S120 カンフーアクション
今回も魔導学は好きに置き換えてください。
政治家ラザレスは汚職事件でスキャンダルを起こし、弁明の為に会見を開いた。その会見の席で民衆代表アイナはラザレスの罪を追求する。
「ではラザレス氏。あなたは今回の収賄容疑について自身の関与はないと仰るのですね?」
「勿論です。一政治家として不正を行うつもりはありません。」
そうラザレスは答え、アイナもまぁそう来るだろうなとショーパフォーマンスの一環として行われた答弁は気にせずに続ける。
「しかし火のない所に煙は立たずとも言いましてあなたがカッティエ商会の会頭と会い便宜を図ったという噂が流れているのですが。」
「記憶にございません。」
健忘術数の型!
アイナはやはりそう来たかと顔を少し顰める。相手もそれなりの任期をこなしている政治家だ。一筋縄ではいかない。しかしアイナもそう簡単に引き下がる気はなくこう言い返す。
「しかし確かにあなたの後援会名義で不正な金銭の流れが確認出来ているのですが。あなた以外の誰に利益があるのでしょうか。そう考えればあなたの関与は疑われますが。」
そう、健忘術数の型で構えをとったのならばそれに対して利害一致追及の型でこちらも構えれば良いのだ。さぁ、どうする、とアイナが相手の出方を待っていると
「秘書のやった事です。」
責任転嫁の型!
堂々とこの構えを取るという事はもう裏でトカゲの尻尾切りの準備は出来ているのかも知れない、とアイナは後手に回ったかと思うがそれでも返す。
「しかし秘書の方の行動を管理されていなかったのであれば、そもそも管理能力が足りず政治家として不適格だと言えませんか?」
責任転嫁の型には権限主体追及の型で返すのがセオリーであり、この構えを取れば責任転嫁の型の弱い部分を突く事が出来る。さぁどうする、とばかりにアイナが構えると
「それは私の不徳をもっていたす所であります。今回の一件は誠実に受け止め反省し今後に活かしていきたいと思います。」
反省擬態逸らしの型!
責任転嫁の型では受けきれないと考えて攻撃を受けつつもダメージを逸らす作戦に来たか、とアイナは判断した。そうやって肉を切らせて骨を守る作戦で政治家生命を守ろうと言う魂胆か。だがしかしここで攻めを止めるアイナではない。
「つまり今回の件で責任を取らず議員も辞職しないという事ですね?」
そう簡単に逸らさせて成るものかと責任追及の型で反省擬態逸らしの型に対抗するアイナだがラザレスはこう言った。
「勿論何らかの罰は受けるべきだとは思っていますが今後の対応を検討する所存でございます。」
時間稼ぎ立ち消えの型!
やるやると言いながら結局やらないで世間が忘れるのを待つ作戦か、とアイナは舌打ちをしそうになる。だがまだだ、とアイナは返す。
「それで国民が納得いくとお考えですか?」
時間稼ぎ立ち消えの型には対応不充分指摘の型で返す。これでどうだとアイナはラザレスを見返すがラザレスは平然としてこう言った。
「わたしとしては誠意ある対応を行うだけです。」
責任放棄すっとぼけの型!
答えている様で全く答えていない返答で煙に巻きに来たかとアイナは悔しそうに思うが、この型を出してきたのならこの先の答弁は同じ手口でのらりくらりと逃げるだけだろうからここは一旦退いて攻め手を考える方が得策かと思い、アイナは質問を終えた。
そしてアイナは仲間の所に戻り報告し、仲間に首尾はどうだと聞かれて答えた。
「やはり難しいですね。奴も腐っても政治家。少しは功夫があるようです。」
そんなアイナの答えに相棒のミックが言う。
「みたいだな。攻める型に合わせて卒なく隙を失くす型を取る。だが型は取ったんだ。事実確認して違いが判明すれば切り崩せる。もうすぐ皆が情報を持ち帰るからそれで対策を練ろう」
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「その前に少しお聞きしたい単語があります。」
エールトヘンはそう言って話の中のいくつかの言葉について詳細を尋ね、ローレンシアはそれに答える。するとエールトヘンは頷いてから話し出す。
「なるほど。リザルトセットに多くの情報が集まった結果としてある指摘にはこう答え返すというパターンが出来上がり、それを知りさえすればリザルトセットにある結果を得る事が出来、安定した対処が出来るという事ですね。」
「概ねそう。」
「リザルトセットにある結果はその結果によってはそこに示される行動を真似ればほぼ無条件に同じ結果が得られるものがあります。当然全てではなく、それ以上に細分化する必要がない程に状況を正確に分析して判別出来た結果があるとすれば既に必要な条件をその結果が示す状況内に含んでいるので、真似る事が出来ればほぼ無条件に成立します。その他にも限定的に成立する条件があり、主には物理的なものだけに求める結果が集約されるものや更に細分化出来る事は予想されるが判別する方法のないものなど、必要な部分のみに限定した場合やそれ以上の細分化が何らかの要因で出来ない場合になります。
必要な部分のみに限定する場合は、それ以外の要因が誤差と呼べる結果でなければならずつまりは他の条件はどう変わろうと欲しい結果のみに限定すればリザルトセットから抽出した過去の結果を真似るだけで同じ成果が得られる方法です。その結果として他の物事への影響は考慮しません。
それ以上の細分化が何等かの要因で出来ない場合は、技術力が足りないもしくは私達が行為する事により定義が与える条件を成立させる必要があるが表面上は目に見えない為に判別出来ずそれ以上の細分化が出来ない時になります。
もしこの内のどれかになればリザルトセットにある状況を真似る事で欲しい結果が得られる事になり、更にこの内の最初に言いました"それ以上に細分化する必要がない程に状況を正確に分析して判別出来た結果"であれば私達の求める正しいリザルトセットの運用に適合したものになります。しかしその様な状態に至るまでには不完全な私達は何度も間違いを犯し、多くの間違いの結果を集めてその中からより間違いではないものを選び出しそれを私達の正しい答えにしていく事になります。
そうして細分化して精度を高めていく事になりますが、ここでは私達が悪質である為に楽に利益を稼ごうとしてにあえて細分化を行わずに留め、最大限利益を稼ごうとする方法については割愛します。
その過程において、何らかの方法で知覚出来、再現性があるものを私達は求めますが、再現性があるという事はその全容は分からなくとも成立する条件は少なくとも含まれているという考え方になります。ここで注意が必要なのは、逆に言えば"何だか良く分からない"ものでも再現性があれば扱う事が出来、そしてそこに問題が生じなければ"何だか良く分からない"ものでもそのままにしてしまう可能性があるという事です。こういった再現性という条件は魔導学において必要条件として扱われます。誰が行っても同じ結果になるというのは重要であり、その事象を焦点とした問題においてはその事象が間違いなく起こるかどうかで争う事がありません。
しかし私達は行為します。行動だけをするのではありません。未分化な状態から細分化した状態へと移行する時は未分化な状態での行為は細分化された時の行為の一つであり、未分化な状態で行為した時の行動は細分化された状態で現れた行為のどの行動であるかはわかりません。仮に映像を記録して集めたリザルトセットを考えると、その映像が現時点で求める結果の全ての条件を含んでいるかはその試行回数を重ねなければ分かりません。
但しここではリザルトセットを含めた状況を判断して概念定義を明確にして分析する思考実験を繰り返した者がその情報を基に新たな状況を判断する方法を考えません。
そう考えた場合、リザルトセットにある状況というのは一種のブラックボックスであり、"何だか分からない"が必要な条件が含まれたものという解釈になります。そうするとリザルトセットにある結果を作り出す状況を正確に判断する能力がなければ"なんだか良く分からない"もののまま扱う事になり、その結果を得る為に真似る事を繰り返しチャレンジアンドレスポンスして経験を得る事になりますが、先ほど言いましたように、もし仮に欲しい結果を真似る事で得られたなら目的は達成したので、知性が足りずそれ以上の状況判断をしようとしなければ、そのリザルトセットから選んだ結果を真似る行動を繰り返すだけになり、結果が得られる事以外の影響を考える事はありません。
この時、自身で正確にリザルトセットから選んだ結果が示す状況を判断していない為に、もし分析出来ていない要素があれば自身の想定外の影響を与えて思わぬレスポンスが返ってくる事になります。また、自身の欲しい結果のみに焦点を当てて真似る行動は、その知性によっては主観で行動する事になります。ある状況で自身の欲しい部分のみを考えて行動するという事はその他の物事への影響を考えないという事であり、他者への影響も考えないという事になり、知性が足りないか悪意があるかすればする程にその傾向が強くなります。
簡単に例えるなら子供が水の入ったコップを運搬中に地面を歩く蟻に興味を持ちもっと良くみようとしゃがんだ時にコップに入った水をこぼすが気づかず、蟻に興味を失ってまた歩き出して目的地に水の入ったコップを届けるというようなものと同じになります。それぞれの行動は自身では正しく行っているつもりが自身の判断能力の及ばない失敗に気づけません。見たいところだけを見るとはそういった行動になりがちであり、その場その場の条件のみを考えて行動すると一連の行動につながりがなくなり整合性が取れないが、誰かが与えてくれた知識を用いて条件を成立させようとして同じ様な事を行ってしまいます。
この場合に問題になるのはその基準に対して知性が足りず子供の様な行為を行う者が肉体は成人年齢に達しており、他者を脅迫して黙らせる事の出来、かつ誰かに与えて貰った知識から生み出された武器を使うだけの知識を持っている事で、子供の様な行動をしても他者を脅して黙らせる事で"罰せられない"状況を作り出せる事です。
そして知性が足りない為に自分達が目の前の物事に対してだけは足りない知性で分かる範囲で正しいと認識して行動し結果を出している為に、「自分達は悪くない」と思い込み、物事がうまくいかないのは他者に原因があると錯覚し、また、自身の行動が争いの原因を生み出しているにもかかわらずそれが分からずに争いになった時に武器を使って相手を黙らせようとします。そしてその結果の蓄積からある状況なら武器やその他の道具や方法を使って相手を黙らせる事で自身の主張が正しいか正しくないかに関係なく押し通せる結果を得てそれを繰り返す様になります。それら全て"何だか分からない"ものを判断して細分化する途中で本来求められる基準に到達せずとも、自身の扱う条件の組み合わせを用いれば欲しい結果が得られる為にそれ以上の細分化を止めた事で行われます。その要因としては行っている事が正しくない事に気づけない、もしくは欲望を満たす為にそれ以上の細分化をすれば楽に利益を得られないから細分化せず細分化されない様に状況を整えるといったものがあります。
話を少し戻しまして仮に2者が争いになり、どちらに原因があるか揉めたとしましょう。
例えば車を考えてみましょう。ある車Aが進行中に前方側面から別の車Bが進行してきたとします。Aの前方には交差点があり、AはBが止まってくれるものだと思って進行したがBは停まらずAとBは衝突してしまいました。ではその時どちらが悪いのかという問題になります。
どちらも自身の非を認めなければ争いになり、喧嘩両成敗に出来れば良いのですが自身を『間違っていない』と思っている者は不満を持つでしょうし、従わないでしょう。そうして不問にした場合はまた別の問題が生じ、不問に出来るなら何等かの別の利益を得る為にあえて問題を起こす可能性が出てきます。
その様な事はここでは考慮せずどちらが間違いであったかを決める為に状況判断が必要になります。この時、もし交差点に信号がある、または、A若しくはBが通って来た道路のどちらかが優先道路であるという場合には争いは比較的簡単になります。どちらかが明確にルールを破ったから衝突したのであり、その事実がどちらが悪いのかの根拠になります。では信号や優先道路が無ければどうなるでしょうか。どちらも若しくはどちらかが自身の非を認めなければ争いになり、非は認めても相手側の方がより間違いがあると主張して受け入れさせようとする可能性もあります。
信号などの根拠がある時はそれを用いてどちらが悪いか若しくはその割合を判断する基準に用いる事が出来ますが、根拠がない時は互いの主張で折り合いがつく妥協点を探す事になります。その際に当事者同士の力関係が影響し、実際にはほとんど瑕疵がなくとも黙らされ、相手の言い分を受け入れる事になる場合があります。こうして誰かが仲裁に入らない場合には当事者同士の主観の押し付け合いや願望の押し付け合いになり、より巧妙に話術を使うか暴力行為を暗示して脅迫するなどして相手側を黙らせた側が勝ちやすくなります。
信号などの根拠がある場合とない場合の両方の結果をリザルトセットに集約して扱う際にはそれを眺める者の知性や判断能力がその結果を分析出来るかどうかに影響し、基準に満たなければ正しく分析出来ずにリザルトセットを扱う事になり、しかし、それを扱う際に自身の判断のみでしか行わないのであれば間違いに気づく事もないのが問題になります。
ではその結果をリザルトセットの中にある結果として得た者がその結果となる状況をどう判断出来るかという部分が問題になり、当事者でなければ知らない情報というものがあり、それを状況から読み解く事が出来るかどうかが必要になります。しかしそんな世界のあらゆる情報を常に扱っているかの様な方法は現実的ではなく、私達は多くのリザルトセットを集めて情報を要素として抽出して条件として考え知識モデルを作りそれに当てはめて判断しようとします。しかし、その判断能力が足りなければ知識モデルがあっても状況を正確に分析出来ません。条件の定義そのものや定義を構成する言葉や表現がうまく理解出来ず曖昧であればある程に条件は簡素化してしまい、リザルトセットにある結果をより単純に分析判断してしまいます。
ここでの例えで言うなら、信号などの根拠があるからある状態に辿り着いた結果があったとして、もしそれを眺める若しくは俯瞰する者の判断能力が足りず、信号などの根拠がある事を理解できずにその状況を判断すれば別の根拠や要因により結果が生じたと思うかも知れません。若しくはその荒い"ブラックボックス"の中の状態が分からずとも結果が得られるのだから正しいと判断するかも知れません。
そうすると誰かが見た場合には信号などの根拠によりどちらが悪いかが判明して話し合いの結果が得られたという結果も、お互いが互いの主観で主張し合って弱い側が黙らされて決着したという結果だと判断する可能性があります。もしリザルトセットにある結果をそう判断してしまったのであれば、それを現実問題に当てはめて解決しようとする際に間違った行為を行う事になります。信号などの根拠があるから強気に主張して受け入れさせた状況を、何か口実を見つけて強引に認めさせれば相手側に譲歩させる事が出来るを錯覚してリザルトセットにある状況を適用しようとするかも知れません。
では『信号などの根拠という簡単なものが分からずに判断する事はない』と主張する者は居るかも知れませんが果たしてそうでしょうか。その信号などの根拠と扱っているものはその現状を取り巻く社会のルールを基本にして成立している条件です。その情報がなければその根拠が正しいのかも分かりません。その場合は"信号という何だか良く分からない"ものがあって、その状態がAという状態であればこの状況が示す結果が成立する、という判断しか出来ない事になります。そしてそのAという状態であればどうなのかの根拠はその映像などの記録の中には存在しません。
そしてリザルトセットというものはその状態にもよりますが古来より集約してきたのであればそれぞれの時代から得たものであり、その時代若しくは地域性による慣習やルールで形作られているものであり、現状から得られた結果を集めたリザルトセットでなければ時代毎の差分を知らなければ正しく扱えない可能性が大きくなります。
例えば、ある時代では使われる仕草や言葉が現時代とは逆になっている場合、もしそれを知らずに判断してしまえば求める結果とは違う結果を得るかも知れません。そしてそれを知らない為にその結果が欲しい結果を得るには都合が良いから選んで真似をする可能性もあり、また、周囲をそうやって錯覚させる事が出来るなら自身はその間違いに気づいていても真似る事で欲しい利益を得ようとするかも知れません。
もしこれが管理される側であるなら争いになった場合に管理する側に仲裁を頼んでより妥当な判断で処理がされるかも知れません。しかし管理する側がこの様な間違いをしてしまった場合、それを制止出来る者が居なければ間違ったままに物事は進行する事になります。ですから管理者は利益などに関係なく知性を高める性質を必要とします。
例えば信号が『青で進め』、『赤で止まれ』だとします。先ほどの話で人物Aは信号が青で進行し、人物Bは信号が赤で進行し衝突し事故になり争ったとします。その際に人物Aが『Bは信号が赤で進行したから事故になった』と主張し、Bも仕方なくそれを受け入れるでしょう。この時、信号が赤なら止まれという指示であるのに止まらず進行したから間違いだ、という主張になります。しかしもし現状の環境がその出来事が起きた時と違い『青は止まれ』、『赤は進め』であったとすればどうでしょう。そうなると人物Aの主張は『信号が赤なら進めという指示だが進んだから事故になった』という何だか良く分からない解釈が出来てしまいます。そうなると何か口実をつけて相手を黙らせて受け入れさせれば間違いにはならないという結果を示す内容に見えてしまいます。
これは分かりやすい例ですのでそう簡単に間違えるものではありませんが、それでは他の物事はどうでしょうか。分かりやすいものなら問題ありませんが差が小さくて判断しづらい場合や、根拠が遠因過ぎて状況から推測も出来ない場合などは良くあり、そして私達は見たいものを見たがります。自身が見た状況が自身の欲望や価値観や利害関係により偏向し、そしてその間違いが自身の知性や判断能力の足りなさに起因している事に気づけない場合、自身が知らずとも間違いを犯してしまいます。
そして管理者は誰かに指摘して貰える状況にない場合が多く、常に自身は間違っていないかと自問自答し自制していないのならば容易く間違いを受け入れてしまう可能性が大きくなります。
先ほどの例も、もっと判断能力を低くして眺めた場合、人物Aと人物Bが事故を起こして互いに相手を黙らせようと言い争ったがAがBを黙らせて勝った、という解釈にまで単純化出来、そう分析した者は根拠がどうこう関係なく相手を黙らせれば良い、相手の都合の悪い事を言って相手に譲歩させれば良いと考える様になります。
この様に見たい部分だけを見る事で、リザルトセットにある結果の見たい部分だけを見て自身が読み取れない情報を考慮する事なく、自身の都合の良い解釈で扱って真似すれば同じ結果が得られると錯覚する者が現れます。
例えば2人が同じ場所で違う料理を作ったとしましょう。使う食材の一部が同じで、お互いに分量を決めてから始めたとします。その状況で一方が間違えて食材を多めに使ってしまったとすると食材が足りなくなり2人は揉めますが、しかし多く使った側が高圧的に接し相手を譲歩させる事に成功した場合、結果として食材が足りない側の料理に不備があり、結果から周囲はその者の失敗だと思ってしまう可能性が高くなります。
しかし他者が持つ客観的な判断とは違う為に、相手を黙らせて争いに勝った場合、新たな争いの要因になる可能性が高くなります。また、こういった考えの者はその知性の低さから不正行為を行い易くルールを守らない事が多いので利益を稼いで優位な立場になりやすく、そしてそういった者達が増えて全体の考えが"自身の罪を指摘されても相手を黙らせれば勝ちだ"というものが多くなり優勢になってもそれが客観的になったわけではありません。それは単に数の上で優勢を占めただけのデファクトスタンダードに過ぎず、客観的と言われるものは第三者として利害関係を考慮せずに妥当な判断をしたものを指します。この様な主観が集団の中で優勢になっても、それぞれの個々人の主観により出来上がっており、その考えを持つ2者が争った場合に負けた側が何の不満もなく了承出来るものではありません。勝った時は自身に都合が良いからその考えを受け入れるが負けた時は不都合だから受け入れない、という矛盾を抱えて行動する事になります。いわば全体の意思統一がされているのではなく、単に個々人が好き勝手に自分に都合の良い事を言っているだけになり、しかしそれが同じ形質を持ち、求める利益や避ける損失が同じで欲しい利益を得る為に都合の良い考え方が似通っているだけになります。
例えば盗賊団が他者を襲って盗賊行為をする時は一致団結している様にも見えますが、利益になるか損失になるかすれば仲間内で争うのに躊躇いがないのと同じです。自身が行う側なら受け入れますが行われる側だと受け入れられない考えで統一されており、そこにあえて意思の統一と表現する状態はありません。意思の統一とあえて表現する状態というのは、互いにその考えで問題なく、行う側と行われる側のどちらになっても了承出来る状態を指します。しかしこの考えにも欠陥があり、ここでの例の様に、外部に対して一方的に決めつける事が出来る場合にも意思統一出来ているとは言える状況が出来上がります。しかしそれを意思統一出来ていると言ってしまえば、次は内部に対しても同様の意思統一が行われる事を容認する事になります。外部に対して問題を押し付ける形でお互いの利害を一致させ自分達の集団が抱える問題を解決する際に行なっているのは、外部という存在を作り出し、例えば敵という存在などですが、そこに自分達が受け入れられない行為をしても良いという例外を作り利害の一致を試みています。その方法を容認する事は、自分達と自分達以外に分け自分達が受け入れられない物事を受け入れさせる例外を作り出す事を容認している事になります。そこに正しいかどうかは関係なく、利害の一致のみがあります。
しかし私達が争って来た実績がそれを正しいと錯覚させます。私達は数を増やし相対的に枯渇した資源獲得の為に利害の一致する者同士で集団を作り、利害の一致しない者と対立して争い、勝った側が資源を獲得して生き残る行為を繰り返してきました。その方法は環境に追いつめられて他に方法がなく受動的に行われますが、その実績を積み上げた私達は外部に明確に敵と呼べる存在が居なくなった後に資源の枯渇などで追い詰められた場合に集団を縮小させる必要に迫られ、集団の中で更に利害の一致する小さな集団を作り、集団内部の自分達の集団から見て外部の集団と利害で対立して例外を作り出し問題を押し付け、勝ち残った場合にそれを正当化します。
そして更にその実績を積み上げた私達は、そのリザルトセットにある結果が示す状況を見て自身の判断能力で判断し、集団内部であろうと利害関係が一致しないなら敵と認識して加害して良いと錯覚して行動する様になります。
こうして大多数に都合の良い意見がさも意思統一されているかの様に押し付けられ、少数はそれを受ける立場になり、大多数側に居る時は良くても少数になれば当然受け入れられないが数の論理に逆らえず受け入れるしかない状態になります。しかしそうした矛盾があっても例外を設ける事は楽に利益を稼ぐには都合が良く、"ラッキー"な状態であり、自身が利益を被るには実に都合が良い状態と言えます。
社会が高度になり規模が大きくなった時には明確に外部と呼べる存在はなく、かつての様な争い方も出来ない様になりますが、その方法で外部に不都合を押し付ける形で利益を得てきた者達は、その方法以外に利益を得る方法を知らないか、その利益が忘れられずに同じ方法を繰り返そうとし、そして正しいと思って行って来た意思統一は未だ主観の強いものである事に気づけず、規模の大きい社会では利害関係上遠い存在を考慮せずに意思決定を行おうとし、結果的に明確に外部と呼べる存在が居る時に行なった意思決定を明確に外部と言えない存在を相手に行ない、しかしこれまでの経験からそれを正しいと思い込みます。既に状態が以前とは違っている事に気づかず自身の考え方も変える必要がある事に気づかないままに行動してしまいます。
大多数の数の論理でデファクトスタンダードを作り出す事は、更に上の次元から見て、意思統一しているのではなく意思統一させられていると言えます。自身を形作る条件、つまりは自身の身体を構成する要素が与える制限と自身が属する環境から与えられる条件に束縛された中で自身の生存と欲望を満たす選択を選び続けた結果としてのリザルトセットとそこから得られる行動セットが形作られ、自身が自由に選んでいるつもりが自身の勝てない外部から制限を加えさせられて他にあるかも知れない選択肢を消去させられた中から選ばされています。
例えば猿の集団を考えると分かりやすいかも知れません。ボスが群れを取り仕切り、ボスが異物と判断した猿は群れから追放され、ボスに従わない猿も追放されます。ボスの命令は絶対で、しかしボスより強い猿が現れたならボスを追放して新たなボスになり、その新たなボスの基準で群れを統率します。その結果として群れが安定しているのなら群れの猿は意思統一されている様に見えます。しかしその行動を取る様になったのは猿としての性質と生存する環境が与えた制限の中から選んだものであり、その行動を選択しつづける間はかつて回避出来た現状の環境が与えるリスクは回避出来、しかし同時にそれは現状の環境をこれ以上克服出来ない結果を得る選択をする事でもあります。そして群れの猿全員が同じ行動を取るのでまるで意思統一されている様に見えますが、それぞれが現状の環境で最大限の利益を得てリスクを最小限にする為の行動を取っているだけであり、他の猿との合意はありません。猿として勝った場合には相手のものを奪うが取り過ぎず、負ければ大人しく差し出すが奪われ過ぎない状況をお互いがこれまでの経験の積み重ねから選択しているに過ぎず、環境に対して受動的に対応してきた結果に過ぎません。
そしてその示す意思統一されているかの様に見える性質はチャレンジアンドレスポンスの結果から生じたもので、数多くの試行の中で生き残る事が出来たものに過ぎません。別の試行を行った猿は居なくなり、残った猿は残った猿の中での行動を見て最大限保身が出来るものを選びます。
この状況から分かる様に環境から制限を与えられ受動的に行動した結果として示す性質である為にまるで意思統一されているかの様に行動する事になりますが、実際にはそれ以外の明確な違いを示す行動を選択できなかったというだけに過ぎません。
例えば目の前にたくさんの種類の料理があったとしてその1つを食べる事が出来るとすればそのバリエーションは豊富でしょう。では1つだけ料理があったとしてそれを選んだとすればそれは選んだと言えるのかとなり、選ばされたとも言えます。ではたくさんの種類の料理があってもそのうちのどれかに毒が仕込まれており食べれば死んでしまう場合はどうでしょう。それを多くの者がチャレンジアンドレスポンスをして食べて死ななかった者だけが生き残り、その経験を活かして食べても死なない料理だけを食べる事になったとして、果たしてそれは多くのバリエーションの中から1つ若しくは特定のものを何の制限もなく選んだと言えるでしょうか。安全かどうかを確かめる方法がなければ試行には常にリスクが伴い、そしてその代償と得られる利益を天秤にかけ、あえてする必要もないから選択しない結果を繰り返す事になります。
ここでは、あえて選択する必要もないから選択しない為に更なる利益を求める権力者にはその行動が不都合であるので、あえて弱者を追い込み選択する必要を生じさせリスクを抱えさせたままでチャレンジアンドレスポンスさせる方法については割愛します。この方法であれば、誰かにリスクを背負わせて行動させた結果として生き残った事実があれば真似る事で同じ成功を得られ、利益のみを得る事が出来、権力を使いその利益を奪う事が出来るので利己益を考えるなら効率の良い方法になってしまいます。そうしてチャレンジアンドレスポンスをする事が当然だと錯覚させる悪事もありますがこれもここでは割愛します。先程の料理の例で考えると自らの欲棒を満たそうとして新たなバリエーションの料理を食べる事が出来る状況が欲しい為にあえて他者を追い詰めてまだ試していない料理を食べるしか生き残る方法がない様にしてまず毒見をさせるという方法になります。これもチャレンジアンドレスポンスの弊害です。
話を少し戻しまして、私達は資源の枯渇から生き残りを賭けた争いを起こし、他者を敵とみなして数の論理で問題を他者に押し付け他者を排除する事で一時的に問題を片付けます。その繰り返しは現状を変える事はなく、常にその状況が発生させる不都合を生じさせ、その行為行動はどれだけ規模を大きくしてもどれだけ規模を小さくしても集団そのものを維持出来る環境が外部から与えられない限り発生し続けます。その行為行動は集団を構成する個々人の性質と環境による制限から生じており、選んでいるつもりが選ばされたものとも言えます。
しかし私達はけものである事を止め知性を求めました。お互いが争わない事を選んで同じ場所に居られる様にして生存率を高めました。概念を定義して時空間上に様式や手続きで差別化し制限を加える事で出来る事を増やしました。そうする事で外部となる環境を仮想敵と考えた際にその仮想敵を克服してより利便性の優れた環境を自分達の手で作り上げてきました。環境を克服できた時、私達は内部で争わなくて済み、環境を克服出来ず制限を押し付けられる事で受動的に対処するしかなくなる状況に追い込まれ、私達は自身の性質が望む状況と環境が与える制限の狭間で行為行動し、環境を克服出来なければ出来ない程に狭められた選択肢から選択させられる事になります。
その環境から与えられる厳しい制限により他者を見捨てる事しか出来ない状況が発生し、この時に集団はその他者を見捨てるつもりがなくとも救う事が出来なかった為に見捨てる結果になった場合、これは必要悪とみなされますが、ではあえて救う事が出来るにもかかわらず、何等かの利益優先で救わない場合は必要悪と言えるでしょうか。
また、環境に勝てない事を理由に、集団内部で他者をあえて利害関係の一致しない敵とみなして争いを仕掛けて良いでしょうか。更に、環境に勝てない事すら考える事無く、リザルトセットにある結果を見て自身に都合良く判断し、利己益を得る為に他者を敵とみなして例外を作り出し、争いを仕掛けて利益を奪っても良いでしょうか。これらの行為は既に私達が集団を形成し社会を作った時から過程で生じたルールに反する考え方です。
しかし私達は規模が大きくなると、役割分担する欠点として自身の役割だけを果たしていれば誰かが後は何とかしてくれると錯覚して生活し、小さな知性で済む生活を行いながら知性を育む事を忘れる為に知識を忘れて根拠を忘れてルールを忘れて物事を判断する能力を低下させます。低下した判断能力からは社会全体の動きは分からず、また、社会が大きくなりすぎれば全体を把握出来ず、目の前若しくはリザルトセットにある状況を判断する際に必要な情報を欠落させる事になります。それが例え社会としてはある特定の人物を救おうとしたが与えられる制限から出来ずに見捨てる結果になったものでも、情報の足りないものから見れば"何だか良く分からない"理由で見捨てた事になり、そして私達は見たいものだけを見て、そして思いつかない知識を思いつく事が出来ません。そうなると自身の知る中で妥当だと思える理由を持ち出し判断します。そうして物事を錯覚し、場合により相手を逆恨みしたり逆に信頼したり尊敬したり、褒め称え、蔑みます。もしその者の知性が足りなければ足りない情報は多くの経験と結果を見る事でしか手に入れられず経験して知った後では既に事後であり後悔するしかない状況になり易く、しかし情報を得られない若しくは隠されている状況では知性が足りない為に間違った解釈をする可能性があります。
集団内部で利害関係の不一致から敵とみなして利益を奪い合うのは未だ知性を成長させきれておらず、その規模の社会の基準に到達していない事になります。個人だけの場合もありますが私達の性質が性急に拡大を続けるのであれば急ぎ過ぎた結果として規模の大きい社会を基準として考えた際の知性が足りない様になり、足りない知性はより小さい集団の時に行なった行動を選択させ、自身と利害関係のある周囲の人物を味方として考えそれ以外を敵とみなして例外を作り、利益を奪って良い存在だと判断する事で追い詰められた状況から逃れようとします。それは果たして高い知性を持っている者の行動でしょうか。
その行動はさながらけものの様に見え、環境に追いつめられた中で出来る選択肢を行い、かつて協力して克服してきた結果と相反します。そして真似る事で行動し続け偽装し、周囲にさも知性があるかの様に振舞ってきた者が追い詰められる状況になれば、環境を克服する様な行動は取らず、かつての結果から得られる保身を優先して行動し、私達はその社会の基準を形作る環境の制限に対してけものとして対応する様になります。
ではその環境を克服せず問題も解決せず集団全員の利害関係が一致していない状況で大多数の論理で意見を押し付ける事は果たして正しいかという問題は、単にそれは基準から見てけものとして行動したに過ぎず知性が社会の基準に対して不足している状況と言えます。その間違いが出来るのは誰かに与えて貰った社会であり、未だ"何だか良く分からない"もののままであり、そして知性が足りない分だけ"何だか良く分からない"ままであるからこそ出来る行為になり間違い続ける結果になります。
かつてのルールに違反し、しかしそうしなければ生き残れない私達は、その事実から目を逸らし、しかし誰かにその事実を指摘されない為にリザルトセットの中にあるかつてあった結果を見て真似る選択をする様になります。環境を克服するための間違っていない行動は分からない、しかし生き残る必要があり、誰かに指摘され"敵"と認識され例外扱いされ加害される状況を作るわけにはいかず、かつての結果の中にある行動にリスク回避を求める様になります。簡単に言えば『自分は悪くない』と言える状況を作り出そうとします。
そうした際に今回の話の様に、パターン化した結果を用いて対処してリスクを回避しようとします。先程言いましたようにリザルトセットにある結果はその結果によってはそこに示される行動を真似ればほぼ無条件に同じ結果が得られるものがあります。その中で正しいものではなく限定的に成立する条件として、魔導学に見られる物理的なものだけに求める結果が集約されるものや更に細分化出来る事は予想出来るが判別する方法がないものがあり、これらを利用する事になります。
この内、更に細分化出来る事は予想出来るが判別する方法がないものというのは、それ以上情報が得られない事で発生し、概念を扱う私達には常につきまとう問題になります。情報が得られないならば判別のしようがなく、それ以上の細分化が出来ない為に恐らく別であったとしても、状態を混同して扱う結果になるものが存在し、それらを上手く扱えばリスク回避が出来ます。
私達の精神は目に見えず、また、その行動を通してしか推測が出来ません。ですのでその物理的に生じた結果から推測する事しか出来ず、判別できる違いがなければそれ以上の判別をする事が出来ません。
実際に行なわれた事であってもそれを客観的に証明出来る証拠がなければ、事実として扱う事も出来ず判別する材料として使う事も出来ない事を利用して悪事を成す者は良く居ます。
『記憶にございません』と言えば、相手が実際に起きた事実を証明出来ないのであれば、あえて自身から自身の罪を白状する必要もなく、また、余計な発言はその中に自身が意図せずに情報を漏洩する可能性がある為に、パターン化した答弁として使われます。
『〇〇のやった事です』というのは自身が指示を出して行動させている者は居るが、その者が指示に従わないか指示内容とは別に追加で行動したので自身にその行動の責任はないという主張であり、これも実際に起きた事実を証明出来ないなら責任逃れに良く使われます。
反省している振りをして責任から逃れる方法は、責任問題が立ち消えになるのを狙って行われ、誰もが他者の行動を逐次監視していられず、自身の生活に追われる事から良く使われます。もしその問題を騒いでいる者達が一時的にその問題を取り扱い、また別の問題があれば現在の問題が解決していないにもかかわらず、別の問題へと注意を向けて過去の出来事にしてしまうのであれば有効な方法になります。社会では常に問題が起こり、いずれ誰もが当事者以外は問題にしなくなり、監視されないのであれば改善しなくとも誰からも批判されず罰も受けずに済みます。
そして自身の出来る範囲で対応するという答弁は、誰もが誰かにその能力では不可能もしくは困難なものを押し付ける行為は社会のルールに反する為に、出来る事をやると言ってしまえば後は自身の裁量でのらりくらりとかわす事が出来ます。そこに反省していた場合の最善の努力義務が付随せずとも形だけ真似て、誰かに見られている部分だけを偽装して、見られていない部分で怠ければさも努力義務を果たしている様に振舞う事が出来ます。
この様に対応をパターン化して、行為を限定させない若しくは特定させない事で欲しい結果を得ようとします。
今回の話にある功夫とは修練の結果得られた技量を指します。そして格闘術ではある攻撃に対して有効な防御技術やある防御に対して有効な攻撃技術などが存在し、それらを定型の"型"と呼ばれる形で得る事になります。ものが変われば定跡などとも呼ばれるもので、自身に相手の攻撃を詳細に分析する能力がなくとも相手の動向に合わせて自身の行動もパターン化すれば一定の成果を出す事が出来る様になります。
パターン化した行動を取る事で自身が実際に相手を上回るだけの技量を持っていなくとも、限定的な状況では能力があるかの様に振舞う事が出来ます。
そのパターン化を行う事で、他者からの干渉に対して一定のリアクションを行う方法で対処する事が出来、それ以上の判別がされないのであればそれ以上の知性を求める必要もなく、だからこそ、判別されない様な環境を社会の中で作り出せば不正を行う事が出来る様になります。
社会における干渉を一定のパターンでリアクションすれば良い状況にまで変えてしまえば、その状況が不正と正当を判別できないのであれば不正しても罰せられる事がなくなります。今回の話の受け答えもその一連のものになります。そのためには判別できるだけの知性を判別しようとする側に与えなければ良く、知識を隠し、知性を育てさせないようにし、社会の仕組み自体を判別に必要な情報が得られない様にすれば、不正をしても罰せられず、社会では他の利便性も考慮して不正を失くす為にルールを厳しくも出来ないから『仕方ない』と諦めさせる事が出来れば完成です。
こうしてその不正が必要悪だと錯覚させて受け入れさせる方法は良く行われます。」
エールトヘンは締めくくる。
「私達はその知性の未熟さから自らの属する社会に求められる基準を把握出来ず、そして社会の規模を把握出来ずに、自身から見た世界を環境から区切りその世界の中で生きようとします。しかしその区切った世界が社会の規模と同一でなければそこに他者との認識の違いを生み出し、より大きな社会では多くのルールに従って行為行動する必要があるはずが、自身から見た世界の小さな社会の中でのルールのみに従って行為行動しようとします。それが追い詰められて行なったものであるなら未だ私達は基準から見て相対的にけもののままであり、大きな社会からの恩恵を受け、小さな社会の中でのルールに従うという矛盾で行動し、その不都合は他者に押し付ける事で問題を自身の前からなくそうとします。それらの行動は未だけもののままである事を示し、求められる基準で知性を成長させていない事を表します。お嬢様は貴族です。民衆というものの性質が未だ善良ではなく、自身の知性でもって自らの知性を高めていく性質を備えるまで民衆を導く必要があります。そのためにはまずお嬢様自身が物事を正しく判断するだけの知性が必要になります。そのためにもさぁ、頑張りましょう。」
-->『青で進め』
<--ただしくは『青なら進んで良い』です。話を簡略化する為にあえてそう書きました。
-->情報が得られないならば判別のしようがなく、それ以上の細分化が出来ない為に恐らく別であったとしても、状態を混同して扱う結果になるものが存在し、それらを上手く扱えばリスク回避が出来ます。
<--以前の活動報告で"行った"社長の弁護士の会見の話を書きましたが、それがパターンを使ったものになります。知性が足りず判断能力が低ければその弁護士の主張をそのまま受け入れてしまいそうになりますが、情報を集めるとその主張に矛盾があり、行なっている行為は相手を錯覚させて求める結果を欲しがっているのだと分かります。
-->ここからヘイトスピーチ
というわけで、ブンカクやらサンギョーカクメイだとかなんだとかいって行った結果、やっている事はかつて批判した方々と同じ事しかしていない、場合によりそれより悪化しているというのが現状です。さて、そういった事をした時に、自身を正当化して何をしたでしょうか、というのが今回の話のもう一つの焦点です。
使っている考え方や知識や道具が変わっただけ。本質は何も変わっていない。しかしかつて自身が正しいと主張した上で行って良いと思ってやった事がある為に、それを認める事は自身を犯罪者だと認めてしまうから認める事が出来ない。だから、かつての宗教や体制が間違っている、悪いものだと決めつけて、情報を改ざんして、責任から逃れようとする、のが現代社会です。
そして自身の不正から目を背け続ける為に、問題の解決を行う事が出来ず、延々とけもののままに行動し続け、それを勝手に自身を悲劇の主人公に仕立て上げて美化して逃避する。「自分は悪くない」と言い合えば、責任逃れが出来ると行動しつづけ、社会が崩壊した時にどうにか以前の罪もなくならないかと希望し、実際に社会を崩壊させ、"それを繰り返し"ます。
<--ここまでヘイトスピーチ