#05
起床時間を知らせる放送で目が覚めた。全館暖房が建物全体に効いている寮の部屋は、窓硝子の結露に悩むほどに暖かいが、それにしたところで異常な量の汗の玉を、顔と首筋にびっしりと、美月は浮かせていた。数ヶ月来の馴染みの天井を認識し、軽く一息を吐き、更に数度、深呼吸をして、こめかみまで聞こえて来るような脈動を続ける心臓を鎮める。夢見が悪かったせいだとは分かった。だが、どんな悪い夢を見たかというと、全く思い出せなかった。額の汗を手の甲で拭い、ベッドに横になったまま、美月は今までいた夢を思い出そうとしたが、叶わなかった。代わりに、瞼が落ちた。夢を思い出すどころか、夢に誘われた訳である。美月が、うとうととまどろみかけたその時、部屋の扉が、乱暴ではないが、大きく、重点的に叩かれた。現実的なその音に、美月の瞼は一瞬で全開になった。ほぼ同時に、布団を跳ね上げて身を起こす。同室の藤沢は、起床時間と共に部活の朝練に出ている。カーテンが引かれた薄暗い室内で、下が物入れになっているベッドの梯子から転げ落ちそうになりながら、美月は床に下り、扉を開けた。扉の向こう側に立つ寮監は、スウェットの上下で、いかにも寝起きという髪と顔付きの美月を一瞥しつつ、口を開いた。
「須賀、電話だ。談話室の一番に回すから、受けてくれ」
「ありがとうございます」
寝ている間に乾燥したのか、絞り出され美月の声は酷く掠れていた。上履きを引っ掛けて廊下に出る。暗い部屋の中と対照的に、明かりが煌煌と照り付けている。寮内は既に、寝癖が付いていたり、寝ぼけ眼であったりする生徒たちが行き来し、そこかしこからざわめきと生活騒音が起こる、活気に満ちあふれた朝になっていた。談話室も、生徒は数人いるだけだったが、テレビから朝のニュースが流れているため、それなりににぎやかさを感じられた。
電話は『母』からだった。
「朝早くからごめんね。寝てた?頭は働いてる?」
昨夜の電話の際には、取り乱して途中で会話が出来なくなった『母』だが、今朝はすでに落ち着いて、一貫して貫いている、本当の母親らしい喋り方で話しかけて来た。学院側にいて、一方のみではあるが他の生徒たちに会話を聞かれる状況にある美月が、いかにも母親と話している体で受け答え出来る様にという配慮である。
「うん、大丈夫。ちょっと、まだ、ぼうっとしているけど。何?用は?こんな時間に掛けて来るんだから、大事な用だろ」
美月が、掠れが収まった声で応えると、『母』は電話の向うで、少し声を潜めた。
「うん。大切な話し。ちゃんと頭が働いているようだから、言うね。あのね、他のひとたちと話し合ったのだけど、やっぱり光生に学校を辞めてもらわないといけないの」
端からすると、とんでもない発言ではあったが、美月は昨日、坊坂に秀覚との関係が発覚したと思われる時点で半ば予想していた内容だったので、驚かなかった。発覚した以上、お役御免ということである。
「ああ、やっぱり、そうなるか」
「そう、ごめんね。でもそれが一番いいの。心配しないで。あなたは元に戻るだけよ」
学院の一男子生徒としての美月が消えるだけ、と、『母』は説明した。美月は坊坂の監視を引き受けた際に、自分が別の高校に、当然ながら女子生徒として、書類上在学させることを条件としている。今まではそちらが虚像で美月は学院にいた訳だが、今後は実体がそちらに移るわけだ。
「もうね、すぐに冬休みに入ってしまうでしょう。慈蓮くんは、このまま冬休み明けまでこちらに留まると思うの。というか、お母さんたちが何もしなくても、今のこちらの状態では、周りが全力で引き止めるから」
元々、隙あらば坊坂を戻そうとしている連中がうようよしている地元である。加えて、秀覚という領袖を失った『長老派』は、瓦解しかねない派閥の維持と権力の確保のため、坊坂に自分たちの存在を印象付けようと必死で動いている。ちょっとやそっとのことでは逃がさないと言われた。
「だからね、二学期の終わりで退学して欲しいの」
学期末は、退学する時機として区切りが良い。一週間以上あるので、身辺整理をするだけの時間も充分である。何より美月には、それまで、坊坂と顔を合わす可能性が低いということが有り難かった。これまで坊坂は、美月が秀覚に送り込まれた者だと気付いていはいても、確信に至るまでのものが無いのか、秀覚が恢復する可能性があったためか、はたまた美月が所詮は下っ端だと理解しているせいか、面と向かって詰問してくることはなかった。だが、今後はどう出てくるか分からない。会うこと無く済むのであれば、それに越したことは無かった。その後、学院側への退学の理由付けや、移動の手配などの説明を一通り受け、最後に美月は『母』に言った。
「そっちも気をつけて」
『母』が秀覚の通夜や葬儀に参列するかは不明だったが、参列する場合、嫌でも坊坂を始めとした関係者と顔を合わせる。秀覚の周辺から美月の件が漏れた可能性が高い以上、何が起こるか分からなかった。
「もちろんよ」
『母』は快活に言って電話を切った。
美月は受話器を下ろすと、軽く息を吐いた。しばしその体勢で虚空を眺めていたが、顔を上げ、談話室の時計を見た。いつもより遅くなるが、朝食を摂るだけの余裕はある。ただ食欲は無かった。しかし後で空腹になって売店に走るようなことになれば、無駄遣いである。『母』は、今の電話で退学後の生活を保証してくれたが、実際のところ、どうなるか分からないと美月は考えていた。美月を切り捨てたところで、何の痛痒も無いのだ。そうなった場合、自分で生活を立て直すしか無い。無駄遣いなど論外であった。
昨日の中華粥のような、手軽に食べられるものがあれば良いと思いつつ、美月は自室に戻った。担任教師の合田は、模範的な教師であるから、退学すると言えば本気で心配される。その辺りにも心苦しさを感じた。