極超音速度ヒューマニズム
夏の夕暮れ。
庭に響く、プシュッという小さな音。
殺虫剤の霧が宙に舞う。
蚊が一匹、また一匹と地面に落ちていく。
羽音が消える。
静寂が戻る。
翌朝、クモの巣に獲物はない。
トンボが池の上を旋回する。
しかし、口に入るのは空気だけ。
餌となる蚊は、もういない。
一週間後。
クモが巣を畳む。
トンボが姿を消す。
庭に異変が起きた。
アブラムシが葉の裏に群がる。
緑色の汁を吸い、茎を這い回る。
バッタが跳ねる。
草を食い荒らす。
天敵がいない楽園で、害虫たちが爆発的に増殖していく。
植物が枯れ始める。
根が露出する。
土がひび割れる。
雨が降っても、水は地中に浸透しない。
表面を流れ、側溝へと消えていく。
小川の水位が下がる。
石が顔を出す。
魚が浅瀬でもがく。
やがて、川底が露わになる。
ひび割れた泥の上に、小さな骨が散らばる。
微生物が死ぬ。
分解者がいなくなった世界で、有機物が堆積していく。
腐敗が進まない。
代わりに、嫌気性発酵が始まる。
地面から泡が立つ。
メタンガス。
無色透明、しかし地球を温める力は二酸化炭素の25倍。
大気中に放出され、温室効果を加速させる。
気温が上がる。
北極の氷が溶ける。
シベリアの永久凍土が軟化する。
何万年も眠っていた古代のウイルスが目覚める。
最初の感染者は、調査チームの研究者だった。
発熱。
咳。
そして、未知の症状。
既存の薬は効かない。
ワクチンも存在しない。
感染は拡大する。
空港が閉鎖される。
国境が封鎖される。
都市がロックダウンされる。
人々は家に閉じこもり、外出しなくなる。
しかし、ある研究所で、新たな理論が生まれた。
「極超音速度ヒューマニズム」
研究者たちは白衣を着て、ホワイトボードの前に立つ。
数式が踊る。
グラフが描かれる。
「ウイルスの拡散速度は有限だ」
「しかし、人間が極超音速で移動すれば、感染源から物理的に逃れることができる」
「マッハ5以上の速度で移動し続ければ、ウイルスは追いつけない」
「これこそが、新時代のヒューマニズム。人間中心主義の究極形態だ」
その理論は世界中に広まった。
絶望の中で、人々は希望を見出した。
極超音速旅客機の製造が急ピッチで進む。
工場が24時間稼働する。
金属が削られ、エンジンが組み立てられる。
最初の極超音速便が離陸した。
ゴォォォという轟音。
大気を切り裂く機体。
乗客たちは座席に押し付けられ、重力に抗う。
窓の外で、雲が後方に流れていく。
マッハ5。
マッハ6。
マッハ7。
速度は上がり続ける。
摩擦熱が発生する。
機体表面が赤熱化する。
大気分子が電離し、プラズマ化する。
オゾン層に亀裂が入る。
成層圏で化学反応が起きる。
オゾン分子が分解される。
紫外線を遮る盾が失われていく。
地表に降り注ぐ紫外線量が増加する。
植物の葉が焼ける。
動物の皮膚が炎症を起こす。
DNA が損傷する。
突然変異が多発する。
生態系が崩壊する。
しかし、人々は空中にいる。
極超音速で移動し続けている。
地上の惨状を見下ろしながら「極超音速度ヒューマニズム」を実践し続ける。
「我々は生き残った」
「人間の英知が勝利した」
「これが人類の進化だ」
空中都市が形成される。
極超音速機が編隊を組み、大気圏を周回する。
燃料補給のため、空中給油機が飛び交う。
地上では、最後の生物が息絶える。
森が枯れ果てる。
海が酸性化する。
大気中の酸素濃度が低下する。
それでも、人々は飛び続ける。
「極超音速度ヒューマニズム」の名のもとに。
やがて、燃料が尽きる。
一機、また一機と墜落していく。
炎を上げて地面に激突する。爆発音が響く。
黒煙が立ち上る。
最後の極超音速機が高度を失う。
エンジンが停止する。
機体が傾く。
乗客たちが無重力状態になる。
「極超音速度ヒューマニズム」の終焉。
機体が大気圏に突入する。
摩擦で燃え上がる。
流れ星のように光る軌跡を描いて、地表に向かう。
衝突。
巨大なクレーターが形成される。
衝撃波が大地を揺らす。
最後の爆発音が響く。
そして、静寂。
地球は自転する。
誰もいない惑星が、宇宙空間を漂う。
大気は薄くなり、海は干上がり、大地は荒廃している。
生態系の崩壊。
気候変動の加速。
未知のウイルスの蔓延。
「極超音速度ヒューマニズム」という名の狂気。
人間が人間中心主義を極限まで推し進めた、その先にあるもの。
砂が舞う。
岩が風化する。
時が流れる。
極超音速で移動していた人類は、もういない。
地球は回り続ける。
太陽の周りを公転し、自転軸を中心に回転する。
しかし、そこには生命の営みはない。
かつて「極超音速度ヒューマニズム」と呼ばれた現象の痕跡だけが、大気圏に刻まれている。
オゾン層の穴。
電離した大気。
プラズマの残滓。
それらは、人類が残した最後の痕跡。
誰かが庭の蚊を殺した瞬間から、きっとこの結末は決まっていたのだろう。
そして今日も、地球は静かに回り続ける。