#13
見事な朝焼けだった。右手から陽が昇り掛けているのか、白く仄かに輝き、中天に向かうにつれて青みが混じり、紫へと変わり行く。その上に絵の具を垂らしたような、右半分を濃い橙、左半分を漆黒に染めた幾つかの雲の塊が段を重ねているように浮かび、左手の地平線近くには少しいびつな円を描く皓月が二つ縦に並んでいた。
朝焼けの下には、白く濃淡を見せる霞が広がり、更にその下に、空の色をやや褪せさせて映した水面があった。波風はほとんどない。ただ、水面に立つ赤い姿が歩を進めるたびに、僅かに波紋が発した。美月は芸術関係に疎い。そのため、川面を檜舞台として立ち、その男性的な容貌とは裏腹に、たおやかに腕を上げ、足を踏み、身体を巡らせ、舞う内容が、何なのか分からなかった。ただ、綺麗だとは思った。美月が見ているのに気が付いたのか、舞手は舞を止めた。人間らしい姿を取って以降は、後ろで束ねていた髪を今は下ろしているので、動きを止めると赤い線が虚空からふわりと緋の束帯を纏った肩に落ちた。
美月は丸石が敷き詰められた川原に膝を抱えて座っていた。女子生徒用の学生服姿である。赤い舞手は美月の正面に向き直ると、川の上からじっと美月を見つめて来た。
「入れてはくれぬか?」
「駄目」美月は微笑んだ。「勝手に夢を繋ごうとしたものを入れると思う?」
赤い舞手は少し困ったような表情になった。
前回、美月は夢の中で眠り込まされた。夢の中で眠るというのもおかしな話しだが、ようは美月の夢の中での行動を封じて来たわけである。そして美月が動けない間に、眼前の赤い舞手は、美月の夢をどこかと繋げようと画策していた。ただ、夢の中での美月の個としての意識は前後不覚に陥っていたものの、夢の中で眠るという状況のおかしさは感じていたらしく、自然と防衛本能が働いた。謀は、舞手が思うようには進まず、そのうち夢の中での意識が覚醒した美月に阻まれ、舞手は一旦退却した。ただ、そこに至るまでそれなりの時間が必要で、お陰で美月は半日を夢の中で過ごし、その分の授業が受けられなかった。
「では、主がこちらに来ぬか?」
悪びれること無く、舞手は尋ねて来た。美月は逆に問い掛けた。
「そこは誰の夢?」
「誰の夢でもない。吾れが今いるこの場は、主の夢と吾れらの世の、境、狭間」
「…あわい」
ぽつりと美月が漏らした言葉に、赤い舞手は深く首肯した。
「そう。故に主と吾れ、どちらの利にもならぬ場よ」
「いえ、それはあなたに有利ですよね。わたしは一介の人間。あなたは、相当な力を持つ『ひとならぬもの』なのだから」
素早く否定した美月に対し、赤い舞手は少々呆れた声を発した。
「主は吾れらを、どれだけのものと思うておるのだ」
確かに、美月の夢の中に堂々と入り込み、美月が積極的に妨害が出来ない状態でさえ、舞手は夢を繋げることが出来なかった。夢を繋げる一事が、夢魔にとっては消耗の激しい術だとは知っていたが、他方リリイを棲まわせていた術者は、一年生寮の全員の夢を繋げる術を使っている。術の得手不得手の差はあるにしろ、眼前の赤い舞手もそれほど強いわけではないのかもしれない。
「あなたは、夢魔では無いですよね。何者なの?」
相手のことを何も知らないことに気付き、美月は尋ねた。率直な答えが返って来た。
「猩猩、と人は呼ぶ。ジェヴェトは、吾れを省、と呼ぶ」
「猩猩って、ひとさらい…」
美月の知識にある猩猩は、男ばかりの種族で、女を攫って子を産ませる『ひとならぬもの』である。省はあっさりと認めた。
「攫う。必要とあらば。吾れらは夢魔と異なる。夢と呼ばれる世、吾れらの世、里…主らの世、姿は変わるがどの世でも居られる。その世その世で、入用なものがあれば得る。今、求めておるのは主だ」
省がいるのは川の上、つまり境で、美月の夢である川岸には、上がって来られない。頭ではそう理解していたが、それでも美月は座ったまま僅かに後退さった。
「何故、わたしが必要なの?」
「吾れが真に求めたのは、リリイの宿主であった術者である。リリイのものであれば、手出しは出来ぬ。しかし、ジェヴェトはリリイと接せられなくなったと言うた。ジェヴェトは、リリイの様を気に掛けたが、吾れはただ、リリイが術者を手放したのではないかと推した」省は目を伏せた。「リリイは彼の術者により、し得る限りのものを与えられていた。ジェヴェトは異なる。動けぬ。捕われておる。彼の術者であれば、或いはジェヴェトを解き、ジェヴェトの新しき棲処となることも可能かと」
「でも、術者は死んでいる」
美月のつぶやきに、省は顔を上げると、再び視線を真っ直ぐ美月に向けた。
「故に、主よ」
「わたしは…」
「ジェヴェトを捕らえておるのは人の術。人の術は人の術者の方が良く知っておろう。ジェヴェトが捕らわれている夢と主の夢を繋げば、主は手を貸さざる得ない」
「随分と強硬手段ですね」
美月は冷ややかに言い放ったが、省は気分を害した様子も無く続けた。
「吾れは主に与えるものがない。与えられるものが無く、誰が動こうか。ならば強いるしかあるまい」
ただ働きなんぞ聞き入れてくれる訳が無いから強制する、という、ある意味では真理である。内心、それでも一応は頼んでからにしろよと思いつつ、美月ははっきりと断った。
「わたしでは、お役に立つことは出来ません。わたしは夢を扱う術を心得てはいないんです」
省は無表情に美月を凝視していた。美月も見返した。実際問題として、自分には無理だと美月は感じていたので怯む理由も無かった。二者はしばらく、川面と川岸とで睨み合っていたが、先に省が視線を逸らした。ほお、と深く息を吐く。息は白く、周囲の霞と混じりあった。
「左様か」
「ごめんなさい」
反射的に謝罪の言葉を発した美月に、省は薄く笑みを浮かべた。
「何故謝るのだ」
むしろ省に謝られる立場だと、美月はすぐに気が付いた。苦笑が浮かんだ。
「誰かに謝りたい気分なんですよ」
「異なことを」
美月は、自身の苦笑が深まったのを感じた。
「許しを乞うのが卑怯な場合もあるでしょう。お人好しの、乞われれば無条件で許してしまいそうな相手の時は。だから、代わりに誰でもいいから謝りたい気分なんです」
省はこくりと首を傾げた。意味が分からないのか、美月の言うような状況の経験が無いのか分からない。美月も省の同意を得ようと思っていたわけでもなかった。




