#08
秀覚の葬儀は滞り無く終わった。それから雑事を片付け、夜も遅くなった時間、自宅に向かうべく姉の運転する車に同乗した坊坂は、疲労困憊状態で車の座席に全身を預けていた。もっとも目は相変わらず冴えていて、そのせいで見開いた目には対向車のヘッドライトの光が幾度となく飛び込んで来ていた。顔の筋肉が意思とは無関係に、ときどきびくりと震え、その度に、葬儀中の喪主を務める颯多と棺の中の秀覚の死に顔が思い出された。得難き養父を無くした沈痛、突然だったにも関わらず、思い残すことも無かったかのような穏やかさ、他者の目にはそう映っていたのだろうが、坊坂の目には両者ともしたり顔にしか見えず、ともすれば嫌みを言い出しそうな口と睨みつけたがる目を必死で抑え、一日中、哀悼の意を示す表情を取り繕い続けた。現在の顔の妙な動きはその影響である。
坊坂は一昨日、かろうじて日付の変わる前に自宅のある町に着いたが、人目を避けるために自宅ではなく姉の家に泊まり、昨夜から今朝に掛けては通夜だったので、帰郷後に自宅では一泊もしていない。だが、今日以降は普通に自宅に滞在するつもりだった。
「終業式はいつやったっけ」
「二十五日」
思い出した様に尋ねて来た悟理に、坊坂は即答した。
「すぐやね。で、どうする。お母さんたち、何も言わんけど、このまま、冬休みが終わるまでいて欲しい思うとるよ。今日の様子見ていれば、心配するのも分かる思うけど」
颯多は静かなものだったが、『長老派』に属する他の長老たちが、坊坂たちが想像していたより浮き足立っており、対照的に愛威推しの連中は、葬儀という場にも関わらず、生き生きしているように見えた。坊坂のみならず誰の目にも、一波乱あるだろうということが明らかなほどに、鮮やかに対を成していた。
「このままいる。学校、戻ってもどうしようもないし」
坊坂は膝に置いた両の手の平を上に向けると二三度結び、開きながら言った。期末試験の結果や冬期休暇中の課題は、八重樫に頼めば送ってくれるだろうし、今まで無欠席なので出席日数の問題も無い。悟理は坊坂が即断するとは思っていなかったらしく、僅かに目を見開いた。
「へえ、珍しいねえ」
茶化すような口振りではあるが、嬉しそうに悟理は笑った。もっとも、それから約六時間後、悟理は同じ様に弟を助手席に乗せて、延々と続く暗い影の塊にしかみえない道路を新幹線の停車駅に向けて進むことになった。
自動車のヘッドライトの光が裂く。強いその光は、走行する自動車の左右に点々と続く街灯の存在を霞ませていた。悟理と坊坂の乗る一台以外、前後にも、対抗車線にも車の影は無い。葬儀からの帰途と同じく、坊坂は座席に埋もれていたが、今はたびたび落ちてしまう瞼を抱えていた。
ほぼ六時間前、悟理の運転する自動車は、坊坂の自宅の門をくぐり、家屋の裏口から離れた場所に停まった。裏口すぐ近くに数台車が停まっていたので、そこしか停車出来る場所が無かったのだ。家人のものではない車なので、来客なのだろうが、それにしては時間が遅いと、姉と弟は話し合いつつ、裏口を抜け、取り敢えず父か母がいるだろう居間に入り掛け、硬直した。居間には、憂奈と憂奈の実母、継父の新見の他、顔を知らない何人かがたむろしていた。居間の中央の卓の上に、白い雪結晶の模様の包装紙と金色のリボンで鉢を飾った、真っ赤なポインセチアが置いてあった。
「こんばんは。本日はお招きありがとうございます」
顔を知らないものの一人、三十前後の年齢で、描いたような眉をしている男は、硬直した坊坂と悟理が何か言い出すより早く、見事な笑みと共に声を掛けて来た。さっと差し出された名刺には、創作イタリアン、と、恐らくイタリア語の店名が書かれていた。
「クリスマスのご予約について、確認を致したく」
『は?』
坊坂と悟理は同時に声を上げた。位置関係としては、坊坂が半歩居間に身体を入れ、悟理は完全に廊下にいるのだが、居間にまで届いた声は悟理の方が大きかった。
「ク・リ・ス・マ・ス。慈蓮、このままずっといるんでしょう?慈蓮のクラスメイトだった子たちとか、連絡したら、いっぱい集まりたいって。それで、お店を予約したの!ね、このお店知らないでしょう?今年出来たところだよ!」
にこにこと憂奈は微笑みながら、言った。その周りで、憂奈の実母と新見も微笑んでいる。それ以外の名前も顔も知らないひとびとも、にこにこと微笑んでいる。坊坂は、ポインセチアの鉢に札が刺してあることに気が付いた。ラブアンドピース。白地に金色の文字でそう書いてある。悟理は坊坂の二の腕を掴むと、半ば踏み入れていた居間から廊下に、強引に引きずり出した。
「着替えて来ますよって」
悟理は居間にいる一同に負けず劣らずの輝かしい笑顔を浮かべると、開け放してあった引き戸を閉め、坊坂を連れて一二歩進んだ。そこで坊坂は乱暴に姉の手を振り払い、たった今入って来たばかりの玄関に向かい、猛然と歩き出した。
「たんま!れったん、たんま!」
悟理は駆け足で坊坂に追いつくと、その腕を再度取った。坊坂は能面のような無表情な顔で、じろりと眼球だけ動かして姉を見下した。
「朝、明日の朝、始発の新幹線に乗れるように駅まで送って行く。そやから、今出て行くのは待って」
坊坂の耳元、他者には聞こえない小声で、しかしはっきりと悟理は言い切った。その目の下辺りが紅潮し、唇の端がひくついている。坊坂は一つ深く息を吐いた。
「父さんと母さんにまた面倒かけるな」
「何言うてるの。使わなければならないレストランが一軒減って喜ぶわ」悟理は鼻を鳴らした。「長浦さんが客間に通さへんかった時点でお察しやし」
長浦は長年勤めている住み込みのお手伝いである。憂奈の一家は親戚ということで普段から客間を使うことはないが、それ以外のひとびとも一絡げで居間に入れらたのは、坊坂の家の客人ではなく、憂奈の一家に付属するその他大勢、と見なされたということである。結局、その日も坊坂は悟理の家に泊まり、まだ夜も明けぬ時間に、こうして送迎してもらうことになったのだった。
「それにしても、憂奈ちゃん、年々行動が酷くなるねえ」
長い直線道路に入ったところで、悟理がぽつりとつぶやいた。独り言である。しばらくハンドル操作が殆ど要らない道なので、眠気予防で喋っているだけである。しかし、坊坂は薄目を開けて、窓の外の闇を眺めつつ応えた。
「昔からだ」
「そう?」
「俺の玩具壊しやがったし」
「いつ?そんなことあった?」
「俺が幼稚園の年中のとき」
「…随分昔のことやね」
悟理とて、折角滞在予定だった坊坂を一瞬で変心させてしまった憂奈たちに腹は立てていたが、十年以上前の一件をしっかり恨みとしている坊坂に、少し呆れた声を上げた。