第19話 ファリアのいない世界
見たことがない部屋にいた。
日本的ではない、RPGゲームの宿屋というのがしっくりくる内装のツインベッドの部屋で俺はベッドに腰を下ろしていた。
向かいには人が座っていて笑っている。
(ファリア?)
ファリアによく似た少女はこれまたRPGゲームに出てきそうな格好をしていた。
俺の知っているファリアよりも少しだけ若く幼く見える。
音量を消した昔のテレビを見ているように世界は色褪せ、音は何一つ聞こえない。
ファリアに似た少女は真剣な表情に変わるとベッド脇に飾ってあった花瓶に手を翳した。
モノクロの世界で少女の掌が虹色に揺らぎ、その色が花瓶を覆った瞬間に花瓶は存在しなくなった。
その後部屋に入ってきた別の男に花瓶の消失を話していたようだったがやれやれといった感じで男は帰っていってしまった。
少女は恐る恐る俺の顔を覗き込んだ。
音は聞こえないが唇の動きでわかった。
覚えている?と。
俺が頷くと少女の顔に笑顔が咲いた。
興奮しているのか少女はベッドの上で跳ねて転がって…落ちた。
それを苦笑しつつ微笑ましく思いながら俺はさっきの現象を慮る。
(あれはヴァニッシュ。)
俺の知る規模とは異なるが他人が消滅した物の存在を忘れた姿は間違いなくヴァニッシュだった。
ベッドの向こうから恥ずかしそうに顔を出した少女の笑顔が霞んでいく。
直後、全身を引き裂くような痛みに俺の意識は暗い闇に飲み込まれた。
目を覚ますと俺は学校の廊下に寝転がっていた。
回りには何もない。
まだ日も昇りきっていないようで薄暗い校舎をなぜ体が痛むのかなぜこんな場所に寝ているのか、ここで何をしていたのかも曖昧なままふらふらと何かに引っ張られるように帰路についた。
目が覚めると俺はベッドの上で、視界の端に制服姿の一馬がいた。
「よう、目が覚めたか?」
「…これが悪夢の続きじゃなければな。」
「それだけ減らず口が叩けるなら大丈夫そうだな。それにしても無事でよかったな。一時は死にかけだったんだぞ?」
微睡んでいた意識が一瞬にして目覚めた。
体をさすってみると全身に包帯が巻いてあり左腕からはチューブが伸びていてベッド脇から点滴を受けている。
よく見たら自分の部屋ですらなかった。
「ここは?」
「病院。家の前で血みどろのボロボロになった勇を見たときには死んでんじゃないかって思うほどの怪我だったからな。もう1週間も眠りっぱなしだったんだぞ、この寝坊助が。」
そんなことを言いながらも安堵した様子で笑ってくれる一馬にごめんと謝った。
「気にすんな。なんか回復力が驚異的だとか、これは解剖して研究せねばとか言ってたからすぐに退院できるんじゃないか?」
なにか不穏当な言葉が聞こえた気がするが聞かなかったことにしよう。
一馬は一通り各所に連絡を入れると帰っていき、代わりに医者や看護師、最近存在を忘れかけていた両親がやって来て心配されたり喜ばれたり獲物を狙うような目で見られたりと横になりながらも慌ただしく過ごした。
胸の傷は深かったもののだいぶ治ってきていて日常生活には支障がないとのことで明日には退院することになった。
なんだか大宇宙の意志を感じないでもないが治ってくれるならありがたい。
俺は一刻も早く確かめなければならないのだから。
今日の誰にも聞くことが出来なかったあの日の結末を。
目の前に血の池が拡がっていた。
どくどく、どくどく、真っ赤な血は泉のように湧き出てくる。
見てはならないと分かっているのにその発生源を見てしまった。
血の海に沈み、ゴポリと血を吐き出し続ける佐川の姿を。
さらにその向こうには血の海に浮かぶ人影があった。
長く艶やかな髪が血の水面に広がる様は不気味さを際立たせた。
こちらももう動かない。
流れが変わり、その顔がこちらを向いた。
それは首が不自然に細くなり元の顔が判別できないほどに崩れた、ファリアだった。
「うわあああ!」
底無し沼のように血の海に引きずり込まれたところで目が覚めた。
手術着は汗でじっとりと重くなり気持ちが悪い。
見慣れない天井や周囲を覆うカーテン、馴染みのないベッドの感触、そのすべてが落ち着かない。
それでもあんな悪夢の中にいるよりはましだった。
「くそ。」
そう考えてしまう弱い自分が許せない。
守ると誓った人たちを結局誰一人として守れなかった。
剣は折れ、深手を負い、敵を…
「そうだ。ドラゴンカインドはどうなったんだ?」
そもそも俺たちが負けたならなぜ俺は生きている?
もし何らかの方法で俺たちが勝ったならなぜファリアはいない?
「考えられるのは俺が見逃されてファリアが連れ去られたって辺りか。」
あり得ない解釈ではないのだがどこか腑に落ちない。
「そもそもドラゴンカインドが俺を見逃すか?」
あれは殺すことを楽しみはすれど躊躇いはしないはず。
なのに俺が生きているということはファリアとドラゴンカインドの間で取引があったのかもしれない。
俺は痛みをおして立ち上がり窓へと向かう。
まだ所々痛むが日常生活には問題なさそうだった。
開いた窓からは夏も間近だというのに肌寒い風が吹き抜けていく。
今日も夜の学校では化け物がうろついているのかもしれない。
もしかしたら顔を出せない事情があるだけでファリアは1人で戦っているのかもしれない。
「ファリア。」
死んではいないと思いたい。
脳裏をよぎった悪夢を首を激しく振って払い窓枠に添えた手に力を込めた。
町は学校で夜な夜な化け物が世界の滅亡を目論んでいることなど知らず夜の闇を煌々と照らしている。
「それにしてもいつにも増して町に人が多い気がするな。学生はテスト前だっていうのに…」
ツーと俺の頬を汗が伝った。
俺は冷静にと自己暗示を呟きつつ慎重に記憶を呼び起こす。
テストが1週間後だと話したのがドラゴンカインドと戦った日の朝だった。
家の前に倒れていた俺を一馬が見つけてくれたのが次の日の朝で、それから俺は1週間ずっと眠っていたらしい。
つまり
「あー!テスト勉強なんて全然やってないじゃないか!今日何日だ…わっ、今日からじゃないかよ。ってことは明日学校行ったらテスト受けるのか?なー!」
世界の行く末は大いに心配だが目先のテストが心配でならない現金な俺だった。
翌朝、テストの不安とまた悪夢を見てしまうかもしれないという恐怖から寝付けなかった俺は比較的早い時間から帰りの支度を終えていた。
気乗りはしないが確かめないといけないことがあるので学校を休みたくはなかった。
俺の看病に帰ってきた父さんたちが事務手続きはやってくれるのでさっさと家に帰る。
タクシーで揺られるだけで鈍い痛みが走る。到着した家には予想通り誰もいなかった。
「ファリア。」
家に帰れば何事もなかったようにファリアの笑顔が迎えてくれる、そんな夢を少しは期待していただけに予想通りの結果を前にため息が出た。
鍵を開けて一通り家を見回ってみたがやはり1週間前のままだった。テーブルの上に置いてあったクッキーが湿気ていたことだけが時の経過を表していた。
部屋の机の上には開きっぱなしの教科書やノートがあったので適当に鞄に詰める。
今から急げばテスト開始までには間に合う。
俺は速攻で制服に着替えて鞄をひっつかむと家を飛び出した。
地面を蹴る度、着地する度に痺れるような痛みが走る。
「だー、痛え!」
それでも俺は足を止めることは出来ない。
「留年は、絶対にいやだー!」
人影も疎らになった通学路をひた走る俺は、多分自己新記録の登校時間を叩き出し見事に本鈴に間に合ったのだった。
俺は机に突っ伏してメソメソ嘆いていた。
「ひでえよ、頑張ったのに。」
テストの結果が、ではない。
「はは。よかったじゃないか。後日に改めて時間をとってくれることになったんだろ?」
先生たちが事情を鑑み情状酌量の余地を与えてくれたのは本当にありがたい。
そうではなく
「だったら俺、ひいひい言いながら全力で走ってくる必要なかったじゃないか。」
今朝の努力がそのまんま無駄だったことがやるせない。
俺は腕に顔を埋める。
それは疲れているからでもやるせないからでもない。
(佐川。)
顔を横に向ける。
かつて、いや、1週間前まで確かにそこにあったはずの佐川の席には別の誰かが座っていて、2年3組の教室から机が1つ減っていた。
夢であることを期待するのは罪なのかと俺は現実を呪った。
それはギリギリセーフで教室にたどり着いた俺の耳に唐突に入ってきた。
「小林。」
「はい。」
クラスではちょうど担任が点呼を取っていた。
駆け込んできた俺に気づいた担任はひどく驚いた顔をしていた。
「元気そうだな、葛木。」
その後テストの話を聞かされて轟沈したわけだが
「次はさ…」
担任の発した言葉に希望を抱き顔をあげた。
佐川の姿を探して
「…えき。」
「はーい。」
「白石。」
やっぱりどこにも、それこそ紙である名簿の中にすら存在していなかった。
俺は鉛のように重くなった体に抗う気も起こらず机に突っ伏し、テスト開始前にクラスを後にした。
テストを受けることも何もすることもない状態で佐川のいなくなった教室にいることに耐えられそうもなかったから。
昼休みに教室に戻るとクラスには2種類の人間がいた。
1つは食事も惜しんで教科書やノートに目を通す者。
それは主にクラス順位が中盤のやつらだ。
そしてもう1つは普段と変わらず友人と食事をしている者だ。
こちらは普段から予習復習をしっかりやっているような成績優良者と完全に諦めたお馬鹿である。
芝中は優等生、一馬も意外と優等生であったりする。
以前なら佐川、舘野、悲しいかな俺がお馬鹿組で2人に助けてもらっていたのだが
「…。」
視線の先では舘野がこちらに関わろうともせず食事すら取らずに勉強していた。
それが俺と関わらなくなったことで変わったのか…佐川がいなくなったことで変わってしまったのか。
俺の視線に気づいた一馬がわずかに不快そうに目を細めた。
「舘野に何か用でもあるのか?俺、苦手なんだよな。いつも1人でいて、暗いだろ?」
「…え?」
その言葉は俺の体を凍らせた。
あまりにも俺の知る舘野の印象からはかけ離れている。
佐川ほどではなかったが舘野もどちらかと言えばかしましい娘だったはずだ。
(だけど、そういえば最近の舘野は大人しかったな。)
ファリアが俺の恋人として世界に溶け込んだ直後から舘野たちは静かになった。
一馬によればファリアに対する嫉妬であるらしく、実際佐川はそうだった。
だからそういうものだと決め付けていたがよく考えてみれば舘野もそうだという確証はない。
(舘野とは…佐川の紹介で会ったんだ。)
嫌な予感がべっとりとまとわりついてくるがそれでもさらに記憶をたどる。
黙り込んだ俺に一馬が声をかけてきたがとりあえず無視する。
(あれはまだ入学して一月くらいだったか?)
一馬とつるんでいた俺はその頃、数日前から妙な視線を感じていた。
敵意とは違う粘着質な歪んだ気配に何度も悪寒を覚えたものだ。
そんなある日
「かっつらーぎくーん!」
やたらと元気な声で呼び止められて振り返った先ににこにこした佐川とその背中に隠れるようにした舘野がいた。
「お友達になろうよ。」
佐川の言葉で俺たちは友達になり、視線の犯人は自らの所業をあっけらかんと打ち明けてくれたから後腐れなく打ち解けることができた。
最初は控えめだった舘野も徐々に打ち解けてきて明るくなり、実は男同士のカップリング、所謂BLに多大な興味を持っていることを暴露させたのだった。
(つまり…)
佐川がいなかった世界、そこでは俺と舘野が出会う機会がなかったってことか?
もう一度見た舘野はそれこそ出会った頃のようにもの静かだ。
明るくなる機会のなかった舘野は以前の気弱な性格のままなのだ。
「どうした?」
「顔色が良くないみたいよ。」
一馬と芝中の態度は本当に舘野との接点を持っていないことを如実に表していたから余計に居たたまれなかった。
「~~!」
たちの悪い冗談ならどんなによかっただろう、俺は佐川がいないことを日常とする一馬たちが怖くなって教室から飛び出した。
テスト準備のために人がほとんどいない廊下すら異界のように恐ろしくて
「ファリア、ファリアー。」
俺は今一番会いたい人の名を呼びながら走り続けた。
学校を飛び出して商店街を駆け抜け、幹線道路を横切り、住宅の小道まで通っていく。
しかしどんなに叫んでもどんなに走っても結局ファリアを見つけることはできなかった。
「はあ、はあ。」
見上げた空は橙色に染まり始めていた。
夜がもうすぐ来る。
気がつけば拳は固く握られて小刻みに震えていた。
「…ファリア。」
ファリアがいないことがこんなにも心細いなんて思わなかった。
この世界でただ1人俺と同じ境遇に生きる大切な人。
俺が一馬たちにファリアのことを聞けなかったのは怖かったから。
この世界にファリアがいないという証拠を突きつけられることが何よりも恐ろしかった。
世界は時間の流れに逆らわず色を変えていき、もうすぐ夜になる。
ファリアのいない夜が、ゆっくりと俺に近づいてきていた。