第2話 失われた記憶
「…勇、起きろ。」
「…。」
目が覚めるといつものように一馬の顔があった。
覚醒しているはずなのになんだか意識がぼんやりとしている。
「寝ぼけているようなので一応確認するが今日も学校だ。」
学校…その言葉を認識するのに時間を要した。
「いつまでボーっとしてる気だ?ほら、さっさと支度しろよ。」
一馬に背中を叩かれて
「イタッ!」
痛みで一気に目が覚めた。
何か背中がズキズキする。
「ん、どうかしたのか?」
「いや、ちょっと背中が痛かっただけだ。着替えるから先に下に行っててくれ。」
一馬を送り出し、上半身裸になって姿見に向かうと背中には何かにぶつかったような大きな痣があった。
他にも体の節々が痛む。
昨日こんな傷を負った覚えは無い。
そもそも
「俺は昨日、いつの間に眠ったんだ?」
人間の記憶なんて曖昧で、昨日の夕飯の事も満足に思い出せないことだってよくあることだというのに、昨晩のことを思い出せないことに言い知れぬ不安を掻き立てられた。
階下からの一馬の声に不安も疑念も押し込めて俺は普段どおりの生活に戻ることにした。
登校すると特別教室の方が騒がしかった。
生徒たちは口々に
「モンスターの仕業だ。」
とか
「いや、あれは勇者の登場の証だ。」
などとゲームの話でもしているかのような内容を話していた。
一馬が近くにいたクラスメイトに話しかけていたので俺も近づいた。
「だからね、家庭科室のドアが鈍器のようなもので破壊されてたんだって。あと、廊下に本物の剣が転がってたって話だよ。」
「なんだ、それ?どこのファンタジーゲームだよ、なあ。」
「ああ、そうだな。」
そう答えたものの興味はあって気にかかる。
くいくいと服を引っ張られる感覚に振り向くと国枝が手招きをしていた。
俺は一馬たちに気づかれないように人ごみから抜け出して生徒会室に連れて行かれた。
今日は普通の会議室の様相をした室内は当然生徒の姿などほとんどなく若干憔悴した様子の会長の姿だけがあった。
国枝は一礼すると生徒会室を後にした。
「朝から呼び出してしまってすまないね。」
「いえ、それでなんでしょう?」
「…その前に1つ質問をしたい。昨晩、君は学校に来たかね?」
「…。」
なぜか言葉が出ない。
会長はため息をついて携帯電話を取り出した。
「葛木君も確認してくれ。私は確かに昨晩、未知騒動対策班として君を学校に呼び出すメールを送った形跡がある。どうかな?」
鬼気迫る様子の会長に促されて携帯の着信履歴を見ると、夜の8時半に会長からそんなメールが届いていた。
一気に頭が混乱する。
「え?つまり俺は昨日の夜学校に来ていた?え、でも、俺?」
「君の混乱ももっともだ。実は私も昨晩のことはよく覚えていない。それどころかこのメールを送ったことすらあやふやだ。昨晩、君は何時に眠ったから覚えているか?」
普段なら9時過ぎに眠ることの多い俺だ。
だが8時半に呼び出されて学校に来たのならそれ以降のはず。
でも俺には眠った瞬間はおろか家を出た記憶すらなかった。
俺の無言を返答と感じたのだろう、先輩は目頭を押さえた。
「プロジェクト始動そうそういきなり難題にぶち当たってしまったな。我々は学校に来ていたのか、そんな単純なことがわからないなんてな。」
結局答えが出ることはなく互いに混乱したまま教室に向かった。
俺は昨日どうしていたのか、普通に一馬に起こしてもらって学校に行き、放課後生徒会に呼び出されて未知騒動対策班に参加させられることになり、家に帰って、それから…どうした?
結局答えの出ない問いに堂々巡りをしてしまって授業の内容なんて頭に入らないまま昼休みを迎えた俺は担任に呼び出されて職員室に向かった。
「失礼します。」
「ああ、来たか。さっそくで悪いんだが、昨日の夜学校に来ていなかったか?」
「え?」
それは午前中俺がずっと自問していたことだった。
それを露骨に表すと面倒なことになると思った俺は何気ない様子を装うことにした。
「何でですか?」
「いやな、葛木も家庭科室のドアの騒ぎは知ってるだろ?昨日の夜、お前が学校に向かうのをみたって学生がいたんでな。一応確認しておこうと思ったわけだ。」
これで俺が昨晩学校に来ていた事は確認できた。
それだけでも大きな収穫だった。
そうなると下手に白を切るとあとでつじつまが合わなくなりかねない。
俺は思っていた以上に逆境に強いタイプのようだ。
こんな状況だというのに悪知恵が働くことこの上ない。
「昨日の夜はちょっと忘れ物をして学校には来ましたけど、家庭科室は全然通る方向ではないですしあそこに入る理由もないです。」
担任はがりがりと頭をかいて苦笑した。
「そうなんだよな。家庭科室なんて侵入したって高価なもんがあるわけでもなし。まったくわけがわからんな。」
それに同意すると担任はあっさりと俺を解放してくれた。
昨晩、俺は学校に来ていた。
なのにその事実を忘れている。
いや、知らないんだ。
知らないということ、それを理解しただけで俺は午前中とは違って高揚した気分で放課後を待ち、当然のように授業の内容は頭に入らなかった。
未知騒動対策班作戦会議室…という名の生徒会準備室に俺と会長が差し向かいで座っていた。
内密な話があると伝えるとここに通されたのだ。
「担任が他の生徒から俺が昨日の夜学校に向かうのを見たという情報を得ていました。ちなみに俺はまったく覚えていません。」
「なるほど。つまり第三者には普通に見えていたが当事者である我々はその事実を覚えていないというわけだな。」
「覚えていないというのは違う気がするんです。なんというか、知らない、と言ったほうがしっくり来るんですよ。何でかはわからないんですが絶対に思い出すことはないような気がするんです。」
沈黙が訪れる。
俺も会長も考える時間が、不可解を不可解と認識するための時間が必要だった。
「知らない。つまり我々の記憶はヴァニッシュ、消されたわけだな。ヴァニシングレイダースとはよく言ったものだ。未知の騒動を消すための我々が記憶を消されては元も子もないな。はっはっは。」
会長はどこか楽しそうに笑った。
不可思議なことへの恐怖もあるだろうがそれに挑むことのできる探究心が勝っているのだろう。
とそこに聞きなれない単語に気づいた。
「会長。そのヴァニシングレイダースってなんです?」
俺の率直かつ真っ当な質問に会長はにやりと笑みを浮かべた。
「良くぞ聞いてくれた。私は『未知騒動対策班』などという仰々しく呼びづらいことこの上ない名前を憂いていてな。何か良い名前はないものかと思っていたのだ。そこに今回の記憶の消失が絡んできた。そして考え付いたのが…」
「ヴァニシングレイダース、ですか?」
言葉をついで確認すると会長は深く頷いた。
「そう、ヴァニッシュに立ち向かう者たち。なかなかはまっているとは思わないかね?」
「まあ、たち、でいいのかわかりませんけどね。」
俺の皮肉に会長は苦笑を浮かべるだけだった。
(ヴァニシングレイダース…。)
なぜかしっくりとその名称は馴染んだ。
気を取り直して会長に尋ねる。
「それで、そのヴァニシングレイダースの今後の活動は?」
「うむ。今後も学内で発生している騒動に対応してもらう。それと同時に今回のヴァニッシュについても調査をしていきたいと考えている。」
それは俺も望む所だ。
だが忘れるのではなく消えてしまう記憶をどうしろというのだろうか?
「何か手はあるんですか?」
「今のところは何もない。考えておくので葛木君の方は騒動の解決に尽力してくれたまえ。」
ヴァニシングレイダースの方針が決まったところでミーティングは終わり、会長は生徒会に、俺は帰宅となった。
そして夜、俺は神妙な面持ちで学校の前に立っていた。
正確には校門を見渡せる位置で立ち止まっている。
「見張りが、いるな。」
何故気づいたのかは自分でもわからない。
ただ、暗闇の中で100メートル以上離れていたにもかかわらず俺の目は校門の前に立つ警備員の姿を捉えていた。
別段夜目が聞くわけではないと思うのだが。
俺は電柱の陰に隠れて会長にメールを打つ。
「校門前に見張りあり。指示を仰ぐ。と。」
するとすぐに返信が返ってきた。
『無茶をして君を危険に晒すわけにもいかない。今日のところは引き上げたまえ。』
俺は了解と返信して帰宅することにした。
今日は月明かりが眩しい夜だった。
その輝きに
一瞬だけ、見た事もない-見覚えのある-優しい笑顔を浮かべた女性の映像が浮かんだ。
「え?俺…」
気がつけば自動販売機と向き合っていた。
きっちり120円も入れてあり自販機は早く買えと急かすようにランプを点滅させていた。
俺はぼんやりとした頭を冷ますためにブラックコーヒーを選んだ。
それを一気に煽る。
苦味で意識が覚醒したが無茶しすぎてちょっと涙が出てきた。
時計を見れば8時過ぎ。
家を出てからたいした時間は経っていなかった。
「学校には警備員もいるみたいだし、帰るか。」
まだ苦味が残る喉をさすりながら自販機脇に置かれたゴミ箱に空き缶を後ろ手に放り投げる。
空き缶は音を立てることなく、俺はそれに気を止めることもなく家路に着いた。