三話
「坊ちゃん、いくらなんでもそれは……ここまで来てくださったのですからまずねぎらいの言葉を」
「僕は頼んでない」
「あ、あの」
「下がれ。俺はお前に何の用もない。荷物をまとめてさっさと実家に帰れ」
「坊ちゃん!」
昔のことである。
母や妹が醜悪な遊びにはまっている時期があった。少しでも床やカーペットなどに埃が落ちているのを見つけると私を呼び出して拾わせる。
そして、一つ拾うとまた別のほこりを指さす。
そうやって、延々と拾わせ続けるのだ。それに這いつくばっている私を踏みつけたり、階段から突き落としたりのおまけつき。
そのせいだろうか、私は埃を見つけると、つい目で追ってしまう。
パラディ辺境伯の袖口についている糸くずが目に留まったのだ。
気が付くと、私は反射的に彼に手を伸ばし。
右手を掴んでいた。
「……」
しまった。
これでは、まるで変質者である。
理由を説明せねばと、口を開く。
「服に糸くずがついてましたので、その」
しどろもどろになりつつ言い訳じみた言葉を口にする私を。
ソーニャさんも、パラディ辺境伯も信じられないものを見る目で見ていた。
終わった。この反応は絶対に怒られる。
そして、追い出されてしまうのだ。実家を追われたように。
そうなったら、どうすればいいのだろう。
恥ずかしながら、私にはもう生きるすべがない。あるのは貴族としての最低限の教養と、家事くらいのものだ。
「……失礼する」
パラディ辺境伯は、こちらの顔もみずに、屋敷から出て行ってしまった。
「ええと、とりあえずお部屋にご案内いたしますね?」
心配そうな顔をしているソーニャさんを見て、ますます不安が募った。
「本当にどうしよう……」
貴族としてのマナーも、知識も、持っていて当然のもの。
妹のリンダはマナーがあまり得意ではなかったが……そういう人間の方が珍しいのだ。
ましてや、私は魔法を全く使えないという貴族として致命的な欠陥を抱えている。
「だとすると」
私にできることは、家事くらいしかない。
ならば、私にできることをやるべきではなかろうか。
例え、もはや手遅れだったとしても。パラディ辺境伯が、私を妻として受け入れてくれなくても。仕方がない、元々期待はしていなかった。自分が誰かに選んでもらえるだなんてそんなたいそうなことは考えてもいない。
「あの、ソーニャさん。私に料理をさせていただけないでしょうか?」
「はい?ボナム様が料理を?」
ソーニャは不思議そうな顔をした。侮蔑の色はなく、ただ疑問なのだと理解する。
まあ普通、貴族の令嬢が自分で料理をすることはない。むしろ料理をすることを恥だと思っている貴族も珍しくない。
だから私が家事をすることがただ純粋に不思議なのだろう。
「あの、ダメでしょうか?」
これがダメなら、もう本当に終わりだ。
何も役割がない。ここにいる資格がない。寒空の下に放り出されて野垂れ死ぬことになるだろう。
「いいですよ。何か手伝ってほしいことがあったら何でも言ってくださいね?」
「はい!」
◇
「これを、君が作ったのか?」
「はい、そうです。あの、お口に合いませんでしたか?」
一応ソーニャにレシピを見せてもらいその通りに作ったつもりだが、全く同じとはいかないだろう。
料理は同じレシピを見ても本人の技術や性格によって多少差異が出るものだ。
気に障ってしまったのだろうか。
「こんなもの食えるか」と作らされた料理を頭にぶちまけられた記憶がよみがえり、膝が振るえる。
余計なことをするべきではなかったのでは。
「あ、あの、ごめんなさ」
「明日以降も、君が作ってくれないか」
「……え?」
「だめか?」
「い、いえ、とんでもございません!毎日三食作らせていただきます!」
「だいたい仕事で家を空けるから昼は必要ない。朝と夜だけ用意してほしい」
「しょ、承知しました」
「ボナム様のこと、坊ちゃまは相当お気に召したようですね」
「そうなんですか?」
表情がまるっきり変わっていなかったので、とても好かれているとは思えないのだが。
余程さっき作った料理がおいしかったのだろうか。
きっとソーニャの作ったレシピがよかったのだろう。もしくは食材か。
貴族の食事を任されているような人が作った食事なんだから、無理もないが。
思えば、このときからだった。
彼が私に何くれなくしてくれるようになったのは。