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作者: 輪竹裕理

 私には三つ歳の離れた姉がいる。

 私はこの姉が、大嫌いだ。


 私たち夫婦が母と姉のいる実家に同居することが決まったのは、今年の三月のことだった。姉は文句を言った。それらはもはや覆せない決定事項であり、検討の段階ですら彼女の意思は数に入れられていなかったからだ。

「同居ってどういうことよ! 聞いてないわ!」

「言えばそうやって反対すると分かっていたからよ」

 私が結婚して家を出て以来すっかり老け込んでしまった母が、ため息をつきながら茶をすすった。うんざりしているのを隠しもしないけれど、見捨てることもできない。こんな姉でも、彼女の大事な娘なのだ。

 親子というのは因果なものだ。その点、姉妹である私の方が気楽だとすら言える。

「嫌なら出て行けばいいじゃない。どうせこの家は私の名義に書き換えられるんだから」

「どういうことなの、お母さん。こいつらにこの家、あげちゃったの?」

 こいつらだって? 自分の方がよっぽどろくでなしのくせに。突きつけられたふとましい指を噛み千切ってやりたい。けれど思わず好戦的に睨む私とは違って、母は冷静だった。

「そうは言ってもね。あんたの稼ぎじゃ、固定資産税やらの税金関係は何も払えないでしょう。年金だって未払いのままじゃない。私の年金だけじゃこの家を維持していくのは無理なのよ」

「ね、年金はちょっとずつ払ってるわよ……」

「働けばいいのよ、ちゃんと。もういい年なんだからニートはやめたら」

 指摘する私を、姉がきっと睨む。母だって本当はこれを言いたいくせに、なぜはぐらかすような物言いをするのだろう。私には理解できない。

「ニートじゃないわ、働いてるわよ!」

「週二のバイトで社会人気取り? だったら税金も保険も扶養から外れなさいよ!」

「仕方ないじゃない、仕事がないんだから!」

「えり好みできる立場じゃないってわかんないの?」

「うるさい! 私は、……漫画家になるんだから!」

 顔を真っ赤にした姉はまともな反論もできないままに、でっぷり肥えた体を揺らしながらダイニングを飛び出した。ほどなくして自室の扉が閉まる音が響く。

「三十三にもなって、まだ夢追いかけてんの、あの人」

 母にと持ってきたまんじゅうを勝手に食べながら、私は食卓に頬杖をついた。茶を入れなおすために席を立った母は、再びため息を漏らす。

「さあね。部屋には入らせてくれないし。パソコンに向かって何かしてはいるみたいだけど」

「働かないなら結婚すればいいのに」

「本人がする気がないからね」

 昔は姉妹そろって似ていると言われた顔だが、今では面影もない。肉に埋もれてしまっているあの面相では、相手を見つくろうのも大変だろう。それ以前に年齢という壁が立ちはだかっているが。

「彼氏もいたことないんでしょ。あの人の他人嫌いは病気じゃないの?」

「そういうこと言わないの。あんたたち、昔は仲良かったのに……」

「人は変わるものよ」

 母の手前そう答えたが、仲が良かった覚えなどない。大学を卒業して結婚するまでは一時的に友達のような気安さを発揮していた気がするが、本当に存在したのかと疑いたくなるほどだ。

 今となっては疎ましいとしか思えない。あんな人の妹として産んだ母すらも憎んでしまいそうだった。


 姉が変わり始めたのは私が結婚した後からだった。もっとも変わったわけではなく、見えていなかった本質が露わになっただけかもしれないが。

 最初は、まだ彼氏だった旦那を紹介を兼ねて家に招いた時だった。人として、威圧感もなければ貫録もない、これ以上ないほど人畜無害な彼が、失敗も失礼もなく辞した後、姉は私にこう言った。

「もう連れてこないで」

 彼は、気疲れも気後れもするタイプでもない。けれど姉は、先ほどまで見せていた和やかな雰囲気はどこへやら、相当に憔悴した様子だった。初対面の相手に緊張しただけだと思っていたのだが、再び招こうとするとひどく拒絶した。

「どうして? 彼が気に食わない? 何か嫌なことした?」

「いい人だと思うよ。でも関係ないの。他人がこの家にいるのは、くつろげなくて嫌なの。来るなら出かけるから、事前に言って」

 彼の前で平然とくつろげる私には姉が理解できなかった。きっと姉も、私のことをそう思っていただろう。

 それでも結婚式はつつがなく終わったし、普通の顔で出席もしてくれた。だがそれは受け入れられたがゆえではなかったのだ。

「たまにはこっちでご飯食べたいな。ねえお母さん、いいでしょ?」

「いいわけないでしょ。来るならあんた一人で来なさいよ」

 私たち夫婦の、新婚であるがゆえの失敗や成功話などに彼が絡んでいてもどうということもなく流す姉だったが、連れてくるという話になるたび態度を硬化させた。

「なんで? 彼のこと嫌い?」

「好き嫌いの問題じゃない。あんたの旦那は『他人』じゃない」

「私にとっては家族なんだけど?」

 あまりに強情に言い張る姉につい喧嘩腰になる私だったが、姉は姉で一歩も引かなかった。

「あんたには家族でもこっちには違う。義理といっても他人は他人なんだからね」

「他人他人って、そんな風にして一生誰とも打ち解けずに過ごすつもりなの? 子供じゃないんだから」

「大人とか子供とか関係ないでしょ! とにかく他人は連れてこないで!」

 人見知りをこじらせたような姉の態度が、私にとっていい方に作用するわけがない。愛する彼をそんな風に拒絶されることに、何より腹が立った。結婚して変わったと言われた私だが、むしろいつまでも変わらない姉の方が異常だと思った。

 姉は私を理解しようとはせず、私も姉を理解することはできなかった。

 生じた溝は深まって行くばかりだった。


 母は仲が良かったなどと言うが、昔から合わない姉妹だった。

 姉はインドア派で私はアウトドア派だし、オシャレが好きな私に対して姉は、外見に金をかけるのは無駄だと断言する。おかげで手入れをしない彼女の外見は、年相応の老化を如実に表したものになっている。服のセンスも惨憺たるもので、それを自覚してか常にジャージを着ているせいで肉のたるみは限界を知らないかのように彼女を覆い尽くしている。

 週二日のバイトの時は一応身繕いはしていくが、多少はマシと言った程度でしかない。何年も前に買った流行遅れの服を着て、決してうまいとは言えない化粧を施した様は、滑稽なピエロのようだ。

 普段のだらしない姿を、家族とはいえ第三者である私の夫に見られたくないと思うのは感情の流れとしては自然かもしれない。けれどそれを乗り越えてこそ、人として飛躍できるのではないのか。そんな未熟な態度でいては、いつまでたっても漫画家なんかにはなれないだろうに。

 その姉が、早速文句をつけてきた。

「あんたたち、マイホームを買うつもりじゃなかったの」

「その予定だったけど、お母さんから相談されて、ここに土地があるのを腐らせることもないと思ったのよ」

「へえ、そう」

 その相槌の打ち方は、明らかに私たちを見下すことを目的としていた。夫がブルーカラーだから大した稼ぎが見込めなかったんでしょとでも言いたいのだろうが、仕事のことを持ち出すとブーメランになることが目に見えているから、口にしないのだ。姉の考えることなんてお見通しだ。

 自分なんて、働きたくないからって叶いもしない夢を追うことで逃げているくせに。

「零から土地を買って家を建てるより、贈与税払う方が安く済むしね。住宅街に平屋の一戸建てなんて、平らにならして売り飛ばしてしまうなんてもったいないじゃない? どこぞの胡散臭い不動産業者に二束三文で買いたたかれるくらいなら、お母さんが生きてる間に相続しちゃうのも手かなって」

「何よそれ、私だったらそうするとでも言いたいわけ?」

「実際そうじゃない。税金払えるだけの収入もないのに、何、自分が相続できるとでも思ってたわけ?」

 嫌味を嫌味とわからない姉ではない。途端に眉を吊り上げる彼女に、私も負けじと応酬する。

 私の方がこの人なんかよりずっとこの家にふさわしいことを、思い知らせねばならない。

「だったらせめて家にいる間は家事くらいしたら? 全部お母さん任せで、自分は部屋にこもってるだけじゃない。それでよく家主を名乗るつもりでいたわよね」

「わ、私だって、家事くらいしてるわよ」

「どうだか。死んだ親父も大して使えない奴だったけど、絶対その血を濃く受け継いでるわよ」

「そんなの、あんただって同じじゃない」

 父親に似ているという言葉はそれだけで、この家では攻撃力のある武器となる。ただし母親はその血を受け継いでいるわけではないから、有効なのは私たち姉妹だけだが。

「だけどあんたは、そっちの家に嫁いだんだから、他人も同然よね。そんな人にこの家を継いでほしくないんだけど?」

「だから、自分がふさわしいっていうなら、それを示してみせてって言ってるじゃない」

「示すまでもなくあんたの方がふさわしくないことは自明の理なのよ、他人なんだから!さっさと出て行きなさいよ!」

「出て行くのはそっちでしょ!」

「どうせあんただって家事はお母さん任せにして自分は働きに行くくせに! 家を手に入れたならもう稼ぐ必要ないでしょ! この守銭奴!」

「子供の養育費を稼ぐ必要があるのよ!」

「子供なんていないくせに!」

「うるさい! 妊娠したら即仕事なんてやめてやるわよ!」

 最後には掴み合いの喧嘩になって、母に止められる。三十越えた大人のすることではないけれど、我慢ならないのだから仕方ない。


 姉がどんなに反対したところで、税理士を介して煩雑な諸々の手続きが進行していく以上、決定が覆ることは絶対にない。私たち夫婦は実家へと移り住み、世にも腹立たしい同居生活がスタートした。始めてしまえば諦めるかと思っていたのだが、甘かった。

 まず、私たちが在宅している時は絶対に部屋から出てこない。一緒に食卓を囲むのも拒否し、皆が寝静まってから一人で食べているようだ。真夜中にレンジがチンと鳴るたびに、私はイライラを募らせ、夫は肩身が狭い思いを噛みしめていた。

「俺、お義姉さんに何か嫌われるようなことしたかな……」

 入り婿でもないのに妻の実家に移り住むことを快諾してくれた夫に、非があるはずもない。釣りが好きなだけの、これ以上ないくらい善良な人だ。どうせ姉がテレビのリモコン権を独占するに違いないから、釣り番組が見たい夫のために夫婦用のテレビを買おうかとも思っていたが、部屋から出てこないためその必要はなくなった。とはいえ、自分が新参としてこの血族の中に入っていく覚悟を決めていたのに、逆にバラバラにほつれてしまっている現状に彼は心を痛めているらしかった。

「大丈夫、あなたは何も悪くないわ。あんな何も持ってない人、怖くもなんともないのよ」

「でも、俺がいるせいで閉じこもってるんじゃ……」

「好きでこもってるんだから放っておけばいいのよ。気に病むことはないわ」

 無理にこじ開けたとしても中にいるのは天照などではない、いき遅れた高齢の社会不適合者だ。私たちの稼いだお金であんな人まで養う義理はないからできれば追い出してしまいたいのだが、思惑通りにはなかなかいかない。

 母の分はまだいい。だがあんなお荷物の分を、どうして私たちが負担しなくてはならないというのだ。食費すら入れることができない人の生活費など、ビタ一文だって出したくない。

 けれど姉は用意される食事はおろか、風呂を、トイレを、電気を、当然のものとして使っている。金を出さないならせめて感謝の念を示すべきではないだろうか? それなのに顔を合わせたくないなんて子供みたいなことを言い張って、礼儀すらまともに示せない。そんな人が自分の姉だなんて、恥でしかないというのに。

「お母さん、なんで食事時に出てこない人の分までご飯作ってんの?」

 ついに耐え切れず母にぶつけるも、返ってきたのは子を養う義務にとり憑かれた人の疲れたため息だった。

「何言ってんの、作らないわけにいかないでしょ」

「作んなくていいよ。土日は私がご飯作るから、お母さん休んでて」

「そんなこと言って、あの子の分を作らないつもりじゃないの?」

「当然でしょ。なんで私があんな穀潰しの分を作ってやんなきゃならないのよ」

「作ってくれなくて結構よ」

 母と二人だけ思っていた空間に、姉の声が割り込んできた。トイレに出てきたところを聞かれたらしいが、こちらはやましいことは何もない。憤然と睨み返すも、返ってきたのは冷笑だった。

「私だってあんたの作ったご飯なんか御免だわ。だいたいあんた、味付け濃すぎなのよ。信長じゃないっての」

「はあ? 意味わかんない」

「低学歴だからでしょ。あんたたち、お似合いの夫婦だわよ」

「ちょっとどういう意味よ!」

 言っておくが私は私立とはいえ四大卒、姉は短大卒だ。そんな人に低学歴呼ばわりされるのは業腹だった。ちなみに夫は高卒なので、揶揄するとしたらそちらのことだろうが、だからといって見下していいことにはならない。

「彼はちゃんと立派に働いてるのよ! 馬鹿にされるいわれはないわ!」

「誰もあんたの旦那のことなんて言ってないじゃない。そうやって反応するってことはあんたも内心、低学歴って馬鹿にしてんのね」

「馬鹿にしてるのはそっちでしょ!? その年で定職についてなくてただ飯食いしてる方がよっぽどだわ!」

「やめなさい、あんたたち!」

 見かねた母が仲裁するが、私たちの睨み合いは続いていた。先に姉が引いたのは、夫が返ってくる時間帯であることを鑑みたせいだろう。ちらりと時計を見て、踵を返す。

「お母さんも、私の分、もう作らなくていいから」

「何言ってんの、どうする気なのよ」

「どうにでもなるわ」

 でっぷりと肥えた体を揺らしながら、姉はいそいそと部屋へ戻って行った。まああれだけ太っていれば、いくらか食事を抜いたところでどうということはあるまい。ただそれは私の考えで、母はそうは思わないらしいが。

「まったく、馬鹿なことを……」

「どうにでもなるって本人が言ってるんだから、いいのよ。むしろ過剰摂取気味だったんじゃないの?」

「売り言葉に買い言葉で言ってるだけだよ、あれは」

「嫌よ。私からは絶対に折れないから」

 むしろこれで、夜中のレンジに悩まされなくて済む。私の勝ちだ。


 それから姉は、本当に食事にも出てこなくなった。どうやら部屋で、買い込んだ食料を食べて過ごしているようだったが、そんな金があるなら家に入れろというのが私の意見だ。

 当然栄養は偏るし体にいいわけがない。けれど姉は「自分の部屋」と「それ以外」、という区分をしてしまったらしく、「それ以外」の区域に現れることは本当に稀になった。私たち夫婦がいない間はその限りでないだろうが、トイレにすら極力出てこないようにするという徹底ぶりには呆れるしかない。

 それでも、寄ると触ると諍いを起こさずにはいられない二人の内の一人が、発生の確率をさらに下げたとなれば、それは平穏への道を示されたも同然だ。私の精神は穏やかさを取り戻し、偏食で体を壊した姉が音を上げて軍配が上がるのを待つだけだと思っていた。

 体を壊したのは、私の夫だった。

 職場で倒れ搬送されたことを私が知ったのは、昼休みの時だった。焦り動揺する私に電話をくれた母は、自分がついているから大丈夫と慰めを繰れたが、いてもたってもいられず私は半休を申請し、そのまま病院に向かった。

 過労だという診断だったが、その原因は明らかだ。残業を頻繁に入れ在宅時間を極力減らしていたため、たまった疲労が限界を超えたに違いない。険悪な私たち姉妹を見たくないがために。

「どうしてこんなことになったのか、分かってるでしょ」

 私の顔を見るなりそう言った母は、ひどく憔悴していた。ベッドに伏す娘婿の哀れな姿にあてられたかのようだ。次は私の番かもね、と言いたそうな顔色だった。

「分かってるわ。でもこれくらいであの人が心を入れ替えるとは思えないんだけど?」

 気が咎めなかったと言ったら嘘になるが、この期に及んで姉をかばいそうな母に苛ついたのも事実だった。

「そうやってあんたがあの子ばっかり気にしてつんけんしてるからよ」

「何よ、私が悪いって言うの」

「怒ってばっかりの妻がいる家に、率先して帰りたいかしらね」

 じゃあどうしろって言うのよ。働きもせずこもってるだけの、他人嫌いの穀潰しと仲よくしろとでも言うの? どうして私が、真っ当な社会人として生きてる私が、人として出来損なって社会を拒否してただ生きているだけの非社会人に譲歩しなきゃならないのよ。ごめんだわ!

 言いたいことは喉元までせりあがってきたが、私は耐えた。母が悲しげな顔をすることは分かっていたからだ。またため息をついて、そのたびに老け込む横顔を眺めるのも嫌だった。

「着替え、取りに行ってくる」

 それだけ告げて、私は母の傍を離れた。口の中が、胆汁を噛みしめているように苦々しい。私は打ち消すように、奥歯を噛み鳴らした。


 家に戻った私が真っ先に見つけたのは、姉のふとましい後姿だった。誰もいないのをいいことに、出てきて台所を勝手に使っているようだ。

「何してんのよ」

 時間的に聞こえるはずのない私の声に、姉は一瞬小動物のように体を震わせた。けれどすぐさまなんでもない風を装って、視線すらくれない。

「あんたこそ、何してんの」

「聞いてないの? 旦那が倒れたのよ」

「倒れた?」

 本当に聞いていないらしい。いくら母でも、出かける際には言づけていくはずだが。単に聞いていなかったのだろう。そんな姉のずぼらな性格に、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなる。

「過労だって。だから半休とって、着替えを持ちに来たのよ」

「……そう」

 それきり、姉とは会話を交わさないつもりだった。必要なものを鞄に詰めて再び玄関に向かった私は、どこか打ちのめされたようなふくよかな姉の背中を見て、気を変える。

「ねえ。週二のバイトで、将来どうする気なの」

「だから、漫画家に」

「なれる保証あるの?」

 昔から部屋にこもることが好きだった姉が、それらしきものを描いていたのを一度だけ見かけたことがある。だからなりたいというそれに嘘はないだろうが、この年でもまだなれていない現実を受け入れて先へ進むべきだろう。

「最終選考には、何度か残ってる。でも、そこから先が厳しくて」

 振り向かずに答えた姉は、そこまで言って口を噤んだ。私相手に言うべきではないと悟ったのだろう。こんなものは攻撃対象にされるだけだ。けれど私は何も言わずに、姉の背をじっと見ていた。フライパンで何かを焼いている音だけが、この家の支配者を主張するように響き渡る。

「何作ってんの?」

「お好み焼き」

「私、それ作れない」

「簡単だよ。誰でもできる」

「……お姉ちゃんの焼いたマドレーヌ、好きだった」

 その単語を舌の上で転がして、私は吐き出した。ビー玉のような透明さでころころと、食卓の上を転がっていくようだ。そこには毒も怒りもない。この家で育った者同士の間に刻まれた絆、切っても切れない強情な鎖にも似た、むかつくだけの縁がうっすらと透けて見えていた。

 姉は相変わらず振り向かなかったが、少し笑ったようだ。

「それも簡単にできる。誰にでも」

「五時間煮込むデミグラスソースも」

「それも、レシピを見てるだけだよ」

 私は、思いがけない激情がこみ上げてくるのを感じていた。それは怒りとも悲しみともつかず、或いは両方がないまぜになった、何とも言い難い感情だった。一人で抱え込んでいてはいけない、それを言葉にして姉に伝えなければと思ったときには、私の心は凪の海のように静まっていた。

「お姉ちゃん、私の夢はね。この家で家族を作ること」

 私の半身は玄関を出ようとしていたが、口は閉じることを知らず動き続ける。

「私はこの家で、お姉ちゃんの入れない家族を築くから。出て行かないなら、お姉ちゃんは肩身の狭い思いをし続けるだけよ。この輪の中には絶対に入れないし、入れてもあげないから」

「そう」

 姉が返事をした気がした。もう私は背を向けて玄関を出かかっていたから、扉の軋みがそう聞こえただけかもしれない。

 私の背後で、扉が閉まる。意識にすら後ろを振り向くことを許さず私は、前へと一歩踏み出した。


end


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