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猩猩  作者: のっぺらぼう
2/14

#02

眼前には多数の刺を持つ、緑が(かす)かに混じった灰色の、細かく枝葉を生やした木が幾本も入り組んで造成された生け垣があった。美月は目を(しばたた)かせて生け垣を見上げ、右を見、左を見た。生け垣は、高さは美月の身長の二倍ほど、左右どちらにも延々と、視覚の及ぶ範囲では続いている。振り返って確認すると、背後も同じ生け垣がそびえていた。生け垣の上はくすんだ水色の空。美月はちょうど、生け垣に挟まれた左右に延びる一本道に立っている状態である。地面は灰褐色の大小不揃(ふぞろ)いな石を使った石畳で整えられていて、美月がミュールの(かかと)で叩いてみると、こつこつという固く乾いた音を立てた。美月はそこで、自分が鮮やかな緋のミュールを()いていることに気付き、更に、同色の、地面に着くほど長い裾のドレスを着ていることに気が付いた。ミュールやドレスを確かめる際に頭部が動き、腰まで伸びて背中に流していた髪が一房、美月の胸の前に垂れた。

あいにく、鏡を始めとした自分の姿を映して確認出来るようなものは何もなかったが、野外で過ごすのにふさわしい格好ではないことは理解出来た。美月は、邪魔な髪をまとめられるものがないかと辺りを見回した。生け垣の葉の一枚でも摘んで紐代わり出来ないかと思ったが、生け垣の葉が全て親指の先ほどの小ささしかないことが分かって諦めた。次に、動きにくそうなミュールを脱ごうと手を掛け、掛けた手がミュールをすり抜けてしまい、しばし無言で手とミュールを交互に見やった。

美月は既にここが夢世界だと自覚していた。ドレスが、以前、美月が対峙したことのある夢魔、リリイが着ていたのと同じものだとも気付いていた。ミュールは、リリイが基本、椅子に座っていて見えなかったので、同じものかは分からない。リリイは、美月が学院に来た直後に巻き込まれた騒動の中心にいた夢魔で、最終的に、美月が力づくで消滅させた。そんなことがあったせいか、以降、夢世界での活動の自由度が上がっていた美月だが、ここまで明瞭に周囲の景色が存在している一方で、ミュールのみ触れないと言う、ちぐはぐさを味わうのは初めてだった。右手で生け垣をなぞると、枝葉がかさかさと音を立て、刺と小枝が手の平に当たり、ちくちくと痛みを覚えさせた。美月は片手を生け垣に沿わせたまま、ぐるりと首を(めぐ)らし、辺りを見回した。このままこの場に留まっていても良いのだが、折角自分の知らない風景の中にいるので、移動することに決めた。右と左、どちらに歩き出そうかと少しだけ迷ったが、左の方が石畳の石が大きく、歩き(やす)そうに見えたので、そちらに決めた。


午後十時の消灯時間から(さかのぼ)ること三時間ほど、美月は寮の談話室で母からの電話を受けた。正確には母と名乗る、声以外は何も知らない誰か、である。美月は生物学上も出生書類上も雌性(しせい)であり、全寮制男子校である座生学院高校に在学するにあたって、色々と細工がなされている。家や家族の設定もそのひとつで、実在するらしいが美月は行ったことなど無い住所を自宅として学院に登録し、ある電話番号を自宅の固定電話とし、その番号から掛かってくる女性の声を『母』として応対していた。そのような美月を男性として成立させるための細部を、かなりの時間と手間と金銭を費やし設定してまで美月を学院に送り込み、坊坂の日常生活を監視し報告する様に依頼した人物、美月に陣内(じんない)と名乗った老爺が、昨日脳梗塞で緊急入院した迫間(はさま)秀覚(しゅうがく)そのひとだと、電話で伝えられた。

美月は、それを聞いた瞬間、心臓が跳ね上がるのを感じ取った。『母』の声を聞き流しつつ、美月は一度会っただけの秀覚の姿を思い浮かべ、病床の秀覚の身体状況を探り、血の気が引いた。今朝、坊坂は希望的というか楽観的な観測を述べていたが、重篤である。美月は、二時間目と三時間目の間の休み時間に事務員に呼ばれて教室を出て行き、結局四時間目が始まるぎりぎりに戻って来てからの、坊坂の様子を思い出した。坊坂は恐らく隠しているつもりなのだろうが、端から見ていると、苛立(いらだ)ちや不安と言った負の感情を必死で押さえ込んでいるのが判然としていた。秀覚の容態を聞かされたからか、と合点がいった。

『母』というより、秀覚の腹心たちが、美月に陣内が秀覚であるということを明かしたのは、別経路でその情報を手に入れた美月が、監視を放棄することを恐れたためであった。早い話し、秀覚の身に万一のことがあった場合でも秀覚の腹心が後を引き継ぐ、美月はその指示に従う、という点を美月に確約させたかったわけである。一応この『仕事』を受けたときに、秀覚に何かあった場合のことも話し合われていたのだが、いざ起こってみると不安に駆られたらしい。いつもより不安定さを感じさせる声色の『母』と何点か確認し合い、美月は受話器を置いた。電話の前の椅子から立ち上がりかけた拍子に、出入り口の扉のすぐ横に立っている坊坂と目があった。坊坂はすぐに目を(そむ)け、顔を伏せると立ち去ってしまったが、その一瞬、どういうわけか美月は背筋が寒くなった気がした。


美月は歩き続けていた。左右にそびえ立つ生け垣は、その灰色の鮫肌を全く変化させることなく続いていた。破れ目でもあれば、そこから生け垣の向こう側に移動することも出来るが、子猫ですら入り込めるだけの余地がなかった。美月の右手の手の平は、歩いている間生け垣をずっとなぞっていたせいで、細かい傷を無数に負い、皮膚が裂けて血が(にじ)んでいた。夢の中で痛みを感じることをむしろ楽しみつつ、美月は進んだ。

そこからどれくらい()った後か、美月は一歩進むごとに(わず)かに砂塵が舞うことに気付いて、視線を落した。石畳がいつの間にか、ただの踏み固められた土と砂の道になっている。美月の()いているミュールの緋が、砂埃で少し(かす)んでいた。美月が指先でなぞると、砂が落ちて地の色が現れた。脱ごうとしなければ触れるらしい。とはいえ、一見華奢な造りであるのに、特に徒歩の邪魔になる訳でもなく、ここまで一向に壊れる気配のないミュールを、今わざわざ脱ごうとは思わなかったが。美月は、それまで正面に向けていた視線を、唯一変化が見られた足元に向けると、少なくともこのまま進めば何らかの変化があると思い、歩き出した。

地面が湿り気を帯びて来たのは大分()ってからだった。歩くたびに上がっていた砂埃は収まり、変わりにミュールの(かかと)や爪先に、水分を含んだ土が付着する様になった。歩みを進めると、その動きで一部の土が落ちるが、すぐにまた付着してくる。更に進むと明らかに足音が変化した。道ではなく、泥の上を歩く音である。地面はすっかりぬかるみ、少しずつ、しかし確実に一歩踏み出すごとにミュールの(かかと)ののめり込みが深くなり、歩きにくさは倍増していた。ドレスの裾は泥で真っ黒に汚れ、スカート部分の半ばほどにまで、跳ね上がった泥が模様の様に付着している。現実世界であれば汚れることを恐れて進めないだろうが、夢世界であるが故の大胆さで、美月はどんどん進んだ。

泥はやがて濁った水になった。道は、もう浅瀬である。美月は臆すること無く進んでいたが、流石に水が足首にまで達した辺りで、歩みを止めた。水の濁り具合が酷いせいで、足元のミュールは完全に見えなくなっている。美月は視線を、足元から上げ、進行方向の遠くに移した。生け垣が少しずつ低くなっているような錯覚を受けたが、実際は生け垣の下部が水に隠れて行っているためだった。最終的には完全に水没している。美月は、道を下って来たという感覚は全くなかったのだが、水の溜まり具合を見ると、下り続けていたらしい。

美月の足首から続く水面は、平坦というか波一つ立っていなかった。美月が立ち(すく)んでいる箇所は濁っているが、遠くに行くにつれて澄んでいくらしく、空を反射し青灰色せいかいしょくになっていた。その青灰色に侵食されている様にも見える、遠くの、水面から少しだけ上端を(のぞ)かせた生け垣をぼんやりと眺めていた美月の視界の端に、動くものが入った。はっとして、その辺りに視線を集中させるが、平らな一面が広がっているだけである。気のせいかと考えかけたところで、また、動いた。慌てて、始めに動くものを(とら)えたと思った位置から、少し手前に視線を移す。幾分近くなったせいか、波紋が(かす)かに立っているのが分かった。気のせいではない、何かがいたのだ、と確信し、美月は視線をそこから少しだけ、また手前に落した。美月の予感は当たった。赤い小さな丸いものの上半分が、水中から一瞬だけ浮き上がり、沈んだ。幾重の円が水面に描かれた。何かが、水中を上下しつつ、美月のいる方に向けて、近づいて来ているのだ。

後退するべきか否か、美月に迷いが生じた。違う場所に出ることは歓迎していたが、訳の分からないものとの邂逅(かいこう)を望んでいる訳ではなかったのだ。しかし結局、その場に留まった。所詮、夢である。近づいて来ている何かが美月に危害を加えたとしても、現実世界での影響はないのだ。

そこから三度目にそれが水面に上がったとき、美月はその外見をはっきりと視認した。生き物の頭部に見えた。美月のドレスの色に似た、鮮やかな緋の長毛が水で全体に貼り付いていて、目があるであろう箇所が、きらりと光った。次に浮上したそれは、潜らなかった。毛むくじゃらの頭部の、上半分だけを水面から(のぞ)かせた状態で、水面から指一本分くらいの距離の位置にある、漆黒の瞳が(まばたき)き一つすることなく…そもそも(まぶた)がないのかもしれないが…美月を凝視した。それの周囲で発生していた波紋が鎮まる程の時間が経過した頃、それはもう少し、顔を水中から出した。目の下、指一本くらい下から、鼻孔が前に突き出ていた。その容貌は美月に、まず、海豹(あざらし)を連想させたが、次に犬にも、猿にも見えて混乱した。困惑を浮かべた表情で、美月がそれの顔を見つめたので、まだ美月から視線を逸らしていなかったそれと、目を合わせる形になった。

不意にそれは、鼻の下の裂けた口をかぽりと開けた。美月のいる位置からでも、真白の肉食獣の牙が口の中に見えた。

「り…ぃ」

「え?」

それが喋ったのだと、美月が気付くまでに数秒を要した。夢の中なので、別に犬や猿が口をきいても良い筈だが、美月は相手が喋らないものと思い込んでいたので、想定外な事実が脳に浸透するまで時間が掛かったのだ。

「リリイ」

再び、それは先より明瞭に発音した。そこで体力が尽きたのか、それは口をつぐむとまた頭部の下半分を水に()けた。短い静寂の後、それはやおら水中に沈むと、それきり浮上して来ることはなかった。

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