その3
テスト・シュタインは、呆然とした表情で男を見詰めていた。
その横に座る女は、何も言葉を発さずただ二人のやり取りに視線を向けている。
この場所は、現実ではない。
それをテストは思い出していた。
紛れも無い事実だ、現にこうして周りの風景をよくよく見て見ると、どこか幻想的過ぎる、漂ってくる華の香りすらも、今では作り物めいて感じてしまう、それにこの男の言った通り時間の感覚はとっくの昔に無くなっている、現実では一体どれだけの時間が経過しているのか見当も付かない。
男の言葉を信じるならば、男は”ここ”からテストを助ける為にきたという。
「思い出したかい?」
男の言葉に、テストは。
「ああ……、あ、ああ……」
返事なのか、それとも嗚咽なのか、どちらともつかない声がテストの口から漏れていた。
「あんたは、真面目な男なんだよ。クソが付くほどな……」
男は口は悪いが、ただ相手をけなすだけではない口調でそう言った。
どこか思いやりも篭っているように聞こえる。
「自分自身が彼女を傷つけたと思い、そして自分の精神の殻に閉じこもっちまったんだ、確かにここは楽園だろうさ、最愛の人と永遠の時、それも邪魔をされない至福の空間だ、ただな、このままじゃあんた死ぬぜ……、もうかなり衰弱しちまってる、そろそろ戻らないと手遅れになる」
「死にますか……」
「”外”じゃもう一週間以上経っているんだ、点滴でいくら栄養は補給できても、限界が有る、人の体は健康ならば活動が前提で作られているからな、何もしないというそれだけで激しく衰弱する……」
「……一つ聞きたいのですが」
「なんだい?」
「あなたは、どうやってここへ? ここが私の意識の中だというのならば、どうやって――?」
テストは混乱しながらも、今一番最初に浮かんだ疑問を尋ねた。
「俺はそういう職業なもんでね、そうやって何度も精神病患者とかを治療している……、まぁ公認じゃないし、国家資格も無い、インチキやペテンも多いが、中には本物もいる、その数少ない本物が俺さ」
男は、右手に銃を握りながら、魅力溢れる笑みを浮かべていた。
ただの微笑でありながら、ただの美男子が浮かべるそれと同等以上の人を惹きつける物が込められていた、異性だけでなく同性をも引き込む魅力である。
だが、テストは俯いたまま。
「帰りたくない……」
と小さく呟いた。
「あ?」
「帰れるもんか! どんな顔して彼女に会えば良いっていうんだ! 病床の彼女を見て逃げ出した、この最低な男に生きる資格なんて有る訳無いだろう!」
そう叫ぶと同時に、辺りの景色が一変した。
理想的な花畑のような場所だったのが、男を中心としてまるで地獄絵図のような風景へ変わっていた。
花咲き乱れていた地面には、禍々しい原色の蛇がいやらしくその身をうねらせている、その数は一匹二匹ではない、地面全てが蛇で埋め尽くされているのだった。
漂っていた華の香りが、何かの腐った臭いのように、吸い込むとそれだけで肺が腐り落ちてしまうような、そんな臭気が満ちている。
空に満ちていた星々も姿を消し、その全ては邪悪な意思を持つ悪魔のような瞳と変貌している。
変化をしていないのは、テストと、男と、彼女と、そして彼女の座る長椅子だけだった。
「それが本心なのかい?」
「ここで罪を悔い改めて、そしてそのまま命を絶つ――相応しい末路じゃないか」
その言葉には強烈な覚悟が秘められているようだった。
生半可な覚悟ではそのような言葉は出ないだろうと思える。
「嘘つけよ」
だが、男は、ため息をつきながら、やれやれといった態度でテストの覚悟をあっさりと否定していた。
「何だと!」
「あんたは、ただ怖がっているだけだ、自分が心底嫌われるのを、な。それだけならまだ可愛いもんだが、こんな場所に逃げ込んで、妄想の恋人とと擬似恋愛を楽しんでやがる……、罪を悔い改める? ならここはもう少し別の形をしているはずだぜ、あんたはただ安住の地を求めてここに逃げ込んだだけだ、格好つけるんじゃねえよ」
激しい言葉だった。
それ自体が凶器となり、テストの全身を切り刻むような、そんな言葉であった。
テストは全身を震わせている。
それが、怒りの為なのか、動揺なのか、あるいは悲しみなのか、恐怖なのか、それは本人にも分からないのだろう。
ただ震えている。
テストは、かっ、と眼を見開き、男に眼光を浴びせていた。
眼が血走っていた。
現実世界では中々見られない光景である、テストの両眼は、眼の淵を破り、顔の半分ほどの大きさにまで達している、そしてそれは両眼共に肥大し続けている。
中央の黒目がまだちゃんと残っているのが不気味であった。
眼だけではない、腕も足も、元の形状が分からないほどに肥大していく、ボディビルダーが全身に力を入れているのとは異質すぎる、あれはいくら凄い筋肉量だとしても、まだ人間の骨格の範疇を超えはしない、だが今の目の前のテストの肉体は、そんな肉体の常識という縛りなどまるで意に介さないようだった。
もう、顔も肉体も原型を留めていなかった。
恐らく、テストが子供時代から今に至るまでに眼にしてきた、全ての強い物、怖い物、そういう物が結集しているのがこれなのだろう。
酷く歪な、幼稚園児くらいの子供が造り上げた粘土細工を元に、精巧に造られた生々しい肉のオブジェのように見える。
恋人がそのような怪物に変貌していく横で、美しい彼女が無表情にただ長椅子に座っている光景は異様であった。
「お……、おヴぁえに、何が分かる……」
テストはそう叫んだ。
だが、言葉は正確に発声出来ていない。
テストの体の変貌は止まらない、ここがテストの意識の中だからだろうか、肉体のあちこちが怪物化し、今にも男に襲いかかろうとしているように見える。
男は、テストを救いに来たと言ったが、このような場合はどうするつもりなのだろうか。
本人が帰りたくないと言っているのに、それを無理に連れて行くというのは現実でもかなり難しい、それに加えてこの場所自体がテストの精神の中だとするのならば、あらゆる想像がテストには可能であり、ほとんど神のような存在と言えるのではないだろうか。
それに抗う術が有るのか?
倒す事も難しいかもしれない状況なのに、救うという行為が果たして可能かどうか、限りなく不可能に近いように思える。
だが、男はそんな心配をまるでしていないのか、銃を怪物と化したテストに向けながら、不敵に笑い。
「何が分かるかって? 知るかよ、ガキが……、自慰行為も結構だがよ、そういうのはきっぱりと現実の女に決別してからするもんだぜ」
そう言い放っていた。
その瞬間に、テストの右腕が振り下ろされていた。
腕を振り下ろすという感覚とはまるでスケールの違う攻撃だった、熊が前肢を振り下ろすのでも人の肉体は耐えられないが、今のテストの攻撃は上空に吊り上げた象を落下させるような攻撃であった。
精神世界でも、その圧倒的な重量の攻撃は、地面を揺さぶっていた。
男は、そのテストの攻撃を見事に掻い潜っていた。
だが、足場は悪い、何しろ地面を多い尽くすほどの蛇が敷き詰められているからだ。
しかし、これらはそれほど警戒しなくても良い、と男は考えている、これらはテストの敵意の現れなだけで、それぞれが猛毒を持っているような代物ではないと理解している。
男は、銃口を怪物と化したテストに向けると、躊躇う事無く引金を引いていた。
三度引いた。
先ほどはシャボン玉のような物が放たれたのだが、今度は普通の銃弾のような物が放たれていた。
人の精神の中では、そういう武器の設定も好きに変えられるのかもしれない。
だが、その攻撃は今のテストの肉体の前には、その程度の攻撃はあまりにも無力であった。
着弾した部分は激しく肉が抉れるのだが、次の瞬間には瞬時に再生してしまうのだ。
その後も何度も男が軽やかにテストの攻撃を掻い潜り、銃弾を浴びせるのだが、それが効果を表しているようには見えなかった。
水鉄砲でガソリンが原因の火災を消火しようとしているような、そんな徒労に思える。
いくら男がその攻撃を避け続けられたとしても、攻撃する手段が無ければいずれはどうなるか、結果は見えている。
弾は尽きないのか、何発と無く撃ち続けているが、さすがに同じような攻撃を繰り返せば、隙が出来てしまう、それをテストは見逃さなかった。
「ちぃ!」
それが足だったのか手だったのか、それすら分からないが、男に向かってテストの体の一部が、鞭のように襲い掛かっていた。
鞭、と言っても、それは決して細くは無い、何本にも束ねた棍棒がしなって襲い掛かってきたような物だ。
それを男はまともに喰らって、吹っ飛ばされていた。
精神世界だろうと、この場所ではっきりとしたダメージを食らうと、現実世界でもダメージを負う場合が有る。
男のような熟練者になれば、逆にこの空間に”馴染み”すぎて、ダメージが多い場合すらあるのだ。
そして熟練者だろうと素人だろうと、この空間での共通の事は、ここでの死は現実世界での死でも有ると言う事だった。
圧倒的な質量の怪物と化したテストが、倒れて体中に蛇をまきつけた状態の男に襲いかかろうとしていた。
だが、男の眼はまだ諦めていない。
その右手にはまだしっかりと銃が握り締められていた。
「おヴぁえ、じゃま……、か、えれ……。そっ、として……くれ」
テストは、人の声ではない何か別の言葉で、そう言っていた、意味自体は男にも分かる。
だが、あまりにも酷い雑音の凝集のようで、現実の音だとしたら誰もその意味を捉えられなかっただろう、精神世界だからその意味が男には届いたのだ。
誰かを呪い殺す為の呪詛のようにすら聞こえる声だった。
「帰れって? それじゃ商売上がったりでね……、心配しなくてもすぐに済む……、これで終わるさ」
男は、立ち上がらずに、上半身だけ起こした形でテストに銃口を向けていた。
「この一発で終わりにする」
男は不敵にそう宣言していた。




