#12
坊坂が突然学院に戻って来たことに驚いたり、美月の退学に動揺したりはしたものの、一晩眠った翌月曜日、朝練の時間になる頃は、藤沢は平常通りの心持ちを取り戻していた。身を切るような寒さと、すぐに冬休みであるという気の弛みが加わり、相変わらず参加者は部員全体の半分ほどである。それらの熱心な部員たちと鍛錬を終えると、藤沢は、人の往来が激しくなった寮内を抜け、自室に戻った。そして部屋に一歩踏み込んだ瞬間、どことなく違和感を感じ、足を止めた。部屋全体をぐるりと見渡す。違和感の理由は簡単に分かった。扉から入って左手、美月のベッドの周りを囲むカーテンが閉め切られているのだ。美月は普段、就寝時以外はカーテンを開け放している。
「須賀、起床時間過ぎてるぞ。起きろ」
ベッドの下に、ハンガーに掛けられた制服が放置されている様を見て、藤沢はカーテンに向けて声を掛けた。しばらく待ったが、反応は無い。藤沢は眉をひそめつつ手を伸ばすと、ベッドの頭側のカーテンを少しめくった。仰向けに横たわる美月の横顔が目に入る。その顔色が質の悪い再生紙のような酷さの上、微動だにしていない静かさに、カーテンの布地を掴んでいる手がびくりと脈動した。思わず一歩、後ろに下がりかけたが、考え直して片手の甲を、上向きの美月の顔の前に手をかざした。皮膚が微かに、動く空気にくすぐられる感覚がある。藤沢は、完全に閉じていなかった扉を叩き付ける様に開けると、廊下に飛び出し、寮監室に向かった。廊下にいた生徒が、その剣幕に驚いて道を開けた。寮監室の隣にある10101号室からちょうど出て来た八重樫が、藤沢のただならぬ様子を見て、眉をひそめた。
「何かあった?」
「須賀の様子がおかしい」
八重樫の眉がぴくりと上げった。藤沢は一言答えただけで寮監室の扉を叩き出したので、八重樫は美月たちの部屋に向かった。隣の部屋の扉を叩く音と、廊下の会話に気付いたのか、坊坂も顔を出した。
医務室には、早朝から仕事場に連れ出された末永医師と、美月を運んで来た藤沢と坊坂、八重樫がいた。
「寝てますね」
「それは分かります」
末永医師の美月に対する診察に、坊坂は間髪入れずに返答した。末永医師は、職業的な無表情を崩さずに続けた。
「それ以外、言いようが無いんです。血圧も体温も相当低いです。でも、それだけ。昏睡状態とも言えますが、どこか特定の臓器の機能低下が見られるわけでもないですし、同室者の藤沢くんに何も無いということは外部の要因、一酸化炭素中毒などの可能性も低いです」
末永医師は一つ息を吐き、美月が寝ているベッドをカーテン越しに見やった。
「また、その、精神操作系統の術に掛かったとかは?」
坊坂の問い掛けに末永医師は肩を竦めた。
「それはわたしの領分ではありません。他の先生の管轄になるでしょう」
「誰かいたか?」
藤沢の問いに、八重樫と坊坂は同時に首を振った。
「むしろ、学院で一番専門なのは須賀じゃね?」
「専門とは違うだろ。ただ、須賀以上に、この手の術に対抗出来る者は学院にいないと思うが」
しばしば『ひとならぬもの』に乗っ取られている美月だが、治癒能力と同時に、治癒対象からの影響を遮断するため自然と会得している、精神操作系統の術への対抗能力は学院で恐らく一番強い。乗っ取られた後でも、外部が手を貸せばあっさり復帰するし、操作を受けた後でもけろりとしている。
「そういうものの影響かもしれませんが、それより普通に体調不良だと思います。最近具合が悪そうな様子とかはなかったですか?須賀くん、何だが、随分痩せた様に見えるんですが。頬の辺りとか」
「…そういや、ここんとこ余り食ってなかったような」
藤沢が記憶を掘り起こして答えた。八重樫は横目で坊坂の顔を見やった。坊坂の顔色が若干悪くなったようだった。
「ばたばたしていましたしねえ。疲れがたまったのでしょう。様子を見ます。もし続くようなら、山から下ろして入院になります。担任は合田先生でしたよね。合田先生にはわたしから伝えますから戻って下さい。寮監への報告はお願い出来ますか」
末永医師は、医務室の時計を気にしながら、一同に向けて言った。まだ授業開始には間があったが、ゆっくり支度を出来るだけの時間もない。末永医師にそう告げられると、生徒たちは従うよりほか無かった。気掛かりな表情のまま、一同は医務室から寮に戻った。
折角ぐっすりと眠っていたのに、誰かの話し声が耳に障り、美月は不快さに身じろぎした。被さっている重めの布団がスウェットの生地と擦れて、微かに音を立てた。まだ眠っていたいという本能が働くが、動いたせいで逆に意識が覚醒して来るのが分かった。美月は、億劫だと思いつつ、仕方なく薄目を開けた。普段は手を伸ばせば届きそうな距離にある天井が、随分と高い。美月は何度か目を瞬かせた。手で、重い布団を除けようとして、左手が動かしにくいことに気付いた。目だけ動かして、左手を確認しようとすると、不意に痛みを感じた。布団の端から、細い管が伸びている。片端が美月の内肘に、逆側が上に上っている。管を上へ上へと視線でたどった美月は、ほとんど空になっているビニールパックに目を止めた。美月は溜め息を吐いて右半身を起こすと、横たわる身体の左側の、真白のカーテンを引き開けた。
「点滴、終わりそうです」
自分のものとは思えない、掠れた声が出た。カーテンを引いた際の音に驚き、会話を中断し、こちらを見据える末永医師と合田、坊坂の三者と目があった。
「あ、ああ、そうですか、今抜きますね」
美月が起こしていた右半身を元に戻し、右手で喉をさするだけの時間が経ってから、末永医師が三人の内で一番最初に我に返った。腰掛けていた車輪付きの椅子が後ろに下がるほどの勢いで立ち上がり、美月に近寄ると針を抜いた。末永医師は続いて、注射針が刺さっていた傷口をテープで止めようとしたが、それより早く、美月が、まだ少し寝惚けていながらも治してしまった。傷口が目の前で塞がれる様を見せつけられた末永医師は、一瞬手を止めたが、すぐに気を取り直して、点滴の片付けに入った。そこで美月は、ふと気が付いた。
「…末永医師?医務室?あれ、何でわたしここにいるの?」
坊坂が脱力して椅子に沈み込んだ。合田は肺を空にするような深い息を吐いた。点滴を片す手を止めず、末永医師が説明した。
「君が朝起きないから、運び込まれたんですよ」
美月は上半身を起こして、明るい日差しの差し込む窓を見た。
「…今、何時ですか?」
「昼休み」
美月は布団を跳ね上げ、足を床に付けた。立ち上がろうとしたものの、寝過ぎた影響かよろめいて、ベッドに座り込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫です。午後からでも授業を受けます」
末永医師は美月の顔を見た。真っ直ぐに自分を見据えるその顔は、朝の半死人のような顔色は吹き飛んでおり、目にも力が籠もっている。
「具合が悪くなったら、すぐに医務室に来て下さい」
末永医師は、許可を出すと、合田に向き直って一つ深くうなずいた。うなずき返した合田は、そのまま隣の、何か言いたそうに半身を乗り出した坊坂に、指示を出した。
「寮まで連れて行くこと」
「え…」
思わず声が漏れた美月を、じろりと坊坂が睨んだ。
「何か問題でも?」
「ございません」
医務室のある食堂棟から寮の間には、短いが屋外の渡り廊下を歩くことになる。渡された毛布を、どこかの避難民のように被った美月は、食堂に出入りする生徒と職員たちの好奇の視線を浴びながら、外に出た。坊坂とは昨日閉め出して以降会話をしていない。坊坂が、既に自分に対し怒りの矛先を収めていることは分かっていたが、楽しくお喋り出来るかと言えば、そうではなかったのだ。
「何かにちょっかい出されて、眠らされていたんじゃないのか」
外に出て、開口一番、坊坂から問われた。美月は目を見張った。
「良く分かるな」
「やはりそうか。何者だ?目的は?対処出来たわけだな?先生に報告しておかないといけないな」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、美月はつい笑い出してしまった。坊坂は心外だと言わんばかりに美月を見た。
「笑うところか?」
「いや、だって。…大丈夫。相手はかなり特殊。他の生徒に干渉を仕掛けるようなことは無い。それに、もう強硬手段を取ることはないよ」
坊坂は口を開いたが、美月が笑い続けているので言葉は発さずに、閉じた。
「坊坂は、お人好しだよな」
「は?」
「ありがとう」
当惑した顔で、坊坂は美月を見た。




