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猩猩  作者: のっぺらぼう
1/14

#01

丹白(にもう)宗の僧侶、迫間(はさま)秀覚(しゅうがく)は、知人たちとの会談と、その後の会食の為に普段暮らしている寺院から、自家用車を運転して出た。既に八十に近い高齢のため、周囲は運転手を雇うか外出の際はタクシーを使えと常にほのめかし続けていたが、元来運転好きの上、厄介なことに下手な若手や職業運転手よりも余程丁寧かつ安全な運転をしていると皆に認められている秀覚には馬耳東風であった。そんなわけで、その日も供も連れずに出立した秀覚は、途中で丹白(にもう)宗全体の代表を務めている坊坂(ぼうさか)清空(せいくう)の個人住宅に立ち寄った。

陽光はまだ照っているものの、既に夜の気配を感じる寒風が屋外を吹き抜けている。秀覚が車を下りて玄関に向かう(わず)かな間に、綿入れの着物や中折れ帽を通して冷気が伝わって来た。この時間、清空も清空の妻の薫円(くんえん)も、まだ総本山に当たる皓今(こうこん)寺とその周辺にてお務めの最中なので、自宅にいるのは小学生の子供二人に、子守りと家事を担当している女中たちだけの筈だった。道すがら、その子供たちへ届け物をするだけだったので、玄関で済ませたのだが、表の地位を退いて隠居の身でありながら、宗派内で『長老派』と称されている派閥の一つの領袖(りょうしゅう)(にな)っていて、宗派への影響力が強大な秀覚を、粗略に扱うわけにもいかず、子供二人に加え女中たちが大わらわで出迎えた。その熱気のせいで、石造りの玄関が一時的に暖かくなるほどだった。一生懸命挨拶をする小学生の兄妹の後ろに、満面の笑みを浮かべた清空の兄の娘の、新見(にいみ)憂奈(ゆな)を見留め、秀覚は目を細めた。

「ああ、憂奈ちゃん」

「こんにちは」

憂奈の自宅はもちろん別にあるのだが、こちらに入り浸っているのは良く知られていた。(しき)りに上がって休んで行く様に勧める憂奈に謝絶の意を伝え、子供たちに以前約束していた木製の玩具を渡すと、秀覚はすぐに(いとま)を告げて(きびす)を返した。そして、引き戸に向け一歩進んだところで、三和土(たたき)に崩れ落ちた。


座生(ざおう)学院高等学校の一年生寮の寮監は、その日、六時の起床時間になるや否や鳴り響いた電話の受話器を取った。朝の六時は生徒たちの起床時間だが、寮監は同時に寮の正面出入り口や談話室の開錠をしなければならないので、既に起床し身繕いも済ませていたが、それでも非常識な時間の電話に、腹立ちと不安を覚えつつ、応対した。不安を感じたのは、非常識な時間の電話のというのが大抵凶事の連絡であるからで、今回もそうであろうことが、相手の口調から察せられた。電話の内容自体は、生徒の一人に折り返し連絡をして来る様にという伝言だったが、寮監室の小窓から当の本人が見えたので、寮監は電話を保留にすると、廊下に出た。

「坊坂、実家から電話だ。談話室を今開けるから、一番の電話で受けてくれ」

部活の朝練のために出入り口の開錠を待っていた坊坂(ぼうさか)慈蓮(じれん)は、唐突な話しに少し驚きを示したが、すぐにうなずいた。寮監は談話室の扉を開け照明を点けてから、出入り口の鍵を開けた。廊下にたむろしていた、坊坂と同じく開錠を待っていた生徒たちが、一斉に、既に真冬で、いつ初雪が舞ってもおかしくないほどの寒気と重い雲が垂れ下がっている屋外に出て行った。

それから一時間と少し後、所属する棒・槍・杖術の部の朝練がいつもより遅く終わったので、同部の部員である坊坂と友人の藤沢(ふじさわ)賢一郎(けんいちろう)は、それぞれの同室者である八重樫(やえがし)郁美(いくみ)と、須賀(すが)光生(みつき)こと美月(みつき)と同じ卓を囲んで朝食を摂っていた。美月は、いつもは食堂の開放時間が終わるぎりぎりで朝食を摂るのだが、その日は冷え込んだ影響で温かいものを腹に入れたいと急いだ分早く、八重樫はやはり寒さのため個人的に行っている朝の鍛錬を早々に切り上げたものの、いつもより食が進み摂取に時間が掛かっていた。結果、時間が(かぶ)り、棒・槍・杖術の部の部員たちが一挙に押し寄せたため満員に近くなった食堂で、自動的に坊坂、藤沢、美月は、八重樫が占拠している卓に着いたのだった。

「電話、何だったんだ?」

既に三杯目に達している茶碗の雑穀米を()き込みながら、八重樫は坊坂に尋ねた。坊坂が電話を受けた際、八重樫は廊下にいた一人だった。

「実家。秀覚(しゅうがく)の爺様…迫間(はさま)の隠居が倒れたと」

坊坂は海苔を醤油に(ひた)しつつ、淡々と答えた。特に大きな声ではなかったが、小さな声でもなかった。八重樫は何でも無い顔をしながら、さりげなく辺りを(うかが)った。食堂は喧噪(けんそう)に満ち、同じ卓に着いているもの以外には、坊坂の声が届いていないらしいことを確認すると、注意を茶碗に戻した。

「まあ、すぐに恢復(かいふく)するだろうけど。しぶとさに関しては、うちで一二を争うひとだし」

坊坂は事も無げに言葉を続けた。治癒能力者である美月は、倒れたと聞いて少しだけ興味を見せた。

「心臓とか?」

美月の問いに坊坂は首を横に振った。

「いや、脳梗塞だって。ここのところ、こっちもだけど、実家の方は更に急激に冷え込んだから、そのせいだろうと」

「お偉いさんか」

美月がそうであったように、しゅうがく、や、はさま、が何なのか分からなかった藤沢だが、わざわざ連絡が来た点から察して、口にした。坊坂はうなずいて肯定した。

「一波乱ありそうだな」

おどけた調子で言った八重樫に、坊坂は皮肉混じりで応じた。

「うちは常に戦乱状態だ」


坊坂は、表向き事務員に対して済まなそうな顔を取り繕うと、廊下を早足で歩き、寮に向かった。実際、わざわざ伝言係をさせて申し訳ないという気持ちはあったのだが、それ以上に、事務員や寮監に迷惑を掛けた相手に腹を立てていて、ともすれば怒気が顔に表れそうになるのを(こら)えていた。校舎と食堂は通用口で繋がってるが、食堂と寮の間は短いながら屋根だけある渡り廊下を通ることになる。全館暖房の入っている建物内と野外の冷え込んだ空気の温度差に、坊坂はぶるりと身を震わせた。

基本、寮は授業のある時間帯は閉め切られている。そのため坊坂は、正面出入り口ではなく寮監室に(もう)けられている出入り口を利用して寮内に入った。入った途端、電話が鳴り響き、寮監は憮然とした表情で受話器を取り上げ、二三言交わすと、入室して来たばかりの坊坂に、コードレスの受話器を渡した。坊坂は無言ながら軽く頭を下げつつ、電話を受けた。

「もしもし」

「慈蓮!やっと出てくれた!酷かったんだよ。だめ、できません、規則です、ばっかりで…」

「用件は何だ、憂奈」

坊坂は、授業中は生徒宛の電話は取り次げないという寮監の断りも聞かず、五分置きに電話を掛けて来て、自分を出せと繰り返した従姉に対し、冷ややかな声で応じた。緊急の用件であれば学校の事務室から繋いでもらえることもあるが、憂奈は寮の内線込みの番号に掛けて、用件を告げずに、ただ坊坂を出せと言い続けたために、対応してもらえないでいた。しかし、余りにしつこく鳴る電話に音を上げた寮監が事務長に話しを振り、事務長権限で特別に、授業間の短い休み時間の間に話して来る様にと、事務員が教室まで出向いて坊坂に伝えて来た。休み時間を潰されるは、学院の職員たちに手間をかけさせるは、同級生たちの好奇の眼差しに(さら)されるはで、坊坂は苛立っていた。

「もう!久しぶりに話すのに、どうしてそんな言い方するの?秀覚のおじいちゃんのことなんだけど」

「どうした?」

秀覚の容態に異変が生じたのかと思い、坊坂は身構えた。ただ一方で、そういう用件で憂奈が連絡してくるのはおかしいとも思った。

「昨日、倒れちゃったでしょう?」

「知っている。それで?」

「それでね、倒れたとき、わたし、お家にいたの」

坊坂は秀覚の倒れた場所が、坊坂の自宅だと聞いていたが、憂奈がその場にいたことは知らなかった。ただ、知りたいとも思わない情報だったので沈黙を保った。

「驚いたよ。いきなり、ばったん、って漫画みたいに倒れて、美澄(みすみ)ちゃんとかも、わけが分からないから、叫んじゃったりして…」

「用件はなんだ」

黙っていると際限なくなると思い、坊坂は(うなが)した。電話の向うで憂奈が一瞬息を詰めるのが聞こえ、次の瞬間、受話器の外にまで漏れ出る大声が響いた。声が聞こえた寮監が目を丸くして坊坂を見た。

「少しはわたしの話しを聞いてよっ!秀覚のおじいちゃんが倒れて、みんな慌てちゃったの。長浦さんが、動かしちゃ駄目って叫んで、玄関で寒いのにね。知ってる?救急車のサイレンって、近くで聞くと凄い大きな音なの。あと、本当にサイレンにあわせて遠吠えする犬っているんだね。あ、慈蓮のお家の犬じゃないよ。近所の…」

「もう授業が始まるから切る」

寮監に目で謝りながら、坊坂は言い切った。電話の向うで憂奈は溜め息を()いた。

「…ねえ、慈蓮。そうやって、ひとの話しを聞かないの、良くないよ。まだ子供だから分からないかもしれないけど、大人になるとね…」

坊坂は無言で受話器の『切』ボタンを押した。会釈をしつつ寮監に受話器を差し出したが、寮監が手を出すより早く、再度鳴り出した。この電話機には発信者番号通知機能がある。寮監は電話機の本体を一瞥(いちべつ)すると、溜め息を()いた。

「君の従姉だよ」

無言で坊坂は『通話』ボタンを押した。

「もしもし!あの…」

「用事があるなら手短に、無いなら二度と掛けてくるな」

間髪入れずに聞こえて来た憂奈の声に、坊坂は最後まで言わせずに言いたいことを言った。またも憂奈は叫んだ。

「意地悪!だから秀覚のおじいちゃんのことだって!おじいちゃんが倒れて救急車を呼んだんだけど、おじいちゃん、前の道路に車を停めていたんだよね。すぐ出るからって。でもそこにあると救急車の邪魔になるから、動かしてって言われて、わたしが動かしたの」

憂奈は坊坂の三つ上なので、自動車の運転免許を持っていてもおかしくはないのだが、坊坂は内心、従姉の運転する車には絶対に乗らないと決意をしていた。

「で?」

「だから何でそういう言い方するの!おじいちゃん、財団のひととご飯食べるからって、お家に上がらなかったんだけど、本当だったんだよ。車の中に風呂敷包みが置いてあって、財団とか書いてある書類があったの」

「…おい。憂奈、まさか秀覚の爺様の荷物まで(あさ)ったのか!?」

憂奈が、というより憂奈を含む一家全体が図々しいのだが、親戚である自分たち限定での態度だと思っていたので、宗派内の重鎮で、親しくはあっても他所様(よそさま)である秀覚にまで、そのような行動に出ていたことに、思わず坊坂は声を荒げた。

「あさるって…わたしは車を頼まれたのっ!」

「車を車庫に移動させろと頼まれたんだろ。それで何で中の荷物を勝手に見るんだ」

「だって、わたしが頼まれたんだもん!」

坊坂は口から出掛けた数々の言葉を呑み込んで、この点で憂奈を追求することを止めた。坊坂の自宅で坊坂の上着からスマートフォンを取り出して勝手に(いじ)ることの何が悪いのか分からない相手なので、言っても無駄だということは良く分かっていた。

「それでね、書類に奨学生一覧ってのがあったの。あ、慈蓮の行ってる学校って座生(ざおう)学院だよね。座るに王様の王で」

「…ああ」

秀覚は隠居してからは、もっぱら苦学生の援助に精を出しており、そのための財団を通じて援助をした身寄りが無い学生の一人を養子にしたりしていたので、奨学生の名簿自体はおかしくはなかった。ただ、憂奈がわざわざ坊坂の在学する校名を確かめたことで、坊坂は声を低くした。

「だよね!慈蓮はどうしてその学校に行ったの?みんなから、地元が嫌で出て行ったんだって、悪口言われちゃっているんだよ!今からでもこっちの学校に移りなよ。ね、それがいいよ!」

「切るぞ」

地元が嫌だから、というのがどういう理屈で自分に対する悪口になるのか理解出来ない坊坂は、何度目か、電話を切りかけた。

「待って!待ってよ、もう。どうしてそう言う言い方ばかりするの!奨学生の名簿に慈蓮の学校の子がいたからだよ。おじいちゃんの知り合いの子だけ慈蓮と一緒の学校なんて不公平でしょう?こっちに戻って、みんなと一緒の学校行きなよ!」

「名前は?」坊坂は心臓の辺りが冷たく落ち込む感覚を味わいながら、抑えた声で尋ねた。「そいつの名前は?」

「おじいちゃんの知り合い?すが、みつ…お?光るに生きるって書く。名字は必須科目の須にお年賀の賀。慈蓮と同じ一年生だよ」

「…」

「慈蓮、ねえ、聞いてる?」

「分かった。わざわざどうも。あと、もう掛けてくるな」

憂奈がそれ以上何か話し出す前に坊坂は『切』ボタンを押した。寮監に、従姉に二度と電話をさせないように依頼するからと理由を付けて電話を借り続け、姉の携帯電話に掛けた。授業開始の時間はとっくに過ぎていた。

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