五話
パラディ領で暮らし始めてひと月が経過した。
本を読み、家事をする。
王都での暮らしとさほど変化はない。
しいていうなら、誰かと一緒に食事をとるようになったことくらい。
アリアス様やソーニャとたわいもない話や魔法談義をしながら食事をする。
王都で残飯や生ごみを一人で食べて飢えをしのいでいたころに比べれば天と地ほどの差がある。
天国のような生活だったが、慣れると物足りなくなるのが人の性。
「街にお出かけしてもよろしいでしょうか」
「……ここでの暮らしで何か不都合があったか?」
「い、いえ、そんなことはありません!」
実際のところ、不便なことは何もない。
むしろ、王都で朝から晩まで家事をやらされていたころに比べれば、堂々と本を読めるだけでも天国だ。
「そうではなくてですね、この街を一度見て見たくなったのです。ここに来る途中では、あまりじっくりと見て回る余裕がなかったものですから」
これは本心だった。
あと、王都で暮らしていたころはほとんど屋敷から出してももらえなかったので、家にこもり切るのがトラウマになっている。
そういえば、私を閉じ込めていたのは私を苦しめるためではなかったのかもしれない。
私を王太子殿下にあわせず、逆にリンダと殿下の仲を深めることが目的だったのかも。
どちらにせよ、ずっと部屋に閉じこもるのは、私には耐えられない。
読書好きにしては、かなり珍しいことだとは思うが、そもそも本だってやろうと思えば屋外で読めるはずだ。
「そういうことなら、私が案内しよう」
「え?」
アリアス様が直々に?
ふと気づいた。
私の扱いは、王都から来た婚約者であり、公爵令嬢である。
すなわち、もっとも丁寧に扱わなければならないということだ。
「今日は私が君を楽しませて見せよう」
そういって、アリアス様は私の手を取った。
「で、ではその、よろしくお願いします」
握られた手から滝のように手汗が出てきて、正直恥ずかしかった。
いやではなかったけれども。
◇
アリアス様に連れられて行ったのは、酒場だった。
「あら、温かいんですね」
保温結界の魔道具があるのは知っていたが、一般的な商店でも使われているのか。
「保温結界の魔道具は日常生活に使われるものだからな。なるべくコストを抑えているんだ」
「そうなんですのね」
それは知らなかった。おそらく、結界の防御力を削って断熱性を引き上げているのだろう。
見慣れない酒場に、きょろきょろと視線が動いてしまう。
アリアス様に案内されるがままに、私はカウンター席に座った。
彼がすっと差し出してくれるメニュー表を見て、無難にビールを注文した。
アリアス様も、同じものを頼んだ。
「こういう店は、王都にはないかもなあ」
アリアス様は少し恥ずかしそうに笑う。
もしかすると、彼には田舎者特有のコンプレックスがあるのかもしれない。
「ええと、ごめんなさい、よくわからなくて」
「というと?」
「実は私、王都では家から出たことがほとんどないんです。だから、こういう酒場が王都にあるかどうかはわからなくて……」
「そうだったのか、では君の酒場デビューを祝して、乾杯」
「はい、乾杯」
黄金色の液体が入ったジョッキをカチンと合わせる。
木がぶつかる、乾いた音が響いた。
一応成人しているため、お酒は飲めるのだが、そんなし好品をたしなむことは許可されていなかった。
そもそもまともな食事すら与えられず、ここ数年は使用人に出されるまかない――のあまりしか食べさせてもらえなかった。
だから、だろうか。
苦いだけのはずのビールが、とてもおいしく感じられる。
「この街、いいですね。雰囲気が好きです」
「そうか、気に入ってくれたのなら嬉しいよ。ここを故郷だと思ってくれればいい」
涙が出てくる。
婚約破棄されたこと、王都を追いだされたこと。
いずれも辛いことには変わりないのだが。
正直、ここにきてよかったと私は思えた。