14 妹の思い
いつの間にか、事務所の中は真っ暗になった。いや、正確には窓から差し込む月の光で薄ぼんやりと照らされていた。
自分では少しの間だけだと思っていたが、結構長い間写真を見つめていたらしい。
突然ヘイヤの腹が鳴った。それと同時に空腹を感じる。壁にかかった時計を見てみれば8時前。夕食の時間はとっくに過ぎていた。よく考えてみれば朝食の後、何も食べていない。だから空腹を感じるのは当然だろう。
どこかへ食べに行こうか。ヘイヤは所持金を確認するために、トレンチコートの前を開けてスリングショット一丁の姿になると、股布から財布を取り出した。
財布を開ける。少ない。何も買えないほどではないが、そうなる一歩手前の少なさだ。
そう言えば、ヘイヤは大事な事を思い出した。外食をする際、いつもチェッシャーが払ってくれていた。彼は医者であるため、懐は常に温かいのだ。それに対して自分は貧乏だ。彼の代わりに払った事なんて、もしかすると一度もないのかもしれない。
どうしようか。ヘイヤは考えた。すると、ふと、アリスの家に戻ろうか、と思った。チェッシャーが言っていた事に納得したわけではない。しかし、アリスなら自分の分の料理を確保しておいてくれそうな気がしたのであった。要するにタダで夕食を取るためである。
ヘイヤは財布を股布にしまってトレンチコートの前を閉じた。そして写真立てを元の位置に置くと、事務所を後にした。
この街が『霧の都』と呼ばれているわりには、この時の天気は晴れていた。少なくともヘイヤがアリスの家に到着するまでの間は霧が全くと言ってもいいくらい無かった。まるで街が行きなさいと言っているようにも思えた。
ヘイヤが彼女の家に着いた時、灯りは玄関以外は消えていた。戻ってくるのが遅かったのか、それともアリスの家での消灯時間が早いのかは分からない。あいにく腕時計を持っていないため、どちらとも確認する事はできない。ただ、事務所を出た時の時刻を考えて、8時を過ぎている事だけは間違いない。
ヘイヤはふと、玄関近くにあるデッキチェアを見た。普段なら、アリスが酒を飲みながら昼寝をしている場所である。しかし、今は別の者が横たわっていた。
「あら、おかえり。探偵さん」
座っていたのはローザだった。サイズの関係で少し座り心地は悪そうだったが、それでもリラックスした様子で話しかけてきた。
「……何をしているんだい?」
「星を眺めていたの」
ヘイヤの問いに彼女は答えた。
「星?」
「ええ。私って普段、星とか見ないから、ちょっとビックリしているの。星ってこんなに綺麗だったなんてね」
「星……か」
ヘイヤも空を眺めてみた。満天の星空だ。ここが郊外で灯りが少ないからこそ、これほどの物が見えるのだろう。
「そう言えば、僕も星を見る事なんてあまりなかったな。確かに圧倒されちゃうよね」
「ええ。こんなに興奮したのって、初めてビデオゲームで遊んだ時以来かな?」
「ビデオゲーム?」
意外な言葉にヘイヤは聞き返した。
「ええ、そうよ。私の家は兄妹が4人いるから、対戦型のゲームでしょっちゅう遊んでいたの。面白かったわ。始めは全然勝てなかったけど、だんだんに兄さん達に勝つようになって来たときは、物凄く気持ちが良かったのを今でも憶えてる」
「へぇ」
ヘイヤは彼女の過去に興味を持った。もっと聞きたいという思いから、空きっ腹を忘れて彼女に近づく。
「兄さん達は大きくなると、『今度は自分達がゲームを作って見せるんだ!』って言い出して、会社を作っちゃったの。それがGNM社よ。ギル、ニック、マイルズ。三人の名前の頭文字から取った社名なの」
「そうだったんだ。でもその名前は……」
「ええ……まあ、小さな会社だから、なかなか有名にはなれなかったわ。それで私は思ったの。兄さん達が作ったゲームを私が華麗にプレイして見せるの。プロモーションとしてね。」
「それで……どうなったの?」
「大当たりよ。私のプレイを見て、売り上げは伸びたわ。私の事をみんなは『名人』って呼んで、尊敬されたわ。私を題材にしたゲームだって発売されたのよ?知ってる?」
「いや……たぶん、その頃には僕、ビデオゲームは卒業しちゃったから……でも、凄いよね。それだけ人気があったら企業としては大成功でしょ?」
「ええ、もちろん。これでGNM社は有名になれる、そう思ってた。でも違かったの……いいところだったのに……」
ローザは両肩を抱いた。
「もしかして……」
「ええ、そんな時に患ってしまったの。呪病をね。始めは体のごく一部だけが透明になったわ。それは服で隠せる程度の物だった。でも、そのうち全身に広がり始めたの。そして今では……完全に透明になってしまったわ……」
彼女はとても悲しそうな顔をして言った。
「で、でも!君の兄さん達は!」
「ええ、そうね。ゲームの力で私はまた姿が見えるようになった。本当の容姿とはちょっと違うけどね……」
彼女は悪戯っぽく舌を少し出した。
「ねぇ、探偵さん。一つお願いをしてもいいかしら?」
「えっと……できる事だったら何でも……」
「兄さんを、ギルを改心させて欲しいの!……できるかしら?」
ローザの訴えるような目線にヘイヤはつい、頷いてしまった。
「本当?ありがとう!」
デッキチェアから下りた彼女は感謝の喜びを伝えるかのように、ヘイヤに抱きついた。
アリスと比べて小ぶりだが、柔らかくて気持ちのよい双丘が当たる。
「私ね、兄さんを信じているの!兄さんはゲーム作りで頭がおかしくなっちゃったに決まっているわ!だから一旦、ゲームから離れさせるの!そうすれば、元に戻るはずよ!」
抱きつくのを止めた彼女はそう訴える。
「えっと……じゃあ、君の依頼は、君の兄さん、ギルの生け捕りって事でいいかな?」
「生け捕り……そうね。言葉は悪いかもしれないけど、そうして欲しいの。」
「うーん……だとすると、急いだ方がいいかもしれないなぁ。チェッシャーはすでに通報したって言うし、すでに警察に捕まっている可能性もあるわけだし……」
「そんな……ダメよ!そしたら兄さんはもう二度と元には戻れないじゃない!」
ローザは慌てた様子で言った。
その言葉を聞いて、ヘイヤは彼女が混乱しているのを感じた。もしも本当に頭がおかしいなら、更生施設等に入居する事になるだろう。そうじゃないとしたら、司法による裁きが待っている。
自分らが何もしなくても、彼には更生の機会が与えられる。しかし、彼女はそれが許せないのだ。信じていた人が逮捕されるだなんて心が耐えられないのだろう。
ヘイヤは悩んだ。つい彼女の依頼を引き受けてしまった。その内容というのは不可能に近い物。いったいどうやって諦めさせようか。
そう考えている時の事だった。突然、スマートフォンに着信が来た。
ヘイヤはトレンチコートの前を開けた。スリングショット一丁の姿がローザの目に入る。
「きゃぁ!何よその恰好!」
彼女は両手で目を覆うが、ヘイヤは気にしない。いつものように、股布からスマートフォンを取り出し、電話に出るだけだ。
「はい、もしもし?」
「よう、ハーブボイルド。俺だ」
電話の相手はハドソン警部であった。
「警部?どうしましたか?こんな時間に?」
「悪いがちょっと手伝ってくれないか?」
「手伝う?それはどういう……」
ヘイヤは言いかけて、止めた。電話の向こうの方で拳銃か何かの発砲音が聞こえる。どうやら何かと戦っている最中らしい。
「今ダンク・ロットと戦っている。奴は一人だが、こっちは死んだ奴も重症な奴も多くいる!自体は深刻だ!頼む!助けてくれ!」
「分かりました!今行きます!」
こちらから切る前に向こうの方から電話が切れた。事は一刻を争う事態のようだ。
ヘイヤはスマートフォンを股布にしまうと、ローザに訊ねた。
「ねぇ!チェッシャーはどこで寝ているの?」
「え?彼?確か、リビングのソファーで寝ているはずだけど……」
スリングショット一丁の姿を見てしまったせいか、彼女の様子はギクシャクしていた。しかし、ヘイヤは気にしない。
緊急事態の連絡を受けて、彼は急いでチェッシャーが寝ているというリビングへと向かったのであった。
彼女の話通り、チェッシャーはソファーの上で寝ていた。ヘイヤは彼を揺すって起こそうとする。
「チェッシャー!起きて!緊急事態だ!」
「う~ん、あと五分だけ……」
しかし彼は起きる気配が無い。そこでヘイヤは奥の手を使う事にした。
トレンチコートを脱いで、スリングショット一丁の姿となる。そして股間のモッコリを彼の顔に押し付けた。
「チェッシャー!起きてくれ!」
「うん、分かった!今起きるよ、ヘイヤ君」
チェッシャーはムクリと起き上がった。
「ヘイヤ君!酷いじゃないか!僕ちんの顔にプルーンを押し付けるだなんて……」
一旦は快く起きたが、自分がされた事に気づくと、彼は迷惑そうな顔をした。
「そんな事より!緊急事態なんだ!」
「ああ、聞いてるよ。で、何だって?」
「さっきハドソン警部から電話があったんだ。ダンク・ロットが警察と戦っていて警察側が劣勢なんだ」
「なるほど。それで僕ちん達の出番ってわけだね?」
「うん。だから今すぐ行くよ!」
「いいとも!僕ちんはね」
「え?」
何か引っかかる言い方をしてきたので、ヘイヤは聞き返した。
「ヘイヤ君。たぶん君の事だから、何も食べてはいないだろう?台所に君用の料理が置いてある。まずはそれを食べて腹ごしらえをするんだ」
「チェッシャー!そんな場合じゃ――」
「『腹が減っては戦は出来ぬ』ってヤツだよ。まずは腹を満たすんだ。後の事はそれから考えればいい」
「チェッシャー……」
「僕ちんが先に行って戦っているよ。君はお腹を満たしてからおいで。急いで食べる必要は無いよ。ゆっくりでいい。」
「……分かった。ありがとう」
ヘイヤは先に出発したチェッシャーの背に向かって礼を言った。
台所へとヘイヤは向かった。すると、色々なサンドウィッチがテーブルの上に載っていた。まるでこうなる事を予想していたかのようであった。
ヘイヤはサンドウィッチを手当たり次第に食べ始めた。急にお腹が空いてくる。食べても食べても、食べたいという欲求は止まらない。そうとう空腹であったらしい。
あっという間にサンドウィッチは無くなった。お腹が急に重くなる。トレンチコートを脱いで、変質者の恰好になる。準備は整った。
ヘイヤは家の外へ出ると、ローザが立っていた。
「一緒に行きましょう。私が案内してあげる」
「いや、ローザ。これは危険な事だ。場所だけ教えて欲しい」
「嫌よ!兄さんの暴走を止められるのは私だけよ!」
「ローザ……」
「お願い!」
彼女は詰め寄った。
「……分かった。でも君を守れる保証は無い。それだけは覚えて欲しい」
「ええ、私なら大丈夫」
彼女は頷いた。
「じゃあ、案内して欲しい」
「いいわ、こっちよ!」
ヘイヤはローザに連れられて、ダンク・ロットがいるという現場へと移動を開始した。
ありがとうございます。
次の話は明日19時ぐらいです。