悪役令嬢の黒猫は忙しい
ぼくは黒猫のノワール。
公爵令嬢イザベル様の、いちばんかわいいペットである。
ぼくの毎日は、とても忙しい。
朝はイザベル様のベッドにもぐりこみ、起きる時間を教えてあげる。昼は窓辺で丸くなり、庭の鳥たちが勝手なことをしないよう見張る。夜はイザベル様の膝の上で眠り、書類ばかり見ているご主人様に、そろそろ休むべきだと伝える。
伝える、といっても、ぼくは人間の言葉を話せない。
だから、手紙の上に座る。インク壺を前足で隠す。どうしてもやめないときは、羽根ペンをくわえて逃げる。
「ノワール、返しなさい」
イザベル様はそう言うけれど、本気では怒らない。
いつも最後には小さく息をついて、ぼくの頭を撫でてくれる。
「……そうね。少しだけ休みましょうか」
その声を聞くのが、ぼくは好きだった。
イザベル様は、人前ではあまり笑わない。
背筋はいつもまっすぐで、言葉はきれいで、歩き方にも、指先にも、少しの乱れもない。
だから人々は、イザベル様を見てこう言う。
「冷たい方ね」
「おそろしいわ」
「アルベリク殿下の婚約者には、少し厳しすぎるのではなくて?」
ぼくはそのたび、しっぽをふくらませた。
ちがう。
イザベル様は冷たくない。
庭師の子どもが熱を出したと聞けば、薬師を呼ぶよう手配する。侍女が失敗して花瓶を割っても、破片を踏まないよう先に手を引く。雨の日に濡れた子猫を見つけたら、手袋が汚れることも気にせず抱き上げる。
ただ、そのやさしさは、いつも少し遠回りだった。
誰が薬師を呼んだのか、庭師は知らない。
誰が新しい花瓶を用意したのか、侍女は知らない。
誰が捨て猫の寝床に古い毛布を敷いたのか、屋敷の者たちは知らない。
イザベル様は、自分の名前を残さない。
褒められるのが嫌いなのではない。たぶん、怖いのだ。
やさしくしたつもりのことが、押しつけだと言われること。正しいことを言ったつもりの言葉が、冷たい刃になること。誰かを守ろうとして伸ばした手が、その誰かをかえって困らせてしまうこと。
イザベル様は、たくさん考えて、考えすぎて、最後には黙ってしまう。
だからぼくは、イザベル様のそばにいる。
人間の言葉はわからないことも多いけれど、人間のにおいはわかる。
怒っているにおい。
泣きたいのをこらえているにおい。
何か言いたいのに、言えないまま飲みこんだにおい。
イザベル様からは、よくそういうにおいがした。
王宮の舞踏会の日も、そうだった。
その夜、イザベル様は白いドレスを着ていた。
真珠のような光沢のある布に、銀糸の刺繍が入っている。胸元には小さな青い宝石。アルベリク殿下から贈られたものだと、侍女たちがささやいていた。
イザベル様は鏡の前で、その宝石にそっと指を触れた。
「……似合っているかしら、ノワール」
「にゃあ」
もちろん。
世界でいちばん似合っている。
ぼくが鳴くと、イザベル様は少しだけ笑った。
けれど、王宮へ着くと、その笑顔はすぐに消えてしまった。
大広間には、たくさんの人間がいた。
香水のにおい。花のにおい。甘い菓子のにおい。笑い声。音楽。絹のすれる音。
その中に、ひとりだけ、見慣れない少女がいた。
淡い桃色のドレスを着た、コレットという少女だった。
彼女は平民の出身で、今年から王立学園に通いはじめたのだと聞いた。明るくて、素直で、アルベリク殿下がよく気にかけている少女。
イザベル様は、コレットを見ると、ほんの少しだけ目を細めた。
怒っているのではない。
悲しんでいるのでもない。
ただ、心配している顔だった。
コレットのドレスの裾が、少し破れていたからだ。
誰かに踏まれたのか、どこかに引っかけたのか。小さな破れだったけれど、この場では十分に目立つ。気づいた者が悪意なく笑えば、それだけでコレットは傷つく。
イザベル様は、近くにいた侍女にそっと耳打ちした。
それから、小さな紙片に何かを書いた。
ぼくは椅子の下から、それを見ていた。
紙片はコレットのもとへ運ばれた。
そこには、こう書かれていた。
東の控室へお越しください。
人目を避けて、お話ししたいことがあります。
イザベル・フォン・アシュベリー
それだけだった。
イザベル様は、コレットの破れたドレスを人前で指摘したくなかったのだ。だから、人目のない場所へ呼び、替えのドレスと靴を用意させた。
けれど、コレットにとってその手紙は、ひどく怖いものだった。
アルベリク殿下の婚約者であり、いつも正しく、美しく、少しも隙のない公爵令嬢。その人から、「人目を避けて」と呼び出されたのだ。
叱られるのだと思っても、不思議ではなかった。
それでもコレットは、逃げるわけにはいかず、東の控室へ向かった。
控室に、イザベル様はいなかった。
代わりに置かれていたのは、淡い桃色の替えのドレスと、新しい靴。それから、小さな紙片だった。
そこには、ただ一言だけ。
お使いください。
コレットは、その紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
助けられたのだと、わかった。
でも、どうして直接言ってくれなかったのかは、わからなかった。
感謝すればいいのか。
怖がってしまったことを謝ればいいのか。
それとも、これは「あなたの身なりは場にふさわしくない」という、遠回しな叱責なのか。
わからないまま、コレットは黙ってしまった。
イザベル様も、誰にも言わなかった。
そのあと、コレットは控室を出るとき、最初の手紙を落としてしまった。
本人は気づかないまま、舞踏会へ戻っていく。
その手紙を拾ったのは、アルベリク殿下だった。
アルベリク殿下は、しばらくその手紙を見つめていた。
その直前、彼は見ていたのだ。
コレットが青ざめた顔で控室から出てくるところを。
そして、少し離れた場所で、イザベル様が何もなかったように背筋を伸ばして立っているところを。
呼び出し。
人目のない控室。
青ざめたコレット。
沈黙するイザベル様。
それらが、アルベリク殿下の中で、ひとつの形に見えてしまった。
その小さな誤解が、数日後、大きな音を立てて割れた。
王宮の昼下がり、イザベル様は大広間でアルベリク殿下に呼びだされた。
ぼくは、イザベル様の腕の中にいた。
本当は、屋敷で留守番をしているはずだった。
けれど、今朝呼び出されたイザベル様は、いつもより少しだけ寂しいにおいがした。だからぼくは馬車の前で座りこみ、侍女の足元をすり抜け、とうとうイザベル様の膝の上に飛び乗った。
「……仕方のない子ね」
イザベル様はそう言って、ぼくを抱き上げた。
わがままではない。
これは、ぼくの大事なお仕事である。
「イザベル」
アルベリク殿下の声は硬かった。
「君に聞きたいことがある」
アルベリク殿下は、一枚の紙を取り出した。
あの日、コレットが落とした手紙だった。
「これは、君が書いたものだな」
広間がざわめいた。
イザベル様は、まばたきを一度しただけだった。
「はい。わたくしが書きました」
その返事に、ざわめきが大きくなる。
アルベリク殿下の顔がさらに険しくなった。
「なぜ、コレット嬢を人目のない控室へ呼び出した」
「……必要があったからです」
「必要?」
「はい」
「コレット嬢は、そのあと青ざめた顔で控室から出てきた。君は何も言わなかった。コレット嬢も何も言わなかった。私には、君が彼女を追い詰めたように見えた」
イザベル様の指が、ぼくの背中の毛をそっとつかんだ。
痛くはない。
でも、震えていた。
言えばいいのに、とぼくは思った。
ドレスが破れていたから。
笑われる前に助けたかったから。
けれど、イザベル様は言わなかった。
「……軽率でした」
それだけだった。
アルベリク殿下は、その沈黙を認めた証だと思ったのだろう。
「軽率、で済む話ではない。君はいつもそうだ。正しい顔をして、自分の考えを語らない。語らないまま、相手だけを不安にさせる」
その言葉に、イザベル様のにおいが変わった。
雨の日の窓辺のにおい。
ひとりで泣く前のにおい。
「わたくしは……」
イザベル様は何かを言いかけて、やめた。
また、飲みこんでしまった。
ぼくは、もう我慢できなかった。
「にゃっ!」
腕の中から飛び降り、アルベリク殿下の足元へ走る。
「ノワール!」
イザベル様の声が追いかけてくる。
ぼくは振り向かない。
大広間の端に、コレットがいた。両手を胸の前で握りしめ、今にも泣きそうな顔をしている。
彼女からも、同じにおいがした。
何か言わなければいけないのに、言えないにおい。
怖くて、申し訳なくて、でも自分を守ることにも必死なにおい。
ぼくはコレットの前まで行き、そのスカートの裾を前足でちょいちょいと引っぱった。
「え……?」
コレットがぼくを見る。
「にゃあ」
言って。
ぼくには言えないから。
人間の言葉を持っているのは、きみでしょう。
コレットの瞳が揺れた。
彼女はアルベリク殿下を見た。イザベル様を見た。周囲の貴族たちを見た。
誰もが、彼女の言葉を待っていた。
それは優しい待ち方ではなかった。
早く答えを出せ、と責めるような沈黙だった。
コレットは小さく息を吸った。
「あの……違うんです」
声は震えていた。
でも、たしかに広間に落ちた。
「イザベル様は、私を傷つけようとしたのではありません」
アルベリク殿下が眉を寄せる。
「コレット?」
「私は……助けていただいたのだと思います」
コレットは、握りしめていた手をゆっくり開いた。
「あの日、私のドレスが破れてしまって……誰かに見られたら笑われると思って、でも、どうしたらいいかわからなくて。そんなとき、イザベル様から手紙をいただきました」
アルベリク殿下は、手にしていた紙に目を落とした。
東の控室へお越しください。
人目を避けて、お話ししたいことがあります。
それだけの手紙。
責める言葉はない。
けれど、やさしい言葉もない。
「最初は怖かったんです。呼び出された理由もわからなくて、控室に行ったらイザベル様はいなくて、ドレスと靴だけが置かれていて……。親切なのか、叱られているのか、私にはわかりませんでした」
コレットの目から涙がこぼれた。
「でも、助けていただいたのは本当です。ひどいことをされたわけではありません。私が何も言えなかったから、殿下にも誤解させてしまいました」
そこでコレットは、アルベリク殿下を見た。
「でも、殿下も同じです」
アルベリク殿下が、わずかに目を見開いた。
「私に何も聞かないまま、このような場所を用意なさいました。私を守るためだとお思いだったのかもしれません。でも私は今、皆様の前で泣いています」
広間が、しんと静まり返った。
「私も、イザベル様も、殿下の正しさのために、ここへ立たされているのではありませんか」
アルベリク殿下は、何も言わなかった。
その手紙は偽物ではない。
悪意ある罠でもない。
ただ、足りなかったのだ。
言葉が。
勇気が。
相手を信じる時間が。
「なぜ、その場で説明しなかった」
アルベリク殿下が、低い声で言った。
イザベル様は、静かに目を伏せた。
「この場で、コレット様のドレスが破れていたことを申し上げれば、それこそ彼女に恥をかかせることになります」
コレットが息をのんだ。
「わたくしは、それを避けたかったのです。ですが、そのために言葉を惜しみすぎました」
イザベル様の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
ぼくは、イザベル様のもとへ戻った。
白いドレスの裾に顔をこすりつける。
それから、まっすぐに見上げて鳴いた。
「にゃあ」
言って。
ご主人様も、言って。
黙っていたら、においは伝わらない。
あたたかい手も、やさしい気持ちも、人間には見えない。
イザベル様は、長いあいだ黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「コレット様」
その声は、少し震えていた。
「わたくしは、あなたを助けたかったのです」
コレットが、涙に濡れた目でイザベル様を見る。
「けれど、あなたがわたくしを怖がっていることにも気づいていました。だから、直接声をかけることができませんでした。親切の形を借りて、わたくし自身も傷つくことから逃げました」
イザベル様は、胸元の青い宝石にそっと触れた。
「正しくあろうとすればするほど、冷たいと言われました。間違えないように言葉を選ぶほど、怖いと言われました。ですから、いつの間にか、必要なこと以外は言わないようになりました」
広間には、誰の声もなかった。
「でも、それでは伝わらないのですね」
イザベル様の声は静かだった。
けれど、さっきまでよりずっと強かった。
「わたくしは、あなたを嫌っていたのではありません。あなたがこの場所で笑われずに済むようにしたかった。ただ、それだけでした」
コレットは、こらえきれないように泣き出した。
「ごめんなさい、イザベル様。私、ずっと怖くて……でも、本当は、うれしかったんです」
イザベル様は、一瞬だけ困ったような顔をした。
それから、ぎこちなく手を伸ばした。
コレットの肩に触れる。
とても小さな動きだった。
でも、たぶん、イザベル様にとっては、とても大きな一歩だった。
「わたくしも、怖かったのです」
コレットは泣きながらうなずいた。
アルベリク殿下は、手の中の手紙を見つめた。
それから、ゆっくりとイザベル様へ向き直った。
「……私は、君の婚約者でありながら、君に確かめる前に疑った」
その声は、先ほどまでのように硬くはなかった。
「しかも、それを人前で問いただした。君の名誉も、コレット嬢の気持ちも、何ひとつ守れていなかった」
アルベリク殿下は深く頭を下げた。
「すまなかった」
イザベル様は、しばらくアルベリク殿下を見つめていた。
「謝罪は受け取ります」
静かな声だった。
「ですが、わたくしは今日、殿下の婚約者としてではなく、疑わしい者としてこの場に立たされました」
アルベリク殿下が息をのむ。
「信頼とは、疑う前に一度、相手の言葉を聞くことではありませんか」
イザベル様は、乱れのない所作で一礼した。
「今後のことは、父を交えて改めてお話しいたします。少なくとも今のわたくしには、殿下のお隣に立つ理由を見つけられません」
その声は震えていなかった。
ぼくは、イザベル様の足元でしっぽを立てた。
そうだよ。
ご主人様は、ちゃんと怒っていいんだよ。
その夜、帰りの馬車の中で、イザベル様はぼくを膝に乗せていた。
「ノワール」
「にゃ」
「今日は、あなたがいてくれてよかったわ」
ぼくは胸を張った。
当然である。
イザベル様が黙ってしまう日には、ぼくがそばにいる。
手紙の上に座って、裾を引っぱって、にゃあと鳴く。
それが、悪役令嬢の黒猫の忙しいお仕事なのだから。
それから、王宮を出る前に、あの王子様の鼻を引っかいておいた。
ご主人様を泣かせた分としては、まだ足りないくらいではあるけれど。




