白いねちょねちょ
黒いもやの人は下り階段の途中で俺たちの事を待っていた。
そして俺が階段を下り始めたのを見ると、黒いもやの人は先へ下りていった。
「普通なら誘われてると考えるべきだが」
ヨウコは「うむ」と頷いた。
「魔素生物、いたずら好きの妖精なんかじゃと、人間を誘い込んで餌にする、なんて話しを聞くのう」
「そもそもなんでザコお兄さんにだけ見えるの?」
「それは剣が本物なのじゃろうな……」
メメとヨウコは俺が手にした剣を見た。
柄の装飾は細かいが、ごく普通の剣に見える。
「あれ? この剣おかしくないか?」
「うむ? なにがじゃ?」
「普通すぎないかこれ」
見れば見るほど、普通に上等な剣だ。
「あの鎧やこの剣って、衛兵の武具じゃないよな?」
「主の言いたいことはわかった。太古の剣にしては綺麗過ぎるということじゃな?」
「そうそう」
大昔の剣だったらもっとボロボロのはずだ。俺の腰の剣と比べても遜色がない綺麗さだ。
「マナが込められてたんでしょ? そういうこともあるでしょ」
「ああそっか。時間の歪みがどうたらだっけ」
人間の常識じゃあ測れないんだな。
黒いもやを追い、階段を下りていく。途中に変化は何もなく、強いて言うなら視界がますます悪くなっていることだ。白いもやのようなマナは、霧のように濃くなってきた。
「濃密じゃな」
「そろそろ危ないね」
うちの戦力ツートップが前を行く。そして密着して進む。後ろから襲われる事はなさそうだが、少し離れるとお互いの視認が怪しくなってきた。
「こんな中でも誘い人は見えるのかの?」
「ああ見える。俺たちの十段先だ」
視界が真っ白になっても、黒いもやの存在は感じられた。
黒いもや自身が俺に教えてるのかもしれない。思念で。
「リチャルドはこんなとこまで一人で下りたのかな」
あいつも何かに誘われたのだろうか。
こんな霧だらけなとこで一日過ごすわけあるまいし、どこかで晴れるのだろうが。
「見て。壁がある」
ついに、目の前が真っ白になった。それは確かに壁だった。白い壁だ。
「あまりの濃さにねっちょりしておるぞ」
ヨウコはそれを掌で触ると、べっとりと糸を引いた。ヨウコは手を鼻に近づきくんくんと嗅いだ。嗅ぐな。
「えー。この先に進んだらべとべとになりそー」
うむ。俺はメメの全身が白くてべとべとになったところを想像した。
長い艷やかな銀髪に滴り落ちる白く濃厚なマナ。顔にも当然、糸を引いて、その陶器のような白い肌にほんのり桃色に染まった頬を、艶めかしく垂れゆく。そして顎から首から鎖骨から身体へ。太ももにも流れ行くだろう。
「ここで止まっていてもしょうがない。行こう!」
「ちょっとー!?」
俺は剣を柄にしまい、メメの手を取って白いねちょねちょの壁に突っ込んだ。
俺の身体は溶けた。
最初に思い浮かべたのは、先程見た黒いぷにぷにだった。俺の身体はああなったと感じた。
それが事実かどうかわからない。
俺は、転移した時のような気持ち悪さと吐き気を感じた。
「げほっごほっ……おえぇぇぇええ」
まるで口の中に何かが入り込んだようだった。そしてそれを吐き出そうとして吐き気がした。実際は何も出なかった。
そして俺は地面に立っていられない。
状況判断をし、周囲警戒をしようとしても、視界がぐるんぐるんと回り、足は酔っ払いのようで、俺は頭から倒れた。
ああだめだ。ディエナの姉御に足を掴まれぐるぐる回されたみたいだ。
俺自身がマナ酔いと気づいていない。そんな重度のマナ酔いだった。いくら「俺はまだ酔ってねえっすよー」と言った所で顔が真っ赤な酔っぱらいと同じ。やっと自分の状況が判断できて、やばい状態だと理解できた。
「エェエーラウエウェアェ」
メメに助けを乞ようとするも、口が回らない。
そしてこんな俺の状態なのに、メメの助けが来ない。
それがどういうことかというと、いま俺はここに一人ということだ。
俺は震える手で腰のかばんに手を伸ばし、留め具を外す。はずれない。いらつく。こわすか。いや。
ガチャガチャと乱暴に振り、無駄と冷静になり、再び震える手でかばんを開ける。開いた。
俺は手探りでエルフの秘薬を探し、それを手にし、蓋を外し、口に咥えた。
なぜかとんでもなく酸っぱく感じたそれを、吸い込むように飲み干していく。残りは少ない。
はぁ。はぁ。
俺は大の字になった。楽になった。気分は一新した。
空は青く澄んでいて、爽やかな風が頬を撫でる。花の香りが心地よく、緑の絨毯に包まれている。
なんで?
なんでだろう。
だけど後で考えよう。
いかに今まで俺がメメに甘えていたかがわかった。
くそう。そうだよな。一人だと、自分で解決しなきゃあならん。当たり前だ。
ああ、やっぱリチャルドのようにはなれないなと改めて思うと笑えてきた。
はは。
ははははは。
傍から見たら気が狂ったと思われそうだが、今は一人だ気にはしない。
自分の惨めさに笑うとか、そういうんじゃないんだ。俺はリチャルドという男を尊敬している。わかるだろ。
そうわかっている。
改めて俺は冒険者じゃないんだなと。
俺はもう帰りたい。
どうでもいいんだ。
なんで穴の中が外で花畑が広がってるんだとか。
王の剣だの思念だの。マナだのなんだの。黄金の天使だの古代エルシアだの。
俺はどうだってよかったんだ。
俺が追いかけていたのは。
ふと、俺の額に手が乗せられた。
誰だ。メメか?
メメではない。
「……(こく)」
「……?」
誰だっけ。
覚えはある。俺は彼女を誰だか知っている。
名前を言ってくれれば思い出せるのに。
「……(さわさわ)」
黙って彼女は俺の頭を撫でている。
ううむ。耳が長いからエルフか。エルフと言えばしかめっ面……。それも誰だっけ。
「……(?)」
エルフは首を傾げた。
なんだっけかな、このロリエルフ。
そういえば子供のエルフなんて初めて見たな。初めてだっけ。
いや、ぴょいぴょい跳ねるのいたな。友達で。いや友達じゃなくて。
「……(!)」
「ごふっ」
突然ロリエルフは俺の口の中にクッキーを突っ込んできた。何すんだ!
だけどこのクッキーうまい。うむ。よく食べた気がする。お菓子好きの小さいのいたなぁ。そうかあのクッキーに似てる。
「半分食べていいぞリルゥ」
「……(こく)」
するりと名前を口にして、ああ、なんで俺思い出せなかったんだろうと思い出した。
そうだよ。ロリエルフのリルゥだよ。ちっちゃいの。お菓子好きの悪魔の友達の。シエラの。
洪水のように記憶が溢れる。
「あー。マナ酔いに記憶障害とかあるのかなぁ」
「……(?)」
「いやなんでもない。ひとりごと。みんなはどうした?」
「……(ふるふる)」
「そうか。逸れたか」
よいしょと俺は身体を起こした。
リルゥだと思っていたものは、黒いもやだった。