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猩猩  作者: のっぺらぼう
10/14

#10

その日は日曜日だったので、厚く垂れ込めた灰色の雲と寒風をものともしない一部を除いて、大半の一年生の生徒は全館暖房の効いた寮で、冬休み前の少々浮き足立った空気の中、ゆったりと過ごしていた。既に日も高くなり、昼の食堂の開放時間の直前である。寮の自室で、現代国語の教科書を前に悪戦苦闘していた八重樫は、突然響いた部屋の扉を叩く音に、机の上の腕時計を確認し、誰かが昼食の誘いに来たのだと思い、一声掛けた。そして、応じて扉を開いた人物を見て目を丸くした。

「え、何でいるの?」

「いたら悪いか」

そこにいたのは、仏頂面の坊坂だった。どことなく顔色が悪く、短髪なので乱れようも無い筈なのに、乱れている様に見える髪をしていて、疲れていることが一見して分かる。サッカーをすれば、前半後半ずっと走り続けていられる程に体力がある坊坂だが、朝一番に実家を出て以降、長時間乗り物に揺られてきたために、別種の疲労を蓄積していた。

「冬休みが終わるまで実家にいるかと思ってた。むこう、混乱が酷いみたいだし」

八重樫がさらりと言い出した内容に、どうしてこう宗派の内情が筒抜けなのかと、坊坂は溜め息が漏れた。溜め息のみで何も言わず、荷物をどさりと椅子の上に置いて、ダウンジャケットを脱いで椅子に掛ける。机の上には、大判の封筒に入れられ、封がされている期末試験の結果を始め、学院を離れていた間に配布された各種お知らせが置かれていた。坊坂は、立ったまま封筒に手を伸ばすと、封を開けかけた。

「そういや、須賀、学校辞めるってよ」

八重樫は自分の机に向き直って、片手で鉛筆を(もてあそ)びつつ、明日の天気でも告げるような調子で言った。坊坂の、開封作業をしていた手がぴたりと止まった。手元から顔を上げると、机に向かっている八重樫の横顔を凝視した。

「何だって?」

「須賀が、学院を、退学するって」

目は教科書に向けたまま、八重樫は一言一句、はっきりと発音した。

「…何で?」

「本人に訊けばあ?」

皮肉っぽい笑みを浮かべた顔が、坊坂を下から(のぞ)き込むように見上げてきた。坊坂は、封筒を机に投げ、(きびす)を返すと、大きな足音を響かせて部屋を出て行った。

10106号室では、美月が八重樫と同じく机に向かっていた。ただ、目の前にあるのは教科書ではなく、個人的な金銭出納帳だった。同室の藤沢は、少し前に外から戻って来たところで、余程外で暴れていたのか、藤沢が入って来た瞬間に、美月は部屋の温度が上がったことを感じ取った。今も、袖無しのシャツ一枚になった藤沢の露出した首元や腕からは湯気が立ち上っている。藤沢が、今日の昼の献立を尋ねてきたので、美月が配布されている献立表を、手に取った時だった。部屋の扉が乱暴に叩かれ、音が部屋一杯に響いた。

「開いてるぞ」

藤沢が無造作に声を掛けた。藤沢の言葉半ばで、蝶番(ちょうつがい)(きし)む音が立ち、空気が動いた。ふっと、抹香の匂いを(とら)えて、美月は献立表から顔を上げ様、椅子の上で振り向いた。

「…え」

鋭い目付きをした坊坂が、真っ直ぐ、大股で近づいて来るのが目に入り、美月は凍り付いた。

「須賀…」

坊坂は近寄りながら何か言い掛けたが、巨体に似合わない俊敏さを見せた藤沢に進行方向を(さえぎ)られ、口をつぐんだ。美月と坊坂の間に藤沢が割って入った形である。藤沢より一回り小さい坊坂の姿は、藤沢の陰にすっぽりと隠れ、美月からは見えなくなった。

「何の用だ」

藤沢が低い声で尋ねた。

「須賀に話しがある」

見えないが、苛立っているというか、焦っているような声が、藤沢という肉壁の向うから聞こえて来た。藤沢は美月に振り返った。無言だが、どうすると問い掛ける表情だった。

「ここで出来る話しか?というか、坊坂、こんなに早く戻って来て大丈夫なのか?」

内心の動揺が声に出ない様に気をつけつつ、美月は尋ね返した。『母』が、周囲がちょっとやそっとのことでは解放しないと言っていたので、坊坂が戻って来ることはないと、気を緩めていた。完全に不意打ちを食らった形である。

「学院を辞めると聞いた。どういうことだ」

「は?本当か!?」

間に藤沢がいるため、半ば叫ぶように坊坂は尋ねて来た。他方、藤沢は、それより大きい部屋中に響き渡るような大声を上げて、身体ごと美月に向き直った。美月の頬がひくついた。退学の件は担任教師の合田(ごうだ)にしか話していない。手続きがあるので当然職員たちの中には知る者もいるだろうが、生徒に話すとは思えない。そもそも学院にいなかった坊坂が何故知っているのかと、一瞬だけ焦り、すぐに理解した。藤沢と坊坂のその向う、坊坂に続いてさりげなく部屋に入り込み、全開にした扉に背中を預けて変顔にダブルピースをしてこちらを向いている八重樫が、美月の目に入った。常にどこからか様々な情報を入手している八重樫が、坊坂に伝えたのだろう。美月は無言で(にら)んだが、八重樫は変顔を別の変顔に替えただけで、何の痛痒(つうよう)も感じていないのは明らかだった。

「それで、どういうことなんだ」

「…ああ、うん。辞めるけど」

「何故!?」

坊坂は藤沢の脇をすり抜けて、美月の元に寄り、二の腕を掴んだ。驚きの影響で行動が遅れた藤沢だったが、坊坂が美月の腕を掴んだ時点で、その腕を逆に背後から(とら)た。藤沢はそのまま坊坂を美月から引き離したものの、もの言いたげな視線を送って来た。

「…俺、奨学金を受けていたんだけど、その奨学金が廃止されることになって、来年度の学費が納められないんだよ」

『母』から退学理由として設定した筋、合田に話した理由そのままを話した。美月に流れる資金の不自然さを解消するために、奨学金制度が介在しているのは事実なので、嘘ではない。坊坂は黙り込んだ。

「それ、ありなのか、制度として。向うの都合で打ち切りとか。他の奨学金は受けられないのか?須賀の成績なら他に受けられるもの、あるんじゃねえの?」

無言の坊坂と対照的に、藤沢は矢継ぎ早に言い(つの)った。

「奨学金自体は他にもあるし、受けられるよ。けれど、この学院の学費を(まかな)えるほどのものとなると、ちょっと、な」

私立、全寮制、特殊性、という点から、学院の学費は同じ私立の高校と比較しても相当に高額である。他の奨学金を受けるにしても、表向きには特殊能力の養成という点が秘匿されている以上、この学院でなければならない理由が説明出来なかった。或いは将来の進路が仏教関連であればまだ理由は付くが、美月は理系学部の大学進学志望である。

「辞めて、別の高校に通うのか」

「どうかな。取れるようなら高卒の資格だけ取るかもしれない。まだ具体的に決めていないんだ」

『母』の物言いを信じれば、美月は某女子校に通い始めることになる。だが、冬休み明けまで戻って来ないと言われていた坊坂が戻って来ている点一つ取っても、『母』の言葉が当てにならないことを示している。幸い、美月の弟妹や母親の生活が既に軌道に乗っていることは夏休みに確認してあるし、父親の入院というか入所も続いている。高卒の資格だけ取るにしろ、通信制の高校に通うにしろ、一番良いと思われる方法を選ぶだけである。

「卒業後、うちで働けるか?」

それまで沈黙していた坊坂が突如口を出した。

「は?」

「高校卒業後に、大学行きながらの片手間で。あと、就職したあとも、兼業でしばらく。働いてくれるなら、大学卒業までの学費と生活費とその他諸費、全部前貸しの形で出す」

「しょ…」

正気か?と美月は口にしかけた。だが美月が言い終わるより先に、別の声が響いた。

「おおい、抜け駆けは卑怯だぞ」

藤沢に腕を取られたまま、坊坂は声の聞こえた、部屋の出入り口の方を見やった。藤沢と美月もそちらに視線を移した。八重樫が扉を開け放っているため、坊坂と藤沢の大声は廊下にまで届き、何事かと、生徒たちを集めていた。その集団の一番手前、半歩身体を部屋に入れている位置に、柔和な笑みを浮かべた三組の生徒、代田(だいだ)がいた。

「同じ条件で、うちではどうだ?」

「その通り。須賀、どう?将来、除霊や治癒で食べていこうと思うなら、坊坂のところ以上はないだろうけど、しがらみが多い。須賀は普通に就職予定なんだろう。だったら、前貸し分働いてくれたら、あとはご自由に、とビジネスライクに出来るうちの方が働き易いと思う」

同じく三組の生徒で、代田と同じ『光の園』という新興宗教団体に所属する里崎(さとざき)が後を引き継いだ。

「うちなら、更に好条件を出せる。夏の一件で、親にも須賀の実力は認められているから」

出入り口の陰にさりげなく立っていた倉瀬も口を挟んで来た。次々に支援者の立候補が出て来て、坊坂は顔を引きつらせた。美月は目を細めた。

「八重樫、全員外に出して、扉を閉めろ。坊坂も。じゃないと、夏休み、あんたのお母さんから聞いたあんなことやこんなことをここでばらす」

扉を背に、笑顔で事態を見守っていた八重樫は、美月の言葉に更に笑みを深めると、歩みも軽く坊坂に近づき、腕を取った。

「ちょっと待て!おい」

坊坂は抗議の声を上げたが、藤沢と八重樫の二人掛かりにかなう筈も無く、(すみ)やかに退出させられた。扉が閉められ、内から鍵が下ろされた。

「坊坂も出しちゃって良かったの?」

「むしろ一番ややこしい」

一刀両断した美月に、八重樫はけたけたと笑った。藤沢は椅子に腰を下ろすと、真っ直ぐに美月を見、問い掛けて来た。

「退学は、もう決定事項なのか」

「ああ。もう書類も母からの返送を待っているところ。二学期一杯だ。ごめん。騒ぎにしたくなくて、終業式当日まで黙っていようと思っていた」

正確には、誰にも話さないで学院を離れるつもりだったが、藤沢相手に正直にそう言うわけにも行かなかった。

「そうか…。仕方ないのか」

藤沢の表情が暗い。素直に美月の退学を()しんでくれている様子に、美月は殊更に明るい声を作って言った。

「あれだ、別に今生(こんじょう)の別れという訳でもないんだしさ」

「それは、そうなんだが」

頭では分かっていても、それなりの時間を共に過ごした同室者がいきなりいなくなると言われて、藤沢は整理が付かないようだった。


美月と藤沢の部屋から追い出されて数分間、坊坂は扉の前で待機していた。横目で、代田と里崎、倉瀬といった面々の様子を(うかが)う。全員、動く気はないようで、人目が無ければ扉に耳を付けて盗み聞きをしそうな具合である。廊下が、昼食のため部屋から出て来る生徒たちで(あふ)れ、坊坂たちが通行の妨げになり掛けた頃、かちゃり、と、鍵を開ける小さな音が上がった。即座に反応した坊坂たちだが、開いた扉は藤沢と八重樫を吐き出すとすぐさま閉じられ、再度、今度は鍵を下ろす音を響かせた。

「解散!」

悪い笑みを浮かべが八重樫は、廊下にたむろする坊坂たちをぐるりと見やって一声、声を上げると、坊坂の二の腕を掴んだ。逆の腕が藤沢に取られ、坊坂は自室に引きずって行かれた。里崎は念のため、扉の取っ手を確認したが、やはり鍵が下りていた。里崎、代田、倉瀬の三人は、顔を見合わせると、散開した。

藤沢は坊坂を部屋に押し込めるとさっさと出て行った。寮から出て食堂に向かう藤沢の姿を窓から眺め、扉の前に陣取った八重樫を見、坊坂は、椅子に腰を下ろすと溜め息を()いた。

「で?」

「で、って何?」

「須賀は、どうするつもりなんだ」

「辞めるんだろ。あんたの提案というか、倉瀬とか代田のも含めて受ける気はないだろ。そのつもりなら、とうに自分で売り込んでるって」

坊坂は苦々しげな表情になった。

「仕方ないじゃん。というかさ、坊坂、あんた須賀が目の前からいなくなることを一番喜ぶ立場だろうが。葬儀行く前なんか首でも()めるんじゃないかと心配になる状態だったし。今更なんで引き止めようとするわけ?」

坊坂は口を開いたが、言葉は出て来ずにまた閉じた。一旦視線を下に落とし、再度顔を上げると、八重樫をじっと見据えた。

「知っていたな、須賀が、雇われていること」

「知らない」

「嘘()け」

「坊坂、敢えて知らずにいるという選択肢も世の中にはあるんだぞ」

吐き出す様に言った坊坂を、鼻で笑いつつ八重樫は言った。坊坂は、苦虫を噛み潰したような表情になった。入学したての頃、八重樫が宗派の雇われ者ではないかと疑った自分を思い出していた。八重樫が丹白(にもう)宗の内情はもとより、他派の事情にも詳し過ぎたためである。逆に何も知らない様子の美月は疑わなかったのだが、それも今では美月が、敢えて知らないでいる、という選択の上に立っていたからだと思い知っていた。

「…俺が」坊坂は、半ば独白をつぶやいた。「俺が、堂々としていれば良かったんだな。俺に気付かれている、と気付かせなければ、あいつら、須賀を辞めさせなかった」

「気付く気付かないもあるけど、須賀が言う様に、経済的な事情の方が大きいだろ。色々片付かないと須賀にまで資金を回せないんじゃないか」

「金の問題だけだっていうなら、俺の提案を受け入れて、学院に居続けたっていいだろ」

「無理だ。普通の感覚の持ち主なら無理。分かっているだろうに」

たばかっていた相手に援助を受けるなど、余程の鉄面皮でなければ無理である。もっとも美月の場合は性別を偽っているという件もある。このまま無理に…無理をしている様に見えないのも確かだが…男子校に在学するよりは市井に戻って女性として生活する方を選ぶのは当然である。

八重樫は、再び黙り込んで視線を落した坊坂に対して一つ溜め息を()いた。

「そこまで気に病むことか、実際」

坊坂が葬儀に向かう前の一触即発状態に戻ることを嫌って美月の退学を告げ口したものの、予想していたより坊坂が気にしてしまい、それはそれで困った八重樫だった。

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