに時間が掛かったのだなと思うかもしれません。しかしまたある者は、そうやって延々と搾取出来ると思うかもしれません。そしてその結果として『『許す』と言うまで償い続けろ』という発言がされた時には、それが対象の改善を求めての行為なのか不当に搾取したいが為の行為なのかの区別を発言とその状況だけでは判断出来ない様になります。
この解釈は同様に自身がする側される側の当事者となった時にも影響し、もし自身が不正行為をして罰せられ『『許す』と言うまで償い続けろ』と言われたとします。一方で自身は罰が軽いものであればある程に利益が得られます。なら例えそれが親子関係の様に反省させる為に言われたものだとしても、それを曲解して搾取する為に言っているのだと思い込もうとして、そこに罰から逃れる活路を見出そうとします。
また、コントなどのコメディで行われる状況もその解釈次第では意図するところとは違う部分を強調して受け取られてしまう事があります。失敗例として、禁止しているにもかかわらず禁止された行為をしてしまうという内容を分かりやすく喜劇にして教えるものも、その見方によっては逆さ言葉を使って強制すれば自身は罰せられる条件を満たす状況を作っていないのだから罰せられないで済むと思う可能性があります。
ですので私達はその様な間違った解釈をしない様に幼少期に絵本を読ませる時は保護者を同伴させ、その子供が何を感じているかを確認しながら読ませます。そして間違った受け取り方をしているならそれをまだ幼く知性の未熟な内に正してその子の成長を助けます。もしそれが行われずに間違った解釈のままに知性を伸ばした場合には間違った知識や不正行為を行う知識をどんどん吸収してしまい成長した後には不正行為を行いやすい者が出来上がります。逆に言えばそうして幼い時から見たものを錯覚しやすい環境におけばそれだけその者の性質を歪める事が出来ます。
見たままというのは、普段からその状況を見ているがために今までの蓄積した情報を元に判断してしまいがちになります。不正をされた事のない者は不正行為をされる状況というものを知らない為に不正行為が行われていないかを判断する判断材料を持たず、罰せられた事がない者は罰せられた者の心情を知らない事が多く、罰せられた者がどういった行動に出るかを知らない為にそれに対する対応が必要かどうかの判断材料を持たず、知らない為に気づけない状況が出来上がり、その見た状況は自身から見た世界の出来事で完結してしまいます。分かりやすい例えとしては、一度も体罰として頭を殴られた事のない者は他者が頭の上に拳骨を振り上げても殴られるとは思わない為に何をしているんだろうという程度の認識しか持ちません。一度でも体罰か何かで頭を殴られた事のある者が、他者が頭の上に拳骨を振り上げたなら殴られるかも知れないと思います。勿論知性を高めて情報を得た場合は別です。
ですので、絵本や漫画というものはその内実を把握して理解するには、それを使って物事を学ぼうとする前にその媒体を使って学べるだけの知性と知識を事前に得ている必要があります。知識を得るために事前に知識が必要という本末転倒とも言える状況の様に聞こえますが、どの様な知識もほとんどはその前提が存在し、まだ知性が未熟な状態で物事を学ぶ時には行おうとしている行為をするだけの資格が足りているかを保護者が確認します。
では小説などの活字を用いた媒体はと言うと、もともと概念や知識というものが目に見えないものであり、それが何なのかを調べる必要があります。それと同じ様に言葉というものもそれが何を表したいのか、なぜ知っている言葉が表す内容に近いのに別の言葉で表すのか、その違いは何なのかという事を知らなければ知らないだけ内容が読めず、その作品を理解したければ調べるという行為が常に付随します。いわば作者側が状況の違いを明確に言葉で表す事が出来、その言葉の意味する内容を知らなければ調べる必要が生じ、読み手は受動的ではありますが知性を伸ばす行為を行う事になります。概念が目に見えない為に言葉を介して概念を知り整備する方法になり、これは絵を見るのでは行えない行為です。
もしその作品をもっと知りたいと思った時にはその違いを調べ、結果として知性を成長させ知識を得て更に新たな発見が出来る様になり、増々もっと多くの事を知りたいと思う良い循環になる場合があります。ある物事で高めた知性で今まで起こった別の物事を眺めて識別出来ていなかった情報を知る事が出来たりした結果、その行為が成功体験として蓄積されれば自身を高めようと自発的に行動する様になり、教育の目標はこの状態になります。
そして絵本や漫画だけでなく小説やどの活字を用いたものでも、あえて違いを示さずに混同させたい状況を表す事があります。実際に起こった出来事でその状況は同じでも行われる行為自体が違うもの、大抵は不正行為になりますが、不正行為が行われている状況をさも不正行為が行われていないと錯覚する様に表現される事があります。特に絵本や漫画などは顕著になり、描かれているものは自身の既知のものでわかりやすくそこに疑問を抱く必要がない場合がほとんどです。小説などの活字を用いたものもなぜそう表現されるのかを追求する事である程度の悪意は見抜けますが、残念ながらその悪意を持った作者があえて違いを書かずに状況を混同する様に書いたならば、その違いを示す情報はその小説内にはなく、事前に別の場所で情報を得ていなければ違いを判別出来ない場合が多くなります。つまりは媒体となるものがより考える必要のないものになればなるほどに知性がなくとも情報は得やすく、しかし必要なだけの識別が出来ているかは分からないと言えます。」
エールトヘンは締めくくる。
「見たままの行動というものが行為に直結するのは、けものの世界だけです。そこに近づくにつれ社会は高度にはなれず、行為を識別出来ない為に争いになり発展しなくなります。発展しているかの様に見えた場合でもそれは単にそれまでに誰かが蓄積した要素を消費して無くなるまでの間発展しているだけの場合が出てきます。そうして内的に蓄えた資源を消費しながら知性の面で退化している場合があり、そうやって退化させる事で、既に得られた優位な立場を守ろうとする者が現れ、持つ者と持たざる者の差は大きくなり、そして覆せない為に更に優位な条件を強者が突き付け差を拡大させる状況が作り出されていきます。そうなった社会は不正を止める能力を失い、正当な競争が行われなくなり劣化していきます。お嬢様は貴族です。民衆の腐敗を止める事が出来なければやがて彼らは不正行為こそが正しい利益の稼ぎ方だと錯覚して自らで自らの生活する環境である社会を潰し始めるでしょう。自らの済む環境を汚しながら生きる糧を得る豚と呼ばれる様な存在へと劣化させるかそれとも自分自身の力で自身がそう呼ばれる様な存在になろうとはしない者を育成するかが社会を正常に運営していくための鍵となります。その為にはまずお嬢様自身が、悪人が社会を潰して利益を稼ぐために社会に属する者の知性を低下させたり性質を歪めようとしたりする悪事を見抜ける必要があります。その為にもさぁ、今日も頑張りましょう。」
他者に責任を押し付けてしてはいけない事をして利益を得る方法を行う悪人は良くいます。例えば株式ですが「日本が発祥の地」となっています。しかしそれがもし、お隣の国から来た侵略者がこの国の者を唆すかこの国の者になりすまして行ったものとすればどうでしょうか。株式自体の欠陥や瑕疵は依然に話しました。
わかりやすい例として、工業製品を作った後に産業廃棄物処理費用を払わなくて済むなら利益ぼろ儲けです。それと同じで、してはいけないというものを他民族や他国家に押し付けて利益を得た後に問題になれば素知らぬ顔で逃げるというやり方があります。その一環として「株式が日本発祥の地」として伝えられています。後になって株式が問題になればその責任は日本に押し付ければよい。その時には利益だけ稼いでトンズラかます、というのが悪人のやり方です。
これは今時の金持ちに通じます。社会での経済のあり方が昔のままで現代社会に適用出来ていない為に抜け穴がたくさんあって、その国に不都合は全部押し付けて利益を荒稼ぎした後にそれ以上稼げなくなれば無責任に逃げ出すという方法が取れ、良く行われます。そしてそのやり方が楽して利益を稼げるからそれ以上の改善はされずに、誰かに指摘されて稼げなくなるまで最大限の利益を得続けようとして、私達の種族そのものに損失を与え続けます。間違いがどこにあるかと言えば、その程度の認識しか持てない者に権力を与えたことです。
・どこぞのアニメ制作会社に火事がありましたね。放火自体は悪い事ですが、その問題をどこまでの規模で考えるかで見方も変わります。
まず最も簡単な仮定としては、精神的に追い詰められた人物を追い詰める事で、望むタイミングで望む結果を得ようとする方法があります。不特定多数の中で、行わせたい行動を行うだけの不満や動機を持った者を探し、その者達の内で、煽りや脅しでヒステリーなどを起こして周囲を攻撃したりする状況を作り出しやすい者を選び、実際に煽ったり脅したりして普段から持っている不満を爆発させやすくする、というのは多用されます。肝心なのは権力を持っていない者にはなじみがないので気づかれにくいという事です。
さて、そういったものより規模を大きくして考えてみます。丁度、反日、嫌韓などとやっているのでその根本的な要素を有史の範囲でさかのぼってみます。
-->ここからの情報は眉唾物で聞いてください。ヘイトスピーチとも言える内容になってます。
2千年前に土着の神話を一掃して改ざんした方々が居ます。どこぞの大陸をさまよった挙句に半島からこの島へと渡ってきた方々です。天孫降臨などと嘯いて、他者を虐げる為に自分達は偉い存在だと思わせようとした存在とも言えるかも知れませんが当時の状況がどうだったかは定かではありません。その者たちがどうであれある程度の技術力を持っていて、土着の民の文化度と比べると相対的に高度だったのかも知れません。これはとある書物に書いてあった情報で他のところでは見つけられなかったので信憑性が低いものですが、その一族をトク一族と言うらしいです。その補強材料として、平安時代に先祖が使っていた古式の仮名遣いを「遠きトクの仮名遣い」と言ったそうです。これはういきさんに書いてあったと思うんですがどこだったか忘れましたし少し探しましたが見つけられませんでした。
さて、つまりは私達の国には古来から渡来してくる者達が居たということです。近年では済州島の事件などでかなり多くの特定の地域の方が流入しています。どこぞの国を組み込んだ時にもそうです。昔渡来した方々の性質がどうかは定かではありませんが、長い年月をかけて、近くの半島はその更に近くの国からの流刑地としての面を強くしていきます。どの様な場所でも文化圏の端の半島など吹き溜まりになりやすい場所はそうなる性質があります。そういった場所は基本的に宗教が盛んだったりもします(神にすがる事で罪から逃れようと、苦しみから逃れようとする)。そうして特定の性質に偏向した者たちが集まって集団を形成するとそこに属する者達の性質は同じ様な性質へと偏っていきます。そういった者とそうでない者との間には社会の中でのモラルやルールなどの価値観に大きな隔たりが出来、お互いにそれぞれが持つ"常識"で長い年月世代継承してきた為に意図的に努力して変えようとしなければすぐには変わる事が出来ません。そして、物事というのは作るより壊す方が簡単であり、そして役割などは自身で自身を制御しなければ誰も管理してはくれません。しかし、刑務所などを見れば分かる様に、性質次第では誰かに管理されなければごく普通にも役割をこなせない者というのは居ます。そういった者にとっては、なぜわざわざ自身に制限をかけて苦労して利益を得なければならないのだ、どうせ失敗しても失うものなどほとんどないのだという考えが定着してしまっています。そしてなぜ自身で制限をかけるのかという根拠を知らずに他者に依存して管理してきてもらった実績から、罰せられなければしても良いと思って行動する為に、一度そういった者を内部に入れてしまうと多大な管理コストを支払って管理する状況になり問題になります。
つまりは帰化人というものにおいては2000年前の有史から延々と続いており、言い方を変えれば土着の民を押しのけて外部から移民が流入しているとも言えます。そして弱者は集団を形成しやすく、その際の境目として現地民と渡来人という枠組みというものが使われやすくなります。自分達がこの国に居場所を作る為には現地民を押しのける必要があると考えた者たちがどうせ現地民は他人で仲間ではないから何をしても良いと考えて犯罪を行います。
そうして、渡来人と現地民との間の確執は広まっていきます。そして先ほども書いたように、近くの国から流れてくる渡来人は比較的、過去に犯罪歴があって流刑に処された者が多い可能性を含み、性質がその傾向を示している場合が多く、行動の在り方が不正行為に何のためらいもない可能性があります。そして流刑地というのは環境として厳しい場所であり、不正行為をしないと生きていけないからそれが当然だと思っている場合もあります。
そういった事情を踏まえて見た場合、この放火事件もそもそもの原因は何なのかという事になります。
もしかするとそのころから続いている対立の一環かもしれません。
また、お隣の国から来た者が現地民の居場所を奪う為に現地民を追い詰め続け、とうとう犯罪に走らせて居場所を一つ獲得したのかも知れません。また、新潟や愛知も怪しいですが(主には2000年前の隣国から渡来した者たちの遠征ルートは瀬戸内海から伊勢までのルート。伊勢神宮が名残。兵庫は名の通り、兵の庫、駐屯地。邪馬台国の場所が2つに分かれるのは恐らく年代がずれているだけ)、「遠きトクの仮名遣い」という言葉を信用するなら京阪神以西はお隣の国から移民してきた者が多くなるでしょう。そういった者たちにとっては、現地民より同じ渡来人の方が場合により親しみが持てるかもしれません。じゃあいつになったらその国の国民だと言えるのだと考えると単にその者たちが未だに外部の者と協調しやすい間はまだまだ国民とは言えないでしょう。そもそもが似た性質の者同士は安心感があり同調しやすいから、不正でもそうでなくとも移民に協力して現地民から奪っていくという考え方のままではまだ侵略者としての考え方のままだと言えるでしょう。
実のところ、いまだに侵略は行われているという事実をまず念頭に置いておく必要があります。他人の持つ権利を売れば自身が何も持ってなくとも利益が得られるのです。悪人の利益の稼ぎ方というのはそういうものです。
<--ここまでの情報は眉唾物で聞いてください。
今回の放火事件で偶然が重なりすぎています。セキュリティが解除された時に、丁度不審者が行動を実行する。どこかで情報が漏れたと考えるのが筋でしょう。そして権力者が監視した状態であるならその情報を元に、行動を起こしやすい者をピックアップして行動する様に誘導し、その中の一部が実際に行動し、その行動を完遂させた者が事件を起こした、という結果の可能性もあるということです。そしてその裏側の誰かを予想できなければ、単なる偶然が重なった事件、ではあるがモヤモヤしたものという印象を与える事になります。
-->ここから別のヘイトスピーチ
さて、放火されたアニメーション会社は気の毒ですが、かといって私から見て彼らが全くの無実に見えるかと言えばそうではありません。あの会社は技術力はある様ですが、場合により、どこぞの権力者の意向に従うから優遇され技術力を与えられている、可能性もあるのかなと思います。その理由として、あの会社が作るアニメというのは思想誘導を含む時があります。「憂鬱」なんて人間原理をさもすごいものの様に思わせようとしていますし、あのアニメに感化されて行動したなら周囲から迷惑な人物扱いで失敗します。人間原理がなぜだめかと言えばそれは主観の世界であり、考え方が子供の世界だからです。その子供の世界から成長して皆と価値観を共有して客観的なものの見方をする「自身から見た世界」を作り上げるのに、さも人間原理が素晴らしいものだと思わせて、子供の時と同じ、知性が未熟な時と同じ状態がさもすばらしいかの様に思わせて退化させようとしているとも言え、人気が出れば出るほどにその影響は大きく、騙される者も増える。だからこそ技術力を与えられている、もしくは技術力を持った者を集めている、と言えるかも知れません。また、そういった思想誘導が出来る作品をあえて選んで作っている可能性もあります。「○菓」というアニメも推理ものですが、ホームズと同じように、”当事者ではない者が当事者の利害関係などを知らないままに自身から見た世界の出来事でさも筋が通っていると思われるストーリーを紡ぎあげる”という部分に危険性があります。知性の低い者がやれば真実とは違う別のストーリーを紡ぎ出し、それがあまりに都合よく出来ているから事実として扱われる可能性があるものです。そしてそう結論付けさせたい誰かが環境を作ってからその者に推理させているという可能性を考慮しなければ操られるだけの存在になってしまいます。
違うアニメの例ですが近年で育児に悪影響を及ぼしたものでは「クレヨン○んちゃん」があります。あれは分かりやすい例ですがそれとは違って巧妙に仕込まれるものもあるという事です。
そのやり口はお隣の国で良く見られる連中のやり口に見え、つまりはこの国にも多くの問題ある人物が流れ込んでいるという事です。
ここでの重要な問題点はお隣の国が末期的症状だとして、実はあれはこの国の将来かもしれないという事です。国に寄生して食い荒らした後に別の国に移動するイナゴの様な連中の大半が既にあの国から別の国に移動しており、あの国には残りかすしかない可能性があります。そして今私たちが見ている方たちの多くはそういったイナゴの様に国を食い荒らした者たちに環境から操られて歪められた者達の可能性を考慮する必要があります。そういったイナゴの様な者たちの犯した不正行為のツケを性質を歪められ知性の低いままに騙された者達があそこで使い捨てフィルターとして、本当の悪人から焦点を逸らすためにいけにえとして捧げられているかも知れない、という事もこういった問題を考える時には必要になります。
<--ここまで別のヘイトスピーチ
という様に疑うならどこまでも疑えてしまいます。商利主義で作られるアニメは大衆に人気が出れば利益が出ますが、それ以外に権力者に都合の良いものを作ればそれだけ支援してもらえ生活も安定しますので、そういった方法で利益を得る者もいます。知性の低い者にはわからないように応用心理学を駆使してその裏側に欲しい結果になる様工作をして、徐々に常識を変えていき環境を変えていく方法というのは実のところ多用されます。
ひと昔前の「ガン○ム」などの社会風刺で問題提起するメッセージ性のあるものから現在では裏側に誰かの悪意を忍ばせて提供するものが多くなっており、技術は高くなっているがそれを扱う人物の性質が悪化している状況だとも言えます。アニメや漫画を広めるのは良いですが、その前にきっちりと内容を吟味して読ませて良いものかを調べる必要があります。
という様になり、管理コストの増大、そして情報統制や自由の侵害や権利の侵害と言われてそういった悪事を止めるための方法は実現できずに悪化していくのを手をこまねいて眺める結果になります。そして実際に管理コストを増大して管理機構を作っても今度は利権を扱われ、その上で管理が実質機能しない様にプレイスホルダーとして利己益の為に不正を許容する人員を配置される結果になります。そのポジションに居て不正を見逃す代わりに生活を保証する、と言った感じで交渉すれば生活苦になった者の誰かは応じるでしょう。こうやって社会は不正を正す為の機能を失っていきます。
と言ってもひと昔前のアニメに悪意は忍ばされていないかと言えばそうではありません。戦後から続く流れにおいて、国民の考え方をある方向に持っていきたいために作られたものや例えば「ガン○ム」では子供を囮にして敵の注意を惹きつけその間に戦況を立て直す、というものを付随させており、さもそれが正当性のあるものだと思わせようとしているとも受け取れます。「ヤマ○」は「ワープ」が分かりやすいですし、「アト○」もそうです。
どの様なアニメも作っても良いかもしれませんがそれがどのように悪用される可能性があるか、そしてそれに対しての対策と影響の想定は出来ているのかが、アニメの自由度を認める根拠になるでしょうがそんな不利益なものは誰もやりたがらず無法状態になっている、というのが現状でしょう。
これらについては一方向から見た場合だけで、子供を囮にする、と言っている部分も子供たちに自己投影させて自分達も同じ様にヒーローになるんだと思わせて唆す、という使い方も出来るもので、どこまで許容範囲かが問題の焦点になります。
昔の物語など展開が似たようなものでつまらない、などという批判があったりしますが、そういったものは社会を維持していく上で問題になるものを排除して作り上げたもので、娯楽が社会を潰さない様に考えられ厳選されたものだけが残ったからこそ限定されたものになりありきたりなパターンになっており、昔の方々が今の方々よりイマジネーションがないという事ではありません。そういった背景を知らないと間違った解釈をするので注意してください。なんでもかんでも自由と言えば許されて社会を潰して良いわけではありません。
最後に、だからと言って放火が許されるわけではありません。しかし同時にそこまで追い詰めたものが居るのかどうか、悪意を持って操ったものが居るのかなども考慮する必要があるという事です。悪意ある権力者を据えてしまったら、その権力で行いうるありとあらゆる不正行為を考慮する事になり、状況の収拾なんて出来なくなります。だから昔から管理側に据えるものには高貴な精神と自制が求められ、それを持たないからこそ大きな不正利益を得る事が出来、それを求める者ばかりが権力を握ろうとする、というのが現状の私達の限界です。
今回の事件においても「犯罪者は社会が作る」という事を忘れてはいけません。ですが、声高らかにうたってはいけません。それを聞いた悪意ある者がならお前は犯罪者を憎まないんだな、と犯罪者をけしかけて攻撃して犯罪者を憎ませようとするからです。私達の中に紛れて楽して利益を稼ごうとする連中がいる事を忘れてはいけません。