その2
「どちら様ですか――」
テスト・シュタイン青年は、必死に平静を保ちながら、その謎の侵入者に問いかけた。
本当ならば、激昂して「誰だ!」と声を荒げて問い詰めたい所だったが、それを理性で必死に押さえていた。
穏やかで平穏な極めてプライベートな場所に、それも恋人と楽しんでいるところに、突然見知らぬ男が入ってきたのだ、テストが怒るのも無理は無い。
この場所が公共の場所だとしたら、いくら恋人同士であろうと他人に迷惑をかける行為をしていれば邪魔されても仕方が無いかもしれないが、ここはそういう場所でもないのだ。
「まぁ、そうカッカすんなって」
男は軽い口調でそう言った。
どこか漂々(ひょうひょう)とした雰囲気で、危険な香りはしないし、暴力的な物も感じさせない、たまたま迷い込んできただけのようにも見える。
だが、そんな訳が無かった。
この場所は、誰かが迷い込むような場所には造っていない、入る為にはそれなりの手順を踏まなくてはいけない、テストは庭師にそう言われた、だからどういう監視の目もここには届かない。
テストも彼女もどちらも大富豪の子である故に、常にボディーガードが傍についている、だから密会をするにもわざわざどこかの山奥に行く訳にも行かず、また、互いにそんなに時間的に余裕は無い為に、途方に暮れていた所、この場所を教えてもらったのだ。
時間的にいつでもここに来れて、そして誰も入れない場所。
夢のような場所だ。
テストはその庭師に何か礼をと思ったのだが、何もいらない、ただ幸せにと言われたのだ。
不審な話といえばそうかもしれない、この世に無料の物など無いのだから。
だが、テストはこの話に飛びついた、飛びつくしかなかった。
二人で過ごす快適な時間は、どのような貴金属よりも、どのような美食よりも、今のテストには必要不可欠なものだったからだ。
それなのに、今、こうしてこの時間を邪魔する者が現れた。
テストは平静な表情でありながら、その眼は千年来の仇敵に向ける視線で男を睨みつけていた。
「ここは極めて私的な場所です……、どういう用件であろうとここでは伺いかねますが」
そう言いながら、テストは男に改めて視線を送った。
服装はきっちりとスーツを着こなしている、ブランドまでは分からないが安っぽい作りの服では無いように見える。
長身で、贅肉は見当たらない、すらりと伸びた四肢でありながら、ひょろ長いという印象を与えない。
この格好のままで、世界のどのパーティー会場だろうと、大抵は違和感を与えないだろう。
顔立ちも鼻梁はすっきりと通り、眼は男特有の魅力のある眼をしている、そういう部分では不審者とは思えない雰囲気ではある。
だが、髪型はまるで違う。
肩よりやや長めの髪に、まるで水分をタップリ含んだままベッドに入り、そしてそのまま翌日を迎えたように、ひどい寝癖が付いていた。
一部分がはねているのではなく、髪全体がぼさぼさに髪が束になり、それぞれに意思を持ったように別の方向に向いていた。
一瞬そういう髪型なのか? と思ってしまうが、意図的というにはあまりにも独創的に爆発した髪型だった。
それにしてもどういう用件でここにこの男は現れたのだろうか?
「いや、それにしても素晴らしい場所だね、ここは」
テストが不審な視線を送っているにもかかわらず、平然と男はそう言ってのけた。
まるで親しい友達の家に遊びに来たような口調であるが、当然テストも横の彼女も彼を招いた覚えなど無い。
「あなた……、私か彼女の父に言われてきたのですか?」
テストは、声に僅かの震えを感じながら、そう言った。
もしもこの推測が当っているのならば終わりだ。
二人の関係も、この場所も知られてしまった、それはどういう意味なのか。
考えるまでも無い。
足元の地面が崩れ落ちるような絶望を、テストは予感していた。
「ま、そういう事になるかな」
その声を聞いた途端、テストの顔がはっきりと分かるように青褪めていた。
隣に座っている彼女も、テストの服の裾をぎゅっと握り締めた。
終わりだ。
全てが終わりだ。
あるいは、手持ちの金だけを持ってどこかに二人で逃げる事は出来るかもしれない、駆け落ちという奴だ。
だが、正直な所も、テストも彼女も温室育ちであり、外で生き抜く術をまるで知らない。
仮に生きていけたとしても、互いの親の財力を持ってしての捜査網を掻い潜って生きていける訳が無い。
いずれは捕まってしまうだろう。
テストが絶望的な将来を思い描いたと同時に、また男が声を発した。
「別にあんた達をとっ捕まえに来た訳じゃない、安心しなよ」
優しい口調でそう言った。
だが、それだと何をしにこの男は来たというのだろうか。
「では、どのような用件ですか?」
テストが問うと、男ははっきりとした口調でこう言った。
「あんたを”助け”に来たのさ」
その言葉の意味はテストには理解出来なかった。
助ける?
何から?
誰から?
「ここは、居心地の良い場所だねぇ……、しかし、こんな場所、一体どこにあるっていうんだろうね」
男は意味不明の事を言い出した。
「なっ、何を言っている?」
男の言葉は意味が分からない。
だが、意味が分からないくせに、テストはその言葉が何か重大な事実を告げようとしているような、そんな不安を感じていた。
開けてはいけない扉を開こうとしているような――そんな予感がする。
狼狽するテストをよそに男は言葉を続けた。
「都会の真ん中? 夜空に星が見えるのに? しかも外から一切の音が入らない……そんな場所が本当に有るのかね?」
「あなたはどうかしているのですか? 実際にここに有るじゃないですか」
テストは、平静を努めながらそう言ったが、声が隠しようも無く震えていた。
「実際に、実際にね。それじゃ聞くけどね、テストさん」
男は一旦言葉を切り、真っ直ぐにテストを見詰めた。
テストもその視線を真っ向から受けて立った。
テストの横で、女は怯えるようにテストにしがみ付いている。
「あんた、最後にメシを食ったのはいつだ?」
唐突な質問だった。
テストが言葉を挟む前に、男は更に言葉を続けた。
『最後に寝たのはいつだ?』
『最後に風呂に入ったのはいつだ?』
『最後にクソをしたのはいつだ?』
「良く考えてみな、よぉーく、な」
男は、そう言うと、テストの眼を真っ直ぐに見詰めていた。
何もかも見通すような眼だった。
そしてテストは理解していた。
この場所に来て、夢のような時間をくつろいで過ごしていたが、それが一体どれほどの時間だったのか、それがまるで思い出せない事を。
この場所にしても確かにそうだ、男の言う通り、こんな奇跡のような場所が存在するのか、仮に存在していたとして、その場所を他人が無償で自分に使わせてくれるだろうか。
答えはNOだ。
では、ここは、一体……
テストのその疑問を見透かしたように、男は口を開いた。
「ここがどこか分からないって顔しているぜ、思い出しなよ、あんたの最も身近な場所だぜ?」
男は、意味有り気な笑みを浮かべながら、そう言った。
「え……」
テストは、呆然としている。
横に座っている女も、その様子をどこか虚ろな視線で眺めている。
「思い出せないよ、自分で心に鍵をかけちまったんだからな、自分だけの力じゃあ思い出せないさ。だから俺が思い出させてやるよ」
男は、そう言いながら、二人に歩み寄りながら、懐に右手を突っ込んだ。
あまりにもそれが無造作すぎて、テストも横の彼女もまるで反応が出来なかった、男が足を止めて、右手を懐から取り出した時、そこには銃が握られていた。
大振りの銃だ。
銃の扱いに慣れていなければ、いや、慣れていたとしても片手で扱うのは至難に思えるほどの大きさである、その破壊力は想像を絶するだろう、人の体など、その銃の破壊力の前には紙切れほどの存在に過ぎない。
口径が小さい銃ならば、その弾丸が体内に残ってしまう事で命の危険が有るが、これほどの口径ならば、そういう心配はまるで要らない、あっさりと体が千切れてしまうからだ。
それを眼前に見ると、非現実的すぎて、自分が死と相対しているとは思い難いが、本能なのか、テストの呼吸は荒くなり、明らかに脈拍が上昇していた。
「な、な、何を――」
テストが、言葉を発する前に、その銃口は外しようが無いほど真っ直ぐにテストに向けられていた。
二人の間の距離は、7mを切っている、それなりの腕前の人間ならば、体のどこを狙っても良いという条件付であれば外さない距離である。
「動くなよ」
男はそう呟いたが、そう言われなくてもテストは動けなかっただろう。
何か圧倒的な物が自分の体に圧し掛かっているような、そんな圧力をテストは感じていた。
言葉さえ発する事が出来なかった。
横の恋人に『逃げろ!』と言う事すらも叶わない、もし仮にそう叫べたとしても状況はどういう変化も起こさないだろうが。
男の指が、引金にかかり、あっさりと言うほど簡単にそれは引かれていた。
テストは思わず身を竦めたが、激しい銃声は響かなかった。
ただ、その銃口から、何か淡い青色をした球体が放たれて、それがテストの体に溶け込むように消えていっただけだった。
「?」
冗談だったのか?
銃に見せかけた、ただのシャボン玉を作る玩具?
そう思った瞬間に、テストの脳が激しく揺さぶられていた。
蓋をしていた記憶を、思いっきりこじ開けられる感触を味わっていた。
怖かった。
見たくなかった。
必死でそれを押さえ込もうとしたが、ダムの決壊を素手で抑えることが出来ないように、それは止め処無く溢れてきた。
テストの脳裏に映像が次から次へと浮かび上がっていく。
それと同時にテストの両眼から涙がぼろぼろと流れていく。
口からは幼児のような、意味不明の言葉が漏れている。
テストは見ていた。
この場所の事も、何もかも、テストは記憶を思い起こさせられていた。
テストは、彼女と恋仲になったのだ。
だが、そこに至るまでにはかなりの月日を要した。
あのパーティー会場の一件で、互いの関係を理解しながらも、テストはその後も諦める事無く彼女を想っていた、そして日々恋焦がれ、あらゆるツテやコネや財力を利用して、彼女との関係を築こうとした。
しかし相手も自分と同等の財力を持つ令嬢であり、それを調べると言う事はかなり慎重にならざるをえなかった。
その後、テストは色々と試行錯誤を繰り返し、ようやく連絡を取り合うようになるまでにテストはかなりの時間を費やす事となったのだ。
だが、ようやく知り合いとなり、何気ない会話をすると、これほどまでに気が合うのかと思えるほどに惹かれていた。
外見だけではなく、内面にもテストは激しく彼女に惹かれたのだ。
そして何度かのデートの後に、ついにテストが想いを打ち明けると、彼女はテストの想いを受け止めてくれたのだった。
そこまでは良かった。
ある時を境にテストは、急に彼女と会えなくなった。
携帯電話も通じない。
家に電話を掛ける訳には行かない。
だから、彼女が現れそうな場所に顔を出したのだが、どこにも彼女の姿は無かった。
彼女はまだ学生であり、学校で待っていれば会えるかとも思ったのだが、学校も休んでいるという。
どう言う事なのか。
テストは混乱した。
その状況が2週間も続いたのだから無理も無い。
嫌われてしまったのならば仕方が無い、だがそれを本人の口から聞きたかった、いや、嫌われている訳が無い、何か理由が有るはずだ、そういう感情が幾つも積み重なり、テストはとうとう彼女の家に忍び込む事にしたのだった。
そこでテストは見てしまったのだ。
そして彼女もテストを見たのだ。
あの顔を忘れる事が出来ない。
忘れる訳が無い。
彼女は重い病で自宅療養していたのだ。
その病気は、完治する事は出来るが治療にかなりの時間を要する病気で、それを気にして彼女はテストの一切告げずに自宅で療養していたのだった。
その表情は、かつての彼女の顔見知り程度の人間だったら本人と気づけぬほどやつれていた、だがテストははっきりと本人だと分かった。
眼を見れば分かる。
忍び込み、窓から彼女の顔を直視したのだ。
最愛の人と呼んでいる相手ならば、例えどのような変装をしても分かるとテストは思っていたが、さすがに一瞬は本人だとは分からなかった。
それほどの変貌であった。
かつて、恋愛関係に疎いテストが、一瞬で引き込まれた美貌はそこには存在していなかった。
テストはそれが彼女だと分かった瞬間に、思わず声を発してしまっていた。
テストの口から漏れたのは、久しぶりに最愛の人に会えた喜びの声ではなかった。
それは悲鳴だった。
テストは、その瞬間に恐ろしくなり、彼女に背を向けて走り出してしまっていたのだった。
そのテストの背に彼女の声が届いたのだが、何という意味を持った声だったのか、それはテストには分からなかった。




