#09
石畳が移動している。初めはそう感じたが、すぐに動いているのは自分の方だと理解した。俯き、足元の石畳のみ視界に入れていた美月が顔を上げると、眼前に大きな、赤い背中があった。予想外の景色に驚いた美月は反射的に足を止めたが、上半身のみ前に進み、たたら踏んだ。美月の左手は不自然に前に伸ばされていて、その手首を掴む、赤銅色の肌で形はひとのそれだが、指先の爪が少し鉤状に鋭く曲がっている手に気が付いた。美月はただ前の赤い背中に付いて歩いていたのではなく、左手首を引かれて歩いていたのだった。赤い背中の持ち主は、歩みを止めた美月に気が付いて、振り返った。振り返ったその顔は、前にも見た、浅黒い、彫りの深い例の顔だが、余り表情豊かとは言えなかった前回と違い、立ち竦む美月を不思議そうに見ていた。まともに目があったものの、どう対処すべきか戸惑った美月は、視線を逸らし、辺りを見回した。足元は石畳だったが、一連の夢の中で水底となった石畳に比べ、一つ一つの石が小さく、手の平ほどの大きさしかない。そして、その石畳が引かれた美月たちの佇む道も、ひと一人が通るのがやっとという幅で、道の左右に立ち並ぶ日本家屋も、こじんまりとしていた。造りからして二階建てと思われる建物は美月が真上に手を伸ばしたくらいの高さだが、大半は平屋建てで、美月の胸か肩くらいまでの高さしかない。建物群の屋根はほとんど全てが瓦葺きで、良く見掛ける鉄紺から花緑青、蘇芳に白磁までさまざまで目を楽しませてくれている。一方、壁は漆喰塗りのものあれば、板張りだったりしていて統一感が無いが、窓の格子は大抵が黒く塗られている。美月は、一昔前の町家を再現した模型の中に迷い込んだような印象を受けた。
「気…済み?」
元々は、手を引く赤い者から視線を外す過程で眺めた周囲だが、思いのほか興味深い景色で、美月は事細かに観察してしまった。一通り眺め終えたところで、赤い者に声を掛けられ、美月は一旦は逸らした目で、まじまじと赤い者の顔を見てしまった。前回までは言葉らしい言葉は一つだけしか発していなかった筈だが、今回はたどたどしいながらも文章として声を出していた。
「あなた、何者?リリイを知っているの?」
前回まで繰り返されていたただ一つの言葉である『リリイ』を挙げ、美月は尋ねた。赤い者は何も言わず、眉を下げた困ったような表情で美月をじっと見つめた。静寂が落ちた。相手の背が高いので、始終顔を上に向けていなければならない美月が首に疲れを感じて来るほどの時間が過ぎてから、赤い者は右手で道の先を指差した。左手は依然しっかり美月の手首を握っている。解放する気はないらしい。赤い者は、美月に顔を向けつつ、指し示した方向に進み始め、美月が歩き始めるのを確認すると、顔を前に向け直した。美月の視界はまた緋の束帯を纏った背中で埋まった。美月は、確信ではないが、ここは美月の夢ではなく、別の夢に連れ出されていると感じていた。不快だが、下手に動くのが得策ではないことは分かるので、大人しく従った。
しばらく歩み、赤い者は一軒の造りの大きい建物の前で足を止めた。建物の道に面した正面に、ぽかりと出入り口と思しき空間が開いている。赤い者は美月の手を放すと、身振りで入る様に促した。茶室のにじり口くらいの大きさなので、入るには腰を屈めざるを得ず膝を折ったところで、美月は自分の格好が、髪は肩に掛かるくらい、これまで着ていた緋のドレスではなく、白のブラウスに苔緑色でチェック柄のネクタイを締め、同じ柄のプリーツスカートと黒のソックスにローファー、焦茶色のブレザーを羽織った学生服姿だと気が付いた。リリイを葬った際とほぼ同じ格好である。わざわざこの服装になっていることに、少しばかり引っかかるものを感じつつ、美月は出入り口をくぐった。
くぐった先は、一見すると倉庫のようだった。天井が二階建て分の高さにあるので、美月は中に入った後は普通に立つことが出来た。だが、美月の後に完全に四つん這いになって出入り口から入り込んで来た赤い者は、立てば頭がつかえてしまうのが分かっていると見えて、その場にあぐらで座り込んだ。建物の中には、縦の空間の半分を占拠するほどの高さがある木製の樽が、延々と奥に向かって並んでいた。手前は、出入り口から入ってくる明かりで視界が効くが、奥に行くにつれて暗くなり、樽がどこまで続いているのかはっきりしない。しかし美月の目には、外から見た建物の奥行きより遥かに遠くまで樽が並んでいる様に見えた。
美月が建物の深部を気にしている間、ひょこひょこと、美月の腰くらいの体長の、下膨れの顔に白い髭を垂らし、亜麻色の頭巾を被った老爺と思しき者が樽の影から出て来た。老爺は、赤い者と身振り手振りで何やら会話を交わした後、再び樽の影に消えて行った。程なくして、体長は老爺と同じくらいの、白尽くめの装いをした、若い、男か女か分からない者が二人で、それぞれ枡を抱えてやって来た。美月も節分のときに見たことのある一合枡だが、中になみなみと透明な液体が注がれている。赤い者は近づいて来た白尽くめたちの片方から無造作に枡を取ると、中身を一気にあおり、一息吐いた。
「リリイ」
赤い者は、空になった枡を返し、もう片方の白尽くめの枡を取り上げると、立ちっぱなしの美月を見上げ、声を掛けつつ渡そうとして来た。美月は手を出さず、首を横に振った。
「あなた、リリイを知っているの?」
枡を受け取る代わりに尋ねた美月に、赤い者はうなずいた。うなずいたが、そのまま少し考える様に動きを止めて、今度は首を横に振った。
「どっちだよ」
思わず美月は突っ込んでしまった。ここは自分の領域ではない上に、相手が術の使い手としても、腕力にしても相当なものだとは分かっていたが、つい、口をついて出ていた。
「ジェヴェト」
赤い者は枡を白尽くめに返すと、美月を見上げて、そう言った。
「はい?」
「知っている、のは、ジェヴェト。ジェヴェトはリリイから、分かれた。ジェヴェト、と、友。ジェヴェト、分かれる前はリリイ。だから、吾れ、リリイのことも知る」
「…リリイから分裂したジェヴェトという夢魔がいて、それがあなたの友だ、と。分裂したする前はリリイだったのだから、リリイのことをリリイとしては知らないが、ジェヴェトとしては知っていると」
夢魔のみならず、いわゆる『ひとならぬもの』は基本、増殖は分裂という形態で行っている。中には自ら性別を創って人や獣と交わって繁殖するようなもものいるらしいが、例外だと授業で習っていた。赤い者はこくりとうなずいて、続けた。
「ジェヴェトは、リリイのこと、分かれた後のこと、少しだけ知っている。リリイは、長い間、同じ人、術者のところにいる。しかし、少し前からリリイと、接することが出来ない。どうしてか、ジェヴェトは知りたがったが、動けない。故に、吾れが来たのだ。代わりに」
美月は沈黙した。リリイを消滅させたのは紛れも無い自分である。しかしそれを口にしたとき、この眼前の赤い者がどう対応するのか分からなかった。赤い者は、黙り込んだ美月の顔をしばらく眺めていたが、白尽くめから、美月に断られた枡を取り上げ、あおった。
「主は吾れの言葉が分かるか?」
「はい…ああ、言葉が分からないので黙った訳ではありません」
二杯目を飲み干した赤い者に問い掛けられ、美月は応答した。赤い者はどういう訳か笑顔になった。
「言葉は難しい」声にも笑みが含まれている。「言葉だけではない。吾れは人のことが良く分からぬ」
赤い者は、手にしたままだった枡を白尽くめに渡すと、少しの間、視線を美月から外して考えを巡らす様子を見せてから、再度問い掛けた。
「リリイが棲み着いていた者はどうなったのだ?主は人である。知らぬか?死んだのか?」
赤い者が、リリイの消息というより、リリイが宿主としていた術者の消息を知りたがっているのだと分かり、美月は内心、安堵した。相手が『ひとならぬもの』で、わざわざ美月という『人』に尋ねているのはそういうことだと、少し考えれば分かりそうなものだった。
「死にました」
美月が答えると、赤い者の瞳が、すうっと細くなった。
「そうか。死んだか」
赤い者は、ぽつりとつぶやくと項垂れた。