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S101 橋を渡れば敵のレベルが一段階上がる

某ゲームの設定ですが現実でも同じです。

100話の話から宗教色を抑えたつもりの内容です。

ザビーネはサビニとも読みます。

前回の『サラ』もそうですが、『ザビーネ』など歴史上の有名な単語を使って書かれるラノベなどは注意が必要です。情報の上書きを行い、かつての教訓をなくそうとするがために付けられる事があります。元の話がどうであったかを知らない者にとってはそれが初めて聞く名称であり、そういった小説通りに思い込んでしまいます。そして本来伝えられてきた話が隠されるとその上書きされたものだけが残り、かつての知識は失われる、というのが常套手段です。丁度これをやっているのが現代社会です。

かつての罪から逃れる為に、証拠を隠滅してから戦争などで誤魔化してしまえば無罪放免というのがこういった事をする連中の考え方です。

ザビーネと聞いて皆が何の話を連想するかを、『ザビーネ女の略奪』若しくは『サビニ女の略奪』で検索しておくと少なくともその名前で他者との意見の食い違いを防げるでしょう。


昔々ある所にロムルスという街があった。出来たばかりの開拓して作った国で男が多く女が少なかった。ロムルスの男達は周囲の国に妻となる女性を求めたが、誰もあえて苦労する所に、そして荒い男達の所へ女をやる者も居なかった。

だからロムルスの男達は考えた。祭りをして周囲の国に住むザビーネ人を招いた時に若い女も来るだろうからその女たちを妻にすれば良いと。


そして祭りの当日。ロムルスの男達が何を思っているかなど知らない周囲の町の者達は祭りを楽しみにやって来た。ロムルスの男達は街を訪れた女達をそれとなく観察し、どの女を浚うかを皆で決めていった。

祭りも盛り上がり始めた頃、ロムルスの男達は行動を開始した。目を付けていた女達を片っ端から浚い始め、恋人を浚われない様にしようとする男達をなぎ倒し、娘を奪われない様にしようとする父親を叩き伏せ、やがて祭りの喧騒は怒号と悲鳴に変わって行った。祭りを楽しみに訪れた者達は催し物に注意を向けていた為にロムルスの男達の行動に気づくのが遅すぎ、ロムルスの男達の行動を止める事が出来なかった。


何の準備も無しに襲われた者達はなす術なく、攫われた女を取り戻す事も出来ずに自分達の街に帰って行った。


女を浚われた者達はロムルスの男達の非道を叫び、ロムルスの周囲の街の者達は皆、ロムルスの事を快く思わなくなった。

しかしロムルスの男達は気にもしなかった。

そしてロムルスの男達は攫った女達にこう言った。


「お前たちの街の皆でこのロムルスに妻になる女を寄越そうとしなかったのが原因だ。女が居なければ子が作れずロムルスはなくなる。これ以外の方法がなかったのだ。だから俺たちは悪くない。」




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。自分達の都合ばかり考えて、自分達が悪者にならない様に物事を曲解して強引に押し通そうとするという事ですね?」


「概ねそう。」


「主観的な考えではそうなるのが常です。主観とは自身から見た世界だけであり、その問題に対処する為にどういった行動をすればよいかだけを考えれば良く、それ以上の必要がありません。しかし、その個人だけが世界に居るわけではなく、お互いの主張を押し付けるだけでは争いになり、争わない為にお互いにしてはいけない行為を決め、ルールにします。

ここにまず私達が陥る錯覚の原因があります。してはいけない事だけを決めてルールにしたなら、新たに起こる物事はルールで決められている範囲から逸脱していれば"しても良い"事になると錯覚出来ます。以前から言っています様に、誰かから与えられたルールに従っている者は、辞書を引くように調べて、辞書に書かれた内容と違うかだけしか判別しようとしません。ルールに明確に書かれていないからしても良いと思い込め、実際には細分化の結果としての関係を知った上でルールを把握している前提になるものを正しく判別出来ません。

私達は法律を2つの方向から定義します。それは私達が個人から見た視点と全体から見た視点で物事を判断するのと同じです。主観と客観の両方を用いるとも言え、主観を重要視しすぎると個人主義になり、客観を重要視しすぎると全体主義になります。まず私達は私達の行為行動が安全域を越えて危険な状態にならない様に枠組みを決めます。基本方針となる法律で全体の方向性を決めます。そして細部を定めた法律で個人の行動に合わせた表現で可能な行動を決めます。盗まない、争わない、奪わない、などの基本方針とそれらで方向性を得た個々の取り決めで、行動出来る様に定義した上で、明文化出来ていない部分に存在する選択肢の内、問題になる行動を排除する様に法律を作ります。

例えばある物があったとしてそれを欲しいとします。それを手に入れようとした時に、もしそれが他者の持ち物であったなら、"盗まない"という基本的な方向性により、許可もなく手に入れる選択肢は排除されます。他者の了解を得ないならそれは"盗み"になります。その欲しい物と同じ物がなくそれをどうしても手に入れる必要があるなら持ち主へ交渉して許可を得る必要があります。この時に、持ち主に使用の許可を得て一時的に手に入れる場合を"借りる"と呼び、欲しい物を対価を払って手に入れるのを"買う"と呼び、欲しい物を対価なしに手に入れるのを"貰う"と呼びます。ここでの話に違和感を感じない場合、今の話を常識として受け入れられると思いますが、基本的な方向性がなければ瑕疵が存在します。"所有権を対価なしに手に入れる"のを"貰う"としましたが、では強引に相手の許可も得ず対価も払わずに手に入れても"貰う"と呼べるのかと言えば違うと言えます。これは"貰う"の定義に基本方針の方向性として条件を適用する事で、"貰う"と呼べない行為を排除する事になります。

"買う"のでもなく"借りる"のでもなく"貰う"と細分化された行為において、更に大域で制限をかけた条件により行為行動を詳細に細分化します。持ち主の許可なしに自分の物にしてしまうと"盗み"になります。ですので持ち主の許可なしに手に入れる事は"貰う"ではありません。その"貰うではない"行為の中で、持ち主が物を得る事を許可せず手に入れる行動に抵抗するが強引に自分の物にする事を"奪う"と呼び、これも"貰う"ではありません。

こうして基本方針で方向性を示して、個々の詳細に取り決めた内容を常に変化する状況に合う様に修正する様に法律は作られます。

しかし知性の低い者にとっては、辞書を使うのと同じであり、明文化されている部分のみを遵守し、そこに書かれていない部分は自身の自由意志で自由に選択して良いと思い込みます。

先程言いましたように"所有権を対価なしに手に入れる"というルールを見て、そこに明文化されていないから盗んでも"貰った"、奪っても"貰った"事にしようとします。こういった曲解をする者にどれだけルールを詳細に定義した所で、こういった者達は常にルールの瑕疵がないかを粗探ししているのでその場ではまともに行動しようとするかも知れませんがやがて環境の変化で生じた僅かな瑕疵を見つけてそれを押し広げる様に出来る行動を増やし、不正に利益を得ようとします。


この際に問題になるのは行為を行うとその行為の条件の全ては形に現れるものではない事です。細分化していくという事は細分化が進むにつれ、その識別の差は小さくなっていくという事です。"貰う"と"買う"の違いは対価を払うかどうかとなり、"買う"と"寝る"の差より小さくなっています。

そうなってくると形に見えない差で識別される行為は争いを生みやすくなってしまいます。

例えば"借りる"と"貰う"の差ですが、人物Aが人物Bに所有物を貸してと頼み、人物Bは了承したとします。人物Aは人物Bから借りたい物を受け取った後に返さないとすると問題になります。後になって人物Bが貸した物を返せと言っても、人物Bが返せと言っている物は人物Aの物で人物Bの言い掛かりだと主張する可能性があります。

この状態は"借りる"という行為では未だ途中ですが"貰う"という行為では完了した状態です。それが口約束などで形に見える証拠を持たないなら、"借りる"の状態遷移の1つの状態が"貰う"の最終的な状態と同一であり、そこに違いが見いだせずにそれ以前の情報を知らないと識別出来ない様になります。

これは行為が時間と空間上の拡がりを行動に加えて表現するものである為起こります。

空間上の違いによって識別しようとするものでは、"合意"があるかどうかなどを外部から判断しようとするものがあります。

あまり良くない例えですが、それが"恐喝"か"合意のある寄付"かどうかの判断基準として、被害者となる人物が寄付を行う可能性のある場所として妥当であるかどうかがあります。路地裏で行われた場合、どちらであるかと考えると客観的には"恐喝"だと判断されるのが妥当になります。しかしそれが店の中であったりすると識別が難しくなります。

この様に"場所"で違いを出す様にして行為を識別しようとします。


時間上の違い、状況の違いによって識別しようとするものでは、"万引き"か"購入"かの違いの判断基準として商行為が行われたかがあります。物を持って店の外に出ている結果は同じですが、その時点で所有権の移転が行われたかが行為の違いを示すのに必要です。|領収書[レシート]があるかどうかが売買契約が成立した証明になりますので、"万引き"かどうかの判断はレシートを所持しているかどうかで違いを示します。それ以外には状況証拠がありますが、これは他者の信用を使ったものなので確実に行為が行われた証拠が必要になります。それがない場合、"万引き"と"購入"の違いが証明出来ません。

これは色々な結果を生み出します。購入した人物をAとして、店が人物Aが購入した事を覚えているかいないか、人物Aが購入した所を第三者が見たかどうか、人物Aがレシートを持っているかどうかで違いが生じます。

まず、レシートを持っていればどの様な状況になっても売買契約で物を手に入れたと主張出来、店側も納得するでしょう。ではレシートを持っていない時はどうなるでしょう。

レシートがなくとも店側が人物Aが物を購入した事を覚えているなら店側が人物Aを万引き扱いする事は恐らくないでしょう。悪意は別として、その価格が安く多くの回数を行う物についてはレシートの受け取るを忘れる若しくは処理が面倒で受け取らない場合があります。それらを万引きとして扱った結果として、その客は二度と店に来てはくれませんし、他の客もそんなリスクは受け入れられないので店は人物Aが購入した事を覚えていれば”万引き”とはみなさないでしょう。

次に、店がそれを覚えていない場合です。あまりないですが、これは店側からは実際に”万引き”した場合と同じ状況に見えてしまいます。その時に、人物Aが物を購入する所を周囲の何人かが見ていた場合、それが信用出来そうなら”万引き”とはみなさないでしょう。これも風評被害があるから、そして客を失う可能性があるからです。

次に、店も覚えておらず、周囲の誰も購入した所を見ておらず証言出来ない場合、その時々で対処は変わります。その人物Aが普段から信用出来る人物なら”万引き”と疑われないでしょう。逆なら疑われるでしょう。また、人物Aが店にとって良い客なら”万引き”かどうか分からなくとも、客を失う事と天秤にかけて判断するでしょう。

そして、1度目と2度目は違う結果になるという事が更に問題を派生させます。過去に誰かがレシートを受け取らなかった結果として”万引き”を疑われたという結果を見た者が、人物Aがレシートを受け取らなかった結果を見て、”万引き”を行ったと言い掛かりをつける可能性があります。また、店側も例えばそれが高級品で購入頻度がほぼない客であるなら、レシートを受け取らない場合、店を出た後に”万引き"だと言い掛かりをつけ、品物を返品させるか2重に代金を受け取ろうとする可能性があります。人物Aの社会的信用度が高くなければ、人物Aの主張は言い逃れとして見られる可能性が高くなります。

更にそこから逆算して、罠に嵌めたい人物が居たとして、その人物の成長過程であえてレシートを受け取らない習慣を植え付け、成長した後に条件が整い次第、罠として発動するか、若しくは罠の一環として用いる方法が確立されます。つまりはどういった人物であれば、社会的に信用を得られないかという実績から、あえてそうなる様に育てる事で悪事を容易に働く為の対象として育てる事を画策する事が出来ます。


私達は悪事を働く時は最も楽して効率の良くなる状況になるまで準備を行い、極普通に日常の中で悪事を気づかれる事なく行う様になります。

これは別段特別な事ではなく、私達の行為の一派生であり、しかし使い方を間違ったものでもあります。私達は私達の暮らしを快適にする為に準備し、手間を省ける道具や仕組みを作り上げます。それを周囲の事も考えずに個人に都合の良い結果に結びつく様に使うのが悪人と言えます。その行為行動は個人の視点からすれば正しく、他者の事を考えないならどこにも問題がありません。

ここに自制の出来る者と知性が低く自制が出来ない者の行動論理の違いが生じます。自制が出来る者は決められた戒律を基本方針にしてルールを守ろうとしますが、自制が出来ない者は個人の視点において許される物事を基準として、そこから罰せられる場合や反撃を受ける場合などの損害を受ける状況に陥る部分を譲歩して最大限自身の利益を求める行動をしようとします。

つまり自制の出来ない者は、"貰う"という行動において、まず"奪おう"とし、それが駄目なら"盗もう"とし、それが駄目なら"貰おう"とし、それが駄目なら"借りよう"とし、それが駄目なら"買おう"とするという事です。


自制の出来る者は先ほどの例の通り、"貰う"という定義から基本方針に該当しない部分を除いて、"貰う"を定義します。しかし自制の出来ない者は、罰せられるなどの外的な要因がなければ"奪う"が基本となり、それが出来ないなら"盗み"、それが出来ないなら"貰おう"とするので、行動の在り方が逆とも言え、しかしそれは個人から見た世界においては正しいものである為に錯覚出来ます。

その錯覚の要因は今まで言いました様に、生まれた時に社会の中にいて当然の様に環境が与えられる事です。どの様な過程で"奪う"のは駄目で、"盗む"のも駄目で、"貰う"という行動に辿り着いたのかを知らない事で"奪った"場合の影響や"盗んだ"場合の影響を軽視してしまいます。

そういった自制の出来ない者は行動がルールを破る側に傾いていると言え、出来る限りルールを排除した状態を得ようとすると言えます。まず罰せられない為に社会のルールを守ろうとして"貰う"を選択しますが、その時に"盗む"を連想し罰せられないなら"盗む"を選択する可能性があります。同様に"奪う"も連想し罰せられないなら"奪う"を選択する可能性があります。

定義がされていく過程において、現状から見て"貰う"、"盗む"、"奪う"の状態が未分化で混乱していた状態から徐々に"貰う"、"盗む"、"奪う"が細分化されていった過程と逆の事を行います。

その逆に自制する者は出来る限りルールを守って制限を得た状態を維持し、最初に"盗む"や"奪う"という選択肢を排除し、その範囲で個人の利益を追求します。自制の出来ない者は行動のルールなどで制限され罰せられる状況なら自制出来る者と同じになり、しかしその行動の選択肢は明確に罰せられる行動を省いたグレーゾーンを含み、自制出来る者よりも選択肢は広くなります。

"盗む"と"奪う"の僅かな方向性の違いから2本のゲージで考えるとします。ある一定の範囲で"貰う"と"盗む"の2つに分けられたゲージとある一定の範囲で"貰う"と"盗む"に分けられたゲージを考えます。"貰う"と"盗む"という状況において、"盗むかの様に貰っていく"と言えるような状況などがある為に明確な線引きはないとして、グレーゾーンが存在すると考えます。自制の出来る者は"盗む"という行為がルール違反になり基本方針から逸脱するので、出来る限りグレーゾーンを避けます。"盗む"と錯覚されて争いを起こさない為です。逆に自制の出来ない者は罰せられない範囲で行動する為に、"盗む"とみなされない範囲を模索し、出来る限りグレーゾーンを"盗む"に近い所まで追求します。

しかしその方法は現実を使ったチャレンジアンドレスポンスの結果であり、罰せられないならしても良いという結果になってしまいます。その行動の結果が実際に問題ないかは分からず、ごみ問題の様に後になって表面化する可能性もあります。気づかれないなら罰せられない為に行動して良いとするなら、実際に"盗む"事も許される様になります。

同じ様に"貰う"と"奪う"も考える事が出来、もし見られていても罰せられないなら公衆の面前でも行う様になるでしょう。


自制の出来る者は出来る限り行動が明確に"貰う"に近づく様に行為し、自制の出来ない者は"盗む"に近づくように、明確に"盗む"と判断されない様に行為します。自制の出来る者は錯覚されない様に利益を損なわない範囲で制限を出来るだけ増やし、自制の出来ない者は利益を増やす為に制限を出来るだけ省きたがります。

自制出来る者はまず最初に基本方針に適合しない選択肢自体を排除しますので、取れる選択肢は少なくなり、また、現実を使ったチャレンジアンドレスポンスも少なくなります。"貰う"という条件を満たしていて争いにならないなら利益を最大限に追求する必要もないと考えます。利益を最大に追求するという事は他者との利害の不一致を招く恐れがあるからです。明確に問題にならない範囲で受け入れるならそれが後になって別の問題を起こす可能性は少なくなります。結果として状況に対して必要以上の判断をしなくなる可能性があり、チャレンジアンドレスポンスの結果も不足するので、例外的な状況への対応能力が自制出来ない者と比較して不足する様になります。

日常の行為行動の内から自制出来ない者は行動可能な選択肢のバリエーションの上限になる様に行動し、自制出来る者はそもそもがチャレンジアンドレスポンスをしないので下限近くに居て、そこに差が出来ます。しかし先ほども言いましたように行動可能な選択肢が問題にならないかどうかは分かりません。しかし行動出来、罰せられず、競争の結果としてより利益を追求した側が有利になります。社会に充分なリソースがある間は問題ないですが、自制の出来ない者の行動がそのリソースを徐々に失わせ、やがて自制の出来る者達はかけていた制限を外すしかなくなりますが、その今までと違う状況でかつ今までは例外的な状況とも言えた状況に対する対応能力が、普段からその状況を日常としていた自制出来ない者と競争する事になり、そこでも差で不利になり競争に負ける事になり、誰も自制しない様になります。するとモラルやマナーを軽視して行動する事になり、それに合わせて社会は劣化していき、やがて争うのが日常になります。


こうやって自制出来ない者は罰せらない範囲で最大限の利益を得る方法は追求しますが、ルールがなぜ定められていたのかという根拠を知らない為に、その行為行動は罰せられる側へと近づきグレーゾーンを出来る限り行動の範囲に含みます。そして徐々にその行動はその行動を判断した時に含まれる、社会の中で行って良い行為と行ってはならない行為の割合を変えていきます。


その際に行動がどういった行為であるかを判断する事になりますが、そこで自制の出来ない者は自身に都合の良い判断をします。今回の話で言えば、女を浚わなければ国を維持出来ないというさももっともらしい理由を使っていますが、簡単に言ってしまえば、自分達の都合だけで判断しています。彼らが滅びようと滅びまいと他者にとっては利害関係者以外は関係のない事です。また、彼らが滅びるのではなく、単に彼らが作った国を維持出来ないだけです。その不都合は彼らにしかなく、それを理由に他者に襲い掛かってよい理由にはなりません。その際に相手側がさも悪いかの様に言いますが、相手側から見た自分達の評価というものを欠落させて自分達を美化しています。これらは客観性を持たずに主観のみで判断している時の特徴です。これらが許されるならどの様ないいがかりもつける事が出来、どの様な犯罪も許されます。生活出来ないから盗みをするのだ、生活出来ないから奪うのだ、と言って襲い掛かり、盗み返されない、奪い返されない事実でもって正当化してしまおうとした事に間違いがあります。


これも以前に言いましたが、現在の状況と言うのは成立過程とは違い、その時にはなかった要因が存在して別の結果を導ける事があります。

かつては他者を圧倒的に上回る武器を持っておらずに、お互いがお互いの権利を認めて自身の安全を確保した状況の後に、相手を圧倒出来る武器を手に入れた為にそれまでの約束を破って襲い掛かる場合があります。しかしその圧倒出来る武器を手に入れる事が出来た状況は互いに権利を認めた事で得られた環境で手に入れたもので、約束を破らないという前提の元に技術や知識を得て手に入れる事が出来たものである可能性が出てきます。


さて、彼らは強かったのでしょう。しかしその強さはまだまだ勃興したばかりの国だからこその強さとも言えます。ルールが少なく自由に行動出来るからこそ鍛える事が出来、また重労働そのものが身体を鍛えたでしょう。モラルやマナーは社会の成熟と共に培われて行きますが、それもないなら行動はより自由になり、守るべき制限も少ないでしょう。その結果として、単純な力のみを追求出来、他者に打ち勝てる状況を作り出せたと言えます。他者は弱かったと言えばそう言えるように思えますが、実の所、現状の状態が違うだけと言えます。その他者はこの女を浚った者達の状態をはるか前に済ませており、社会の成熟と共にモラルやマナー、そしてルールを増やして制限をかける事により、社会を築いてきましたが、同時に制限をかける事で単純な力で物事を解決しようとせずに過ごしてきた結果、制限のない者よりも単純な力で劣る結果になっています。そこに新たに国を作り開拓する事で単純な力だけで優劣を決める事が出来る隣人が増え、その者達が客観性も持たずに彼らの都合だけで行動して周囲に被害を与えたという結果になります。

周囲の者からすれば彼らの行動はかつて自分達が争いをなくす為に止めた行動であり、時代に逆行していると言え、そしてかつて争いを失くす為に止めた行動をした者がいるからこそ争いに発展すると言えます。

しかしより制限を無くした者のほうがより自由に行動出来、ルールや手続き等を省けるので効率よく物理的な強さを得て、他者より優位に立てます。しかしこの話の男達もやがて国が成熟するにつれ、ルールやモラルやマナーという制限が増えていき同じ様な強さを維持する事は出来なくなるでしょう。そしてその時、同じ様に誰かに力で強引に奪われる事になります。

そしてようやくかつて自分達がしてきた事がどれほどの間違いであったかを知るのです。


こうして"後悔先に立たず"と言った状況になり、それを避けるためにも知性が必要になります。そして望まない結末にならない為にはどうすれば良いかを考えて行動する必要がある事を知る必要があります。


この話の男達にもし、自分達が周囲からどう見られているか、そして自分達の行動がどう評価されているかを知る知性があったなら行動もまた違ったものになったでしょう。果たして彼らには襲い掛かる以外の選択肢がなかったと言えるでしょうか。どれだけの交渉をしたかは定かではありませんが、ほんの数回断られただけで襲い掛かる理由になるのかどうかという判断では、襲い掛かるのは不当であると判断されるのが妥当です。

彼らが自分達の何が断られる理由かをまず考え、それを正し、相手の求める条件を揃える事で、つまりは社会契約上の基本的な行動を取って、相手の承諾を得る方法もあったはずですが、彼らはその方法を行わず、自分達に都合の良い解釈と選択をしています。これらも快感原則を基に行動してしまった結果と言えるでしょう。


ここで社会契約の例えで話を解釈し直してみます。ある企業が、ここでは農業法人としましょう。その企業が農業をしてくれる人材を募集したとします。しかし募集要項を見て収入や環境の面で人が集まらなかったとします。都市に住む者から見てインフラの弱い地方の田舎に積極的に移り住む人は稀でしょう。しかしそれでは企業が困ります。人が集まらなければ業務が出来ず、収入も得られず企業は倒産するしかないでしょう。そこでその企業は考えます。豪華な食事やレジャーをつけた格安旅行で人を集めてその人たちに農業をしてもらえばよいじゃないかと考え、価格に比べてかなり得する旅行を企画したとします。そしてその旅行に来た者達を監禁して『このままで当社は倒産するしかないから働いてくれ』と強制的に雇用契約をしたとします。これは正しいでしょうか。今回の話の問題は単純にはこういった事です。

その時に企業側が、『あなたがた都会人が田舎は不自由だし、汚いなどと言って蔑んで雇われようとはしなかったから私達はこうするしかなかった。だから私達は悪くない』と言ったとして、それは正当な主張でしょうか。

言うなればこの企業の計画がずさんだったから問題になったとも言え、知性が足りずに将来的にどうなるかを予測しなかった事が原因と言えます。だからこそ誰もしなかったのかも知れず、それを考えずに自分達の見たいものを見て自分達の都合だけで行動した事に間違いがあったと言えるでしょう。

それでも企業としてやっていこうとするなら、募集に応募してくれる者がいるだけの条件を整える必要がある、というのが正しい行動になります。


私達は他人を定義します。その他人でも差があり、利益関係の一致がないもの程、同じ社会の一員ではない、運命共同体ではないという意識が強くなり、大抵は物理的な距離が離れていく程に、自身の生活から遠ざかる程にその認識は強くなっていきます。


隣人が飢えて死ぬ場合はその影響があるかも知れない。遠くの誰かが飢えて死ぬ場合は対して影響がないかも知れない、というのを実感として持ってしまっており、身近なもの程感情の共有をしてあたかも自身が体験しているかの様に共感してしまいます。

ですからこの話の男達がもしその攫う女が普段から会う隣人の娘などであるなら躊躇したでしょう。その影響も分かりやすく実感できるからで、しかしそれが遠くに住む者で普段の生活に影響のない者である為に、自身の体験してきた結果を結びつける事が出来ません。娘を浚われたのが友人なら一緒に憤慨し、涙を流すなり怒るなりするでしょうが、それが遥か遠くの誰かの話であれば、多少の感情の揺れはあってもそこまで感情を露わにする事もないのが人間です。

同じ様に攫われた娘と普段から会話をしていたのなら、涙を流すなり怒るなりするでしょう。しかし自身の求める欲求が優先される場合、そういった体験や予測で行動を改める事が出来ない場合が多くなります。


ですので、遠くの場所に旅行に行く際には注意が必要で、そこに住む者達がどういった性質の者か分からず、また、相手側からもどんな者が訪れたのか分かりません。普段の日常にある信頼関係がそもそもなく、また、お互いに日常の外に居る為に互いの権利を軽視する可能性があります。観光地で普段生活する場所でないからごみをポイ捨てしても構わないなどの考えなどもそうで、また、ゴミを捨てるという行為そのものが普段そこで生活する事のない者が集団で行えばその場所の処理能力を越えて問題になるという発想すらも考えません。

もし観光都市などの観光目的で訪れる事を想定された場所に行くときは、そこに訪れた者が"客"である内はたいした問題もないでしょう。その都市に住む人間は観光による収益で生活しているので客が訪れなくなる様な出来事を嫌います。利益を齎す客なら利害関係の一致から安全は保障されますが、そうでなければ他人でしかなく簡単に放置されるでしょう。不慣れな土地で分からない事だらけで多くの隙を晒す者というのは悪人から見れば都合の良い"上客"です。

もし観光などで収益を上げる場所ではないなら、ちょっとした事でトラブルになりやすく、お互いの信頼関係があるからこそ許されるものも不用意に他者を警戒させる行動になります。また、相手からしてみれば、結果的に騙したとしても問題無い場合が多く、ほんの僅かな敵対意識が大きな影響を与える事になります。

そういった場所では普段よりも行動を厳しく律して他者に疑われない様にする事が自身の安全を保つ方法になり、日常の延長で行動しない様に注意する必要があります。

そして行く場所にも気を付ける必要があり、もし観光などの収益を期待している場所でも彼らの望むだけの利益を齎さなければ"客"ではないと認識される可能性があります。その危険を理解して他の場所へは行く必要があります。

場所にもよるでしょうが、客でないと認識された時に、トラブルで浪費する金銭目当てで行動を起こされる可能性もあり、何より安全を優先すべきです。旅先というのは利害関係が一致している集団の中に利害関係を持たない他者が紛れ込む事でもあり、相手側の性質次第では犯罪に巻き込まれます。現地の者とそうでない者、という構図は訪れた者が限りなく他人であり、地元の普段から関係を持たない者でもある程度の親近感を持つ場合があり、第三者が居ないとも言える状況を作り出します。普段から押し付け合いをしている集団だとすれば、限りなく他人ともいえる者は押し付けるには最適であり、状況が一転すれば弱者扱いされる危険を知っておくべきです。」


エールトヘンは締めくくる。


「文化レベルの違いを持つ者は自身の住む環境の外からやって来ます。お互いの認識の違いから思わぬ行動をしてお互いに問題を発生させます。その際に不利な立場になるのはその新しく来た者です。外部に後ろ盾がないならその場所に住む者達の性質次第では問題を押し付ける対象でしかなくなります。お嬢様は貴族です。領民がそういった方法で利益を得ようとする様な性質を持たない様に普段から統治していく必要があります。法律やルールではなく、数の理論で問題を押し付ける様な者達は日常から問題を発生させ易く放置すれば火種を残したままになり、いつか問題を発生させる事にもなりかねません。そして放置した分だけ同時に発生する可能性もあり、その民達が自分達で律する事が出来る様になるまでは貴族が制限をかける必要があります。従う民達の性質を見極める為には、さあ、今日も頑張りましょう。」


-->どちらであるかと考えると客観的には"恐喝"だと判断されるのが妥当になります。

<--だからこそ、世の中の風潮を、自由という名の餌で、違いを失くす様に出来ればそこに差はなくなるか判別出来なくなり、他者が指摘するのを躊躇若しくは傍観する様になります。そういった状況を作り出す為に、漫画やR18関連のもので行なわれるシチュエーションというのはあえてそうなっていると言えます。別の使い方を考えると、そういったルール違反をしかねない人物を、行動を誘発させて分かりやすくする、とも取れますが、同時にそうやって罠に嵌めればそれを口実に脅せる、という見方も出来ます。

前も使った都市伝説ネタですが、どこぞのC〇Aが女性を使って将来有望な男性にドラッグを使わせてそこを逮捕し、人生破滅か操り人形になるかを交渉して操り人形を手に入れるというものがあります。そういった結果を見て逆算する形で行なう罠があるので、欲望に流されやすい人物をあぶり出すという考え方は出来ない、という事になります。これも識別の細分化を錯覚させているものになります。


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