門
目が覚めて気が付いた。ここは一体どこだろう?
体を起こし、周りを見るが何もない。何もないなんてこと、あるのだろうか。自分の常識を疑わざるを得ないくらいに何もなかった。視界にはだだっ広い白い天井と床の部屋がどこまでも続いているようだ。どこまでも。
いや違う、よく見ると遠く、あれは何時の方向だろう、それさえもこの空間では分からない。アリの行列のようなものが見える。ずいぶんと遠くにも見えるが目標物もないし、背景はただただ白い壁紙で遠近感がつかめない。
腰を上げゆっくりと一歩を踏み出した。背中に羽がついているのかと思うほど体が軽い。自分の足元を見下ろして初めて自分が裸足だということに気が付いた。靴は一体どこに置いてきたのだろう。あれ、昨晩僕は何をしていた?
行列の近くまで寄ってみると、並んでいるのはアリではなく、無数の人だということが分かった。誰もがどこか暗い面持ちだ。列はずいぶんと長く、終着点はここからは見えない。
「あのう」
僕は並んでいる人に声をかけた。特定の人にではない。誰かが答えてくれるだろうと思った。すると一番近くにいた老人がこちらを向いたのでここはどこか聞こうとしたら
「あんたもか?」
と老人が先にしゃべり始めた。
「え?」
「あんたは、どちらや?」
「ちょっとお尋ねしますが」
「どっちでも、とにかく並ばにゃいけんよ」
「どっちでも?」
「ここでは、並ばにゃ仕方ないんじゃ」
「はあ」
会話になってない。老人は僅かに会釈をしてまた前を向いてしまったので、話しかけるのはもうやめた。どうやら僕は「並ばなければ仕方ない」ようだ。
一体どこまで続いているのだろう。何の列かは分からないままだったが、周りには何もないのだ。並ぶしか今は選択肢がない。
並んでいる人々の向きでどちらが前でどちらが後ろか把握し、最後尾に向かって歩き出した。列の後ろに向かいながら、並んでいる人々をそれとなく観察した。男性も女性もいるし、年齢もバラバラ。小さい子どもはあまりいないけれど、時々赤ん坊を抱っこした女性も見かけた。女性の後ろに並ぶ人はずいぶん身長が大きいなあと思って見上げると外国人のようだった。どこの国かは分からないけれど、僕とは目の色が違う。よく考えたら先ほどの老人も肌が浅黒く、顔の彫りも異様に深かった。生まれた国に関係なく、僕らはここに集められたのかもしれない。
ようやく最後尾に辿りつき、他の無数の人々と一緒に、少し進んでは止まり、少し進んでは止まりを繰り返した。どのくらい前に進んだのだろう。どこからやってきたのか、僕の後ろにもまた、迷いながら並ぶ人がいた。
先ほど老人と話が出来たので、僕たちはしゃべってはいけない訳ではなさそうだ。だけど不思議と誰もしゃべってはいない。
おや。ふと、行列の他に視界に入るものがあった。なんだろう。目を凝らすと古めかしいデザインをした看板だ。ペンキを塗ったばかりのような眩しい白に大きな黒い字で
『あなたはどちらですか?』とかいてある。
次の看板には
『分からない場合は、門までによくお考えください』とあり、また次の看板には
『思い出せない場合は係の者にお尋ねください』とかいてあった。
まるで意味が分からない。門?門てなんだ?係?係の者なんて、どこにいるんだよ、と声には出さず頭の中で問いかけたその時、「お困りですか?」耳元にささやかれた。
「うわっ」
驚いて振り向くと係の者と思しき女性がにこやかにほほ笑んで立っている。小首をかしげるしぐさは可愛らしく、砂漠の中に湧き出るオアシスのようなみずみずしさを感じた。束ねた髪の毛の長さ、上向きのまつげ、赤く塗られた口紅から女性と判断した。女性はもう一度僕に向かって「何かお困りですか?」と優しく尋ねた。
「あの、僕、どちらか分からないんです」
「そうですか」
ピピピピピ…その時、どこからか甲高い金属音が鳴り響き、僕と女性の会話を遮った。「この音はなんでしょうか?」
僕は音がする方に首を伸ばした。音は列のずっと先の方から聞こえてくるようだが、本当のところはよく分からない。方向も遠近感も狂った場所だ。女性はまるでめずらしいことではないというように
「虚偽の申請があったようです」
と言った。虚偽の申請?
「はい。門をくぐったあと、こちらに並んでいるけれど本当はこちらに並ぶべきだった場合、あとは逆の場合にも、音が鳴ります」
女性は手をまず右に、次に左に向けながら説明した。
「門をくぐって、道は右と左に分かれます。その時どちらに行くかは自己申告なんですよ。そのあとで審査が入るので、時々こういったことが起きます」
「初めから審査すればいいのに」
「いい質問ですね」
「いや、質問ではないです」
「そうですか。自己申告にするのは理由があるんです」
女性は含みを持った言い方をする。僕を試しているのだろうか。
「理由?」
「はい。そこで真実を述べるかどうかが、後の進路に関係するんです」
「後の進路?」
「はい。誰だって、良い方向に進みたいですよね。だけど、良い方に進めるかどうかは自分で決めるんじゃなく、ここに来た時点で決まってます」
「じゃあ、僕も決まってるんですか?」
「はい」
「どっちですか?」
「あなたは」
女性はまたほほ笑み、小首をかしげながら言った。
「まずは、ご自分で思い出してみてください」
女性が他の人のところへ行ってしまったあと、僕は取り残された気持ちになった。ご自分で考えろと言われても周りは白い壁と天井、無数のうつむく人々だけ。どうにもヒントが少なすぎるとすぐに行き詰ってしまった。同じく列に並ぶ人だけで何もないじゃないか、と文句を言いそうになり、気が付いた。そう、人々しか頼りになるものがない。僕は前の人に話しかけてみることにした。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
振り向いた男性は目だけで、いいよ、と応えてくれた。明らかに僕とは国籍が違うその男性と通じ合えるのが不思議だと気付いたのは後からだった。ここでは生まれた場所は関係ないらしい。
「あなたは、なぜここへ?」
「僕は兵士なんだ。戦地へ出て、軍の命令に従ってたくさん銃を撃ったよ。だからここへ来ることになった」
「殺されたの?」
「逆だ。僕は人を殺した。だからここへ来たんだ」
自らを人殺しというには違和感がありすぎる、優しい表情をしている。
元兵士の青年と少し話をしたあと、後ろにいる少女とも話をした。君はなぜここへ来たか分かる?と尋ねると十歳くらいだろうか、少女はママに殴られたの、と涙を浮かべながら言った。
少女はママに殴られた時のことをよく覚えているようで、最後は階段から落ちたこと、その時にいつも持っていた人形を手離してしまい、今持っていないからさみしいのだということ、人形はクマでママが買ってくれたのだということを教えてくれた。
「君は昔のことをよく覚えているんだね」
「あなたは」
「なんだい」
「覚えてないの?どっちか」
老人は言った。あんたはどっちだ?と。
係の女性は言った。道は右か左に分かれるのだと。
青年は言った。人を殺したのだと。
少女は言った。ママに殺されたのだと。
また新しい看板が見えた。
「門はもうすぐです。
殺した方は右へ。
殺された方は左へお進みください」
門は大きかった。もっと、空港にあるゲートのような無機質なものを想像していたけれど、木彫りのような温かみを感じさせる枠組みには翼のようにも、波のようにも見えるうねる模様が施されており、光る錫の色と赤い銅の色に交互に色を変えていた。
先程の女性とは違う係が生前人を殺してしまった方は右の道、殺されてしまった方は左の道へお進みくださいと、看板と同じ説明を繰り返している。
門をくぐるまで、あと五人。あと四人。この時点でどちらに進むのが正しいのか、僕はまだ分からなかった。
門は目の前だ。戦地で銃を撃ってきたと言った青年がゆっくりと門をくぐり、右の道へと踏み出した。と思ったら、次の瞬間にはその姿が見えなくなってしまった。門の向こうは別の部屋につながっているのだろうか。
「次の方、どうぞ」
先に話した係の女性が言っていた。進むべき道を間違えた場合、音が鳴って教えてくれる。ここでは間違えても問題なさそうだ。良い方向に進みたいに決まっている。
僕はふうっと息を吐き、大股で門を超えた。超える瞬間、門を下から見てみると十センチほどの幅いっぱいに大きな無数の目が僕を見ていた。ぎょろぎょろと獣のような目と視線が合ってしまい、思わず息をとめた。そしてそのまま僕は左へ踏み出してしまった。
本当は右へ進むべきだったのに。
「あ」
落ちる寸前、少女の声が聞こえた。
「真実を述べるかどうかが、後の進路に関係するんです」女性の声が頭をよぎった。だけど気付いた時にはもう、遅い。ピピピピピピ…虚偽の申請があった時に鳴る音が、遠く上の方から聞こえてきた。
気が付くと僕はまた長い行列の最後尾にいた。