05 囮捜査
濃霧の中。視界が非常に悪く、慣れているはずの街が、まるで別の街のように感じる。
ヘイヤは無意識のうちにチェッシャーと手を繋いでいた。手を離したらはぐれてしまうような気がしたからだ。
二人は特に行くあてもなく歩き続けた。なにしろ殺人鬼が現れるのは濃霧の中という事しか分かっていない。
さっき読んだ捜査資料には目撃した地点が記されていたが、全く偏りがなく、どこに現れてもおかしくないという結論が出されていた。
だから、適当に歩くしか方法は無かった。
「……静かだね」
「こういうのを『嵐の前の静けさ』とでも言うのかねぇ」
二人は短く会話をした。
「殺人鬼は複数いるみたいだけど、チェッシャーは何人までならいける?僕は――」
「そんな事考えちゃダメだよ、ヘイヤ君。君はいつもの通りの変質者でいればいい。そうすれば、君はどんな攻撃からでも生き延びる事ができるのだから」
ヘイヤが訊ねるようとすると、チェッシャーは注意した。
「そ、そっか……そうだよね」
ヘイヤは自分が言った事を反省した。
ヘイヤが変質者となったのには、ちゃんとした理由がある。
それは狂気を纏うためだ。狂気を纏う事で秩序に対して反逆し、その結果、あらゆる法則から解放されるのだ。
『解放される』というのは、例えどんな致命傷を負ったとしても、それをギャグとして済ましてしまう、という意味も持つ。
『強くなりたいなら狂気を纏え』。そう言いだしたのはチェッシャーだ。そしてそのためにヘイヤは変質者となる事を決めた。
だから、危険を伴う仕事をしている間は、素に戻る事はやってはいけない事だ。常にふざけていないと殺されてしまう可能性があるからだ。
「ゴホン、じゃあ気を取り直して……うへへ、人を殺すようないけない子はどこかなぁ?僕が見つけてあんな事はこんな事をしちゃうよぉ」
「ヘイヤ君。それはわざとらし過ぎる。もっと自然にだよ」
「うっ……ゴメン……」
ヘイヤは注意されて、少しだけ落ち込んだ。
と、その時であった。何かが飛んできて、ヘイヤの脇腹をかすめていった。その『何か』は彼の背後にある壁を穿つ。
ヘイヤは驚いた。脇腹の体毛は直線状に削れ、肌が見えていた。あと少しズレていたら致命的だったかもしれない。
「ダメだねぇ、ヘイヤ君。このくらいで慌てるようじゃね。もっと変質者らしく振る舞いなよ。敵はもう来たんだよ」
彼はヘイヤの手を離すと、持っていた巨大ペロペロキャンディーを構えた。
すると霧の中から、二人組の男が姿を現した。
一人は古臭いデザインの鎧を身に着けた犬、もう一人は現代的な兵士の恰好をした猫であった。二人共男性で、腰にベルトのような装置を身に着けている。確かに、報告書通りに変わった恰好をしている。
「こっちも二人で、あっちも二人。なら、ダブルで一対一と行こうか。僕ちんは同族を相手にするけど」
チェッシャーはそう言うと、兵士の恰好をした猫へと向かって行った。
「じゃあ、僕の相手はあの人か……大丈夫かな……」
ヘイヤがそう呟くや否や、鎧を着た犬は剣を振りかざして襲いかかってきた。なにやら玩具みたいなデザインの剣ではあるが、当たるのはマズいと思って避けた。すると背後にあった消火栓がスパンと斬れた。そこから大量の水が飛び出す。どうやら、見た目以上に良く斬れる剣のようだ。
犬の男はすぐに顔をこちらの方を向き、体も向けた。彼は表情を変えない。まるで精巧に作られた人形が動いているようである。
男は剣先をヘイヤの方へ向けた。すると、火炎が放たれた。ヘイヤはとっさにV字開脚をして攻撃を無効化した。
そのままの姿勢でヘイヤは考えた。これは魔法だろうか、いや何かが違う、と。どこが違うのかまでは分からないが、一般的な魔法とは違う何かである事はなんとなく分かった。
「何っ?攻撃が効かないだと?」
ヘイヤが考えている一方で、犬の男は今の攻撃が効かなかった事に驚いているらしかった。当然かもしれない。向こうからしてみればいきなりV字開脚をしてみせただけなのだから。
「今だ!バンディ!」
動揺している今がチャンスと、ヘイヤはそのままの体勢で拘束の魔法を唱えた。彼の両手からロープのような物が出てきて、犬の男に襲いかかる。しかし、彼は持っていた剣でロープのような物を切ってしまう。どうやら、捕獲するためには、それなりに痛めつける必要があるらしい。
「これならどうだ!」
犬の男が剣を構えると、剣は炎上し始めた。そしてその剣を石畳に突き刺す。すると、火柱が現れて、蛇行しながらヘイヤに襲いかかった。
「サイド・チェスト!」
ヘイヤは再び攻撃を無効化するために、今度はボディビルみたいなポーズを取ってやり過ごした。
「くそっ!どうなってやがる?攻撃が全然効いてねぇぞ!」
男は攻撃が効いていない事に混乱し始めたようだ。
「ディザム」
ヘイヤはその隙を逃さない。右手を男の方に向けて、武装解除の魔法を使って男の剣を弾き飛ばした。
「あっ!」
武器を弾き飛ばされ、男はまた隙を見せた。ヘイヤはここでトドメと、男に向かって跳び蹴りを放った。蹴りは男のベルトのような装置を直撃し、彼は大きく吹っ飛んだ。そして石畳に叩きつけられた
すると男の姿が変わった。さっきまで鎧を着ていたのに、今はジーンズにTシャツというラフな服装になっていた。これはいったいどういう事だろう。ヘイヤは考えた。
「くそっ!」
考えている間に男は逃走した。ヘイヤはすぐに拘束の魔法を唱えたが、彼はあっという間に射程距離の外に出てしまった。そして霧に紛れて姿を消した。
「ゴメン!逃げられた!」
ヘイヤはチェッシャーの方を向いた。彼は猫の男と戦っている最中だったが、彼の頭は半分ほど吹き飛んでいた。しかし、それでも彼は生きていた。おそらく、これも狂気の力の一つなのだろう。
「そうかい。それは残念だ。じゃあ僕ちんが頑張って捕らえるしかないみたいだねぇ」
チェッシャーは自身の現状を全く気にする事なく答えた。死なないのが不思議で仕方がないのか、猫の男は攻撃の手を緩めているようであった。
「チェッシャー!腰のベルトを狙うんだ!そうすると弱体化するみたい!」
ヘイヤは大きな声で彼に弱点を教えた。
「なるほど。ありがとう」
彼は礼を言うと、巨大なペロペロキャンディーを振り回して、ベルトを狙った。
猫の男は両手で防ごうとしたが、キャンディーの勢いで弾き飛ばされ、ガードががら空きになったところでベルトを攻撃された。
バチバチと火花を出すベルト。するとさっきの犬の男のように、普段着っぽい姿に変わった。
「くそっ!覚えてろ!」
猫の男も逃走した。すぐに霧の中に隠れて姿をくらます。
「あらら、ゴメンよヘイヤ君。僕ちんも逃がしちゃった」
「いいよ、気にしないで。というか、むしろ今の君の姿の方が気になるんだけど……」
「ああ、それについてなんだけどね。体験して分かったよ。最初は痛いだけでダメージはなかったんだ。でも、ある程度喰らったら、頭がパーンってなっちゃってね」
「それってつまり……」
「そう。どうやら彼らの攻撃を受け続けると、体が破裂してしまうらしい。これが、被害者がバラバラになった理由だろうね。ちなみに僕ちんの場合、頭に貰い過ぎたからこんなふうになっちゃったみたいね」
「それで、大丈夫なの?チェッシャー?」
ヘイヤは彼の様子を見て心配に思った。
「心配はいらないさ。そのうち元に戻るから。ま、その辺に転がった肉片を拾い集めれば、もっと早く回復するだろうけれど……」
彼は平然とした様子で答えた。
「ところでヘイヤ君。お互い殺人鬼を逃してしまったわけだけど、これからどうする?」
「そうだなぁ……とりあえず、コレらを知っていそうな人に見せようと思うんだ」
ヘイヤはそう言って、殺人鬼が残していった物を二つ拾い上げた。彼らが逃げる時に落としていった物だ。
「それは……ベルトかい?さっき君が弱点だって言ってくれたヤツ」
「うん。殺人鬼達は、このベルトの力で姿を変えていたみたいなんだ」
「ほう。ちゃんと観察しているとは偉いじゃないか」
チェッシャーはヘイヤの頭を撫でながら褒めた。
「ありがとう。そういうわけで、このベルトについて調べてみるよ」
「現時点では何か分かるかい?」
「えっと……」
ヘイヤはいろんな角度からベルトを観察してみた。バックル部分が何かの装置になっていて、先ほどの攻撃のためか損傷が酷い。
少しいじってみた。すると、バックル部分からUSBメモリーのような物を取り外す事ができた。どうやらベルト本体にメモリーをセットする事で初めて意味を成すようだ。ちなみに、ベルトと違ってこっちの方は無傷だ。
「――とまあ、これくらいかな?」
「待ちたまえ、ヘイヤ君。これを見逃しちゃダメじゃないか」
「え?」
チェッシャーが指差した所をヘイヤはよく見てみた。バックルの裏側には、何かが刻印されている。よく見ると、それはロゴか何かに見えた。
ヘイヤは股布から虫眼鏡を取り出すと、それを読んでみた。損傷のせいで見づらいが、なんとかこう記されているのが分かった。
『GNM社製品』
ヘイヤにとっては初めて知る社名であった。チェッシャーは知っているのだろうか。そう思い、さっそく訊ねてみた。
「ねぇ、チェッシャー。『GNM社』って聞いた事ある?」
「いや、無いね。でも彼らなら知っているんじゃない?」
「彼ら……あ、そうか」
「ちょうど運動してお腹が空いてきたんだ。サンドウィッチ二つじゃ足りなかったみたいだねぇ。ついでに食べていこうじゃないか」
「そうだね……でも、そのままはマズいんじゃない?」
ヘイヤはチェッシャーの顔が未だに吹き飛んだままであるのを指摘した。ヘイヤ自身は平気だが、何も知らない人が見たら大騒ぎになるだろう。
「ああ、それもそうか。じゃあ、急いで直すよ」
彼はそう言うとどこからともなく棒付きのアメを取り出して噛み砕いた。すると断面がもこもこと盛り上がり、あっという間に完全な状態へと戻ってしまった。
「これで大丈夫だよん。じゃあ、さっそく行こうか。『ナマス亭』へ」
「うん、行こう」
二人は歩き出した。
その頃になると、霧が晴れてきた。街が見慣れた姿へと戻っていく。
二人はナマス亭へ真っ直ぐに向かっていった。食事のため、そして情報収集のために。
ありがとうございます。
今後は毎日19時に次の話を投稿する予定でございます。