S132 逆算の一生
前話、前前話がキツイ内容になっていると思いますが、小話はしばらくキツイのが混ざるかも知れません。ここでどう思われようと結果として、読者のメリットになれば良いと思っているので内容が恐らく読者にとって都合の悪いものでも書いていきます。ここで嫌な気持ちも受け入れがたい事も一度感じてください。ちょっとしたワクチンです。
「忠言耳に痛し」などの言葉がある様に、そういった言葉がなぜ言われるのかと言えば、多少の人生経験がある者が自身の失敗体験や他者の失敗を見た結果として、後に続く者に失敗して欲しくないからです。逆に、耳に心地よい言葉を言う者は大抵は失敗して欲しいからです。綺麗事を安易に信じ込んで行動して失敗する事は良くあります。その綺麗事がなぜ現状で実施されていないのかに気づいていないのが問題です。その綺麗事、理想を実現したいから発言している者とその理想を追い求めさせて失敗させたい者が居る事をまず知る必要があります。綺麗事がなぜ実施されないのかを考えるとそこにある問題を知る機会を得ます。そうするとそこにあるリスクを知る事が出来、失敗した時の損失を知り、リスクと損失を考慮してようやくなぜ綺麗事が実現されていないかを知る事が出来ます。その状態になると楽して利益を得たい者からすれば綺麗事を言って安易に行動させて失敗させ、若しくは綺麗事が与える妄想で錯覚させて楽して利益が得られません。ですので、他者に騙されない様にするには助言は耳に痛いくらいが丁度良いのです。
そういった助言に従ってもたいして損はしません。自らが失敗しない様にしながら求める理想を実現出来れば一番良く、あえてリスクの高い行動をする必要はありません。しかしそれでは楽して利益が得られない。ではどうするか。先取特権や競争を使って欲を煽るのです。今、他者に先駆けて行動しないと損をすると思わせる事で不用意な行動を誘発させる事が出来、それだけリスクが高い可能性があり失敗をした後の状態を悪用して楽して利益を上げようとする者が居ます。
この話からまた平常運転。何がしたいかと言えば、作者の言う事をそのまま受け入れていてはいけませんよという事です。指針や方針は示しますが、最終的にそれがどう正しいのかを判断出来る知性が必要です。
人間は80年程生きるそうだ。80年の間に子供から大人になった後に老いやがて死ぬ。その流れは決まっている。それまでに起こる事も大体決まっている。子供から大人になる過程では働かず学習し、大人になってから社会で活動する為の基礎知識を身に付ける。世代継承するには子供を作らなければならず、その為には男女でペアを作り、明確にしなければ周囲と争いになる可能性があるから結婚の儀式を行う。子供を産み育てやがて歳を取り死ぬがその時にも争いを避ける為に葬式を行う。それまでの一生では毎日食事を取り、身だしなみを整え、社会活動し、娯楽を嗜む。一生で行われる活動は大体決まっており、1人の人間にかかる支出というものは大体決まってしまう。
ポッターの人生は途中まではうまくいっていた。良い職につき良いものを食べ、面白いものを堪能し、妻を得て結婚出来た。しかしある日うまくいかなくなった。社会は以前から不況でも自身には関係ないと思っていたがとうとう不況の波は押し寄せ、ポッターは職を失ってしまった。ポッター自身が良く分からない内に話は進んでいて誰が雇い止めされるかは決まってしまっていてどうにもならなかった。それからというもの、ポッターは偉そうにする奴に下げたくない頭を下げ、しかも相手側のミスで起きた問題なのにポッターの責任にされたりと踏んだり蹴ったりで、質の悪いものしか食べれなくなったし、カードゲームも我慢したし、酒もほとんど飲めなくなった。挙句の果ては妻と大喧嘩して離婚する事になり、毎月生活費を送る事にもなり何も良い事がなかった。
そんな生活に疲れても投げ出せないポッターは老いて死ぬまで後何十年あるのかと思いながら今日を生きる。良い事と悪い事の帳尻合わせと言えばそうかも知れず人生とはうまく出来ているのかもしれないが、それならそうで最初に言ってくれれば良いとも思う。そうであるなら最初から慎ましやかに生活していたのだ。後で苦しむのが分かっていて誰があえて一時の快楽に身を委ねるのだろう。そう思ってもポッターの人生はやり直しもきかず、そしてそんなルールで動いているなどとは思えず、気休めを言ってみたところで現実は変わらず、ポッターのこれからは見通しの立たない悪路だった。
ミヒャエルはポッターという人物の経歴を見ていた。別段問題はない。概ねうまく行っている。可もなく不可もなくこの状態からならやがて不幸な出来事で保険金に換金できるだろうと推測する。
人の一生で行われる活動は大体決まっており、1人の人間にかかる支出というものは大体決まってしまう。程々に遊び、程々に働けば大体これくらいと算出出来、そこから多く求める者は生産者としては効率が悪い。同じコストで同じ生産力を出すのなら良いが、多くのコストがかかり生産力は同じ。
ならコストパフォーマンスの優れた者を選ぶのが当然だ。
ここが重要だ。つまり社会の中で生きていける定員は決まっており、コストパフォーマンスに劣るというなら残念ながら退場願うしかない。
退場願えるなら代わりの者を1人入れる事が出来、より従順な者を選ぶなら集団にとっても利益になり、選ぶミヒャエルにも利点が出てくる。利権だ。生存権を買うための対価を差し出す者に与えれば良く、彼らはもう一度生きる権利を買い、ミヒャエルの懐は潤う。win-winの関係だ。後の事は好きにすれば良くミヒャエルには関係のない事だった。
ヘストンのこれからは見通しの立たない悪路だった。人生には限りがある、それを知った時は愕然とした。1人当たりに与えられる量に限りがあり、その事実はヘストンには厳しく、そしてヘストンはその多くを既に使い果たしていた。ヘストンが使おうとしてもヘストンの取り分は残り少ない。しかし誰かが使わないと経済が回らない。地域の消費が滞れば誰もかれもが不況の影響に飲み込まれる。だから先取りして使ってでもヘストンは生き残ってやると考え、今日もこう言う。
「多少失敗した所で次で取り返せばいいんだよ。今までうまく行ったんだ。今度はきっとうまく行くさ。」
ヘストンもそう言われて従い、いつの間にか自分の取り分をほとんど使い果たしていた。そうなってからようやく世の中というのが分かって来た。この場所の活気は単に強がりなのだと。もう後がないからどんな手を使ってでも活気があるかの様に装っているのだと。そうでなければまだこの場所の真実に気付いていない者が使ってくれない。まだ取り分が残っている若い世代が。だから必死にアピールするのだ。浪費しても良いのだ、与えられた分だけ使っても問題ないのだ、と思い込ませなければならない。そうして生まれた需要に供給する形でヘストンは報酬を得て自身が使い込んだ取り分を補充して今日をしのぐ。それで誰かが自身の取り分を使い果たしてもヘストンの知った事ではない。なぜならヘストンもそうされたからだ。だからヘストンも同じ事をして取り返す。
自業自得。そんな言葉がある。因果応報。そんな言葉がある。やった事はやり返される。
ならやらせてしまえば?
すると不思議な事に因果応報出来るのだ。例えばだ。世の中には肉食動物と草食動物が居て、自身が草食動物、食われる側だと分かってない奴がいる。だから肉食動物だと勘違いさせてやりたい様にさせるのだ。その後に草食動物だと分からせてからじっくりと美味しく頂く。まさか自身がやった事をやり返されて文句もないだろう。それが不都合ならなぜしたんだ?と言ってやりさえすればよい。
テリーは良い職につけた。いわゆる管理職、ホワイトカラーだ。業務を検査し実際に身体を動かすのは下請け。皆がテリーに愛想を振りまきテリーのいう事を良く聞いた。多少上手くいかない時も強引に推し進めてしまえばどうにかなり、下請けの部長も仕事欲しさにテリーにペコペコと頭を下げ、自分には関係ないながらも大変だなと思いつつ、その立場の差で自身が偉いのだと実感出来た。しかしその後でそれが自身に返ってこようとは全く思っていなかった。人員整理の名目でテリーは職を失い、散々苦労した後に新しい職を手に入れたのだが、そこでも更に苦労を強いられた。取引先の担当が我儘なのだ。テリーも今や下請けで、取引先が元請けだ。計画通りに進める為に結構無理難題を押し付けられ、しかし断れない。断ろうものなら同業他社に出し抜かれ、ただでさえ受注量が減っているのだ。不況の影響で受注額は減っているわ件数は減っているわでダブルパンチな上にこの元請け。なんとかこれ以上減らされまいとテリーは今日もご機嫌取りをする。
ピアースは恵まれた人生を生きている。いや、恵まれた人生を生きた。もう充分だと思える程に。
ピアース達は襲い来る敵により窮地に立たされていた。ここから敵に勝つには誰かが囮になって敵を誘い出し、そこを叩かなければ勝機はなかった。しかし囮になる者は間違いなく死ぬ。そんな役目を誰も受けたがらず、しかし他に方法が思いつかない皆は互いを見合い黙るだけだった。だからピアースは名乗り出た。
「俺がやろう。」
その一言に皆は安堵しつつ驚き、良心の呵責を感じながらも自身が受けるわけにもいかず、ただピアースを励ましながら役に立つ道具を与えた。そしてピアースは1人で囮として敵をおびき寄せピアースの仲間はそこを攻撃してなんとか勝ち、ピアースの居た集団は生き残ったのだった。
恵まれた生活をした者がそれまでの生活に恩を感じて命を犠牲にしてまで集団を救った。それはつまり1つの命を大きな利益へと変換できたという事だ。なら恵まれた生活をさせたならここぞというタイミングで大きな利益に変換出来るのでは。不満を述べるなら言ってやればよい。今まで何不自由ない暮らしをさせてもらったんだ、こういう時に恩を返さないでどうするのだ、と。
ザックはナンシーを諭そうとする。今までのお前の暮らしは皆が支えてきたからだと。その皆が困っているのにお前はお前自身の事ばかり考えて皆を困らせようとしている。皆なにかしらで不都合を受け入れて生活している。そして次はお前の番だ。皆の為に必要な事なのだ、とナンシーを諭す。
それでもナンシーは首を縦に振ろうとはしない。この分からずやめ、何のために今までナンシーを生かしてきたのか分からないとザックは思い、今ここでナンシーが首を縦に振ってくれれば全てうまく行くのだ。ナンシーを売った金で冬を越す準備金が手に入るのだ。このままではナンシーだって飢えて苦しむ事になる。それなら別の場所で幸せになれる可能性を求めてもらった方がお互いにとって良いのだ。どのみち他に選択肢はない。だからナンシーが首を縦に振ろうが降るまいが結末は変わらない。ただ後でゴチャゴチャと騒がれては困る。だからナンシーの首を縦に振らせなければならない。ナンシー自身が受け入れたのだと言う為に。
夫は妻を迎え入れ生涯にわたり共に暮らす。夫が外で働き妻が支えるのが基本だとする。夫は妻の生活費の分も働く事になり、子を育てる為にその分も働く。
なら妻を取らせて子供を作らせれば働かなければならなくなるから、都合良く操れるのではないか。その状況で働かないなら社会の役割を果たさない者だと決めつける事も出来、働かないなら社会から爪弾きにされる可能性もあり負い目も感じるから働かなければならないと思って行動する。働かなければならないなら多少の譲歩は当然で、うまくいけば大きな利益を生み出す事が出来る。働かなければそれを口実に排除する事も出来、事実を知らなければルールやモラルを口実に悪者に出来る。
ダルシーはドウェインを送り出す。ベッドから叩き起こしさっさと朝食を済ませる様に急かした後に弁当を持たせて追い出した。ダルシーにとってドウェインは生きるための道具だ。うまく扱わないとお偉いさんから見限られる。ドウェインに働かせ、お偉いさんが取り分を取り、ダルシーが取り分を取る。うまくドウェインが働かないとダルシーの立場が低くなり舐められる。男を働かせられない女の立場なんて酷いものでどんな扱いを受けるかわかったものじゃない。お偉いさんが得をしてダルシーも得をする。win-winの関係だ。何の不都合もない。
社会とは定員制だ。資源には限りがあり入ってくる量と出て行く量のバランスが取れないなら問題が生じる。出て行く量が多ければ人員不足になり社会が立ち行かなく、入ってくる量が多ければ養い切れずに争い誰かが死ぬ形で出て行く事になるし場合により争いにより社会が立ち行かなくなる。入ってくる量が足りなければ維持出来ないから多少の余剰はあった方が良く、しかし余剰分はやがて必要ないから出て行かなければならない。誰が出て行くかで揉めるが、全体の事を考えれば能力の低い者が出て行くのが良い。能力の高い者を1人居なくさせれば能力の低い者数人で補う事になり、1人分の資源で済むところが数人の資源が必要になり1人分の資源を確保しようとして数人分の資源が必要になり本末転倒だ。だから能力の低い者にはやがて出て行ってもらう事になる。
なら能力が低いとはどういう事だ。高低は相対的なものだ。自身が能力が低いと思われたくなければどうすれば良いか。決まっている。自身より能力の低い者が居れば良いのだ。社会の余剰が常に5%あって5%に該当する者は出て行かなければならないなら、自身より能力の低い者を5%用意すれば良いだけだ。どうせ居なくなるのだ。後の事なんて気にしなくていい。いずれバレるとしてもそれは後の出来事だ。「死人に口なし」、居ない者が罪を指摘する事なんてない。能力が低いとされた者達だ。その証言も錯覚だ思い込みだと言われる要因が強いし証拠を集める能力も低い。なら騙し犯し貶めれば良い。そうすれば自身は出て行かなければならない5%から抜け出して安全圏に居られ生存権を確保できる。楽園での生活は勝者の権利だ。常に5%の犠牲で楽園で生活出来るのだ。誰でもそれを選ぶだろう。
出て行かなければならない者にどんなものを押し付けても所詮は居なくなる者だ。不都合を可能な限り押し付けてから居なくなってくれればそれだけ得をするのだ。そして居なくなった者達の生活はブラックボックスと同じで謎に包まれ、推測するしかない状態だ。他者からは何が行われていたかなんて実際に見たのでなければ判断出来ない。
人間は80年程生きるそうだ。80年の間に子供から大人になった後に老いやがて死ぬ。その流れは決まっている。それまでに起こる事も大体決まっている。子供から大人になる過程では働かず学習し、大人になってから社会で活動する為の基礎知識を身に付ける。世代継承するには子供を作らなければならず、その為には男女でペアを作り、明確にしなければ周囲と争いになる可能性があるから結婚の儀式を行う。子供を産み育てやがて歳を取り死ぬがその時にも争いを避ける為に葬式を行う。それまでの一生では毎日食事を取り、身だしなみを整え、社会活動し、娯楽を嗜む。一生で行われる活動は大体決まっており、1人の人間にかかる支出というものは大体決まってしまう。
だからそこは宝の山だ。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。誰かの語り口調になっていますが、統計や結果を分析する事でそこから新たな選択肢が生まれ、新たな利益を得られる可能性があり、良い場合もあれば悪い場合もあり、悪事を行い利益を稼ぐ者が居るという事ですね。」
「概ねそう。」
「私達は私達の生存する環境を良くしていく為に周囲を、ひいては世界を知ろうとします。冬に飢えて死ぬ可能性を減らし気持ちよく過ごす為には貯蓄が必要で、どれだけの貯蓄が必要かを知らなければ貯蓄があっても足りずに結局は飢えてしまう結果になります。得られる時と得られない時があり、得られない時を何の対処もせずにそのまま影響を受ければ苦しい立場に追いやられる場合がありますが、得られる時に得たものを少しでも残して、得られない時の補填として使用出来れば苦しさを緩和させる事が出来、場合により苦しくない状態を作り出せるかも知れず、その試行錯誤の結果として私達は冬を迎える前には貯蓄をして冬が終わるまでの苦しさをしのぐ事を覚えます。
更にその精度を増す為にかつての結果からどれだけの量があれば安全に快適に冬を過ごせるかを追求しその結果から望む状態が得られるように行為します。しかし同時にどれだけの量がなければ安全に快適に冬を過ごせないかを知る事でもあり、その結果として欲しい結果に繋がるならそこに新たな選択肢が生まれます。
私達は私達が苦しむ事なく生活していく為の方法を探し、得られた結果からより良い方法を模索しその精度と安定度を高めていきます。その際にかつての結果を分析し、リスクを把握してそれに対処する準備をする事で実際に私達にとって不都合な問題が起こった時の対処を行います。同時に私達はどうすれば私達が一生において苦しむ事のない状況を手に入れられない様になるかを知ります。
社会が安定してきた状態で苦しむ事のない状況を手に入れられないのは基本的に失敗や怠慢など怠惰である事が多く、失敗も準備不足から起こるものが多くなり、実行者の性格などに問題があるからという結論に至りやすくなります。その結果が欲しいのであれば、あえて失敗させるという選択肢が新たに生まれ、対象の信用問題に結びつける事が出来、信用度への影響は信用がなければ成立しない物事へと波及します。任せても失敗する可能性があるなら委任出来ず、盗む可能性があるなら尚更です。そうして私達は私達が維持向上していく中で対象を貶める方法を学びます。
選ぶものがいくつかあり、その中の一つを情報を用いて分析し選択するとして、その選択の中の1つが自身に都合が良いのなら、その選択がされる様にすれば良く、他の選択肢を消し去るか選べない様にすれば他に選択肢がないのと同じ状況に出来必ず選ばれます。それが選ばれない時は、その干渉に気づかれた時であり、気づかれないなら選択者は自身の判断基準で優先順位の高い選択を行い、その優先基準が知られている場合には干渉したい者が選ばせたい選択が最も優先順位が高くなる様に干渉される可能性があります。
例えばケーキがあるとします。人物Aは苺のショートケーキとモンブランが好きだったとして、いくつか並ぶケーキの中からどちらを選ぶか分かりません。その時、人物Bが人物Aに苺のショートケーキをどうしても選ばせたいのであれば先にモンブランを無くしてしまえば、Aは恐らく苺のショートケーキを選ぶでしょう。例えその干渉を行ったとしてもその状況証拠として『人物Aは苺のショートケーキを選んだ』と言えるわけです。その実質的な意味が『人物Bが故意に人物Aに苺のショートケーキを選ばせたい為に選択肢になるモンブランを消去して状況を使った結果として『人物Aは苺のショートケーキを選んだ』』という事実であったとしてもです。『人物Aは苺のショートケーキを選んだ』という事実が欲しいからその事実を得るためにはどうすれば良いかを逆算して事前に行動し欲しい結果を得ます。その他にも苺のショートケーキの優先順位が高くなる様な提案をする方法もあります。人物Aが好きな人もイチゴのショートケーキが好きだと言っていた、誰かが苺のショートケーキには何か良い効果があるらしいとメリットを提示する、逆に好きな人がモンブランは嫌いだと言っていた、モンブランを食べるデメリットを提示する、などの方法で選択の優先順位を変える事も出来ます。
ある時点において未来の可能性から複数の選択肢があるとすればその選択肢の1つ1つを潰していく事で残った選択肢の中から選ぶしかなくなり、『選んだ』と言えますが、同時に『他者の干渉により選択肢を潰され、他者の望む選択肢しかなくなり、自身にとっては潰された選択肢の中に最善の選択があったにもかかわらず選ぶ事が出来る残された選択肢の中から選ばされるかの様に『選んだ』』と言える状況を作り出せば、その状況は『他者に故意に干渉されず、自らが手に入れる事の出来る最大の選択肢の中から自身に最も適した選択肢を『選んだ』』という状況と混同出来、他者の目を欺きながら不正に利益を得る事が出来ます。
つまりその状況が本当に不正行為の関与がなかったという為には因果関係を含める必要があり、その状況を見て、その状況が作り出されるそれ以前の状態をどれだけ思い浮かべる事が出来るかが、その状況を正確に判断出来ていると言えます。知らない事は知らず思いつかず、目の前の状況であっても知らない為に思いつかず気づかず、自身の分析判断した状況とはその要素が異なっている可能性がある事を知る必要があります。
この時、私達は状況を観測しています。観測して得られた情報を元に欲しい結果を得るためにはどうすれば良いかを推測します。過去の事例をそのまま真似たり、成功と失敗の差から要素を抽出してその要素を満たして欲しい結果を得ようとします。そしてその結果を観測して、実行者は欲しい結果が得られたか、他者は不正行為が行われていないかを判断しようとします。もしその他者となる者が実行者しか居らず、対象となる人物に不正行為を行っている時、対象となる人物の知性が低ければ行われている不正行為に気づけず、自身は普段通りに行動したと思い込みます。自身から見た世界の中では不正行為は発見出来ず、自身から見た世界を構成する要素の内、手に入れられる情報には問題ないがその精度の低さや手に入れられない情報に不正行為を挿入される為に違いが分からないまま不正行為を許してしまう事になります。精度が低ければ未分化な部分はそれ以上識別出来ず状況を混同し、自身が普段考慮しない要素はその影響が大きくなって違いが識別出来なければ識別出来ません。
例えば、自身が普段考慮しない要素でその影響が大きくなって違いが識別出来る場合と言うのは、殊更に提案を勧めてくる場合などが分かりやすいでしょう。いつもはそんなに言わないのになぜ今回はこんなに提案してくるのだろう、と考えた場合に、意図に気づけるだけの情報があれば相手の意図に気づけるかも知れません。情報が足りなくとも何か企んでいる程度の考えは持てる可能性があります。
例えば、未分化な場合として、苺のショートケーキが一般向けの店のケーキでモンブランが有名菓子店のケーキだが見た目は一般向けの店のケーキと違いが分からない状況で、そのどちらかを食べる事が出来る2人の内の一方が殊更に苺のショートケーキがお勧めだと提案してくる状況が考えられます。もしそのモンブランが有名菓子店のモンブランだと知っているか識別出来るのであればその意図は分かりやすいでしょう。もし知らなくとも普段はそういった提案をしないのであれば、そこに何かある、と思う事が出来ます。そして提案の内容がお勧めしているにもかかわらず、あえてお勧めするだけの根拠になり得ない時にはその疑いは濃くなるでしょう。
この様に、情報を多く持つ者が自身の欲しい結果を得る為に他者を誤誘導しつつも本人に誤誘導を気づかせない様にして不正に利益を得る方法が多用されます。つまり情報を多く持ち、そして同位階の観測者が居ない存在であれば気づかれない様に不正行為は行いやすく、端的にそういった存在がどの様な存在かと言うならば権力者や管理者になります。
私達は知性が低くとも、誰かに与えられた知識やルールで行動する様になり自身の能力で本来得られる利益以上のものを得られるようになりました。それを恩恵と呼びますが、やがて与えられた知識やルールに従っていれば問題を解決出来る事を繰り返し、それが自身の能力だと錯覚する様になりますがここでは割愛します。実際にそれが自身の能力だと言えるにはその根拠と社会の中において整合性を持ち問題ない行為である事を自らで判断出来る必要があります。その基準を満たさない分だけ誰かに環境を整えて貰っている事になります。
自身の能力では得られない利益を求めて誰かに与えられた知識を使いルールに従い、しかし知性が足りずに自身のしている事が社会において間違っていない行為だと認識出来ないままに自身の行為は間違っていないと主張しあう様になり、争いを起こし、その仲裁に正しい判断を行う事が出来る者をリーダーや管理者という役割に配置して自身には理解できない物事を含めた判断を任せる事になります。この時、もしリーダーが悪質であるならどうなるかを考えればわかりやすく、もっともらしい事を言えば良く分かっていない者は良く分からないなりに納得するでしょうし、『偉い人がいうからそうなんだろう』と考えるかも知れません。
リーダーや管理者などはその役割自体の信用を用いて行為します。その役割において信用がなければそもそもが社会での役割が成立しない為に信用出来なければならないという大原則があります。しかしそういった事を分からない者が与えられた知識として使うままにリーダーや管理者を役割として実行し、その性質が悪質ならば役割に求められる基準の内、形に見えるものだけを実行してリーダーとしての役割が出来ていると主張しながら悪事を行うでしょう。
以前にも言いましたが、管理者として管理する側で管理される側でなく、自身の与えられる権限においては同位階の管理者に干渉される事はほとんどなく、そして管理側として管理される側より多くの情報を持ち、管理される側の個々人とコミュニケーションを取ります。その状況というのを分かりやすく言うなら親と子の関係と同じ様なものです。親は子よりも多くの知識と経験を持ち、既に成長していますのである程度の知性を持ち、子は未だ成長中の為に知性は未熟と言えます。親にとって子はその血統が同じであるならどの様な失敗をしやすいかを知り、かつ与える情報も制御出来るので操りやすい存在になります。そして子にはその与えられる情報が正しいかの判断が出来るだけの知性が育っていない場合には親を信用して受け入れる事になります。親の性質が善良であれば単なる冗談としてからかう為に嘘を忍び込ませる事もあるでしょうが、悪質なら子の持つ権利を不当に奪う為にあえて嘘を教え、しかし子の知性が低い為にそれに気づけない或いは子には親に逆らう事が出来るだけの生活基盤がない為にそれが不正だと知っていても受け入れるしかない状況が作られる事になります。その状況は管理者と管理される側つまりは従事者の関係と同じであり、たまたま従事者の知性が高い場合がありますが、それでも管理者側はより包括的な情報を有しておりそれだけ優位に立てます。また、管理者の言う事に従わないなら形に見えにくい罰を与える事が出来、何かの理由をつけてさも公正に判断しているとみせかけて管理者の都合良く動くかどうかを基準に選ぶ事が出来ます。自身に都合良く操られる者を優先し服従しない者を排除しながら状況を作り出して、事前準備が整えば気づかれない様に不正行為を行う段階に入ります。
私達が一生の内に行なう行動は大体予想が付きます。その予想から外れるものは天才か追い詰められてどうしようもなくなった者のどちらかでしょう。天才は今まで誰も成し得なかった事や思いつかなかった事を行い、追い詰められた者は例えそれがバカげたものでも縋り付く為に実行します。それ以外の大半は一生の内で行う事が似たものになり、私達が共通の形質を持つからこそ似た者になります。そうすると一生の内に個人が使う資源の総量は予想しやすく、そこから逆算するならそれだけ消費が行われ、その消費という名の需要に対して供給出来るなら利益を得る事が出来ます。
商行為において一番難しいのは機会を作る事です。機会がなければどの様な交渉術も役に立たず、どの様な良い商品でも売り込む事が出来ません。そしてその機会を得る事が安定した商行為にとっては不可欠であり、常に機会を得る事が出来るなら商行為は安定して常に利益を得る事が出来ます。そう考えた場合、個人の一生におけるそれぞれの既に消費が決まった出来事というのは機会を得るには実に都合が良く商行為の予測が立てやすく自身が利益を得るためには都合の良い出来事になります。
人が一生の内一度は結婚するとするならその時の祝い事に消費される資源を供給出来ればそれだけ利益が得られます。ならその祝い事が盛大に行われなければならないという習慣を教え込む事が出来ればそれだけ利益は増えます。また、ある特定の日に何か特別なものを食べなければならない、特別なものを買って飾らなければならない、という様な習慣を作る事が出来ればそれだけ利益は安定します。
権力者は配下を従えその配下の一生に大きな影響力を与える事が出来、その配下の一生で消費される資源の使われ方に干渉出来ます。場合により、新たな利益確保の方法を実行する可能性もあります。
この新たな利益確保の方法ですが、その原型は、社会の中で必要な役割だが収益を得る方法がない為にあえて需要を作り出し、供給する必要がある様にして該当する役割の者に生活出来るだけの環境を与えるというものですが、これをそういった根拠を知らないものが見れば、自身に都合の良い出来事を増やし強制的に消費させて利益を得て良いと錯覚します。
また、管理者が従事者の生活改善の為にあえて指摘をして指示を出した結果があれば、その詳細を知らない者が表面だけを見れば、従事者の生活内の出来事に干渉して利益を得て良いと思い込めます。例えば生活に困窮する者が安定した暮らしを得る為には何等かの知識や技術が必要になると判断して訓練や教育をする様に指示し、その従事者が指示に従い私財を消費するという結果が起こったとして、なら従事者の生活が困窮して管理者に支援を求めてきた時に、教育や訓練名目で私財を放出する様指示してその消費により利益を得れば良いと考える事が出来、その教育や訓練の成功自体は考慮しないという行動が出来、更に教育や訓練が失敗すれば更にもう一度同じ指示が出せると考える事も出来、延々と利益が得られる状況を確保出来ます。延々と訓練を失敗し続けて私財を放出しても状況が継続出来る状態があれば良く、例えば指示する管理者より上位の枠組みから支援目的の予算が手に入る、負債を抱えさせる事で外部から利益になる資源を手に入れる、などの手法が行えれば、延々と教育や訓練に失敗させ続けて最大限の利益を得る事が出来ます。この方法は元々、封建制などの領地と貴族が一蓮托生と言える不可分の状態であり、かつ領民の生活の安定が領主の生活の安定に繋がる状態で領主が領民を見捨てられないという状況だからこそ許された方法でした。教育や訓練に失敗すればする程に領民も資源を失い、それだけ領内の生産力や技術力は上がらず領主はそれだけ自領の維持にコストをかける事になり、他領との相対的な力関係で不利になる可能性があった為にあえて失敗する事で最大限の利益を得ようとする事が出来ないという条件があったからこそ習慣として許されたものでした。
しかし、その条件がなくなりつつ習慣として残った場合、管理者と従事者の生活に密接なつながりがなければ教育や訓練を失敗させ続ける事で私財を消費させ続ける事が出来、消費に関わり供給する側になれれば利益を得る事が出来ます。利益が得られなくなれば使い捨てるかの様に縁を切れば良く、そして知性が低い者にはそれまでの行為のどこに間違いがあるのかを知る事が出来ない。すると楽して利益が得られる状態が手に入ります。
こうして、状況を逆算して、ある行為により消費される資源を供給する事で得られる利益を、何度も繰り返させる事で長く利益を得る機会を得て、それを最大限に伸ばそうとする方法が行われる様になります。
すると今回の話の様に利益を最大限にしようとして他者の人生に干渉する方法が良く行われる様になります。新たな機会を手に入れる事よりも既にある機会から多くの利益を得ようとした方がより効率が良く、特別な技術や知識も要らず、以前に誰かがしてきた事の真似をすれば良いだけになります。そして本来の方法と表面上は似た行動を取る事が出来、しかし目的が違う行為を行う事で、罰せられない様に不正行為を行う事が出来ます。
人生の中で大きな支出になるイベントが存在し、育児、冠婚葬祭、住む場所の購入などが考えられます。育児においては段階的な教育で新しい段階の度にまとまった支出が起こります。冠婚葬祭は盛大に行うのが習慣だと思い込ませる事が出来れば大きな支出になります。住む場所の購入はその重要性から多額の支出になります。普段の生活費や教育費も同様ですが相対的にコストパフォーマンスは悪くなり、多額の支出が行われるイベントにいかに自身が関与出来るかがキーポイントになります。
例えば、結婚式は盛大に行なわれなくてはならないという習慣があり、マイホームを持つのが一生の重要事項だと教えられた環境で育ったとします。その時点で需要は確定出来、後はどれだけその需要を確保できるかになります。その結婚式で行われる支出が多い分だけ関与して供給出来れば利益になり、マイホームを購入する支出は多額になり、その額も多ければ多いほどに利益になります。そうであるならどうすればそのイベントに自身が関与するかを考える様になり、管理者や権力者にとってそれは利権を扱う事でもあります。
自身に都合良く操る事が出来る女を他の男にあてがい、その男を都合良く操ろうとする事は良くあり、これが権力者になれば、環境を操り自身に従う女の数を増やし洗脳し自身以外の男性を思いのままに操ろうとする場合があります。権力者が利権を扱う為の道具として操られる事を知性が低い為に何をしているのかが分からないままに優遇されるから受け入れ、自身の保身と優越感の為にルールそのものを潰している事にも気づかずに権力者に都合の良い役割をこなす存在になる者は居て、夫と妻の夫婦という単位はその役割を充分に機能出来ません。この場合、夫と妻の役割というものが個人で行われると女を操る男と操られる妻、権力者であれば権力者と妻というペアで行われる事になり、結婚の本来の目的を果たせなくなります。結婚という様式を偽装して利益を得る方法へと変化する事になります。妻となる女は夫となる男を操り強制的にでも働かせる事で権力者に優遇されて優位な立場で優越感を得て、権力者はそういった女を優遇する事で他者を強制的にでも働かせて多くの利益を得ます。その際に習慣が悪用され、夫は妻を生活させる為に働かなければならないというルールが悪用されます。何がどう変わってくるかと言えば、常日頃の選択になります。日々の選択が夫と妻の生活の為ではなく、権力者と妻の為の選択になります。
簡単に例えるなら常日頃の生活と仕事を考えれば良いでしょう。仕事をしている時は生活を基準に利益を求める事はしませんし、生活全般をしている時は仕事を基準に利益を求める事はしません。その中での一つ一つの選択はその方針で偏向されています。もし仕事をしている時の選択に自身の生活を基準とした方針を混ぜ込むと利己益を求める事になり、生活での選択に仕事を基準にした方針を混ぜ込むと仕事と生活の境界が曖昧になり、仕事をする事で利益を得る者に多くの利益を与える要因になり、自らの生活を犠牲にして仕事をする状況になります。そうであるなら、自身が仕事をしている時は生活を基準に利益を求めて利己益が得られ、他者には生活を犠牲にしてでも仕事で利益を得られるように行動させる事が出来れば、管理者や権力者としては効率良く利益が得られます。そのために女を操り他の男を女を介して操ろうとする方法が行われます。これらはリザルトセットにある結果から欲しい結果を得る為に逆算して得られる方法であり、夫は妻を生活させる為に働かなければならない、なら妻を娶らせれば夫は働かなければならないから都合良く働く事になり操る事が出来る、という考え方になります。これを実現するには対象となる夫にも操る妻にも高い知性があっては困り、その為に役割を果たせるだけの知性は必要でもそれ以上の知性は持てない様に環境操作する悪事が行われます。
妻は夫を本来の役割としての夫と認識していないので、権力者から優遇されている自身の方が偉く夫は部下やペットだという認識を持ち、権力者の意向に沿った操り方を行いながら自身の利益になる様に行動し、夫の利益を考慮しません。その関係は夫と妻のものではなく、その関係が正しいとするならそもそもが夫婦という関係が間違いになりますが、しかし夫婦という様式を悪用しなければ楽して利益が得られない為にその選択肢はありません。しかしそれが不正行為であるかどうかすら分からないだけの知性と優遇される優越感から自身の行為に躊躇いもなく不正行為を行います。
そうなると女性の行動はどうなるかと言えば、夫を誘惑して多くの消費を行う様に誘導し盛大な結婚式や高いマイホーム購入を勧めたりする様になります。そして私達は快感原則に従って行動し、誘惑に流されやすく、また誘惑に流されやすい者を選んで実行し、罠に嵌めて浪費させます。借金などの負債は前払いであり、後になり返済する必要があります。では負債をさせる事で関与して利益を得て、返済する時には関与しなければ損失を被る事もありません。ではどうするかと言えばあたかも好景気若しくは慣習として必要だと思わせて消費を促し、消費した後は使い捨てるかの様に関係を断つ方法が出来、その為に好景気を偽装する場合があります。
ある職業に就き、その職業が高収入で贅沢して浪費しやすく、そのままの収支で人生設計を建てると多くの消費をする計算になり、盛大な結婚式やマイホームというもので負債を抱えさせた後に、その職業を辞めさせると負債だけが残り、どうにかして返済していかなければならないから不利な条件でも受け入れるしかない状況になり譲歩し続ける様になってしまいます。また、その職業若しくは企業自体が派閥を作り、他の分野や派閥と別のグループだと考えている場合、内部に居る時に負債を抱えさせてその消費から利益を得た後に職を辞めさせ、負債を返済しなければならない状況で外部に放り出し、負債を抱えさせた者は返済という既に既定の利益が得られる方法で利益を手に入れ、負債を返済しなければならない者は、別のグループに入ってでもその負債を返済しなければなりません。いわば負債を抱えさせた側は自身は楽に利益を得る方法を得、その利益の元になる資本は他者に別グループから取って来させるというやり方が出来ます。そしてその他者は不利な状況で譲歩する事になり、新たなグループに属する時に不利な条件を受け入れ他よりも多くの労力をしなければなりません。そして更に悪事として、その2つのグループが利害関係が一致していなくとも互いが悪事をする性質を持ち騙す者と騙される者という区別による仲間意識を持っていた場合、一方のグループは負債を返済させる形で利益を得、もう一方のグループは不利な条件を受け入れさせてその差で利益を得る事が出来ます。勿論2つのグループが意図して協調しなくて構いません。どちらも弱味に付け込むだけで予定調和の様に行動出来ます。また、社会が不況になればなる程にそうやって職を失った者は新たな職につけずに何かしらのアイデアや技術を新たに得なければならない状況に陥りやすく、強制的に開発させる事が出来ます。故にこうして相手を騙す事が出来れば自身は既知の利益を得る方法を容易に実行出来、かつ他者に冒険させてどこかから利益を持ってこさせる事が出来ます。
そしてその状況を権力を使って作り出す事は権力が大きければ大きいほどに可能になります。ですので権力者には自制が求められますが、欲望に流される者に自制を求めても無駄であり、知性が低く物事の表面しか見ない者に何を言っても自身から見た世界の出来事を実行し、自身の欲望を反映させた物事を否定されても都合が悪いから受け入れません。
簡単に言ってしまえば、被害者になる人物の能力があろうとなかろうと、騙して収入の良い職業につけさせ、浪費させて負債を抱えさせた後に職業を辞めさせ、負債を返済しなければならないがその資源を派閥の外部から持ってこさせるという方法を行う事が出来るという事です。いわば冒険者や鉄砲玉と呼ばれる使い捨ての様に扱う事が出来、権力者はその状況を整えやすい事になります。権力を使ってその人物の評価を水増しする事も出来、共犯者が被害者の周囲で状況を整え続ければ第三者からは偽装された状態になり、不正行為を隠蔽出来、間違った評価になるが第三者からはその識別出来る情報が見えない様にする事が出来ます。こうして、ある管理者は自身より上位に位置する管理者を騙して不正に利益を得る方法を実行する場合があります。
重要な点は、その被害者が自身と運命共同体であるならそもそも損失も利益も自身に関係がありそこに差は生まれないどころか手数料などの分だけ損失を被るものも、外部に損失を押し付ける事が出来れば利益を生み出す方法に変わるという事です。能力の低い者を高い能力が必要な職業に就ければやがてその能力の無さで辞める事になるでしょうし、口実を見つけて止める理由にしてしまえばよい事にもなります。そして辞めさせる事が出来るなら、それまでにその人物を通して利益を得れば良く、良い職業に就けさせて良い生活を送らせるという事自体はちょっとした先行投資になります。その餌で釣り、多額の負債を抱えさせた後に放り出し、外部からどうにかして利益を持ってこいと強制させる事が出来ます。この不正行為が行えてしまう根本的な要因は、かつての社会で運命共同体だからこそ許された物事を運命共同体ではなくなった制度上で運用している事にあります。言い方を変えるなら慣習としての形に現れる部分以外の明文化されていない部分を変えられた事により起こっています。
行為というのは全体の中での関係性が重要で、どの環境の中で行われるかが重要になります。行なわれる行為がどこまでの大きさの枠組みの制限を受けた結果として様式が決まっているかが、その行為がどれだけの大きさの枠組みに整合性しているかを示します。しかし行為そのものは行為が行われる環境において行為の実行者が行為を行う時に根拠を与える事が出来れば充分であり、また、相対的に知性が足りない者は、いかにその行為が大きな枠組みによる制限を受けて決められたかを理解出来ず指導者などの指示に従って受け入れている状況であり、どういった環境であればルールに従った行為が正しい事になるのかを理解していません。そういった状況で従事者が正しい環境でルールに従って正しい行為をしているかを判断するべき管理者が自身に与えられた権限を悪用して、自身は直接関与せずとも環境が改悪される事を静観して消極的に関与したり、自身に都合の良い様に改変したりする事で、従事者が自身の行為が正しいと思いながらもその行為を適用する環境そのものの変化により実際には正しい行為が出来ていない様にする事で、自身の欲しい結果を得ようとします。
例えば全粒粉というものがあります。通常の小麦粉は胚乳部分のみを使い、余分な不純物は排除して作ります。しかしそれだけ仕入れ量から精製される量は減ります。では全粒粉として作るとすれば余分な不純物も混ぜ込んで作る事が出来、損失を減らせます。その事実を気づかせない為に別のメリットを前面に押し出し、不都合な事実から目を逸らさせます。栄養が良いなどの理由を前面に出し、不純物が混ぜ込まれた事実と精製工程を省いてコスト低減している事実を隠します。するとその事実を知らない者で知性の低い者はいつもと違うが同じ品質のものが出てきたと思い込むでしょう。場合により不純物に含まれた栄養分を強調して健康に良いと主張して同じグレードの小麦粉よりも高い価格を付けるかも知れません。これらは社会の中の信用を悪用し、自由競争の結果として品質の良い物が残るという考えを逆手に取り、品質の良いものしか残らないのだから新しく登場する商品は以前よりも悪くなるはずがない、という前提がある事を利用し、利点に見えなくもない部分だけを強調しています。ここでその商品を見る者の知性が低く知識も足りなければそこにある悪意は分からずに品質が低下しているものをさも同品質か高品質を誤認します。この時、背景として生産者が自身の経営状態の悪化からコスト低減しつつも価格を下げれない為に価格は同じで品質の下げた物を販売するしかない状況に陥っている可能性を考慮出来なければ、なぜ同じ値段で出されているかに対しての判断が出来ません。場合により、価格を"少し"下げつつ品質は価格低下分以上に下げてその差益で経営状態悪化に対する補填をする方法もあります。
場合によりその状況が好ましい者は居るでしょう。胚芽と表皮も混ぜ込む事でその部分にある栄養を取る事が出来、自身で栄養バランスを調整出来ない者にとっては自身が気にしなくとも自然とある程度栄養バランスを調整出来る食品になります。しかし精製コストを低減し、かつ元の栄養分が混ぜ物の分だけ下がっている事実を受け入れる必要があり、そして元の栄養分が下がり、かつ混ぜ物の栄養分を追加した事で栄養バランスが改善されている事を知る必要があります。つまりは自身で栄養バランスの調整する事を放棄し他者に依存する選択をしたと言え、その状況は自身には制御不能になるという事でもあり、自身の自由度が低下し、選択肢がそれだけ減るという事実を受け入れる必要があります。その栄養バランスを自身で調整出来ない為にもし栄養バランスを更に調整する必要が出て来れば全粒粉以外の食品で調整する事になり、同じ様な選択で選んだ食品が多ければ多いほど自由度はなくなります。しかし知性が低く知識も足りなければ、全粒粉の良い部分だけを強調した他者の言葉のみを受け入れて気づけないままになります。
この時、元の環境では小麦粉などの商品を買う者に対して本人の望む物だけを買う事が出来、必要もなく余分なものを買わされる様な権利の侵害を排除する様に商品が提供されていますが、その環境を整備する者も確認をする者も居なくなれば、居ない様にしてしまえばその管理されていない部分を用いて環境を改変して都合の良い結果を得る事が出来ます。
話を戻しまして、誰かの一生にかかるコストを消費する際に関与出来れば少ないリスクで安定した利益を得られる様になり、環境そのものを改変してしまえばその機会から得られる利益を多く出来る事を私達は知ります。その際に内実を見ずに表面から眺めた情報だけで判断すればそれだけ制限を外す事が出来、選択の自由度は増す為に自身から見た世界で欲しい結果が得られる可能性が増えます。結婚などの様式もその本質を失えば単なる経済協定の様なものであり、本来の目的を支援する為にある制度などを得るための手段でしかなく、しかし本来の目的は表面上だけしか果たされないという状況になります。育児支援の補助金を親の娯楽費や交遊費の補助などにしたりと境界が不明瞭な為に目的外使用出来、その様な目的の為に偽装して使われる様になります。例えば戸籍を得るための偽装結婚なども考えられ、本来の用途とは違う利益の出し方が行われます。
これはリザルトセットを扱う事で更に問題になります。知性を得て概念定義して目に見えないものもコミュニケーションを行なって共有出来る様になり、思い付きもしなかった事を他者の行動を真似て実行出来、それは善行も悪行も同様だと言う事です。リザルトセットを扱わずに自身の体験を軸に行為して数多くの他者の行動とその結果を真似る事がないのであれば行われない悪事も、より多くの他者の行動と結果を見る事で、故意か過失かにかかわらず行う事が出来る悪事を知り、それがなぜしてはいけないかの根拠も知らず正しい判断も出来ずに、自身の足りない知性で実行しても良いと判断し実行してしまいます。
その為、知識の正しい使い方を覚えるまで、間違った使い方との判別が出来る様になるまでは知識を与えない方法が行われますが、知識を与えられない側から見れば、独占や対価を要求している様に見える可能性があります。
また、こういった問題はリザルトセットを扱う方法の1つである統計を取り社会を管理する事で更なる問題を引き起こします。魔導学的手法というのは事象の根本的な要因が分からないなりにどの様にして起こるかを分析したものになり、外側から内側に向かって分析を行い細分化して詳細に知る方法になります。その為、リザルトセットを見る者の知性がその見ている結果の分析に影響する様に、統計を扱う際にも同様の問題が発生します。行為を行った結果を分析して行為を推測する様に、起こった現象や結果からその要因を推測する者が得たい部分だけ明文化や数値化して扱った場合、元の事象から必要なものだけを切り取った事になり、他の条件は考慮しない為に自由度は上がり、選択肢は広がります。
例えば、親が子に食事を与える役割を持つとしましょう。食事を与えるという部分を外から見ると器に載せた料理を子供に提供する状況が見えます。親は提供する従事者であると共に食事を与えるという役割を監視する者になります。従事する者が自身で自身の役割を監視するという事は、自身に悪意があっても正しく役割が行われたと判断して報告する事が出来るという事です。社会は各家庭で親が子を虐待していないか、親が親として役割を果たしているかをチェックはしますが対象は奴隷でもなく犯罪者でもない為に束縛されない権利を持ち、それは同時に親としての役割を果たせると暗黙の了解が得られているとも言えます。そもそもが親としての資格とは何かと問われて明確に決める事が出来るわけでもなく、そして厳密に定義しても大多数はその定義条件を満たせるかどうかわからない様になり、そして育てられる子が到達する基準から逆算しておよそこの程度なら問題ないという認識で親としての行為は共通認識になります。同時にその育て方では到達出来る基準に限界があるとも言え、それ以上を求めるなら育て方つまりは親の役割の基準を上げる必要があります。
ここでは、では最終的な成果は親の能力と子の能力の総合になる事から逆算して能力のある人物の子を奪ってきて育ててその子供の成長度が高い場合にさも自身がうまく育てたからだと言い成果を誤認識させる方法については割愛します。
親が子に食事を与えるという状況だけを考え、その状況だけを再現して真似れば良いと思うのであれば、その状況に見えさえすれば良いと判断出来、そこに利権が生まれます。料理を器に入れて提供して子が食べる、という状況だけを見れば、良い食品も悪い食品も見た目上問題がなければもしその行為を見た第三者が居ても違いが分かりにくく、その詳細な違いを判断する親があえて悪意をもって差をつけていても問題ないと判断していたならそこに正しい判断は行われません。その親からすれば自身に利益が多く入ってくる"正しい判断"と思っているかも知れませんが、ここで求められるのは親としての正しい判断であり、親の役割を利用して利己益を求める為の判断ではありません。親として求められる行為を親という役割が自身に与えられているからといって自身に都合良く扱ってよい事にはなりません。親としての行動の自由は親としての役割を果たす為に存在し、親としての役割を自身の欲望を満たそうと使う為に在るのではありません。しかしそれが分からない者には親としての役割の1つとしての『子に食事を提供する』という行為は単純なものになり、規制緩和したのと同じ状況になる為に選択肢が増え、そこに利己益を求める事が出来ます。どの様にも報告出るのであれば良い食品であっても悪い食品であっても『料理を提供した』と言え、量も関係ありません。質の悪い食器に質の悪い食物を使った料理を提供しても『親が子に料理を提供する』という事は出来ます。これらも状況から逆算して明文化されていない部分を変える事で欲しい結果を得ています。
では親の役割というのは何でしょうか。親の役割は子が成長した後に能力的に問題なく社会に適応出来る様に育てる事です。勿論親の経済状況は影響するでしょうが、その影響下においてその役割を果たす事が親としての行動です。親は子の権利を侵害せず、子が成長する為に問題になる障害を排除し、しかし同時に必要であれば障害を用意して子の成長を促します。この基本方針があってこそ初めて親としての役割は果たされていると言えますが、表面だけを見て同じ状況を真似れば親の役割が出来ていると思うのであればそこに親としての役割に備わる条件はないものとして扱われ、自由な選択が行われ利権として使われます。
元々親の役割として定義された者は自身の子を育てるという条件を基に定義されており、もし育てるのが他人の子であるならそこに加わる条件は更に多くしなければならず、それは明文化されていない部分をより厳密に追求したものになります。自身の子とはいわば次世代の自身であり、自身を自虐的に扱わないだろうという前提があって基本的な親の役割が共通認識として存在している為に、自身の子を自身の子として認識出来ない親であるなら、他人の子を育てる基準で育てさせる必要が生じます。逆に言えば、他人の子を自身の子を育てる基準で育てればそこに悪用出来る選択肢は増え、周囲を錯覚させれば気づかれない様に利己益を得る事が出来ます。
そうした悪意をもって子を育てる親というのは、親の役割として見た目は似たものになりますが、その目的の違いによって日々の行動1つ1つに違いが生じます。子を育てるのが育児支援を受ける為だったとすれば、食事の品質を下げて、つまりはコストを下げてより多くの利益を得ようとしたり、着る服などを出来る限り質を下げ、形だけは親の役割を果たしているとアピールしてそこから出来る限り多くの利益を得ようとします。つまりは本来の親の役割が分からない為にそれを育児ビジネスと認識して行動するという事です。三食提供して寝床を用意して社会福祉が提供する教育機関に通わせるという部分だけを自身から見た世界の出来事で補完しようとします。その1つ1つが目的の違いにより内容が変わってしまっても問題なく出来ていると思い込め、問題なのはそれを管理する者が同一人物である為に不正行為を指摘する者が居ないという事です。
もし親の知性が低く自身の子に対してその様な利権目的で利己益を求める様な者であるなら、他人の子を育てる時と同じ様な厳しいルールを徹底する事になり、管理コストは増大します。そして子育てというものが分からない程度の知性の者達が増えるのであれば外部からルールが正しく適用されているかを管理する事になり、厳しいルールで制限し、親の役割における自由な選択肢を減らす必要が出てきます。
例えば親になる者が、生き残る為に権力者の意向に従い親になる場合、子を作るという目的自体が本来とは別になります。元々子を作るというのは次世代に自身を継ぐと言う意味を持ち、そこには個人から見た世界の事情が多く含まれます。もし虐げられていて子供も虐げられるのが分かっているなら子供を作らないでしょう。子を育てられる環境でなければ子を作らないでしょう。しかし、もし子は次世代の自身という認識を失くしてしまうと先程言いましたように子を作るという事自体が現在の自身が生き残る為の方法でしかなくビジネスと同じになってしまいます。ですので利害関係が親と子で不一致となり、親が最大限の利益を得る事が子にとっての利益になる事とは別になります。つまりは逆に言えば親が子は次世代の自身であるという認識を持てなくすれば、親は子の権利や利益を考える事もなくなり、子は成長する過程において多くの障害を持つ事になります。そしてその子がやがて親になり同じ様に子を育てれば、子を育てるという事に限界を与える要因を常に自身で与える事になり、その状況が好都合な者に利益を与える結果になり、それが目的として同じ状況を繰り返される様になる可能性があります。
これらを突き詰めると、子を育てるというのは常に誰かが運んでくる他人の子を育てるという状況に出来てしまえば、親と子で利害関係が一致せず、親が自身の利益を最大限にしようとするなら子はその影響で成長に影響を受け到達出来る能力に限界を持ちやすくなり、それを繰り返す事で一部の権力者にとっては権力者を能力的にも脅かさない従順な配下を手に入れる事が出来ます。こう言ったものもリザルトセットに蓄積された結果から逆算されて実行されるものです。
話を少し戻しまして例えば検査を考えてみましょう。検査をする者にとって自身の生活と検査を受けて合格する製品の数が比例しているとしたら検査そのものの健全性は保たれるでしょうか。元々、検査というものは製品などの対象が問題ない品質を有している事を調べるものですが、検査をする事によって検査対象の製品を作り出す過程に発生する様々な問題が一定の範囲に収まっているという指標にもなります。ですのである製品の作成には常に数パーセントの不良品発生率が生じると仮定して検査を行います。この時、起こり得る様々な要因の全てを調べ上げ1つ1つを失くしていく様にしますが同時に起こり得る全ての要因を消し去る事が出来ない為にグロスとして起こった失敗の要因が生み出す不良品の数が許容範囲内に収まる様に既定されます。ここでグロスに扱うという部分が問題になり、それは誰にも明確な根拠が分からない若しくはあえて追求しないという選択でもあるという事です。ですのでその数パーセントに不良品率が収まるなら、それぞれの過程に携わる者達が利権目的で行動する事を許容してしまいます。緩いルールで管理している状況はやがて不正行為をしても罰せられないだろうという認識を生み出しその数パーセントになる様に行動が変えられます。末端の担当は数パーセントに到達しない間は罰せられない様にしながらもう少しだけでもと自身の利益が得られるように行動するでしょうし、その管理者は自身が管理する者が罰を受ける様な事をして自身が罰を受ける事の無い様に管理はしますがやはり数パーセントに到達しないのであれば自身の利益を優先するでしょう。そうした各過程を更に束ねる管理者はやはり自身が管理するそれぞれの合算に問題なく罰せられないのであれば数パーセントの許容量に収まるのであれば自身の利益を求めるでしょう。その許容される中で選択肢がいくつかあるならそれぞれの過程における管理者は自身の管理部門にとって利益になる選択をしますがそこにはやはりそこに属する者にとっての利益が混ざります。こういった選択が成されると、状況が変化し更に厳しい不良品率を設定する時に問題になり、今まで行って来た選択から形成された構造が問題を解決しにくい構造になってしまっており、大きな改善をする必要が出てきてしまい、僅かな改善では対処出来なくなってしまいます。
指標となる数パーセントの不良率というものが得られなければ、そこに属する者達は自身の出来る限りの能力で役割を果たしたかも知れません。そこにはもし怠けたり不正行為をすれば自身にどんなデメリットが生じるか分からない事が要因として存在しますが、ここに目標が設定され、余裕がある事を知った時に選択の自由が生まれ、今までは性質が悪質であろうと善良であろうと選択肢の余地がない所に選択の余地が出来てしまった事で悪事を成す者が現れてしまいます。しかし明確な状況を伝えない事で他者を都合良く操ろうとする者も居て状況や目標を伝えないという選択にも誤りはあります。
また、統計を取るという事は先ほど言いました様にそこに含まれる個々の明確な要因を追求せずに全体量が許容範囲内に収まるという事だけを目的として行われ、その要因が分からない部分に問題を残します。与えられた知識で統計を取り目的を達成していると判断した結果としてその内実を見ない事は良くあります。結果として何が行われているかも知らず、そして統計を用いて得た情報を基に計画を建てる事で機械的な対応をしてしまい、その統計から見える実状を考慮せずに行動して混乱させる事もあります。
例えばある計画に予算が必要になり、集団から一定額を徴収する事になったとします。それぞれの集団が納める額を設定し集め方は委任したとして額が集まったから正常に終わったと言えるかと言えば言えません。それぞれの集団が額を集める際にどの様な集め方をしたのかが調べられておらず、定義もされていないのであれば特定の人物や集団に負担を押し付けて集められた可能性があるからです。
例えばある製品の不良率が5%だとして不良率がその範囲に収まっているからと言って正常だと言えるかと言えば言えません。製品を生産するにあたって特定の人物や集団に負担を押し付けて作られた可能性があるからです。
この様に、統計を扱うには統計で得られる数値を扱えるという事よりもその前提として統計として得られる情報がどの様な環境で得られ、それを適用する対象がどの様な環境であるかを把握する能力が求められますが、与えられた知識や技術を扱う者にはその事実は分からない事がほとんどです。そこにはそれまで誰かに与えられた知識や技術を用いていれば何とかなったという、誰かがそれで問題無く対処出来る環境を作って来た中で行動していた事に気づかずに成功体験を積み重ねてきた結果があり、それに気づけるだけの知性がなければ自身の間違いにも気づかないでしょう。
統計を扱って有効な計画を建てる事が出来る為に必要な、統計を適用出来る環境作りを誰かがやってくれると思いながら統計を扱うのでは不確定要素が多すぎて計画は成功しにくいでしょう。そして統計しか扱わないのであれば、その統計で示した計画なら目標を達成出来ると言う事は出来ますが、それが実現不可能なのか一旦目標を達成しても継続性のないものなのかを考慮しなくとも良い為に、強引な方法で実行してしまう可能性があります。つまりは元々実行出来る計画は個々の小さな単位からの積み重ねにより示される総量により決まりますが、普段からその整備をしていなければ必要な時にそれぞれの要素を信用出来ずに曖昧な部分を多く残し、個々の要素の積み重ねから目標を達成するまでのパスが不明瞭になります。そこで不明瞭な部分がある為に方法を切り替えて統計を扱いますが不明瞭なものは不明瞭なままであり、何かがうまくいくという保証も誰かがしてくれるわけでもありません。個々の小さい単位の積み重ねから見た計画の実現性と全体から個々の要素を見た時の計画の実現性にズレが生じ、そのどちらからももう一方の規模への明確なパスが見えていない事になり、どこかで無理なつながりをするか、もう一方の実状を無視して強引に計画を実行し目標を達成しようとする事になります。
社会の中で正当性のある行為というものは、個人の主観で実行する行為が全体の主観である客観で見ても問題の無い行為になっている必要があります。これを『行きて帰りし物語』などと表現します。個人の主観から始めた演繹が展開された結果から逆戻りする形で客観的な視点から見て帰納して個人の主観へと戻って来れるかというのが行為の正当性を確かめる本来の在り方です。これは個人から見た世界、家族から見た世界、自身の身近な集団から見た世界、地方に属する集団から見た世界、それより規模が大きい集団から見た世界の全てにおいて問題無い行為になっているかを確かめることでもあります。これが個人から見た世界だけなら主観であり、客観として個人の主観を蔑ろにしたなら強制になります。個人から見た世界の出来事を集団全体に相手の同意なく強制しようとするのは我儘であり独善的ですが、それとは逆に、集団全体から世界の出来事を個人の同意なく強制しようとするのも集団を形成する個々人の我儘であり独善的です。その場合は単に自身に都合の良い価値観を皆で共有しているだけであり、論理性がなく、そして論理性がない為にどこかに矛盾を抱えていても成立出来ます。例えそこにいる全員が同意したとしても、私達の到達した論理性はかつてその社会で生きた人物の遺したものが在り、各分野はその最高水準で分析されます。現在の社会の構成員の質が低下したからと言ってそれらがなくなったわけでもなく、その基準から見て間違いであるものをたとえその社会に属する構成員が正しいと主張しても正しいとみなす事は出来ません。その社会に現在属している構成員全員の自身に都合の良い主観が一致しているからと言って、世界がそれに合わせてくれるはずもありません。その主張は子供が欲しいおやつを求めるのに似ていて、親が甘やかしてくれれば自身の主張通りになるかも知れませんが大抵はうまくいきません。しかし、その子供が悪質で、親を殺したりしてでもおやつを手に入れようとするなら親という抑止力は効かず、その主張に存在するデメリットが蓄積して表面化します。しかし強引にでもその状況を作り出し、誰も指摘出来ない様にすれば、さも全員の同意が取れている様に見える状況は作り出せ、錯覚する事が出来ます。
この原型は、知性の高い者が知性の低い者を含めた集団において、知性の低い者には分からない物事でも実行すれば知性の低い者にもメリットがあるものを知性の低い者がわからなくとも強制して受け入れさせたというものです。それを知性の低い者からすれば他者が強引に自身の利益を求めて強制してきたという見方も出来る為に場合によりそう見てしまった結果として、相手がどう思っていても強引に受け入れさせて良いと錯覚して新たな選択肢が生まれます。
その結果として『皆の為』という言葉を使えば相手に不都合なものも受け入れさせて良いと思い込み、また、どうにか相手に合意を取り付けて既成事実を作ってしまえば実質的に押し付けて良いと思う様になります。リザルトセットにある状況で相手の合意がある場合の結果が罰せられない事から逆算する様になるという事です。結果としてリザルトセットにあったその状況で行われた判断は何一つ考慮されず、自身から見た世界の出来事で真似れば成立すると思い込みます。
そうなると通常であれば明らかにデメリットを相手に押し付ける行為も正当性があるかの様に選択出来、選択肢が多くなります。今回の話の様に『自己犠牲』という選択が成された時、それを外部から見て自身に都合が良いと考えた時にどうすれば同じ結果が得られるかを考える様になり、その時と同じ状況になれば同じ行動を真似れば同じ結果に出来ると思う様になります。がしかし、そこにある状況に対して行なわれた判断は目に見えず思いつかなければ知る事も出来ず、そして自身にとって都合の良い部分だけを見て同じ結果が再現できるなら知る必要のないものとして扱えます。しかし『自己犠牲』というものが本来はあってはならないものという認識が前提にある事を知らない為にその考えが出来るという事に気づけていない事にも問題があります。『自己犠牲』とは誰からも強制される事なく、また自己犠牲するしかない状況に追い込まれる事なく、生活を続けていく為に不自由のない者にしか出来ない選択であり、その条件のどれかが外れた場合には自己犠牲ではありません。ですので、他者から『自己犠牲』を求めるのは自己犠牲でもなんでもなく単なる強制でしかありません。しかしもしどの様な問題にも誰かを生贄に捧げる事で問題を目の前から失くす事が出来、そう出来れば普段は自身が満足の出来る暮らしを送れるのだから誰かを生贄に捧げて自身の快適な生活を優先する様な者は居ます。その時に『皆の為だ』という言葉で相手を納得させようとしますが、この言葉の使い方には瑕疵があり、"皆"の中に生贄に選ばれる対象は含まれていないという事実があります。皆で助け合いながら生活する際には、多少の不都合も受け入れながらお互いを助け合う事もあるのですが、その精神を悪用しており、そしてそれを悪用する者にとってはそんな理由は関係なく、ただかつてあったリザルトセットにおいてそう言った言葉を使った説得が欲しい結果に結びつくから行っているだけに過ぎません。勿論、実際に追いつめられた状況から助け合いの精神を持ちながらも相手に受け入れがたい選択を迫られる時はあるでしょう。しかしそれでも『自己犠牲』を強要した場合、それは既に自己犠牲とは呼べずに単なる強制になります。そしてその際に自身や周囲を『あれは仕方ない事なんだ』などの言葉で自身の選択を間違いと分かりながらも肯定しようとするのであれば、そのリザルトセットに蓄積した結果を見て、その様な言動を行えば自己犠牲を強制して良いと錯覚する者を作り出します。
その結果として、蓄積したリザルトセットを扱うが知性の足りない者がリザルトセットにある結果を見る事により、不利な状況において『皆の為だ』と主張しながら弱者に問題を押し付け強引に同意させた後に『仕方ない』などと言って悲しそうな振りをすれば問題を目の前から片付けられると錯覚して行動し、一度でもうまくいけばその行動を効率よく行おうとします。そしてこれらは集団が集団内の弱者に強制したり、権力者がその配下に強制したりする為に、押し付ける側の自制と論理性がなければ抑止出来ません。しかし内実が分からなくともリザルトセットにおいてそうした成功事例があるとその行動を真似て行動する事で同じ結果が得られるのであればそれを実行して利益を得ようとし、しかし実際に何をしているのかを理解出来ていません。その者にとっては集団を形成する為のルールに違反している事であってもリザルトセットを見て罰せられない行動を真似ているのだから合法だという認識で行動出来てしまっています。ここで求められる本来の結果というのは、もし仮にどうしても誰かを犠牲にしなくてはならないのであればその時点で集団そのものにリスクに対して対処出来ないという大きな問題があり、問題に対処出来ていない事に対して自責の念などの何らかの感情をいだく事で、もし次に起きた場合には正しく問題に対処出来る様に行動し始めるという結果が正しい在り方です。しかしその在り方は難しく、ただ現状を楽に生きたい者にとっては選択しづらく、どうすれば良いかもどれだけの期間かかるのかも分からない物事というのはリスクが高く、いつまですれば良いのか分からない戒めというものを楽な生活をしたい者は嫌います。その結果として、リザルトセットにある結果から他者に問題を押し付ける事が出来る『人柱』や『生贄』と呼ばれる方法を選びやすくなり、それで問題が解決し、自身がそのデメリットを被らないのであれば繰り返そうとします。
そしてその方法が確立されたのなら、あえてその為に生かす者を作り出し常に何らかの問題に対処するための準備をする様になります。悪い言い方をすればリブストックとも呼べ、生贄に捧げるための余剰を行う様になります。そこにある問題は、もしそれ以外の解決策があったとしても追求せずに安易に楽な方法へと逃避している事にあり、集団の本来のルールを逸脱したままである状況を『仕方ない』などの言葉で誤魔化している事にあります。そうしている限り、その状況を改善できる方法が考えられる事はなくいつまでも間違った方法を繰り返します。しかしやはり自身がそのデメリットを受けないのであれば効率的な方法として選択出来ます。
こういった方法を覚えてしまう事で新たな悪事が行われる様になります。上位の管理者と下位の管理者がいるとします。上位の管理者は下位の管理者を管理し下位の管理者がその配下を管理しているとします。下位の管理者が悪質で不正行為をして利益を稼いでいたとして、配下の者から下位の管理者の不正行為を上位の管理者に告げられ不正行為が暴露したとします。そうすると上位の管理者は下位の管理者が二度と同じ間違いをしない様にする為に罰を与える事になり、下位の管理者は損失を被ります。ではそれで無条件に下位の管理者が改心するかと言えばそういう事はなく、下位の管理者が更なる悪事を行う可能性が出てきます。不正行為をして罰を受けるのが確定するのであれば、不正行為が露見したとしても受ける罰を軽減出来るかもしくはほぼ無いと言える状況に出来ないかと考えます。すると生贄を捧げるという案が有効性を増します。不正行為が露見した時に罰を受けるのが確定なのであれば受ける罰が実質的に影響ない様にすれば良く、あえて受ける罰用に状況を事前に作り出しておけばよく、もし不正行為が露見した時に、反省しているかの様に装いながら自身で受ける罰を申告し了承されるのであれば、受ける被害を減らせるか実質無害に出来ます。一部の者を操って生かしておきながらその者達に不正行為をさせておき、何等かの罰を受ける時に、デメリットがある罰を自身から申告して、上位の者はリザルトセットにある前例を参考してその罰で妥当だと判断したなら、そのあえて事前に準備した不正行為をあえて情報が洩れる形で露見させて罰として受けるという方法が出来ます。こういった場合、例えば罰として露見させられる不正行為に関わる者達は自身と利害関係を一致しない者であるとか、既にその不正行為では多くの利益が得られない状況になってきているだとかを選択出来る事になり、また、一族の者や利害関係の一致する者が不正行為で罰せられると影響のある若しくは他の重要な情報を暴露されると言った状況を回避する事が出来ます。そうして事前に使い捨てられる者を容易すれば、罰を受けてもそれほど影響はなく不正行為を一時的に控えるだけでまた時期を見て繰り返せます。こうして、何も反省する事なく表面上は反省している振りをしながら罰を受けてやり過ごす方法が確立されます。
この様に管理者や権力者というのは自身の役割が与える権限を誰かに管理して貰う事が出来ない為に自制出来なければ容易に権限を悪用出来ます。もし管理者や権力者に自制の出来ない者を配置してしまえば悪事を平気で成し社会を混乱させるでしょう。管理する者の腐敗はその配下に大きな影響を与え、その配下も腐敗した状態になっていきます。腐敗を指摘する者は排除され、管理者の望む性質を持つ者が優遇される結果、良くも悪くも管理者の望む状態が作り出されます。その過程において管理者は自身に都合の悪い指摘や情報を消す事が出来、その様な事実はなかったと偽装する事が出来ます。また、その様な管理者は自身の欲望や保身を優先する為に身内贔屓や賄賂を優先しやすく、欲望の為に事実を捻じ曲げ捏造します。例えば、ある人物Aが人物Bからものを奪って管理者Cに自身の成果だと報告したとしましょう。Cの知性が低く判断能力が足りなければそれを信じてしまうかも知れません。また、Cに悪意があればその間違いに気づいても受け入れてしまう可能性が出てきます。Bから奪ったものでAが自身の成果だと主張しその奪ったものの一部をCに賄賂として差し出したとすると、Cの性質が悪質であるならその賄賂を受け入れ、真実とは違う事実を受け入れて正当化するでしょう。こうして偽装が行われ、その管理者の上位に別の管理者が居たとしても管理者が偽装報告する為にその上位の監視者にそれを判断出来るだけの能力がなければその捏造された事実を真実だと誤認してしまうでしょう。管理者は自身に行なわれる報告が正しいかを判断する方法を持っている必要があります。
しかし以前にも言いましたように、管理し続ける中で普段とは違う情報の差分により、正常に管理出来ていると判断する方法をある程度特定されてしまい、その方法で確かめられる部分に対してさも正常に物事が行われているかの様に偽装する工作を施され、悪事は巧妙になり、判断方法もより高度になっていく必要があります。
管理していく繰り返しの中で、自制出来ない管理者はやがて腐敗しその腐敗はやがて全体に波及します。私達は日々の生活において行為を試行し繰り返します。成功と失敗を繰り返し、多くのバリエーションを知ります。そうした中で"ラッキー"な状況を知り、不正行為であっても罰せられない状況を知っていきます。それを報告してルールの追加や改善で対処するなら問題ないのですが、私達個々人にとって利益を更に得られる機会というのは少なく、黙っていれば罰せられずに利益が得られる状況をあえて失おうとする者は中々居ません。それが不正行為であると知っていてもその選択は行われ、なぜ行う事が出来るのかと言えば、与えられた知識や技術やルールで行動している為に、与えられたものが成立する条件を知らずに、そもそもが罰せられないから行動しているという状況に近いからです。また、個人の大部分は資産家ではなく日々の生活がほんの少しの出来事で大きく変わり日々の生活への不安から利益を得られる数少ない機会をより有効に使いたいと思い行動します。管理者に対してその配下は数が多く、それだけ行動は試行され失敗する機会は多く、そして罰せられない機会もそれに比例して増えます。たまたま気づかれずに罰せられなかった場合や手続きや手順に瑕疵があり気づかれずに不正行為が出来る場合がある事を知り、そこに他者との競争で勝つ要因を見つけます。やがていずれ管理者にその方法が気づかれる事になりますが、管理者の性質が悪質であれば賄賂等を受け入れる若しくは自らも不正行為を行う様になり不正行為は常に行われる様になります。また、ラッキーな状況により不正行為を気づかれずに行える様になった者は不正行為をしない者より有利に立ち、多くの資産を得てそれだけ管理者や上位の立場になりやすく不正行為は益々行われる様になります。自身が不正行為を行うだけでは欲望を満たせなくなると、共犯者を仕立て上げて不正行為を行う量を増やすなどして更に混乱させます。その管理者を管理する更に上位の管理者が同様に腐敗し汚染されたのならその管理者の配下で同様の状態が作り出され、やがてその繰り返しにより最上位にまで腐敗は感染して拡がり社会には不正行為が蔓延します。
また、この蔓延の仕方は違う形式でも起こり、配下が多少の失敗は自身でどうにか対応出来ると思って失敗を報告せず成功したと報告するがその失敗分をなかなか取り戻せず蓄積していく様になると問題として表面化しますが表面化する頃には問題は大きくなっており、それを罰すると周囲にも知られ、罰する管理者も管理不充分で処罰の対象になる為に今度は管理者の規模で失敗をどうにか取り戻せると考えて問題を報告せずに済ませ、やがてそれもどうにもならなくなると更に上位へと波及し、自身の保身を要因としてやがて最上位へと問題は波及します。その内の誰もが保身を優先する事で問題は先延ばしにされる結果になり、そのどこかで有効な対策を行う事が出来たかも知れない機会を失う事になります。
こうして私達は末端から波及した不正行為と失敗によってやがては最上位にまでその影響は波及して社会を混乱劣化させて崩壊させます。この時に問題の初めになる末端による失敗の隠蔽はなぜ起こるかと言うとリザルトセットにある結果を用いて逆算するからです。かつての事例で失敗したものでもまだ調整次第でどうにかなるものもあるという結果を知っていたり、失敗した分が小さいなら成功した時に余剰分が出る事もあり、その補填で失敗分を取り戻せると考える様になります。しかし私達の社会が常に一定の状態を維持出来ているならともかく、社会は競争し資源は枯渇し、成功した場合に発生するかも知れない余剰分は減る傾向にあります。過去の結果を見て期待した余剰分は未来には得られず、期待した余剰分を得られると想定した計画は失敗します。その情報は末端に属する比較的知性の低い者では考えられず思いつかず手に入れられずに自身が間違っている可能性がある事に気づけずに事態を悪化させるところから問題は始まります。そして同様の考えでその管理者から更に上位の管理者へと波及する事になります。そのどれもかつての結果から状況を逆算しているがその結果そのものに状態遷移による補正を掛けていない為に生じ、社会の状態をどれだけ動的なものとして捉える事が出来ているが上位の管理者程問われます。
上位になる程管理する規模が大きくなる為に管理する量も分野も増え、それだけ全ての領域での動的な状態を把握する必要が生じ、それは同時にリザルトセットに蓄積されたかつての結果を見ているだけでは管理が出来ない事を表します。簡単に例えるなら監視カメラに映る映像を見て一意に全てを断定する事が出来ない様にその映像からどの様な状態からその映像に映る状態になりその結果としてどの様な状態遷移が起こり得るのかを予測できる必要があるという事です。ある一般的な服装をしている人物がカメラに映っていて別段特に問題のある行動をしていなかったとして通り過ぎたとします。しかしそれがもし一般人立ち入り禁止区域だったとすればどうでしょうか。カメラ映像にはその情報はなく映像を誰が見ても同じ判断にはなり得ない事を示します。
私達はそうやって個人の規模で、集団の規模で、リザルトセットを用いて逆算しながら生活しています。過去の失敗を繰り返さない為に行ない、成功した場合には更に効率を上げる為に行い、その際に自身の体験したリザルトセットだけを扱うならその失敗や成功に対して具体的な情報を得る事が出来ますが、他者の行った結果を見て真似るのであれば自身が行った時に得られる筈の情報が得られない事になり、他者の行った結果を見て真似る方法により情報を得る場合に自身で足りない情報を補完出来る様に知性を成長させていないと、自身の行っている行為が集団の規模などの自身に直接関係するものだけで構成される規模より大きい規模で間違っていないと判断される行為として出来ているかどうかが分かりません。ですので自身の規模で間違っていない行為を逆算するなどして得た場合にはそれが自身を含む集団においても同様か、そしてそれが更に上位の集団においても同様かを確認する習慣を身に付け繰り返す事になります。しかしその方法を行うには自身の周囲の問題だけを考えればよい状況から自身の集団の問題を考える必要があり、また、自身より上位の存在の考え方を知る必要もある為に規模を大きくしていく程に高い知性が必要になり、ただ楽して生活したいだけの者にとっては避けたい行為になります。そして自身の周囲に問題がなければそれ以上の問題を考える事無く行為してより大きな規模に問題を発生させます。簡単に言えばローカライゼーションしたやり方を全員に強要すれば争いになるという事で、大抵においてローカライゼーションはある部分を特化する事になり、それが好都合であるから特化しますが、状況が変わればデメリットが大きくなります。自身にメリットがあり好都合だから他者に押し付けるのであれば他者がそのデメリットを押し付けられる状況だと争いになります。分かりやすいものであれば自国語をその言葉を話さない者に話す様に強要するなどがあります。
社会にとってそこに属する構成員の行為が基本単位でありその構成員の行為の質が変われば当然その影響は波及します。社会概念の表現形としての社会は私達が行う行為を小さな部品とし、役割分担して行為が合わさり更に大きな概念を表す行為となり、その繰り返しとして社会システムという概念を形成します。基本単位をどれだけ正確に出来るかが社会の安定性を示しますが、社会の中における基本単位となる行為から統一されたシステムまでの因果関係を把握するには、その社会が高度になればなる程に高い知性が必要になります。しかし誰かがその知性に到達して解明すれば基本的な行為の在り方を示す事が出来、それに従えばそれだけ安定した社会が得られる事になります。しかし私達は快感原則によって行動し縛られ、例え社会が安定する様なルールがあったとしてもそれが厳しければどうにか自身から見た世界の効率を上げる様に行動したがり、つまりは怠けたがり、すぐに影響が表面化しない遅延のかかる問題を認識せずにローカライゼーションしたがります。そして知性が低ければ自身から見た世界で何も問題なく罰せられもしなければしても良い行為と判断してしまいます。
逆算する時に問題になるのは、逆算する時はそれを行う人物が想定する規模で効率を求めて逆算をします。しかし、逆算して効率を上げようとしている行為はその規模より上位の規模での条件を基に制限を掛けている可能性があります。つまりは自身が想定する規模より上位の規模となるより大きな規模から与えられる制限を知らなければ気づかない内に制限を外してしまい自身は効率よく問題のない行為をしているつもりでも、より大きな規模での問題を発生させる事になります。
そうして逆算した結果、気づかない内に不正行為をし、気づかれない様に不正行為をする事を覚え、その方法を増やし、やがて明文化していない部分に不正行為が出来る要因を見つけ出す様になります。そうして徐々に不正行為を増やす為に社会システムの効率は低下し、それを罰する為の管理コストは増大しやがて破綻します。その破綻までの間に表面上は今までと同じ様に行動しながらも内実では気づかれない様に不正行為を繰り返して利益を稼ぐ者達をいかに管理するかが管理者の役割とも言えます。
ここから本来の行為とビジネスとして効率を求める行為の違いを知る事が出来ます。ビジネスは基本的に依頼者と被依頼者により成立するものです。依頼者は依頼出来る様に状況を限定し依頼する内容を達成すれば望む結果が得られるように、その依頼を含んだ環境を調整します。つまりビジネスはビジネスとして行われる内容を達成した結果を部品としてそれを含んだ行為をビジネスとして実行した者以外の他者に補完してもらう行為になります。一方で、他者に依頼せずに自身で実行した場合には行った行為で望む結果が得られるかを自身で判断する事になります。環境が常に一定で変化しないのであればその時に定義された概念に変化もなく依頼者の指定する条件はそれまでの実績から問題の起きないレベルで収束するでしょう。しかし環境が変化する場合、その条件が与えられた知識や技術を基に選んでいたとするなら変化した状況に対応出来ず、そして対応出来ていないかもわからないかも知れません。また、一度役割として分担したものは従事する者の生活を支えるものになります。従事する者の生活が今までの様に安定しなくなれば当然方法も変えるしかなくなり変化を余儀なくされます。そうすると依頼者は自身の知性なりに条件を考えて依頼しますが、被依頼者も自身の生活を安定させる為に利益をある程度確保しなければならず依頼者の条件を最低限満たす方法を選択します。結果として依頼者の望む結果が得られない可能性が高くなり、また、役割として定義したシステムが独占などの状況が作られる事で他に依頼する方法がなくなれば優位な立場を得て依頼者の望む結果などを考慮せずに、役割を行う側に良い条件で依頼を受ける様にもなれば尚更に依頼者の望む結果は得られなくなります。
そうした場合依頼者が想定した費用では望む結果が得られなくなるかそもそも望む結果が得られるように役割を果たしてくれない事になります。ビジネスがなぜ機械的や無機質な印象を与えるのかと言うのはビジネスとして行われた役割はそれを組み入れる事で達成しようとする結果に対して柔軟に対応せず実際にビジネスとして行われた行為を含めた行為で望む結果が得られなくと依頼は達成したとみなして対価を要求する部分にあります。依頼者が条件を達成すれば自身の望む結果も得られるとみなして依頼したのだから責任は依頼者にあるという考え方になります。しかし環境が変化してその違いを把握できない者は自身の望む結果を得られる条件を正確に知らずに提示出来ない可能性があり、また、被依頼者側が独占などの要因で優位な場合には依頼者の望む結果が得られる条件があったとしても被依頼者側の利益を優先して故意に満たされない可能性があります。この様な問題は社会が高度に専門化していく事で深刻化し、他分野の役割だから依頼しているにもかかわらず該当する専門分野の知識が必要になるという役割分担して得られるメリットを低下させる結果になります。そしてそこから逆算し、該当する内容に対して知識量が相対的に多い事を利用して詐欺まがいの行為が行われます。その条件では目的を達成出来ない事を知りつつも利益を減じる結果になるのであえて発言せず、その結果により依頼者が目的を達成できない状況になるが依頼された内容は達成したと言い対価を求めつつ、追加依頼を受ける形で足りない条件を補完する事で多くの利益を得ようと出来ます。また、相手に専門知識がない事を悪用してあえて物品の交換期間が短くなる様にしたり、型遅れになったものをあえて提供したり、コストやメンテナンス費用が多くかかる方法を提示したりと言った悪事が行われる様になります。
これは本来役割に従事する際のモラルやルールによって制限されているものですが、利益優先で考えた場合にはモラルやルールは利益を得るには支障になるだけであるために外された結果として起こります。
これらの行為もリザルトセットを用いて逆算する事で生じ、知識を与えられた者が正しく知識を使いこなせるかを判断せずに与えた事で生じます。その繰り返しで知性を成長させれば問題はなくなる筈ですが、子供を育てる時の様に間違った覚え方をしたまま放置すればどんどん間違った行動をし、知性の低い者を管理もせずに放置すれば間違ったまま自身が正しいと思い込み行動します。
それでも行動出来、自身が不正行為を行っている自覚はなくとも不正行為をする事で他者より優位に立ち権力を得て頂点を目指し欲望の限りを尽くそうとするのが欲望に流される者の典型的な行動になります。知性を成長させて物事を判断出来る様になるよりも欲望を満たそうとする為に、形に見えるものやすでに誰かが解明した知識や技術を優先し、それらを用いて生じた結果を集めたリザルトセットから状況を逆算して利益を得ようとします。その結果としてそれぞれの行為が社会システムの中で正当性を得るための明文化されていない部分を無視して行動し社会を混乱させ疲弊させます。
この逆算を延々と繰り返し、末端から上層へと腐敗は感染していくとどうなるかとなれば、社会における全ての出来事においてルールやモラルを軽視する状況になり、法により罰せられない物事は"合法"であり行ってよいものだという認識が拡がり、どの様なものもビジネスとしての機械的な側面を強調される事になります。
育児であれば育児ビジネスの様に定型作業は行うがそれで充分なだけの保護が出来ているかは考慮されず利益優先で行われ、そこで行われる行為1つ1つは利益を優先した選択がなされ育児対象にとって利益になる選択が必ずしも行われるとは限らず、形式上は育児として保っているが本来の役割として機能しているかは分からない様になります。
商行為であれば客が専門知識がない事で正しい選択が出来なくとも指摘せず、2度買いや追加オプションが起きる様に誘導して利益を優先し、また、自身の分野でなければ価格の動向を知る事は難しく自由競争が理想的な状況で行われているという幻想の上でしか価格競争により健全な価格設定が成されない状況を悪用して利益を上乗せして売るでしょう。
依頼であればやはり専門知識がなければ不正行為をしても気づかれない事を悪用して、手抜きが行われ、客側は本来より多くのコストや維持費がかかるでしょうし、サービスを提供する側は手抜きにより不正に多くの利益を得るでしょう。掛かる費用も談合や独占によりその分野以外からは価格設定の詳細が分からない事を利用して利益を上乗せするでしょう。
行政であれば表面上は正常な運営をしているかの様に装い利権を使い賄賂を有形無形で受け取り、縁故採用を行ない既得権益を最大限に得ようとするでしょう。お互いがお互いの不正を指摘しようとしない者達であれば不正行為をしても問題無く、そしてもし失敗してもそれが重大なものでなければ黙り指摘しない事で失敗した事実を揉み消せます。互いにそうやって保身を優先する者を優先して雇用する事でお互いに最大限の利益が得られる様になりますが、行政として正常に機能しているかどうかとは別になります。
しかしそういった方法に留まらず、法やルールの抜け穴を使いより大きな権力をも利用します。
権力者がその配下を操る事で不正行為を代行させて、さも自身は無関係だと主張して見せる事もあります。その際にどこまで突き詰めるかという部分で、対象が生まれる段階から不正行為を行う事が出来、生まれた時から環境そのものが不正行為を含んでいるならそれが普通の環境だと思い込み育つ可能性があり、そしてそれに気づけるだけの知性を育ませなければ気づかれる事なく一生を終える可能性が高くなります。
親と子の利害関係が一致しないのであれば、親は子の持つ権利を使って最大限利益を得ようとする事が出来、子は自身の生活へのリスクからそれに逆らえません。その状況は不当な搾取と言える状況になりますが、その状況判断をするのが親であり、そうやって不正行為をする親は自身が罰せられる様な報告は第三者にしないでしょう。また、利害関係が一致しないという事は子がどの様な状況に陥っても関係ないと言えるので、利害関係を一致する他者と協力して子の行動が利益を生み出す様に情報操作し洗脳する様になるでしょう。最終的にその子がどうなっても良いのであれば使い捨てる事が出来、より多くの利益を得る事が出来る様に物事を教えるでしょう。結婚式は派手に盛大に、親の葬式も盛大に、旅行に行くのも多くの買い物や土産を買うのも当たり前で、普段からより多くを消費する様に誘導し、その機会を使って多くの利益を得ようとするでしょう。また、同様に一生で行われる大きな機会も活用するでしょう。借金をしてでも持ち家をするのが当然だと教え込みそう行動する様に状況を整え購入させ、機会を得る側は既知の機会を使って多くの利益を得る様にしながらもその利益の元になる支払われる資金は対象者がどこかからどの様な手段ででも調達しなければならない様に出来、また借金を理由に譲歩させる事も出来ます。勿論、子がより都合良く操る事が出来る職に就くように誘導も出来、教育の仕方そのものを改変してしまえば有利な職に就く事も少なく、ある特定の集団が管理職や知的労働に従事する様に出来、情報操作の対象となった者達は肉体労働に従事するのが当たり前という状況を作り出せます。
また、浪費する事で最初に言いましたが統計上の1人当たりが一生で消費する額の想定範囲から外れる様になり、統計を利用して意図的に悪意を含ませた評価が出来ます。浪費する人物は自身の管理が出来ずに自堕落に生活しているというラベルを貼る事が出来、しかしそれは周囲が環境を利用して行っている事であったとしても、その事実を知らない第三者から見ればその人物が自堕落に生活している様に見えてしまいます。そしてその第三者として評価する立場にある権力者や管理者が共犯であるならさも第三者を装って評価を行い欲しい結果を得ます。そしてこれらも逆算して行っており、自堕落である者であるなら容易に浪費する結果がリザルトセットにあり、では自堕落であるという状況を作り出せれば浪費させても良いし、浪費した事にしても良いと考えます。誰がしたのか分からない浪費にその人物がかかわったのならあえてその人物が行ったのだと主張してなすりつける事も出来ます。
もし対象とした人物が容易に操れないのだとすれば、環境から変えていけば良く、私達は食物を摂取して栄養を得て身体を作りますので、その食事環境から変えていけば弱らせる事も可能であり、軽い食中毒状態を継続的に与えて悪心を抱かせると同時に映像や周囲の者の発言で徐々に思考そのものを偏向させていけばやがては自堕落と呼べる人物が出来上がる可能性が高くなります。また、どの様な状況も誰かが見て評価をします。その度にあえて偏向した評価を行う事で意図的に評価を捻じ曲げる事が出来、それらを蓄積させれば第三者にはその結果だけを見せる事が出来、望む評価を得る事が出来ます。
また、私達の社会は無限に拡がる事が出来なければやがて飽和します。そうすると余剰分となる人物はやがて社会から出て行かなければならなくなります。その際には誰が出て行くかを決めなければならず何かで優劣を決めなければなりません。すると出て行かなければならなくなる可能性のある者にとっては僅かな優劣も問題になります。そして自身の能力を向上させるのは難しく他者を貶めるのはリザルトセットにある結果を見て真似るだけなので容易である為に他者を貶める選択をする可能性が出てきます。
その集団に属する者同士で保身しあっている場合、出て行かなければならないとされる人物を出来る限り自身の保身に影響しない人物を選ぶ様になります。孤立している者や弱味を握られている者などが選ばれますが、これらは自身と対等な立場の者がもし選ばれる可能性があるなら自身も選ばれる可能性が出てくる為にその選択を排除した結果として残った選択肢が選ばれます。では集団に属する者同士で保身しあっている状況で出て行かなければならないとされる人物を選ぶ場合に最も保身出来る選択肢となると、その集団に新たに加わる者を出て行かなければならない者として選ぶ事になります。利害関係があまりなく、新たに入ってくる新参者と古参という違いと未だ仲間意識が弱い為に仲間とは認識していないなど、そういった違う何かを口実として選び、そしてその集団の大多数が同じ様に保身出来ると言う強みがあります。
そうした選択を保身から行う者達が社会にいる場合、新たに入ってくる者というのは何かの理由で外部から移転する者なども居ますが、力関係なども含めて最も選びやすいのは新たに生まれてくる者です。生まれたばかりでは口も聞けずに反論する事も出来ず、また成長過程においては知性が未熟である為に反論出来るだけの証拠や論理性を持ちにくく、さも2者間で互いの権利を侵害しない合意があるかの様に扱う事が出来ます。
その方法が確立される事でその集団に属する者は同じ方法が通用する間は他の改善策を行おうとしません。自身は別段努力らしい努力をする必要もなく、他者を貶めて全ての不都合を押し付けるだけで済むのであればその根本的な原因を改善するよりも楽が出来ます。例えば暴政を敷く権力者を排除しようとするよりも定期的に生贄として女を差し出すという方法が考えられます。それだけで済むのなら暴政を敷く権力者が居ても自身の生活に何の不都合も生じず問題なく生活出来ます。例えば常に一定の生贄を用意する事で、その者達に自分達の犯した罪を押し付けて罪から逃れられるならその押し付けられる者に自身がならなければ大抵の事は許され楽な暮らしが出来ます。
そうして不都合な問題があれば他者に押し付ける事で身代わりにする方法を繰り返していきます。
この方法が日常で当然の様に行われる様になると、大多数に属しているかいないかが重要な要因になってしまい、より多くの支持を得たり従わせる事が強さとなり、その強さで他者に同意のない物事を押し付ける事が出来る様になります。ただ大多数に属しているというだけが強みになり、何か他と違う部分を認識させてしまえばそれを口実にして何かの不都合を押し付けられる為に誰も異論を唱える事もなく出来ず、その集団の方針に問題があっても誰も指摘出来ない状況になります。そしてリザルトセットにあるかつての同様の事例を使って、罰せられずに出来る合法な行為を繰り返そうとします。
話を戻しましてリザルトセットの結果を見て逆算して行為出来るという事はそこに改善若しくは改悪の余地があるという事です。例えば、かつてある人物Aが偉い立場になった時に傲慢な態度を取り周囲に問題を押し付けて利益を得ていたが立場を失い弱い立場になった時に周囲から今度は逆に問題を押し付けられる様になるという結果があったとします。その時に周囲から問題を押し付けられる状況であっても誰もそれを異常だと思わず自業自得だと思って黙認した状況が作られたとすると、そこに罰せられないで出来る状況というものが出来ています。なら誰かに問題を押し付けて楽な生活がしたいと考えるなら、誰かに傲慢な態度を取る様な状況を作り出せば良く、もしうまく行けばその者が弱い立場になった時に問題を押し付けても『自業自得』という既成事実を作って楽が出来ます。そしてその状況をいかに作るかを追求する様になり、相手を錯覚させて能力があるかの様に思わせ、かつ自身は卑屈な態度を取り相手が傲慢な態度を取る様に誘導し、少しでもその様な態度や言動を行えばそれに合わせて自身の発言を調整し既成事実を捏造します。それをより確実にする為に、あえて相手を良い職に付けさせた後に傲慢な態度をより取りやすい状況をつくり、しかし実際には能力が足りない為にやがて職を失い、職を失った後の弱い立場になった時に『自業自得』だという理由で問題を押し付ける方法が確立されていきます。ここで効率を上げるには『傲慢な態度を取って他者に対して踏みつける様な行為を行った』という事実を充分に作れたならすぐに立場を弱くさせると傲慢な態度を取っていた期間は短くそれ以降の弱い立場の期間が長くなり得られる利益も多くなり、それをいかに効果的に行い最大限の利益を得る事が求められる様になります。それに成功した場合には別段努力せずとも楽に利益を得る手段が手に入るのですから知性が低くなぜしてはいけないかが分からず罰せれらないならしても良いと思う事が出来る人物ならその方法を行います。
この様な逆算で悪意を持つ人物が他者の一生を見た場合にはどれだけの利益が生まれるかを考えたとします。成長時に掛かるコストに介入出来れば自身に利益が最大限得られるように物事を選択出来ます。一生における重大な行事に介入出来ればそこでも利益が得られます。成長するにあたって食事環境を利用してその者の性格が歪む様に出来、また、周囲の人物と協力して間違った価値観を植え付ける事も出来、その人物がより浪費しやすく他者に暴力をふるったりする様なルール違反をしやすく出来ます。そうして不利な状況に陥りやすくしながら良い職に付けさせ、その職の時の良い収入で試算して、盛大な行事をさせたり物を購入させ、長い期間の負債を抱えさせます。その後に口実を見つけて職を失わせると弱い立場になり、良い立場の時に傲慢な態度を取っていたり、そう見えなくもない言動をしていたならそれを口実にして弱い立場になった時に問題を押し付ける事が出来ます。そして不利な状況に追いつめる事が出来れば誰もやりたがらない様な職に就くしかなくなるように出来るので、必然的にその計画を仕掛けた側は楽な職に就きやすくなります。短い間だけ楽をさせた分でそれより長い期間を利益を得る為の道具として使う事が出来る結果を得ます。
しかし本当にそれだけで済むでしょうか。では次にその子が生まれる権利そのものを利益に変える事が出来ます。戸籍というものは本人確認には重要なものであり、集団に属していない者を識別する為にも必要なものです。簡単には手に入らず手に入れる事が出来るなら高い価格をつけるでしょう。わざわざ知性を下げて間違った情報を与えて正しく状況判断出来ない様にした人物が居るのです。ならその者の子だと錯覚させて他者の子を女に産ませてその者に育てさせるのが効率良い方法になります。その他人の子の親は自身で育てる手間が省け、費用も掛からず、要点だけ教えれば良く、そして戸籍、つまりは生存権を奪えます。そうして自身と共犯者の数を増やせば増やす程に多数派となりその権力は強くなり、より多くの者を使って利益を得る事が出来る様になります。そして充分に育てさせる事が出来た後には仮に死ぬ事で利益に変換できるのであれば殺して、無事悪事を指摘し暴露する存在が居なくなり安泰になります。
もう一度話を戻しまして管理者や権力者が行う不正行為とは例えるならどういったものかと言えば、水槽に水を入れた状況を考えてみてください。水槽に水漏れする穴がなければ水は漏れずに問題なく使えます。しかし、それを管理する者が不正に水を汲み出して利用したらどうでしょうか。その不正を管理する者が不正をする事で誰も不正行為を抑止出来ません。するとそれは水槽に穴があって水漏れしているのと同じになってしまいます。しかし水槽を見れば穴空きがないから水漏れはしていないと言え、そこだけを見れば何の問題もない様に見えます。ですから管理者は自制出来る必要があり、自制出来ない管理者を配置してしまったならその管理者が扱うシステム自体がどれだけ完璧だとしても瑕疵は生じ、不正行為は行われます。
これは知識についても同じです。知識を使う者が自制出来ないのならその知識そのものがどれだけ精度の高いものでも、知識を使う者がそこに瑕疵を見出し自身に都合の良い様に扱うので、知識そのものが与える正当性とそれを使った行為自体の正当性はイコールではありません。
この錯覚は魔導学の手法で悪用しやすいものになります。。物理的な現象など限定された条件下において確固たる根拠のある現象を基に積み重ねてそれ自体が正しいと主張出来る為にその現象を使った物事も正しいと錯覚させる事が出来ます。その現象を起こす行動自体は正しくても行為として正しい証明にはならず、実行者が知識の使い方自体を選択出来る場合は瑕疵を生じさせる事が出来ます。
以前も言いましたが例えば臓器摘出手術をしたとします。手続きを行い様式を満たし手術を行います。一方でもし臓器摘出手術が必要ないにもかかわらず、臓器摘出手術が必要だと判断され手続きを行い様式を満たし手術を行った場合にはそこに正当性はありません。もしそれが患者への私怨や摘出した臓器の売買目的であった場合、正しい手順として策定された様式と手続きという知識はその行動に正当性を与えません。」
エールトヘンは締め括る。
「私達は試行を繰り返し、成功した場合も失敗した場合もリザルトセットに蓄積して有効利用します。その際にそこにある知識をどう扱うかは扱う者の性質に依存し、間違った使い方をする者は間違った使い方をチャレンジアンドレスポンスして追及し望む結果を得ようとします。繰り返される行為は成功も失敗も正当行為も不正行為も繰り返されるたびに過去の結果から情報を得て蓄積し改良されていきます。正当行為は正当行為としてより複雑に、不正行為は不正行為としてより複雑になっていく状況で何が正しいかを判断するにはやはり高い知性が必要になります。お嬢様は貴族です。配下の者が試行した結果としてより不正行為を行おうとする可能性を知る必要があります。私達はその善行も悪行も私達自身が途切れない限り、時には社会が崩壊して未分化な状態に戻りますが基本的には時間の経過でより複雑になります。その様な社会において、複雑化して派生しようとする不正行為を抑止し、派生する可能性を排除して不正行為を行える状況は未分化な状態へと退化させ、正当な行為はより複雑化させて高度な社会を維持出来る様にしていく必要があります。その為には支配者は状況をより詳細に見極める能力が求められ、社会を安定させるには高い知性が必要になります。ですから、今日も頑張りましょう。」
じゃあ、あなたの言っている事は何が本当なんだ、とか言われそうなくらいに違う立場からの視点で書いていますが、それを統合して整理できた時に世の中で何が起こっているか何が起こり得るかを知る事が出来ます。
-->それが選ばれない時は、その干渉に気づかれた時であり、気づかれないなら選択者は自身の判断基準で優先順位の高い選択を行い、その優先基準が知られている場合には干渉したい者が選ばせたい選択が最も優先順位が高くなる様に干渉される可能性があります。
<--よくやるアイスホッケーネタです。それ自体には触れていない、から合法だ、という揚げ足取りです。
うぃきさんの小麦粉のページの内の精製を見れば全粒からどれだけの小麦粉が得られるか分かります。全粒粉にすればその損失分がなくなります。つまりはそう言う事です。量が増え、分離する手間も省ける。それを同じ値段で売ることが出来ればそれだけ利益になり、なんらかの付加価値を謳って価格を高く出来ればそれだけ利益になります。こうやって、大多数を騙し利益を上げようとする者が居ます。同時に経済的な観点から、以前と同じ様に小麦を仕入れる事が出来なくなり、しかし皆が飢えるわけにはいかず、他の方法を考えた結果として全粒のまま使うという選択をした、という様にも受け取れます。それがどちらであるか、もしくは後者である状況を利用して前者を混ぜ込んだか、前者にしたいがために後者を口実にしたか、という判断が必要になってきます。玄米と精白米も同じ考え方です。
-->その社会に現在属している構成員全員の自身に都合の良い主観が一致しているからと言って、世界がそれに合わせてくれるはずもありません。その主張は子供が欲しいおやつを求めるのに似ていて、親が甘やかしてくれれば自身の主張通りになるかも知れませんが大抵はうまくいきません。
<--数学で微積分を使って自身に都合の良い答えが出たとしても微積分の成立条件を満たしていないのであればそれは不正解ですが、その成立条件が分からない、もしくはその条件があると欲望を満たせないからそんな条件はないと思い込みたい者が居て、周囲も同様だからと言ってその成立条件そのものがなくなって最初に出した答えが実現するかと言えばしません。しかしその者と協調者の心の中では成立すると思い込んでいますが、やがてどこかで現実との乖離が出てきます。
-->もし対象とした人物が容易に操れないのだとすれば、環境から変えていけば良く、私達は食物を摂取して栄養を得て身体を作りますので、その食事環境から変えていけば弱らせる事も可能であり、軽い食中毒状態を継続的に与えて悪心を抱かせると同時に映像や周囲の者の発言で徐々に思考そのものを偏向させていけばやがては自堕落と呼べる人物が出来上がる可能性が高くなります。
<--犯罪者は環境が作るという事を忘れない様にしましょう。性質の問題もありますが、その様な性質に成る様に環境操作する者も居ます。