S110 近未来犬型ロボットなんて来ない
いつものごとく魔導学は好きに読み換え当てください。
ジーアンは一考した。自分が何かアイデアを出したり新しい技術を作れないのなら作らせれば良いと。そしてその利益を貰えるなら何ら問題もなくリスクもない。自身が何か凄いアイデアを思いつく発想力や新しい技術を開発する能力がなくともその恩恵に与かれるのだ。これ程良い方法はない。実は自分にもすごい発想力があるんじゃないかと思うくらいだ。
そうして20年程が経過した。丁度その為の状況が整った。襲って殺した連中の赤子を1人確保して育て成人させたので準備は万端だ。その成長過程で色々と教育して都合の良い様に行動するだろうとジーアンは期待した。勧善懲悪の都合の良い話ばかりを見せ、実際に行なわれる悪事は出来る限り誤魔化し、そして極め付けはある物語を延々と良い話として事ある毎に話題にした。
その物語のストーリーはこうだ。ある乱暴な男が弱者相手に脅したり暴力をふるったり好き勝手をする。そこに近未来犬型ロボットが登場して未来の道具を弱者に渡して乱暴な男を懲らしめる、という話だ。そして乱暴な男は懲らしめられて皆が仲良くなってハッピーエンド。
つまりは新しい何かで現状の問題を解決するのが一番良い方法だと思わせて育ててきた。だから拾って来た赤子ドラーンは勧善懲悪お涙頂戴話の主人公の様に弱者を助けようとする性格に成長しただろう。元々ドラーンの親は頭が良く色々なアイデアを出していた。だからドラーンもその親の血を受け継いでいるのだから充分期待出来る。そう考えてジーアンは計画を実行した。
ドラーンの知り合いにノブという人物が居た。ノブはどちらかと言えば能力が低く社会的弱者だった。そんなノブにも分け隔てなくドラーンは接し、友人として今までやってきた。
そんなある日。
ノブは沈痛な面持ちでドラーンの所にやってきた。そんなノブを見てドラーンは聞いた。
「どうした?ノブ。何かあったのか?」
「ああ。ドラーン。実は・・・」
そしてノブは事情を話し出す。ノブはささやかながら事業経営していたのだが、ちょっとしたトラブルを起こしてしまった。取引相手のスニーとの契約に失敗して多大な違約金を払う事になったのだ。ノブの予想では充分に品物を集める事が出来るはずだったのだが、海峡を襲った嵐のせいで期限に間に合わなくなったのだ。
事情を話したノブは少し言いにくそうにした後に、ドラーンに対してこう言った。
「ドラーン。何か良いアイデアはないだろうか。この大きな負債を返せるだけの新しいビジネスのアイデアや新しい画期的な技術のアイデアが。もうお前だけが頼りなんだ。」
そしてチラッとノブはドラーンの方を見た。そんなノブをドラーンは同情しながら見つめ返し答える。
「ノブ。私の方でも何か思いつくか考えてみるよ。でもそんなアイデアなんてすぐに出てくるとは思えない。あまり期待しないでくれよ。」
「ああ!それでも良い。頼んだよ。」
そう言ってノブは、やる事は一杯あるからと言って帰って行った。
そんなノブの後ろ姿を見ながら見送ったドラーンはにこやかな表情を崩さず思う。
とうとう仕掛けてきたか。そんな罠に掛かりはしない。どうせジーアンが裏から操っているんだろう。ジーアンは自分ではうまくやっていると思っているんだろうがあからさまなんだよ。大体事ある毎に何か問題事が出たら新しいアイデアを出して解決してハッピーエンドなんてエピソードを持ち出して来過ぎだ。それでなぜか自分ではしようともしないでこちらをチラ見ばかりしている時点で魂胆が明け透けなんだよ。誰かにやらせて楽しながら旨い所だけしゃぶろうなんて意地汚いにも程がある。
ドラーンはそう思いながらこの先もジーアンの思惑になど乗ってやるものかと決意を新たにした。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。自身では出来ない事を相手を騙して行なわせその利益を奪おうとする事ですね?」
「概ねそう。」
「私達が生存を繰り返しながら幾世代を越え数を増やした実績として時空間上にはその累積した数だけの人物が存在した事になり、それだけ多くの知識が生まれる可能性があり、実際生まれてきました。そうした知識を蓄積し、また、起こった事例を蓄積してリザルトセットとして扱います。しかし私達は不完全であり、全ての情報を残す事が出来ません。ですので主要な部分のみを残す事になり、そこに解釈の自由を与えてしまい、正しく解釈出来ない者に本来の使い方とは違う使い方を選ばせてしまいます。
ここでの話もそういったもので、元々にあった結果は、恐らくかつて誰かが暴力的な者を懲らしめるか弱者を救う為に新たな技術を開発して懲らしめたというものがあったのでしょう。ではそれを当事者ではない者がリザルトセットを眺めるとどう捉える事が出来るのかとなります。単純には自身が暴力などで他者を従わせていたとすればその様な行動を繰り返していてはいつか必ず仕返しをされるぞという戒めとして見る事も出来ます。また、アイデアを発明する側に自身を投影して、もし暴力的な者が居て困る自体になった時にはそれを覆すアイデアを出せば良いのだと思うかも知れません。また、弱者に自身を投影したのならいずれ誰かが助けてくれるからそれまで凌いでいれば良いと思うかも知れません。
そして物事に対して自身を投影するのではなく俯瞰すると別の視点で物事を見る様になります。暴力的な者に弱者を痛めつけさせれば一定の確率で誰かがアイデアを出して暴力的な者を懲らしめる。そうであるなら新たなアイデアを得る為には効果的な方法だと考える者が出てきます。また、それを実行する為には暴力的な者が必要になり、自身がその役割を担うと罰せられるか破滅するので自身ではしようとはしません。そうなれば自然にその状況が出来上がるのを待つしかなく期待出来ない為に、他者にやらせようとします。他者も罰せられるのは受け入れられないのでやりたがらないので騙してやらせます。そして同じ様にアイデアを得たい者が複数になった場合、そのリザルトセットにおけるそれぞれの関係者を役割として扱い、状況を作ろうとし、しかし得たい結果を得る事が出来る肝心の部分はどうやれば良いか分からないので、それが出来そうな他者を役割として組み込み、騙す事で欲しい結果を得ようとします。
例えば、ものを壊すと弁償が必要です。それはリザルトセットからもその中から妥当なものを選び出した慣習からも正しいとみなされます。例えば物の買い替え時期で今にも壊れそうなものを買い替えたいが予算がないとします。ではどうするかとなり、他者にその物を触らせて自然と壊れるか壊したと言い掛かりをつけ弁償させる事で利益を得る方法を行う者が出てきます。もちろん数多くのリザルトセットの中のリザルトには丁度それに合致したものもあるでしょう。壊れかけの物で買い替えようか悩んでいる時に他者が借りて使用した結果壊れて弁償したというものです。ではその結果があって真似る事が出来たからと言ってその結果を欲してその結果になる様に実行して良いかは別になります。
ここには社会通念としての"皆が平等に扱われなくてはならない"と言う考え方が錯覚を与えます。皆が平等に扱われなくてはいけないのだから行った結果も同じでなければならない。だから過去にあった結果をそのまま真似ても同じ結果が得られなければならない、という主張が行われます。ですのでこの錯覚をする者からすれば、先ほどの例にある既に壊れかけたものを扱わせて壊した事にして弁償させる方法も過去の結果と同じ手順で行われた結果だから弁償させて良いと思い込もうとし、実際にそう主張します。そしてそれが詐欺行為と認定されても『おかしい』、『弁償しろ』と自身の主張を繰り返します。
しかしその様な判例法の基本となるルールというのは世界の全ての出来事が解明されていなければ成立しません。それは錯覚した者の得たい結果は得られない可能性があるという事でもあります。充分に解明された状況であればそのリザルトセットに蓄積された結果においてその2つは区別された状態が提供される可能性があります。そもそもが対象の物の状態が違うのですからそれだけで状況を構成している条件が違い、それを同じとして扱うならそれだけの根拠が必要になります。しかしその2つのリザルトセットの蓄積がない場合のまだ未分化な状態でリザルトセットを扱って眺める者からするとあたかもその2つの状況は同じに扱ってよいと錯覚出来てしまいます。
そしてそこから派生して、その解明された状態にならない様に捻じ曲げてしまいさえすればその2つの状態を区別する必要がなく、同じ方法で利益を得続ける事が出来るという結果を得られます。
"皆が平等に扱われなくてはならない"という基本的な考え方で過去にあった結果をそのまま真似ても同じ結果が得られなければならないという主張を正当化するには問題があります。私達はより利便性を高めた生活をする為に高度な社会を作っていく過程で細分化を進めていきます。禁止事項などの制限を加えて安全や信用を保証する事で選択肢を広げる事が出来ます。
例えば訪問販売を許可したとして未分化な状態では押し売りや押し買いなどとの区別がない状態のままでしょう。しかしその様な悪事が成されるのであれば訪問販売自体を禁止する事になり、それが出来ないのであればそういった悪事との識別が出来る方法を用いて識別する選択肢が取られます。すると細分化により正常な訪問販売なのか押し売りなのか押し買いなのかを識別出来る様になります。ここでは暴力的な者が相手を脅迫して押し売りや押し買いでもさも正常な訪問販売が行われたと強要する悪事は考えません。
しかしやがて違法とされる行為というのは利益を稼ぐには効率的になります。本来の商行為ではニーズによりその需要が決まり利益を得られるかどうかに影響します。しかし押し売りや押し買いなどはそのニーズに関係なく相手がその物を欲していなくてもニーズがあった時の利益を強引に作り出し、その不都合を相手に押し付け損失を与える方法です。相手側がその押し付けられたものを正当な手段で活用して本来そのものを使用して得られる利益を得られなければ損失であり補填出来ないままになります。ではそれがまだ未分化な状態の時にもその方法は正当性を持つと言えるでしょうか。
この様に現在の状態とは未だ未分化な状態である可能性を含み、そしてその行為を表す行動の範囲が全て合法である可能性を保証していません。ですので仮に"皆が平等に扱われなくてはならない"という基本的な考え方で物事を扱うならば、永遠に押し売り押し買いを認める結果にしなければならなくなります。そうなれば出来る選択として"皆が平等に扱われなくてはならない"のであれば、訪問販売自体を禁止する結果になります。それが不都合であり利便性を失うのであれば、細分化を行うしかなくそれまでの"過去にあった結果をそのまま真似ても同じ結果が得られなければならない"という主張は成立しなくなります。しかし、充分な細分化が行われた後の状況では"皆が平等に扱われなくてはならない"状態を作り出す事が出来、正常な訪問販売や押し売りや押し買いなどを識別出来る状態になります。
ではそうなるまでの過程において押し売りや押し買いを定義せず識別出来ないままであるならして良いのかと言えばそもそもが社会の中での商行為として違反しており、して良い根拠はありません。しかし罪刑法定主義の様な、深く考えずに不用意にトライアンドエラーをしてしまえば罰する事が出来る状況を作り出す前に違法となる行為で荒稼ぎを行い深刻な被害を出す結果を招くシステムにおいては罰せられない為に効率の良い方法だと思われ悪用され、多くの被害を出す事になります。本来ここで求められた選択は、先にリザルトセットにある情報を基に起こり得る可能性を充分推測してある程度の細分化をしてから訪問販売という行為を許可するというのが私達の本来行うべき手順になります。
リザルトセットにある情報から起こり得る可能性を推測して事前に対策を練るというのが知性ある行為と言え、そういった使い方が出来なければいずれ情報量過多で本来正しいとされる情報が埋もれて正しくリザルトセットを扱えなくなるでしょう。
しかし、通常の方法で利益を得ようとするより不正手段で利益を得る方が効率的である為に、新たな方法などを実施する時にあえて既に予測されたものなどを省き、瑕疵を設けて利益を稼ぐ方法が行われる事があります。
では少し話を戻しまして、他者にその物を触らせて自然と壊れるか壊したと言い掛かりをつけ弁償させる事で利益を得る方法はして良いものでしょうか。その判断においては自身がどちらの立場に居るのかで望む結果が変わり、弁償をして貰う側にとってはそれが故意であっても過失であっても弁償して貰えるのならば利益になります。その過失と故意については自身のそして相手の分があり、相手側からすれば相手自身の故意であっても過失であっても弁償する事は損失になります。ですので判断材料は4通りになります。
自身を弁償させる側として考えると自身が故意であり相手も故意、自身が故意であり相手が過失、自身が過失であり相手が故意、自身が過失であり相手も過失になります。この内、自身が故意で相手も故意である場合は特殊な事例になるので割愛します。この場合は自身は弁償させる気で行ったが相手はそれを承知で道具を使ったという状況が考えられ、その弁償するしないという出来事以外の要因で他の出来事の一部分として考える必要が出てくるからです。例えば元々相手にプレゼントするつもりであったが弁償するという形式を取った、一連の行動でまず相手の動向を探る、相手がしたのだから自分が同じ事をして良いという口実を得る為にあえてさせる、自身が脅して相手がそれに屈した、といったものが考えられます。そのどれもここでの主要な問題とは別になります。
自身が故意で相手が過失の場合というのは自身は初めから弁償させる目的で行い、相手はそれと知らずに使用して壊した場合になります。また、自身が過失で相手も過失の場合というのは使用すればほぼ確実に壊れるが自身はそうと知らず相手に貸し出し相手も壊れるとは思わず使用して壊した場合になります。自身が過失で相手が故意という場合は先ほどの自身が故意で相手も故意と同じ状況になり、相手側に何かの意図がある為に発生する事になります。ただし自身が悪意をもって行おうとしていない部分に違いがあり、場合により相手の悪意で捻じ曲げられ自身が故意で行ったと主張される状況になります。
この内、自身が故意で相手も故意の場合は騙し合いの一連の流れの一部になるので割愛します。
ここではそれ以外を考え、自身が過失で相手も過失である場合はお互いの対応次第でその結果が変わります。使用して壊れた後に状況判断して、すぐに壊れるのが分かったのなら弁償しなくても良いという選択をする場合もあり、それとは違い弁償させる場合もあります。そこにはお互いの性質と信頼関係が状況変化に影響します。ここで重要なのは表面的な映像では全てが決定しない事です。
リザルトセットにある結果の1つで弁償する結果になったとしても別の結果では弁償する結果にならない、若しくは減額するなど結果に差が生じる事になり、過去の事例と同じ結果にならなければ"皆平等にならない"としてもそれではどれになるのが平等なのかという結果に辿り着きます。この混乱はリザルトセットを見る時の情報についてはまだ対象の物事の細分化が済んでおらず足りない情報では"皆平等"には出来ない事を表します。
ではその中の結果をどちらか一方の都合で自由に決めて良いのかとなり、どちらが決めてもお互いの信頼関係が良好でお互いの事を考えている状況からの判断でなければ不満を残し争いになるでしょう。弁償しなくて良い状況と弁償する状況のどちらかを自身の都合で決める事が出来るとすればお互いの利益を最優先すれば当然争いになります。
そして"皆が平等に扱われなくてはならない"という基本的な考え方で過去にあった結果をそのまま真似ても同じ結果が得られなければならないという主張を繰り返す者はその過去にあった結果の中で自身に都合の良いものだけを見て選んで主張します。その時点で個人の主観であり客観性がないという事です。
自身が故意で相手が過失という、つまりは騙して弁償させる場合、欲しい結果は過去にあった事例において全額弁償してくれる状況で、そして欲望を更に膨らませれば慰謝料も奪う事が出来れば更に利益を得る事が出来ます。そしてこの結果は自身が過失で相手も過失の場合、つまりはどちらにも悪意がなかった場合と表面上は同じになり違いを判別するのが難しくだからこそ悪用される結果になります。
社会の習慣としては壊したものは弁償するのが基本ですがそれではなぜそこで問題になるかと言えば先程から言っています様に騙して費用を肩代わりさせようとする者がいるからです。
また、"借りる"などの方法を選択した者にとっては新しい物を買うだけの費用が捻出できないか低頻度の使用に支払うには高すぎるという根拠があり、その結果として新品の代金を支払う結果になるのは場合により生活苦に、そうでなくとも期待した結果からは悪い方向へと結果が変わっています。それだけ不都合な結果になり快感原則上受け入れた難い結果と言えます。
ですのでこの場合その状況と言うのはいくつかの結果に派生します。壊した側が弁償する、壊した側が詐欺だと訴えて争いになるの2つの様に見えて実の所まだ細分化が出来ます。
壊した側が弁償するという部分で額の変化は当然あります。その額の交渉で折り合いがつけばそれで一旦は解決するでしょう。しかし詐欺行為だと気づいていても弁償させられた側との信頼関係は崩れ、それ以降の関係に大きな影響を与えるでしょう。例え過失でもどちらかに不満が残るのであれば影響は出てきます。
しかしここでの重要な問題は壊した側が弁償せずに争う場合になります。この場合、詐欺行為だと気づいて争う事になりますが、この状況は別の状況と混同出来、自身は過失の場合、つまりは騙すつもりがなかったとしても相手の対応次第では同じ結果になります。つまり、相手が使用して壊した結果、『弁償させるつもりで使わせた』と主張して弁償しない状況と同じになります。そして更にそう主張して認められた事例があるのなら、意図的に壊して持ち主に損失を与える方法にも使用する事が出来ます。
つまり、壊したが詐欺行為に気づいて弁償しない、壊したが詐欺行為でなくとも弁償しない、壊したが壊したいから壊してから弁償しなくて良い様に工作をしたので弁償しない、という状況が1つの同じ状況として現れる事になります。
これは1度目と2度目が同じにならない例でもあります。最初は誰も悪用しようとは思わないでしょう。しかしその結果の蓄積から壊れかけの物を使用して壊し争いになった結果弁償しなくて済んだ結果を知り、自身が物を壊した時にその過去の事例と同じだと主張してその事例の結果を得ようとする者が現れます。そしてその結果が得られるのであれば、今度は加害目的で行動し、過去の事例を持ち出して『自分は悪くない』と主張する者が現れます。
こうして悪人が悪用する度に現状の方法では対応できない様になり細分化する必要に迫られます。しかし毎回細分化させる事で成功するかは現実のリソースとの関係上難しくなります。例えば貸し借りを失くすとそれだけで不便になるでしょう。しかしそれではここでの例の様な悪事を容認する事になります。そうすると細分化する必要が出てきて、細かいルールが必要になります。ルールが増えれば自由度が減り、手続きも増えれば条件も増えて不便になります。しかしルールを緩和すればまた悪用される結果になり社会は悪人を居させる事で出来る事に制限が加えられていきます。そしてルールを追加して細分化しても悪用を止められなければ貸し借りを禁止する事になります。その不便を受け入れるか悪事を容認するかの二択のどちらを選ぶかという問題になってしまいます。
そして貸し借りを禁止した場合不便でもそのルールに則って生活をして悪事を行なえないしばらくの平穏を得ますが、時間が経過してなぜ禁止したかの根拠を忘れて、貸し借りという方法で得られるメリットを見てその方法を行い利益を得ようとし、また、悪事が行なわれ細分化し、また対応出来ずに禁止する、という繰り返しに陥ります。
話を戻しまして細分化で対応出来たとしましょう。ではどうやって対応する事になるでしょうか。私達はお互いにコミュニケーションを取って同意出来る結果を得ようとします。この場合も同様にそれぞれの状況でお互いに同意出来る結果を得ようとするでしょう。互いに信頼関係にある者同士では弁償しなかったり、自身にそれほど過失があったとは思わなくてもあえて弁償する事で物が壊れる前の関係を維持しようとするかも知れません。互いの利害関係が一致しない者同士ではお互いに損失を出したくないと考えて相手側に損失を押し付けようとするかもしれません。そういった事例を集めてより妥当な判断を常識とする為にリザルトセットはあります。多くの事例からどちらの側から見ても不満は残るかも知れないが他にお互いが同意できそうなより良い選択はないと思えるものをモデル化します。こういった無関係な第三者から見ても妥当であると判断出来るものを客観と言います。勿論それは1つの事例だけを無関係な第三者に見せて得たものでは駄目で、その方法では第三者個人の偏見や主義思想により偏向してしまいます。ですのでより多くの事例をより多くの者に判断させた結果を集めたものが必要になります。
その客観を得る方法は2者のどちらの言い分も追求した上での均衡点を求める事でもあります。互いの主張と環境から得られる情報から妥当な基準を設け、より高い知性でそれぞれの事例の違いを識別し、状況に応じた差分を適用する事で問題を解決する事になります。
客観的な基準を作る例としては先程の訪問販売の話があり、主観の例としては壊したものを弁償させる話をあります。そしてそこから細分化する事で客観的な判断へと移行させていく過程を知る事で、自身が状況判断する際に用いる基準を今度どの様な視点で見るかの材料とする必要があります。物事は静的なものではなく、私達が私達の生存条件を全て自由に扱う事が出来なければ争いは失くならず細分化していく選択をし続ける事になります。時間軸上で現在の自身の立つ位置はその過程にあります。
こうして客観的な判断基準を得るのが争いを失くす為の方法となり、"皆が平等に扱われなくてはならない"という基本的な考え方で過去にあった結果をそのまま真似ても同じ結果が得られなければならないという主張は単なる我儘だという事が分かる様になります。
しかし同時にその主張は社会の取り決め事の基本的な考え方であり、無条件にそうならなければならないのではなく、社会の構成員がそうなる様に努力する必要があるものだという事です。つまりは過去の事例の都合の良い部分だけを持ち出してきて自身に都合の良い様に主張するのではなく、争いになるならそれは細分化出来る機会でもあるので、経験として蓄積出来る様に押し付け合うのではなくお互いに妥当な判断だと思える様に結果を導く必要があるという事でもあります。
例えば10ある選択肢から1つを好きに選んでよい、と出来るなら自身の都合で選ぶ事が出来ます。リザルトセットの中の数ある結果から1つを自由に選んでそれが無条件に成立するとして良いなら行なった者勝ちになります。それではお互いがお互いの主張のみを押し通すだけになり争い続ける事になります。そして、どちらの側から見ても妥当な判断になっていないのであればまだ細分化が充分ではないという事実を表している事を知る必要があります。
ここでは扱いませんが、管理や監視する側がこの考え方が出来ない時があり、過去の事例の都合の良いものを取り出してきて適用すればその結果を無条件に得られると錯覚するケースが多々あります。管理者や監視者というのはその権力により誰も口出しできない、もしくはある程度自由な裁量が与えられており、間違っても誰も指摘してくれない場合がほとんどです。ですので指示を受ける側の様に誰かに頼る事も出来ず、自身の知性で以て本当にその判断は正しいかを常に自問自答していく必要がありますが、その様な人物というのは稀で大抵の者は誰かの真似事をして済ましています。そして先ほど言いました様に『なんだか良く分からないが』リザルトセットの中のこの状況を真似て適用すればうまく行く程度の運用を行います。ここではこの問題は割愛します。
しかし、客観的な判断というのは集団の中の大多数の主観と混同され錯覚されます。集団の構成員の質が下がればそれだけ数の理論で大多数に都合の良い基準が作られます。それは現在の時空間上の数に影響し、それ以前に居た者達の影響よりも大きいものになります。かつて居た者達の知性が高くより客観的な基準を作っていたとしてもそれを受け継いだ者達の知性が低く性質が良くないのであれば簡単に主観的な基準を客観的な基準として用いて上書きしてしまいます。
例えば、地方によっては"ヤドリギの下ならキスをして良い"、"結婚指輪はボーナスの3倍"、"結婚式や葬式は一生に1度だけだから派手にしなければならない"、"〇月〇日はXXの日だからプレゼントを贈らないといけない"などのものがそうなります。
しかし同時にそうではないものが存在し、そういった原型の都合の良い所だけを見て欲しい結果を得る為に慣習の中に混ぜ込んで常識や共通認識というものを捻じ曲げようとする者はいます。例えば何かの歴史上重要だとされる出来事を忘れない為にプレゼントを贈る場合や祭りをする場合などの結果を見て、自分達に都合の良い特別な日を追加するという方法です。
話を更に戻しまして、今回の話にある状況を考えます。人物Aが自身では出来ない事を他者にさせようとして過去の事例の中から都合の良いものを選んで実行したとします。それは過去に起きた出来事を真似ているからして良いのでしょうか。
もしそれが無条件に成立するならどの様な盗みも一度起きてしまえば正しい事になり"して良い"事になります。つまりは過去の事例をそのまま真似てもして良い根拠にはならないという事です。それがして良いかどうかの判断が出来るだけの知性を持ち、リザルトセットを正しく読み解けるかが問われます。
もしその判断能力がある場合、今回の話として新しいアイデアや技術が発明されたとするならそれに対して正当な対価を報酬として支払うのが妥当と呼べる状況になります。しかしそれではあまり利益になりません。取れるだけ取るのであれば相手側を騙して奪い取るのが効率的と言えるので今回の話の様に計画を建てる事になります。ではそれはリザルトセットに前例があるからそれを真似て行っても良いでしょうか。
前例として、ある暴力的な権力者が圧政を敷いている状況で民衆はそれに逆らう事が出来ないとします。その状況を打開すべくある人物が新しい技術で対抗力を民衆に与えて民衆は権力者を打倒し平和になり、新しい技術は社会に浸透する、というものが考えられます。剣、弓、銃、爆弾、化学兵器などそれまでの状況を覆す為に生まれてきました。
では新たな技術を誰かに発明させる為に暴力的な権力者になって良いでしょうか。また、暴力的な権力者を誕生させて良いでしょうか。
では誰かに新たなアイデアを出させる為に誰かを加害して良いでしょうか。また、騙してよいでしょうか。
この様に魔導学では俯瞰して物事を扱う、つまりは自身を対象とする系の外にあると仮定して分析をしますが、そこに誰かに与えて貰った知識を使う者の錯覚が存在しています。
魔導学を使って分析したから自身は対象となる系とは無関係になると思えるのは扱っている知識を良く分かっていないからです。どの様な形であれ魔導学を使ったからと言って、自身がそもそもその系に含まれ分離出来ないものについては無関係に扱って良い事にはなりません。その場合は自身がその系の挙動に対して中立的で利益も損失も関係なく第三者的な立場でなければいけませんが、魔導学を良く分かっていない者はその原則を知らないか忘れるか、最悪はそれでは利益が得られないから目を逸らして逃避します。
もし加害者が自身の加害した事実から目を逸らしてその結果となる状況が自身に都合が良いからその部分だけ抽出して分析して正当化しようとするならそれは単なる主観であり、正しく分析されていません。測定対象の系に欲しい結果を得る為に干渉して得た結果は改ざんした結果と言えます。その結果を正しいと主張して良いでしょうか。
俯瞰したからといって自身の持つ権利が拡張される事もなく関係は変わりません。しかし俯瞰する方法を用いるとさも自身の状態がどうであっても俯瞰して眺めた状況だけで物事が成立して正当性を与えると錯覚出来てしまいます。それはリザルトセットを扱う場合も同じです。過去の事例をそのまま真似てもその真似て作り出した状況に対しての自身の関係性が考慮されていなければ同じとは言えず、偶然、影響を与える条件が自身の立ち位置にいる人物の状態と同じ状態である場合にしか同じ結果になりません。
今回の話で言うならば状況を作り出した人物が居る事で、その人物が真似たであろう過去の状況とは違う状態になっています。その差が結果に影響を与え、もし同じ結果になるのならば、作り出した状況に居る人物が錯覚させられた場合、この場合は誰かが計画的に状況を作り出した事に気づかない場合と計画した人物が居る状態が真似た状況に影響を与えない場合であり、前者は条件次第で詐欺行為であり、後者は観測者と対象の系が分離独立された状態であり魔導学的視点において神の視点と呼ばれる俯瞰した状態と言えます。この2者を同一に扱おうとする事で利益を稼ごうとする者は良く居ます。
しかし外面から見たその2者の状況と言うのはほとんど違いがなく、概念上の条件にのみ差がある場合が多く、知性の低い者から見れば同じ事をしている様に見えてしまい、錯覚して詐欺行為を実行する様になります。そしてそれが罰せられない場合、それを見た者も同じ行動をして良いと思い込み社会は劣化します。
そこにはその方法を扱う者の知性が足りない状態が存在し、まだ資格が足りないと言えますが、目に見えず具体的に説明出来ない場合、対象の人物は自身の間違いに気づけず、また、指摘する側が正当な利益を得るのを妨害している、と錯覚出来ます。そしてその結果を受けて、間違っている事を認識しながらも指摘されたら、指摘する側が利益を得るのを妨害しているだけだ、と主張して自身を正当化しようとします。その状況に違いはなく、だからこそその様な言い逃れをして不当に利益を稼ごうとする者が増えます。」
エールトヘンは締めくくる。
「私達は先人の遺した遺産として社会に蓄積された知識を有効活用します。しかしそれを扱う者がその知識を解明した者と同等の知性を持たない場合、情報量が足りずに正しい判断が出来ない場合があります。そして与えられた知識で物事を判断し過去の事例を見る時にも同様に足りない知性で正しく判断したつもりが実際には必要な条件を考慮していなかったという状況に陥る事があります。そういった失敗をしない為にも自身が有能だと思うのではなく、実際今までの歴史上に存在した偉人に比べて能力が高いと言える人物はほとんどいないのですから、まだ自身の気づいていない条件があるのではないかと、通常では考えられない利益が得られる状況や物事が不自然に上手く行きすぎている時には特に考える習慣をつける事が思わぬ落とし穴、そして他者の悪意により罠に嵌らない為のスタンスとなります。しかし同時に思慮するという事は時間を消費し、効率主義において先取特権などが存在して時間制限がある場合にはデメリットにもなるので、効率を優先しながらかつ自身の能力不足で不慮の事態に陥らない為に、事前に対応を考えておく習慣を身に付ける様にしてください。その為にも、さぁ、頑張りましょう。」