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S128 国家第一の下僕

シャーロウは国民に向けたインタビューでこう述べた。


「元首とは国家第一の下僕である。国の為に尽くす事こそが元首の役目である。」


その発言は国民に好意を持って受け入れられた。ともすれば権力を使って圧政を行う権力者が多い中、異彩を放つその言葉に民衆は魅了された。

しかし民衆が本当にシャーロウの意図する所を汲み取ったのかは定かではないがシャーロウは自身の考えを貫こうと考える。

シャーロウにとって国家元首とは私利私欲を排して国の利益の為に努力する存在でしかなく、誰かに偉ぶって崇めて貰う存在ではない。元首とは国を効率よく動かすための役割に過ぎず国を動かす道具の1つとも言え、道具が欲を出してあえて混乱を起こす事も効率を下げる事もナンセンスでしかない。

そう思うシャーロウはともすれば我欲に走りがちな者達に睨みを効かせる。



ケイはシドにシャーロウの言葉を教える。以前にシャーロウが言った素晴らしい言葉を我が子にも教えようとしたのだ。


「元首は国家第一の下僕なのよ。覚えておきなさい。」


それを聞いたシドは良い事を聞いたと思った。元首とは下僕で、つまりは自分達より、シドより下なのだ。シド達より下だからシド達より苦労して当然だ。だからシャーロウは普段から動き回っているのだ。シド達より下でシド達が楽する為に問題を片付けてくれる何とも都合の良く、しかも自分から成りたがる物好きな存在だ。せいぜいシド達が楽出来る様に頑張って貰おう。そうシドは思った。



ウーゴは国民に向けたインタビューでこう述べた。


「元首とは国家第一の下僕である。国の為に尽くす事こそが元首の役目である。」


その発言は国民に好意を持って受け入れられた。そうでなくては、とウーゴはほくそ笑む。わざわざかつての人気者シャーロウの言葉を持ち出したのだ。これで人気が取れなくてどうする。民衆がその言葉で騙されれば後の事はなんとでもなる。そんな言葉の正しさなんて後になってからでしか分からない。それまでにせいぜいウーゴの為に動いてもらう。そもそもが政策なんて効果が出るまで10年20年なんてスパンは当たり前なのだ。民衆が『なんか違うぞ』と思った頃には充分ウーゴは儲けた後だ。

そんな日々を夢見てウーゴは今日もかつての偉人を真似るのだった。



「元首とは国家第一の下僕である。国の為に尽くす事こそが元首の役目である。」


ポピーはその言葉を聞いて喝采した。シャーロウの再来だ!と心の中で叫んだ。婆様や母から聞くシャーロウの話はどれも耳に心地よかった。どうして自分はその時に生まれていなかったんだろうと思え、シャーロウの後に続く政治家達は皆、当たり障りのない言葉でのらりくらりと躱すだけで特に何かするわけでもなく取り立てて何かが起こったわけでもないが閉塞感は増していき、生きにくい世の中になってしまっていたので、ポピーはこれから暮らし向きは良くなっていくんじゃないかと期待した。ウーゴなら大胆な方法で何か変えてくれるんじゃないか、そう思ったポピーはウーゴを熱心に応援しようと決めた。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「誰かの言葉は受け取り方が違うだけで別の要素を強調されて受け取られるという事ですね。」


「概ねそう。」


「私達は概念を定義してもその実用において、明文化していない定義による自由度が与える影響で同じ概念を使っていてもそれに付随する要素が違う場合があります。以前にも言いましたように誰かにとっての『料理』とは高い技術で調理するものであり、別の誰かにとっては茹でたり焼いたりするだけのものであり、別の誰かにとっては誰かが作ってくれるものであったりします。しかしどれも『料理』と呼び、誰かが発言の中で『料理をした』と言ってもそれがどの様な料理なのかはそれだけでは判別出来ません。そうした場合に受け取り手の知性が低いかあえて曲解しようとすれば解釈が変わります。

私達は思いつかないものは思いつかず、自身の知り得る範囲でしか推測出来ません。場合により予想だにしない何かがあるかを推測しますがそれは以前に推測した結果と違う結果を得て、自身の予想と違う結果が起こり得る事を体験したからに過ぎず、それが何になるかを思いついているわけではありません。しかし思いつかなくとも起こり得る結果の予測の範囲を特定して対策する事は可能であり、そうして起こり得る不測の事態を制御しようとします。

しかしそれは自身が自身に対して行う方法であり、自身から生じた行為の結果を他者が受け取った場合の方法ではありません。自身の行為をどう受け取るかは相手側の知性による影響が大きくなります。そしてお互いに同じだと思っている概念定義も細分化されていない部分による差違やそもそも環境が異なる為に様式が違う場合やその定義に使われる要素の定義の違いがある可能性があり、発言者の意図が正しく伝わらない可能性があります。発言をより正確に受け取ろうとすれば発言者と同程度の知性が必要になり、また、環境も出来る限り同じでなければお互いの持っている情報の違いにより差が生まれて正しく受け取れません。

今回の話では『元首とは国家第一の下僕である』という言葉が使われています。この言葉は元首という役割の権限の大きさとその影響力は国にとって最も大きな影響を与える為に、それだけ責任が存在するという意味を持ちます。下僕の様に主人の指示に黙々と従い、不要な欲を出さずにただ従っていれば良いという考えになります。元首の主人とは国であり、国という主人を喜ばせる為に使役される存在だと主張しています。

しかし受け取り手の知性が低い場合や性質が悪質の場合にはそう受け取られません。そういった者達は自身の性質が悪質である為に行われる対応もそれに合わせたものであり、その世界が基本になります。そういった世界においては話合いで解決する事は少なく暴力や脅しで問題を押し付けて片付ける傾向が増え、それに対する対応も媚びや賄賂などに偏ります。そういった世界において質の悪い主人に仕える下僕とは大抵において質が悪く、逆に質の悪い対応をしなければ生き残れない場合もあり、その環境にある情報も偏ります。主人は下僕が従わないなら体罰を容易に与え、下僕はそれを避ける為に媚びもすれば賄賂も贈り、嘘も付けば隠しもします。そして主人は下僕が悪質な行動をする為に更に体罰を行って不正をしない様にし、悪循環のまま環境が続けられる状況においては、下僕とは雑に扱われ蔑まれる存在だという認識が定着します。

ではそういった環境に居る者が『元首とは国家第一の下僕である』という言葉を聞いた場合にどう受け取るでしょうか。知性の低い者にとっては役割が偉いのか個人が偉いのかの区別がつきません。システムが与える役割を私達が担当する時点で、概念上の役割は個人の上に重なり、その個人が偉いから指示しているのか役割を与えられたから指示しているのかの区別をつける事が出来ません。その様な者にとっては主人や上司とは気分次第で下僕や配下に体罰を与えたりする存在になり、主人や上司はそういった体罰などをしても良い偉い存在だと認識します。そういった者が先程の言葉を聞けば元首とは第一の下僕であり、自分達より下の存在で、自分達がされている様にこき使ってよいのだと誤認識してしまいます。


今回の話で使われている言葉の発言者の住む環境という世界では下僕つまり従事者はそんな扱いを受ける存在ではないでしょう。主人も安易に体罰を与えず、下僕も与えられた役割を忠実に勤めようとするのでしょう。その様な違いを持つ2つの世界において同じ定義の言葉が表す対象の要素が違い、その差は同じものとして扱うには隔たりのあるものになります。しかしその基本的な部分は同じである為に同じ言葉が使用され、そこに存在する要素の違いを知る事がなければ容易に混同して扱う様になります。

本来であれば別の言葉で分けるべきものでもそれを扱う者の知性では増えた言葉をうまく扱えない可能性があり、それでも教えようとすれば近いものを使用する為に、言葉を増やして分けるといった方法は使えず、しかし混同する言葉を使う為にその者の持つ情報で歪められ間違いを起こす原因になります。


『元首とは国家第一の下僕である』という考え方はノブレスオブリージュにも通じます。貴族は民という役割を担う者を守る役割を持ちますが、役割を持つからと言って絶対に民を守らなければならないという義務を持つわけではありません。絶対に民を守らなければならないという義務があると思うのは守られたい民の願望です。ではそもそも民は普段の生活において民という役割を命懸けで行っているでしょうか。それが開拓民などで常に命の危険に晒されながらも住める場所を作ろうとしているならそれを護衛する者にも同様のリスクを背負えと言えるでしょう。しかし既にそれらが過去の出来事となりリスクの低下した状態で一方的に相手にリスクを押し付けるのはどうでしょうか。貴族は民の納める税で生活しているから当然だと言う者も居るでしょうが、貴族は貴族で日常の役割があり、普段から役割を果たしている事に違いはありません。

また、民は1人だけではありません。貴族が義務を負うというのであれば民は権利を持っているはずです。1人の権利を優先してそれ以外の他者の権利をないがしろにするのでは貴族としての役割を果たせません。そして貴族もまた、そこに住む民の1人です。民の為に自らの命を危険に晒すリスクを強要される理由などどこにもないのです。自らの命を危険から遠ざけながらなおかつ役割を果たすというスタンスが貴族に求められ民からの強制で徒にリスクを抱える必要はありません。問題はそれすら分からない民が存在するという事であり、貴族が義務を行使しないという事ではありません。民は民で民としての役割を果たし、それに貴族が貴族の役割で応える。しかし知性が低ければ自身の努力義務を放棄して依存している事に気づけないまま不利な状況になった時に自身の願望で物事を判断して押し付けようとし、自身に都合の良い部分だけを見て行為します。」


エールトヘンは締めくくる。


「私達は世界にある全ての情報を同時に手に入れる事が出来ません。そして私達の限界が時空間上に制限を与え限定された情報で物事を判断する様に私達に選択を迫ります。その選択を迫られた状況が仮に私達自身の過失で起きてしまったのであれば後に出来る事は後悔しかありません。自らが不利な状況にならない様にする為には知性を高める必要があります。また、誰かが知性が足りない為に間違った判断をしてしまった時にそれを指摘するにも多くの情報が必要になりそれを得るための知性が必要になります。そして意図的に判断を間違い利益を得ようとする者も居り、知性が低い振りをして利益を得ようとして失敗した時は知性が低い事を理由に責任から逃れようとする場合があり、それを識別して判断する時にも多くの情報が必要になり知性を高める必要があります。お嬢様は貴族です。民を教育しようとする時、民が間違ったものの捉え方をしていないかを識別する必要があります。例えば更なる向上を促すための施しを、受け取るのが当然で困った時には必ず助けて貰えると依存する様なものの捉え方をしていないかなどを確認出来る必要があります。そういった事を怠れば、意図する結果になるかは怠った分だけ賭けに近くなり、実際に何かの問題が表面化した時に想定した状況と違う為に対策が取れなくなる事もあります。普段からの環境作りが問題が発生した時の対処の自由度を上げ、起こり得る災害を未然に防ぐ事になります。そのためにも知性が必要になり、さぁ、今日も頑張りましょう。」


フリードリヒさんも二律背反している方なので正しいとは思えませんが自国を富ませた事については良い君主だったと言えるでしょう。しかし、問題は民衆に受け入れられやすい思想を使って民衆を錯覚させて誘導したとも言えます。言うならば民衆の受け入れやすい主張をして民衆を味方につけてその権力で、正当性のない行為を、錯覚した民衆を使って実行する作戦を使った、とも言えるわけです。恐らくフリードリヒさんは自身が君主になるしかない運命を受け入れたが同時に自身の思想は手放さなかった為に2つの矛盾する方法をどうにかまとめようとはしたが失敗したという事でしょう。君主としての行動が影響しない部分では自身の望む施策を行い、君主として行わなければならない時には自身の考えを封じて行動した、為に行動に一貫性がなくなったと言えるでしょう。簡単に言えば、フリードリヒさんから見た啓蒙主義は高度なものではなく大体こういったもので、何だか気持ちの良いものだというレベルから少し成長した程度だったのでしょう。自身の可能性や国の未来を明るいものにしてくれるもの、というイメージが先行してそれを具体的に実践する論理性が欠けていた。しかし曖昧でも出来る事はあり、施策を施した。しかしあいまいで高度でない為に、その主義思想と戦争を仕掛ける事が相容れない事である矛盾に気づけずに、行動した結果、結果論として民衆を自由に操れる駒として啓蒙主義を使ったと言えます。操る為に民衆の受け入れやすい思想を強調した、とも取れます。戦争に関しては裏の事情次第で別案もありますが知らない情報で憶測は出来ないので妥当な線で考えました。

ドラマチックな展開を考えると実際は処刑されて替え玉が用意されたなんて考え方も出来るでしょうが。


うぃきの啓蒙思想の文面はどうにも作為的に感じます。相手に苦手意識を感じさせて遠ざける方法として分かりにくく難解な文章にして手間がかかる様にする方法があります。時間のない人は読めず、また読んでも充分な知識に出来ず、難解であればあるほどその傾向は強くなります。今のうぃきには広まって欲しいどうでも良い知識は簡単で分かりやすく書かれる傾向があり、広まって欲しくない知識はあえて初心者の入門や足掛かりに使えそうな書き方がされずに知識として失われて行くようにしている様に見えます。

そもそもがうぃきの文章の在り方が旧時代的と言えるでしょう。そこにある知識を全ての年代が同じ文章を読むというのがナンセンスです。学校教育で大学と小学校で同じ文章の書き方でされているでしょうか。ですのでああいったサイトは本来、グレードを設け、下のグレードから上のグレードまで辿れる様にして、得たい分だけ得られる様にする必要があります。それがなく分かりにくく難解な文章で書かれるなら、意図的にその知識を得ようとしたものに対して妨害する事が出来ます。


ですので啓蒙主義というものの足掛かりを書いておきます。うぃきにも書いていますがその語源が「光に照らされる」とあります。これは何を意味するかと言えば、暗闇の中でどちらに向かって良いか分からない時に一筋の光が差し込み、他に目印になるものもないのでその光の差す方へと歩いたら暗闇から出られた。或いは、鬱蒼とした光の差し込みにくい迷いの森に彷徨っていて出口が分からない時に森に差す一筋の光を見つけその光を頼りに歩いたら森から抜け出す事が出来た。

この表現の表すところは、私達が争い苦しみの中から抜け出せない時に、まるで暗闇に一筋の光が差す様に争いを止める事が出来る閃きがありそれを実行したその恩恵を受ける事が出来る、というものです。どこにも逃げ道のない苦しみからの解放感と閉塞感のある暗闇からの解放感を同じ様なものとしています。

そこから私達は苦しみから逃れて争いを失くす様に行動する性質を持つ、鬱屈とした暗闇からはるか高みから差す光を求めて進む性質を持つのだ、という解釈になり、啓蒙主義は性善説を基本とします。

あえて争いを起こし混乱させる様な性質ではなく争いを失くし皆で分かち合う性質を持つ存在だと主張しています。


しかしここには瑕疵があります。今回の小話にある様に、社会の全ての者が同じ価値観を有しているわけではないという事実があります。社会の作り方がほとんど同じ価値観を持つ様に作られているなら別ですが、そういった作り方が出来るには高い知性が社会の構成員に必要になります。

ですので、啓蒙主義に見られる行動には、"単に苦しみから逃れたい"だけの者と"私達の抱える問題を解決して苦しみを遠ざけ皆で繁栄を共有する"という考えを基本とした行動が行われます。前者は性善説で語られるべき存在の行動ではなく、後者は性善説で語られるべき存在です。前者は苦しみから逃れられるならするが逃れられないなら行動せず、そして啓蒙主義を主張して得られるメリットにより苦しみから逃れられるから主張しているだけの場合があり、手段が目的になります。要は真似事で得られる利益が欲しい者とそうでない者を判別出来ていないと言えます。また、啓蒙主義で語られる行動をしていれば"なんだか良く分からない"が問題を解決出来ると言った程度の者も居るでしょう。主義思想に必要なのはその主義思想における考え方で"問題を解決出来る様にしていく"事です。そういった問題は常にどの様な主義思想でも発生します。そういった事を前提にその主義思想の発展を見る必要があります。


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