第28話 消滅した彼女
走って走って、最後にたどり着いたのは特別教室棟の屋上だった。
そこに、髪を風になびかせて空を見上げているファリアの姿があった。
「ファリア!」
ファリアがそこにいる。
それが何より嬉しくて俺は安堵のあまりその場に座り込んだ。
「勇君、足速すぎよ。」
息を乱しながら駆け込んできた芝中もファリアの姿を見て立ち止まった。
俺たちの声に気づいたのか、無視していたのかファリアは儚げな微笑みを浮かべて振り返った。
「ファリア、よかった。みんなファリアのことを忘れていて、会長まで全然覚えてなくて、俺すごい不安で…」
「ごめんなさい、ユウ。不安にさせてしまったみたいですね。」
ファリアのせいじゃないと言う前に俺の後ろから芝中の剣呑な声が放たれた。
「ファリア・ローテシア。いったい何をしているの?」
「…。」
ファリアは笑みを浮かべたまま答えない。
確かにこんな人気のない場所でファリアは何をやっていたのだろう。
芝中はギリと歯をくいしばるとファリアの前に歩み出て胸ぐらを掴み上げた。
「しばな…」
「自分の存在を世界から消すなんて、何考えてるのよ!」
「…え?」
ファリアが自分で消えた?
わけがわからない。
そんなことをしたって何も…
「世界を滅ぼさないためです。」
ファリアは迷わずその言葉を口にした。
芝中はファリアを睨み付けながらも手を離す。
「どういうことか説明してくれよ。」
ファリアは頷いて説明を始めた。
「世界を歯車が構成する機械だと考えたとき私やリゾルドは形の違う大きな歯車です。私たちは機械に割り込み、周囲をこちらに合うように変化させて紛れ込んでいました。ですがそれは必ず何処かに歪みが生じます。さらにユウやあの剣の存在は世界に致命的な破壊を引き起こした。」
「俺が世界を…」
俺がリゾルドに勝つための力を欲したから、
俺が化け物を退治したから、
俺がファリアと一緒にいることを望んだから。
「俺の、せいで。」
「待ちなさい。その言い方だと勇君が悪く聞こえるけどそもそも勇君を外れさせたのはあなたでしょう?」
「はい。だからこそ私は、世界を滅ぼさないために完全に外れなければならなかったのです。」
ファリアは俺たちに背を向けてフェンスへと向かっていく。
その後ろ姿はこのまま消えていってしまいそうで俺は繋ぎ止めるために声をかける。
「でも、なんでファリアの存在を消さなきゃならないんだ?」
「…私とリゾルドがこの世界にとって異物だからです。ユウやサキュバスの前身である芝中さんはこの世界の人間として認知された存在です。ですが私とリゾルドはこの世界には存在しないもの。それを無理にねじ込むことで生じる歪みは非常に大きくなります。世界の修正が大きくなったのは私がこの世界に干渉したからなんです。」
ファリアはクルクルと回る。
誰もいない場所で1人、クルクルと回り続ける。
「だから私は私という存在がいたことを世界から消滅させたのです。ファリア・ローテシアという異物が消滅することで歪みを小さくすることができますから。」
ファリアが自らの存在をヴァニッシュしたことで世界は破滅の危機を免れたという。
だが俺はその話を聞いてかつてヴァンパイアが言っていたその意味をようやく理解した。
(世界を塗り替える力。)
普通人は死んでも「死んだ人」として存在し続ける。
だがヴァニッシュは存在そのものを消滅させることも、ファリアのように認識だけを消すこともできるのだ。
この力が悪用されれば誰にも気付かれることなく世界を変えてしまうことができる。
「ユウ?」
思索に耽っているとファリアは立ち止まり不安げな瞳で俺を見ていた。
「私はもうこの世界で存在することさえ許されません。そんな私でもユウの側にいていいですか?」
俺はゆっくりと立ち上がる。
ファリアはそんなになっても、たとえ周りの誰からも認識されなくなったとしても俺のそばにいることを望んでくれた。
「もちろん。ずっと一緒だ。」
それは俺も同じ、普通でなくなるときに誓った想いは今も変わらない。
「ユウ!」
「ファリア!」
俺の始まった場所で俺たちは再び誓った。
決して離れないことを。
「私の存在を完全に忘れ去って目の前で思いを確かめあったことには何も言うつもりはないわ。」
昼食は3人でファリアの作った弁当を囲むことになった。
芝中は文句を垂れつつも箸を止める様子はなくかなり気に入ったようだった。
それでも不機嫌そうな顔は直らない。
「でも、世界を滅ぼさないようにするためとはいえ存在していた事実を消滅させたことは許せない。勇君がかわいそうよ。」
「芝中。」
俺のために怒ってくれる芝中は本当にいいやつだと思う。
でも俺は芝中の想いに応えてやることはできないので申し訳ない気持ちになる。
「ユウに辛い思いをさせてしまうのはわかってます。それでも私はユウに生きていてほしかったんです。お別れなんて、嫌だったんです。」
ファリアは今にも泣きそうな顔で俺の腕に抱きついてきた。
不安を和らげたくてそっと手を重ねる。
「ごちそうさま。いろんな意味でお腹一杯よ。」
スッと立ち上がった芝中は屋上のドアに手をかけ、哀れむような目で振り返った。
「勇君、辛いときには慰めてあげるから言って。…それと、あなたも。愚痴くらいは聞いてあげるから。」
リゾルドの配下であるサキュバスの芝中の優しさを素直に受け取っていいものか思案したファリアはほんの少しだけ笑みを取り戻した。
「ありがとう。でもどうしてですか?」
「そんなの、あなたが落ち込むと勇君まで元気がなくなるからよ。」
芝中はそっぽを向いてその言葉を残すと屋上から逃げるように去っていった。
「いいやつだよな、芝中。」
それは同意を求めた言葉ではない。
ファリアとサキュバスには俺の知らない因縁があるようなので無理に仲良くしろとは言えないからあくまで俺の感想である。
ファリアは俺の胸に身を委ねながら
「…そうですね。」
そう呟いて瞳を閉じた。
友好の兆しが見え始めたことを内心喜びながら昼休みが終わるまで飽きることなくファリアと抱き合っていたのだった。
俺はまだ芝中の言った辛くなるという言葉の意味を理解できていなかった。
教室では一馬や芝中と前みたいに気安い関係が戻っていたしクラスメイトからも敵視されることはなくなった。
だけどそれがファリアという大切な人の消滅により成り立っていることを考えると素直に喜べなかった。
授業が終わると俺はすぐに屋上に向かった。
予想通りファリアは昼休みに別れた時からずっとここにいた。
「昼休みに私は世界の認識から完全に消滅しましたから。もはや私はいない存在、ユウに取り憑いた幽霊みたいなものですね。」
あんまり寂しそうに笑うものだから頬っぺたを引っ張って叱っておいた。
腕に抱きついたファリアと一緒に帰る。
「じゃあな、葛木。」
「試験勉強しろよ。」
友人や先生が声をかけてくるのに隣にいるファリアには誰一人気づきもしない。
少し前まではファリアだけ声をかけられて俺は睨まれる状態だったのに今では逆だ。
いや、睨まれるのは負の感情であれ認識されている証拠。
だが今のファリアは本当に何も、憧憬も尊敬もなく見られることすらできないので余計に痛々しい。
「大丈夫ですよ、ユウ。私は大丈夫。」
俺を励ますようなファリアの言葉は、そう自分自身を慰めているみたいでいたたまれず俺はぎゅっとファリアの手を握った。
世界中の誰もがファリアに気付かなくても俺だけはファリアを見ていることを少しでも分かってほしくて、他人から見れば不自然な手をしているように見えることなど気にせずずっと手を離さなかった。
ファリアの作ってくれた夕飯を食べながらふと思う。
「そう言えばうちの両親はファリアとの同棲で邪魔になるからって実家に帰ったんだよな?ファリアが消滅したのにどうして帰ってこないんだ?」
俺の素朴な質問に
「うっ。」
とらしからぬ呻き声を漏らしてそっぽを向くわかりやすいファリアさん。
ちょいとジト目で見つめるとあっさりと白状してくれた。
「消滅したとはいえ調整はまだ行えますからご実家のすぐ近くに転勤という形にさせていただきました。」
そこまで聞けばもう十分、動機なんて分かりきっていることだし、それは俺の望みでもある。
今さら両親の目を気にして行動するのは色々と面倒だし、何よりファリアとの生活を壊したくなどないからだ。
すでに俺にとっての守るべき日常はファリアと暮らす日々となっているのだから。
「そうだ。今晩のヴァニシングレイダースだけど…」
「今日は休みましょう。」
やる気を出そうとした矢先に出鼻を挫かれて思考が少し空回りする。
(ドラゴンカインドが復活した以上のんびりしている暇はないはず、何か作戦が?)
「ユウはもうすぐテストがあるんですからこの世界な生きていく以上しっかりと先を見据えておかないといけません。」
「いや。俺のテストの点数より世界の消滅の方が…」
俺の言葉を封じるようにズズイと顔を寄せてきて睨まれた。
「駄目です。こんなことのためにユウの人生を狂わすわけにはいけません。大丈夫ですから、ユウはテスト勉強に専念してください。」
ファリアの揺るがない様子に納得はできなかったが諦めて勉強することにした。
的確で優秀な家庭教師ぶりを発揮するファリアだったが時おり見せる憂いの表情に俺は不安を覚えずにはいられなかった。
翌日も俺はファリアと一緒に登校する。
俺にはいままでと変わらず触れ合えるし笑い合えるからその時まで気付かなかった。
肩を叩かれて振り返ると険しい表情の警察官が立っていた。
「君、いったい誰と話しているんだい?まさか覚醒剤を使って幻覚を見ているんじゃないだろうね?」
ファリアを認識できない世界から見れば俺は独り言を言って1人で笑っている危ない奴でしかない。
俺の奇行の噂は瞬く間に学校中に広がった。
平穏な日々や嫉妬されていた頃とは違う、遠目で観察されて絶え間なくヒソヒソと声がする異端児への対応。
一馬ですら俺との接触を避けようとし、会長は
「すまない。ヴァニシングレイダースに参加させたせいで葛木君の心に傷をつけてしまったのかもしれない。はっ!もしや悪霊に取り憑かれたのではあるまいか?」
と負い目を感じているらしくいろいろ気を回してくれたが丁重に辞退しておいた。
こんな状態で普段通りにしているのも酷だったが
「これ以上目立った行動を取ると本当に除け者にされますよ。」
とファリアに諭されたためキッチリ授業を受けて昼休み、屋上で昼食を取る。
ファリアと2人で分け合って食べる形になるので人目につかないよう入り口の裏手に腰かけた。
ファリアは俺の前に座っても心ここにあらずといった感じで今にも消えてしまいそうに見えた。
「ごめんなさい、ご飯にしましょうか。」
元気に振る舞おうとするファリアが痛々しくて俺はその細い体を抱き締めた。
「俺はちゃんと見てるから。感じてるから。だから、心配するな。」
本当は、俺が不安なのだ。
皆の記憶と同じようにふとした瞬間にファリアのことを忘れてしまうかもしれないことが。
だから離さないことを誓うようにファリアを強く抱き締めた。
「…ありがとう、ユウ。」
弱々しい声に決意を固くしたところでチャイムがなり、俺はファリアと一緒に教室に戻った。
誰もその事に何も言わない。
見えているはずの芝中も一度目を合わせただけで普段通りに戻っていた。
ファリアは何も喋らずただずっと俺の側で俺の手を握っているだけだった。
帰り道のスーパーで夕飯の食材を買う。
これまではファリア任せだったがこれからは俺が買わないといけない。
品の選び方を聞きながらかごに放り込んでいく。
以前なら仲睦まじいと冷やかされるくらい楽しく買い物できたのに今はすぐに買って飛び出したくなるほど居心地が悪かった。
「…すみません、ユウ。」
何に対してか謝るファリアを無視する。
ファリアは何も悪くはない、ただ世界を救おうとしているのになぜこんな辛い思いをしなければならないのかという憤りを覚えた。
ようやく誰もいない我が家にたどり着くとファリアの顔にも少しだけ明るさが戻った。
ファリアを認識できる俺しかいないからこの家という世界にはファリアが存在できる、とてもちっぽけな世界。
誰にも認められないということは存在しないことと同義なのだと思い知らされた気がした。
いっそこの2人だけの世界でずっと一緒にいたいと考えたが、甘えた逃げの考えは頬を叩いて振り払う。
ファリアはきっとまだ諦めていない。
そして俺にもこの戦いに勝つ目標が出来たから。
(ファリアのいるこの世界で一緒に生きる。)
リゾルドを倒せばファリアが入っても世界は滅ばずにいられるはず、つまりすべての目的がリゾルドを打ち倒すことで成し遂げられるのだ。
勉強をしてそのままベッドで眠る。
すぐ隣にはファリアがいるのに色気なんてなくただ互いが消えてしまう不安を和らげるためだけに一緒に眠った。
(どうか、夢の中でだけでもファリアが幸せでありますように。)
この世界にはきっと神様はいない。
それでもそう願わずにはいられなかった。
翌日から、ファリアは学校に行かなくなった。