#06
もう長い間、座り込んでいたらしい。美月が腰を下ろしている先の石段は、美月と、もうひとりの座っているものの体温が移ったようで、温もりを感じるほどであった。もうひとりは、美月の左隣に腰掛けている。座っている状態で美月より頭一つ分くらい大きいので、立ち上がった際の体長は二メートル近いと思われる長身の男性だ。長く、赤く、真っ直ぐな髪を後ろで一つに束ねて垂らしていて、顔立ちは、髭こそ無いものの、中央アジア出身の映画俳優にいそうな、浅黒い肌の、彫りの深い、濃い顔立ちで、表情がない。その異国情緒溢れる顔立ちと対照的に、纏っているのは緋の束帯である。ただ、足元は美月と同じく裸足だった。その姿を、美月は横に顔を向けること無く確かめた。美月の眼下、爪先の少し下の辺りから、透明な水が広がっている。その水面に、己と隣に座る何者かの姿が明瞭に写し出されていたのだ。二体の虚像の更に奥、澄んだ水中には、美月たちが腰掛けている石段と同じように切り出され、段組みされた石が沈んでいるのが見える。水を挟んだ向かいには、こちら側と同じ様に、石段があり、最上段に水気の無い、灰色をした生け垣が植わっている。水の有り様は、川というより運河のそれで、波も流れも感じられないほど静かだった。
美月が座っているのは、最上段から一段下の段だった。そのため、背中の半ば辺りから上は、ともすると生け垣に当たる位置になる。美月は意図的に頭部を動かしてはおらず、風もないのだが、髪が一本、生け垣が持つ刺に絡まった。頭皮を張られる鋭い痛みに、美月は手を伸ばして髪を探り、悪戯をした枝葉から外した。そこで美月は、髪の長さが、肩より少し長いくらいだと気付いた。現実世界での美月は短髪で、前回、同じような場所にいたときには、もっと長かった筈だと、漠然と思った。視線を落すと、身に着けているドレスの長い裾と鮮やかな緋が目に入るので、髪以外の外見には変化が無いらしい。美月は、太腿辺りに起こったドレスの皺を伸ばしてから、両手を膝に置いた。しばし、静寂があった。
「あなたは、どうして、いきなりいなくなってしまったの」
静寂の後、ふと、その言葉が美月の口をついて出た。出してから、美月は己が誰に向けて話しかけているのか分からずに混乱した。
「いつまでも、いられるようにって。わたしを使えば、わたしが満足していられるようにしてくれるっていったのに、いなくなった」美月の思考と裏腹に、言葉は勝手に紡ぎ出された。「ひとつ、移動出来るところがあったけど、でも、そこは…」
美月は口を閉ざした。或いは、勝手に喋っている美月以外の何かが閉ざしたのか。言葉が止まるのとほぼ同時、周囲の景色が一斉に色を変えた。水の透明さと、無味乾燥な色合いの石と生け垣だった景色は、花が蕾を開いたかのように、突如、形は変えずに色彩を、淡い桜色に変化させた。次いで、口の中にざらつきを覚えるようだった空気が一変し、甘い、甘味料に似た香りが漂う。
それまで静かに美月と隣人の姿を写していた運河の水面が、細かく振動を起こし始めた。水が揺らぎ、波立ち、薄く波紋が広がる。隣人の姿は赤い顔料を水に垂らしたかのような不定形になった。その一方、美月の姿は微動だにしておらず、そこだけ不動の鏡になったかのように、くっきりとした輪郭を浮かび上がらせている。と、茹でた卵の空がつるりと向ける様に、水の中から美月の姿だけが水中から現れた。裸足の足を川面に下し、水上に立っている様な装いである。美月が、茫と眺める前で、美月と同じ姿だったそれは、肌や髪である部分、衣服である部分問わず、景色に溶け込むような、やや光沢を持つ桜色に染まると同時、表面の凹凸を、研磨したかの様に落した。滑らかな表面を持つ、製作されたばかりの合成樹脂の人形のようである。美月の等身大であったそれだが、次の瞬間には収縮を開始した。中心に向かって全身が絞り込まれ、小学校低学年の児童ほどの大きさになったところで、先程までの行程を逆回転させたように、凹凸が発生し、色が変化する。ふわりと灰色のドレスの裾と、体長と等しい長さの褐色の髪が虚空に舞った。少女の姿である。顔立ちは美月のものでも、美月の幼少時代のものでもなかったが、どこか見覚えがある。だが、美月が記憶を掘り起こすより早く、それは直立状態から、ゆっくりと後方に倒れ、水面に仰向けで浮かぶ体勢になった。美月は、反射的に身を乗り出しかけたが、突如、少女の身体が、下方にがくりと下がったのを見て、動きを止めた。
運河の水が引き始めている。無音で、無音であることがおかしい勢いで、水位が下がって行く。少女の姿はそれに伴い、小さく遠くなっていく。川底近くにまで下がり、その姿が指先ほどの大きさになったとき、美月は、少女と少女の周りの水が、長方形に切り取られ、黒い枠に収められていることに気が付いた。顔を上げ、辺りを見回す。桜色も甘い香りも既に存在していなかった。美月はクリーム色のクロスが張られた壁とリノリウムの床に囲まれていた。腰掛けていた石段は、木製の丸椅子に変わっていて、目の前にテーブルがあり、更にその奥の壁際、ぽつりと小さな点になっている少女の姿が映る、液晶のテレビがあった。
「ここにずっといられると思ったのに」
また、勝手に言葉が紡がれた。だが、今回は、混乱より先に違和感を感じた。美月がここにいるのは、最長で三年間、下手をすれば、もっと短い、のだ。はっとして、美月は再度、周囲を確認した。部屋の一角が膝ほどの高さに底上げされて畳敷きになっている。壁際に電話が二台、パソコンが二台ある。美月は、この部屋が、寮の談話室を模したものだと気が付いた。同時に、隣を見やる。赤い髪の何者かは、依然変わらず、そこにいた。化学物質で覆われ、電化製品の置かれた現代的な部屋の中で、酷く場違いだった。何者かは、美月に顔を向けた。真正面から見ても、その顔に見覚えは無い。誰かと間違えて話し掛けていたのかとも思ったが、では誰と間違えたのか言われると、美月にも分からなかった。
何者かが僅かに動いた。美月は椅子の上で身を仰け反らした。何者かの腕が伸び、美月の二の腕を捉えた。美月は振り払いかけたが、何者かの手は、その体躯に見合った怪力で美月の腕を掴んで放さなかった。
「リリイ」
何者かの、口が開き、そう言った。口は動いているのだが、目は見開かれたまま瞬き一つせず、頬の筋肉の動きも幾分ぎこちなく、腹話術の人形のようだった。違う。その瞬間、美月は自覚した。これは自分の夢だが、この何者かは自分が生み出しているものではない。誰か、もしくは何かから干渉を仕掛けられている。
ぐしゃりと紙を握り潰したかの様に、談話室に似た部屋が半分だけ、瓦解した。美月と何者かの間に境界線が引かれた様に、美月のいる側は部屋のままだが、何者かの座っている側は石段と生け垣の、例の景色になった。何者かは、美月を掴んでいた手を放した。無表情だった顔が、少し哀しげだった。