第20話 恋人
走って、走って、息が上がっても立ち止まらず、足の筋肉が悲鳴をあげても走り続けた俺は
「はあ、はあ。はは、結局、ここかよ。」
夕焼けの赤に染まる校門でようやく立ち止まった。
呼吸に紛れて自嘲する笑いが漏れてしまう。
逃げ出したはずなのにいつの間にかファリアを求めてここに向かっていたなんてあまりの自分の小ささに涙も出てこない。
「はは。認めるのが怖くて確認もしないで、それなのにここに救いを求めに来るだなんてな。あー、情けない。」
掌で目を覆い、空を仰ぎ見る。
聞こえてくるのはどこにでもある平和な日常の音、その中でただ1人、俺だけがそこからずれている。
世界という名の巨大なからくりの歯車だった自分が弾き出された存在なのだと、今になってはじめて理解した。
「ここはもう、俺の知ってる世界じゃないんだ。」
父さんも母さんも、一馬も芝中も舘野もクラスメイトも町の人も、日本中世界中、そのすべてが作り物のように思える。
風景は張りぼてで建物は積み木、歩く人は人形で聞こえる音はノイズ。
俺が目を背けて勝手に補完していただけで本当の世界はこんなにも歪んでいる。
急速に世界が色を失っていく。
俺が世界を否定したからなのか、世界が俺を拒絶したのか、音も消え去り光も闇に飲み込まれた。
寒々しい無色の風が夜を運んできた。
見上げた空に光はなく
「…?」
ただ一点、俺のクラスにだけ明かりが灯っていた。
「こんな時間に誰だ?部活のやつか?」
まだ日が沈んだばかり、教室に誰かが残っていたっておかしくはない。
でも俺は黒に染まった世界で唯一の光がまるでこの不安の迷宮にあるただ1つの出口のように感じて、足を進めていた。
校内はしんと静まり返っていた。
まだ7時くらいで教員が残っていてもおかしくないのになんの音もしない。
まるで精巧に作られた等身大の模型に紛れ込んでしまったようにここには何もなかった。
俺は急ぎ足で廊下を歩き階段を一段抜かしで上っていく。
普段はこれくらいの運動ではなんともないのに今日に限ってはやけに体が重く呼吸も苦しくなり、意識もぼんやりしてきた。
2階に上がって廊下の先に目を向けるとどの部屋の電気も消えていて外のわずかな明かりを取り込んだ夜の学校の姿があるだけだった。
「見間違い、だったのか?」
もしかしたら守衛が見回りをしているときに電気をつけただけかもしれない。
何もない、あそこには何もないとわかっているのに2年3組の教室に吸い寄せられるように向かっていた。
閉じられた扉の向こうからは物音ひとつしない。
「はあ、はあ。」
立っているだけで息が荒くなり体は火照り手には汗をかいていた。
もはや自分の意思でこの扉を開けようとしているのかさえ曖昧なまま俺は教室のドアに手をかけ、開け放った。
教室の壁にかけられた飾り気のない時計の秒針の音が聞こえるほどの静寂、微塵の乱れもなく等間隔で並べられた机の理路整然とした姿はある種の完成された世界だった。
ただ一点、その世界に溶け込むような静けさで彼女は席についていた。
「芝中?」
闇に抗うことなくそこにいたのはクラスメイトの芝中だった。
「こんばんは、葛木君。」
窓際の席で机に頬杖をついて座っていた芝中は俺の登場にも驚いた様子はなくいつも通りだった。
作業をしていた様子もなくそもそもこんな暗い部屋では何もできないはずなのに芝中はいったい何をしていたのか?
わけはわからないが、なぜか足を前に踏み出すのが躊躇われた。
「どうかしたの?」
「…いや、何でもない。」
促される形で芝中に近づく。
芝中のひとつ前の机に手を付いて立ち止まった。
「ここで何してたんだ?」
闇に染まった学校は根元的に闇を恐れる人間には近づきたくない場所のはず、こんなところにいて怖くなかったのだろうか。
芝中は姿勢を変えないまま笑みを浮かべた。
「何って、待っていたのよ、葛木君を。」
「俺を?」
芝中とは昼間にも話をしたが局所的にヴァニッシュされて記憶が改ざんされていないのであれば約束はしなかったはずだ。
俺の心情が顔にでも出ていたのか芝中は笑みを消すと呆れたようにため息をついた。
「やっぱり忘れていたのね。そういう素振りを見せてくれないからそんなことだろうと思っていたけど。」
ものすごく残念そうな様子に訳もわからず罪悪感が湧いてくる。
でもどんなに頭を捻ったところで芝中と約束をした覚えがない。
悩みすぎて頭から煙を吹きそうな俺を見た芝中はもう一度ため息をついて立ち上がった。
「もういいわ。とにかく来てくれただけで嬉しいもの。」
さっきまでの不機嫌そうな様子とは打って変わって嬉しそうに頬を染めて上目遣いで覗き込んできた。
(芝中、こんな可愛かったっけ?)
ドキリと胸が高鳴る。
芝中は窺うように俺の顔を見ていたが突然クルリと回って背を向けてしまった。
ちょっと残念に思いつつ芝中の様子を見る。
「こんな暗がりに男女が2人きりなんて、何か起こりそうよね?」
「そう…だな。」
その情景は否応なしに佐川のことを思い出させた。
(俺がしっかりしていれば佐川は…)
もはや受け入れるしかないことだが俺の感情がまだそれを納得できないでいる。
「葛木君、他の女の子のこと考えてるでしょ?」
「え、いや、別に…」
ジト目で睨まれて慌てて弁解したがまるで信じてないご様子。
(そもそも弁解する必要あったのか?)
だけど芝中が寂しそうな顔をするから罪の意識がのし掛かってくる。
「それはね、葛木君は優しいしモテるからいろんな女の子に声をかけられるかもしれないけど、その…」
こちらを向いた芝中の瞳はまるで恋人を見るように熱いものを宿していた。
背筋を嫌に冷たい汗が流れた。
良くない予感、予想外の展開が迫っている気配がビンビンしていて、それはすでに不可避な気がする。
芝中がそっと俺の胸に手を置いた。
ぞわりと痺れるような感覚が襲ってきた。
「私は葛木君…勇君の、恋人よね?2人きりの時くらい甘えさせて。」
(は?こ、ここ、恋人ー!?)
ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた俺の様子には構わず芝中は俺の胸に飛び込んで抱きついてきた。
「今はまだ恥ずかしいからみんなには内緒だけどいつかは堂々とカップルみたいなこと、してみたいの。」
いつもの頼れる姉御みたいなイメージとはかけ離れた恋する乙女のような芝中にクラリと来た。
(かわいいかも。)
しかしいつまでも現実逃避してもいられない。
いつの間にか彼女が出来ていたという経験は体験済みだが現状を理解しないといけない。
「芝中、俺…ん!」
俺の質問は芝中の唇に塞がれた。
ついばむようなキスから徐々に大胆になっていく。
互いの舌が絡み合いその気持ちよさに頭がボーッとしてくる。
首に回された腕に力が込められさらに密着した。
「んふ、たくさんお預けされたから、お返しよ。」
頬を上気させて微笑む芝中は普段の凛々しさからは想像できないほどに魅力的で色っぽい。
「芝中…」
「2人の時は幸恵って呼んで。」
「幸、恵。」
求められるままに唇を合わせる。
頭の芯を蕩けさせる快感の波は正常な思考を奪っていく。
(もう、いいや。)
いるかもわからない恋人よりも目の前の手を伸ばせば触れられる、求めれば応えてくれる彼女がいればいい。
(もう、どうでもいい。ただ俺を1人にしないでくれ。)
目が覚めたら自分の部屋のベッドの上だった。
それはそうだ。
昨日はちゃんと家に帰ってきた記憶があるのだから。
目覚まし時計はまだならない6時半、一月前では考えられないほどの早起きだが最近は起こしてもらうのも悪いと思えてきて起きようという努力をしてきた。
その結果が実ったというのにそれを一緒に喜んでくれる人がいない。
「ファリア…。」
意識しないとすぐにその名前を呟いてしまう弱い自分がいる。
俺はパンと両手で頬を叩いてベッドから起き上がる。
朝食の準備をしないといけないし遅刻なんてもっての他だ。
「遅れたら芝中にしばかれそうだからな。」
ハリセンを提げて静かに怒る芝中の姿を想像して身が震えた。
その危機を回避するためには怒られなければいいわけで、俺は久しぶりに自分の朝飯を作るために起き出すのだった。
家を出たらちょうど一馬と鉢合わせになったのだが
「いや、あり得ない。こんな時間に勇が1人で完璧に学校に行く支度をして家を出るなんて。俺はまだ夢を見ているのか、それともここは異世界か?」
とこの世で一番の難題を前にした学者みたいに難しい顔で唸るというとても失礼な態度を取ったので蹴りをくれて眠らせてやった。
目が覚めて俺が目の前にいなければ夢だと納得するだろう。
(一馬の遅刻と引き換えに、だがな。)
ちょっと悪役チックな笑みを浮かべながら歩いていた俺は
「朝から変な笑いを浮かべて、かなり怪しいわよ。」
と客観的な厳しい意見を告げられて顔をあげた。
「おはよう、葛木君。」
苦笑していた芝中は俺の顔を見ると顔を綻ばせた。
「ああ、おはよ。」
挨拶を返して何を言うでもなく並んで歩き出す。
(俺たちは付き合ってるんだからこれくらい普通だよな。)
ただの友達というにはほんの少しだけ近い距離、それを気にしてしまうのはまだこの現実を俺が受け入れきれていないからだ。
だって距離感は…
「…。」
この距離感はファリアと同じ。
つまり俺とファリアの距離は恋人ではなかったということなのだろうか?
それに答えてくれる人はいない。
気遣わしげな芝中の視線には気づかず、俺はまだ心のどこかでファリアを諦めきれずにいた。
遅刻ギリギリで駆け込んできた一馬に絞め落とされそうになった俺は朝の点呼だけ受けると教室を抜け出して屋上に向かった。
ドアを開けるともう夏と呼んで差し支えない照りつける日差しが襲ってきた。
今でも肌を刺すような暑さはこれから日が高くなってさらに気温が上がると思うと気が滅入る。
俺は屋上入り口脇の日陰に寝転がって空を見上げた。
視界の左端がコンクリートの壁なのはいただけないが灼熱の床の上に何時間も横になって干物になるのは勘弁願いたいので妥協する。
空は青く、車や商店の音、風の匂いは慣れ親しんだ故郷のもので、それは気にも留めなかった「普通の」光景だった。
今はそれがすごく大切なもののように思える。
(普通じゃなくなることを受け入れたはずなのに、結局普通じゃなくなることを恐れているんだよな。)
意志の弱い自分に自己嫌悪して目を腕で覆う。
暗闇の中、音だけが俺の存在をここに繋ぎ止めている。
ゴウとわりと近いところを飛行機が飛び去ったらしく一瞬世界の音が塗りつぶされた。
轟音の過ぎ去ったあと
そこは日常ではあり得ない音の世界だった。
怒号、悲鳴、爆音、金属が激しくぶつかり合う音。
それはどれ1つとっても普通ではあり得ない音だった。
「はあ、はあ。」
身動きが取れない。心臓は激しく鼓動し呼吸も荒くなる。
背筋を走る悪寒は目を開くことを拒絶していた。
ゴウと烈風の音が耳を叩いた。
幾十もの悲鳴が上がりバタバタと倒れていく。
俺は意を決して手を払い目を開けた。
そこには…
「黒い…」
メキョと嫌な音を立てて顔が潰れた。
耳には生徒たちの語らう声が聞こえる。
「葛木君、何も見なかったわよね?」
今はまた暗い世界だがその向こうから放たれる不機嫌オーラは間違いなく芝中という現実だ。
「大人っぽい黒い下ぎっ。」
芝中さん、さすがに上履きで口を塞ぐのはあんまりではないでしょうか。
俺は顔に足跡をつけたまま芝中に引きずられていく。
(それにしても、さっきのは…)
恐らくはあれがファリアの知るユウの記憶。
俺が思いだしかけているのか、それともユウに乗っ取られかけているのか。
「って、芝中、階段前で立ち止まってるみたいだけど…まさか、ですよね?」
芝中はにっこりと笑って
「無事だったら許してあげるから。」
「いや、無事であろうとなかろうと危ないから!」
俺の真っ当なはずの意見は聞き入れられず結局スタントマン顔負けの階段落ちを実演させられたのだった。