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猩猩  作者: のっぺらぼう
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#04

また同じ生け垣がそびえていた。ただ生け垣がある位置が、美月の立っている石畳の上から、膝ほどの高さのある大石を使って組んだ、美月の身長ほどの高さのある石段の上なので、圧迫感は前回より段違いである。首を()らし仰ぎ見る生け垣の更に上は、以前と同じく灰色の混じったような、くすんだ水色をした空で、光加減も同じくらいなのだが、どういうわけか肌寒く感じて、美月は()き出しの二の腕をさすった。美月の服装は前と同じ緋のドレスなので、肩も二の腕も露出している。その上、今回はミュールを()いておらず、裸足であった。ひょっとしたら、前回邪魔だと思ったせいで存在しなくなったのかもしれないが、それにしては、同じ位、鬱陶しいと感じる下ろした長髪はそのままだった。

何の気無しに、その髪を数本、指にくるくると巻き付けながら、さてどうしようかと美月は思いを(めぐ)らせた。前の夢に出て来た、あの赤毛の生き物が気になる。似たような場所なら、また出現してくるかもしれない。あれは、自分の想像の産物にしては、わざわざリリイと言う単語を持ち出して来る辺りが不可解で興味深い代物だった。もっとも、夢などある意味で全て、不可解で不条理なものだが。

美月が行動を決めかね、立ち尽くしている間に、周囲の方が先に動き始めた。美月は裸足の爪先に、突然何かが触れたのを感じ、一歩飛び退いた。それまで自分が立っていた場所を(にら)むと、石畳の隙間から湧き出て、周りを濡らしていく水が目に飛び込んで来た。周囲を見回すと、そこかしこから水が湧き出ている。意外な展開に戸惑った美月が、石と石の間の溝に水が滑り込み、流れて行く様を呆然と眺めている内に、当初、水飲み場の水を思わせる、ちろちろと細い筋を描いていた水は、吹き出る勢いと量を増した。あっという間に美月の足の甲にまで達するほどの水溜まりが出来た。美月は、浅く溜まった水を跳ね上げ、歩を進めると、石段を一段、上に上った。その間にも徐々に水かさは増し、美月の乗っている石は半ばほどまで水に(ひた)った。湧き出て来た直後は透明だった水だが、今は砂と土が混じったのか茶色に濁っている。美月はもう一段上った。


今日は、いつもより早く目覚め、そのくせ頭の動きは鈍く、対照的に目が冴えた朝から始まった。普段より幾分早く起床した美月は、制服に着替えると手ぶらで食堂を訪れ、調理担当者のお勧めだと言う中華粥を朝食として()っていた。気温の高い時期は出て来なかった献立で、味は悪くなかったが、普段より時間が早いせいか、ぼんやりしながら、美月は陶製の匙を動かしていた。途中で八重樫が同じ卓に着いたこと、何か重要でない話題に対し、生返事を返したことは覚えている。その後、糖分が回ったのか大分働き出した頭と共に美月が寮の部屋に戻ると、間を置かず、朝食を短時間で済ませたらしい藤沢が入って来た。

「坊坂の様子がおかしいんだが、心当たりはあるか?」

藤沢が朝練に出たとき、美月はまだ半睡状態で布団の中にいた。なので、今日初めて顔を合わせたのだが、開口一番、そう尋ねられた。美月は朝の挨拶し掛けて半開きになっていた口を閉じると、怪訝(けげん)な顔付きでジャージ姿の藤沢を見た。

「宗派の偉い人の具合が悪いからじゃないのか」

「それで何でお前にビビるんだ?」

「は?」続けられた言葉に、美月は目を丸くした。「ビビ…る?坊坂が?わたしを?」

藤沢は深くうなずいた。美月は黙り込んだ。藤沢はしばし、明後日の方角を見ながら沈黙を保つ美月を眺めていたが、美月が何も言い出す気配がないと分かると、制服に着替えて部屋を出て行った。数分遅れて、同じく支度を済ませた美月は、足を引きずるように寮を出た。一年一組の教室に入る際、何となく教室全体を見渡す。一瞬だけ、坊坂がこちらを(うかが)い、すぐに目を逸らしたのが視界の端に(とら)えられた。美月は不意に、前夜『母』と電話を終えた直後、坊坂と目が合ったことを思い出し、漠然と悟った。美月が、秀覚(しゅうがく)に雇われたものだと、坊坂は気付いている。美月は席に着きつつ、記憶を探った。坊坂の様子が変わったのは、前日、授業の合間に電話を受けた後からである。電話での『母』の声からしても秀覚の周囲が動揺していることは間違いない。動揺があれば隙も出来る。美月の身元を完璧に偽装していた秀覚の腹心たちだが、何かの拍子で情報が漏れたのだろう。

「『月歯(げっし)荘の殺人』だっけ、あれ、途中で犯人ばれているよね」

前日と同じ時間に掛かって来た『母』からの電話の声を(さえぎ)って、美月は告げた。(あらかじ)め決められた、坊坂に、美月の役割が発覚した可能性がある場合に、伝えるべき合い言葉だった。坊坂は既に実家に向かって学院を離れていたので、聞き(とが)められることは無いのだが、取り決めは取り決めである。電話の向うの『母』が息を呑むのが分かった。秀覚の死去という一事だけでも相当に狼狽していたと(おぼ)しき『母』は、美月の宣告で恐慌をきたした。その取り乱し様から、美月は『母』が、単に仕事として(たずさ)わっている己と違い、秀覚の近親者か友人か、とにかく近しい間柄だと理解した。


美月は、石段の一番上に、生け垣を背にし足を垂らして座り込んでいた。一番上の石段は、生け垣が植わっている関係上、幅が狭い。立とうとすれば、生け垣に背を密着させ、手で刺だらけの枝葉を掴んで身体を支える他ない。そのためこの体勢になっていた。水は今やその一番上の石段にまで迫って来ている。水位の上昇もだが、気温が下がって来ていることも問題だった。肩や腕の皮膚は総毛立ち、筋肉は(こわ)ばっている。水が(ぬる)いせいで、水に浸かっている(すね)から下の方が、心地よさを感じるほどであった。ただ水は相変わらず酷く濁っているので、足湯と洒落込むことは流石に出来なかった。美月が腰掛けている段より下は、完全に、茶色に埋没してしまっている。美月は足を少しばたつかせてみた。脚にドレスの裾が(から)み付く。水面に波紋が広がり、無音の辺り一帯に水音が響き、しぶきが上がった。すぐに飽きた。足を止め、遠くを眺めると、彼方の水平線は、水の茶色と空の灰色に近い水色でくっきりと分けられていた。

美月はいい加減、面倒になっていた。いっその事、水の中に飛び込んでしまえば、その衝撃で目が覚めるのではないかと思えたが、今更飛び込むのも億劫に感じ、水かさが増すに任せることにした。程なく水は、美月が座る石段も侵食し始めた。ぱしゃん、と音が上がった。水平線や、向かいの、沈みつつある生け垣を(ぼう)と眺めていた美月は、近くで上がったその水音にはっとして、音の出所と思しき足元に目を戻した。悲鳴になりそこねた、鋭い呼気が喉から漏れた。美月の水中に伸ばした両足首の間の上、水面に浮いたドレスの裾のすぐ向う、赤い毛髪が張り付いた半球があった。それが、以前のものと似た生き物が、頭部を半分だけ水面に出しているのだと理解したのは一瞬後だった。理解した後は、目が離せなくなった。相変わらず、水面から指一本置いた程上の位置に瞳があり、それが美月をじっと、(まばた)き一つ無く凝視していた。前回見た時は黒一色だった瞳だが、今はひとの眼球のように黒目の周囲が白目で縁取られている。白目には赤く充血した毛細血管が浮いていた。

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