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自宅のドアの中で『最愛の人』と海を楽しもうとしたときに起こった話。

作者: 枯れ井戸

初めて短編を書いてみました。見納めください。

「うーーむ……」


 扇風機の音が静かに響く狭い小部屋の一室で、眼鏡をかけた青年はうなる。

 彼の向かい側には一機のディスプレイ。その画面には次のような内容が表示されていた。


『tubaki

パスワードが正しくありません。入力し直してください。

<OK>』


 パソコンのログイン画面だ。この画面から察するに、まだ起動して間もない。だが実際は彼が部屋に入ってパソコンを起動し、この画面を見て頭を悩ませること十五分ほど経過していた。


椿樹つばきー、お茶持ってきた……ってどうしたのー?」


 そこへ二つのマグカップを乗せたお盆を持つ、一人の女性が片手でドアを開け部屋に入ってきた。白のキャミソールとデニムのショートパンツに、髪はポニーテールにまとめたラフな装いの美人な女性だ。体から湯気が出ていて、おそらく風呂から上がったばかりなのだろう。

 女性は彼の後方にある椅子を引っ張ってきて隣に座る。


「はい、お茶だよ、薄めの」

「……おー、優香ゆうかサーンクス……」

「あれ、今日はいつも使ってるパソコンじゃないんだね」

「あれ一応仕事用だからなー」


 青年は画面を見たままキーボードを一定のリズムで、たたく。また、たたく。そのキーボードに呼応して、『*********……』と、次々とアスタリスクマークが打ち込まれていく。実際は『いいいいいいいいいい』と打たれている。


「えー、昨日まであの仕事用のパソコンでうーつーぶ見てたじゃない。今日もそっちでいいんじゃないの?」

「今日は久しぶりにこっちのゲーミングパソコンで、代わりばんこでゲームでもやろうと思って……てか、動画見ることにしたのは優香の方じゃない。二人でアニメでも見ようかなって思ってたのに。今回はほんっとにで要望通り全年齢対象で、何を言っているかがはっきりわかって、老若男女問わず楽しめる健全なアニメを用意してやったのに、なんでそんな男が騒いでる動画の方がいいの」

「あんなやつ見てるよりも、断然こっちの方が楽しいもんねー」

「楽しくない! それにあんなやつって……」


 この二人は付き合って半年の恋人同士で、同棲している。寝る前に二人パソコンで、こうしてネットサーフィンするという日課まで持つ。結婚するのも時間の問題だ。

 このようなケンカもほぼ毎日のようなもので、お互いの主張が毎回釣り合うことが無く、衝突することが多いのだが、椿樹が大体折れて何事もなかったかのようにパソコンをいじり始める。

 ので、案外この二人はうまくいっている。


「で、ゲームするんでしょ、じゃあ早くログインしなさいよ」


 優香は態度を切り替えて言った。ケンカしているなかでも話はしっかりと聞いていたようだ。ちなみに椿樹はもちろん優香もゲームは大の付くほど好きなので、二人は特にもめあう事無く楽しもうとしている。

 ログインすることなど、別にパスワードを入力するだけなので造作でもない。なのに、椿樹は優香に言われてもいつまでもiキーを押したままタイプしようとはしなかった。


「……いや、それがさ、久しぶりに起動するからか、こっちのパソコンのパスワード忘れちゃったんだよねぇ」

「……はいぃ?」


 そう、彼はゲーミング用のデスクトップパソコンのパスワードを忘れ、ログインできずにうなっていたのである。

 

「え、いやメモとか取ってないの? パスワード」

「うーん、メモった記憶はあるんだけど、そのメモをどこにしまったか忘れちゃってさ」

「探しなさいよ早くー」

「うん、そうしてたんだけどさ」


 実際部屋に入って一分もしないうちにパソコンは起動して、パスワードを入れようとしてそれが何なのか思い出せず、そのメモを探して部屋の至る所を探しまくったが、それらしいものは見つからなかったのだ。


「見落としてるところがあるとかは?」

「いやあないない、多分掃除機かけた時に巻き込まれたのかもね」


 重要なことであるのに、椿樹は何も考えてなさそうな表情で言った。


「一応私もさがしてみるね」

「おー、よろしく頼むね、俺も一応探すかー、どうせないと思うけど」


 そうして二人が探し始めて十分、普段ならお茶が無くなって、優香が新しいのを持ってくる頃合いだが、机上のお茶はすっかり冷めきって冷たくなり、優香はデスクの前で生暖かい溜息を吐く。先に探すのに飽きたのは優香だった。


「無いよー、こんだけ探したんだからないないー」

「もともと優香が探すって言ったのに何でさっきも探した俺の方がまだ粘ってんの」

「知らないよそんなのー、もう今日もつべでいいじゃーん」


 机に突っ伏し溶けていた優香の、その不意の一言で、椿樹の動きがピタと止まる。


「んーどしたのー?」

「……いや、しない。俺は妥協しないぞ、今日こそはあの野郎の顔を拝まずに気持ちよく眠るんだ。最近なんだかキンの顔がまいっっばん夢に出てくるんだ。もうそんな夢は絶対に見たくない! だから絶対メモを探し出してパスワードを入力してやる!」


 メモを探す手に力を込めた椿樹を「がんばれかんばれー」とあしらって、優香は試しに私もと、パソコンのキーボードに手を伸ばす。まずは大量のアスタリスクを消してから、適当に椿樹の誕生日の日付などを入れてみた。しかし、結果は不振。パスワードを間違えたことを通達する文字列と、OKの文字。

 そしてまた別の文字を入力してみようと、OKにカーソルを合わせてクリックする。パスワード入力の画面が再度表示された。

 

「む?」


 しかし、その画面は先程の画面とは少し違っていた。パスワードを入力する欄の下に、文が映し出されていた。

 それを見たとたんに、優香の顔はみるみる赤くなっていった。

 優香は熱いものを冷ますかのようにブンブンと顔を振り、平静を取り戻した万全な状態で椿樹に話しかける。


「……ねぇ、ちょっと」

「…………」


 ガサゴソ、ガサゴソ、返ってくるのは物音ばかり。

 優香は、少し語調を強めて――。 


「もうさすがに出てこないって、それよりこれ見てよ」

「……んあぁ? なになに?」


 棚に顔を突っ込んでメモを探していた椿樹は、ようやくそこから抜け出してパソコンの画面を確認しにいく。そこには、こう記されていた。


『パスワードのヒント:最愛の人』


「パスワードのヒント……そっかぁ、何回か入力すればそういうの出る設定にしてたっけなぁ」


 椿樹は優香の反応とは対称的に、なんでもっと早く気付かなかったのかと後悔するよりも半ば呆れて溜息をついた。


「最愛の人ねぇ」

「最愛の人……だね」


 そのフレーズを声に出されて聞いて改めて言葉の意味を認識することで、また優香の頬が上気し、口調が少し震えた。ましてや自分の最愛の人から、『最愛の人』だなんて言葉を言われると、なんだか照れ臭くってしょうがない。

 それに、何より素直でない彼らしからぬ可愛いパスワードの決め方が、優香の心を打ち抜いていた。

 過去にもこのパソコンで二人でゲームをするということはあったので、パスワードを確認する機会もあったはずだが、実のところ優香がパスワードの確認ができたのは、今日が初めてだった。


 この家では、椿樹、優香の順番で風呂に入ることになっている。

 理由としては、烏の行水である彼が先に入った方が、優香の長風呂で待たずに済み、優香自身も気兼ねなく十分に風呂を満喫できるから。

 優香が風呂に入っている間に、椿樹は日課のネットサーフィンの準備をする。部屋に入ってパソコンを起動し、ログインして、いつでも動画なりネトゲなり、アニメ鑑賞なりができるようにしておく。

 風呂からようやく上がった優香は、緑茶を用意してから椿樹の部屋に向かう。それからは寝るまでネットの海を渡航し続ける。たまにお茶のおかわりをしながら。

 

 つまり、優香がこれまでパソコンのパスワードを確認できなかったのは、『優香が風呂に入ってている間に、パソコンの起動などの準備をすべて椿樹一人で完了してしまうから』だった。

 ちなみに、ほかにも休日などに優香がパソコンを起動する機会があるのでは、と思うだろうが、意外とそうでもないのだ。曰く、「ネットサーフィンの時間を、夜という短い期間に限定することで、パソコンをする楽しみを薄れさせることが無くなるから」らしい。こういうことにはとことんこだわるのだ。


「最愛の人っていうと……んやっぱ『yuuka』かな」

「えっ!? ああ、うん、そう、だね……」


 自分が椿樹の最愛の人であるという自信は、もちろんある。

 しかしやはり、このように言われると照れ臭くなって、優香はさらに顔を赤くしてうつむきながら、「さっさと入れてよ」とつぶやいた。


「うーん? どうしたのかな優香さ~ん、下向いちゃってー。なんだか耳も赤いぞ~」


 しかし優香の意志とは反し、椿樹はぐずぐずとキーボードに手を出さず、彼女を突っついてここぞとばかりにいじりはじめる。


「早く入れてってば!」

「おーう、かわいい。はいはい、今入れますよー」


 優香はもう恥ずかしさで死んでしまいそうだというのに、椿樹はわざわざたった五文字のパスワードを五十文字程度の文字をタイプするよりもはるかに長く、人差し指一本でひとつづつ押している。うつむいている優香にも、かち、かちと、非常にじれったい音が聞こえてきて、その様子がよく分かった。

 そしてようやく入力し終え、「それっ」という声とともにエンターキーの一際大きな入力音が響いた。これでようやくネットサーフィンができる。といっても、今回はゲームをするのだが。


「あれっ?」


 そう、優香は思ったのだが、椿樹の口からは疑問符を伴う言葉が発せられた。


「……ん、どうしたの?」

「……いや……待て待て、それはおかしいぞ」


 再度タイプをはじめる椿樹。今度は焦らすことなく、普段のタイピング速度で。

 しかし、エンターキーを押して、画面に表示されるのは、『パスワードが正しくありません。入力し直してください』の文字列。さっきと変わらない文章。パソコンは最愛の人の名前を入れても、『ようこそ』と迎え入れてはくれなかった。


「え……」


 ――これは、つまり、どういうことなのだろうか。


 パスワードのヒントに表示されたのは、『最愛の人』という内容。それは優香にとって椿樹であることはもちろん、椿樹にとってもそれが優香であることは、間違いないはずなのだ。

 付き合って半年、始めこそは数回のデートで満足だったが、回数を重ねていくうちに満足しきれなくなり同棲まで始めた、言葉では語りつくせないくらい愛し合っていて仲のいい関係だ。


 それなのに、椿樹に――この人にとっての最愛の人は、"私″ではないのか。


 優香は一気に気分が冷めてきた。もう今日はネットの海には足すら入れずに、睡眠という沼に沈んでしまいたい。そのどろどろのなにかで自分の姿を覆い隠してほしかった。

 なにより今は、椿樹の顔が見たくなかった。


「あー、もう今日はいいや。私、悪いけど先に寝るね……おやすみー」

「えっ……あ、あ、おう。おやすみ……」」


 キーボードの単調な音が凄まじい速度で鳴り響いていたが、その一言でそれはパッタリと止んだ。

 優香はガタと椅子を引いて立ち上がり、もとあった場所にもどしていそいそと部屋を出ていった。そして、誰もいない寝室へと向かい、そさくさと布団をその身にかぶせて顔まで深くかぶった。

 何も見えない。感じるのは布団の、優香と椿樹の入り混じった匂い。普段は幸せの甘いアロマのような香りのように思えるのだが、今はそれが空しくてしょうがなかった。

 眼元にはいつの間にか涙が浮かんでいて、それがあくびによるものか何によるものかは知らない。ただただそれは冷たく、優香にとって異様な存在感を放つものであった。


「涙ごとき、そんな大層な……」


 乾いた笑いが不意に口からこぼれた。

 その笑い声は布団に阻まれ、外部に漏れ出ることはなかったが、優香の耳に延々とこだましていて、自分の声だというのになかなか抑えることができず、なかなか眠りにつくことができなかった。


   

   ◇      ◇      ◇


 

 翌朝、目覚ましの音で目覚めた優香は、布団をのけて真っ先に顔を洗いに洗面所へと向かう。仕事前の支度だ。

 だが、ふと彼がいるであろうリビングへと耳を傾けると、毎朝見ているニュースのBGMが休日用のものとなっていた。


「あれ、そういえば今日日曜だっけ」


 ならば支度などは必要ないが、顔を洗いたいので行先は変わらない。

 蛇口を捻り水を出す。勢いよく流れ出す水は、窓から差し込む太陽光によりキラキラしていた。

 その輝きが自分の顔にも影響されますようにと、優香は念入りに顔を洗った。そして蛇口を閉めて顔をタオルで拭いて、鏡を見た。


「あれ、眼元あっか……」


 まるでウサギのような赤い痕が目の周りにあった。近頃はこういうメイクをしている芸能人をテレビでよく見るようになり、かわいい、真似をしてみたいと思うが、これは天然のものであって不格好でまったくかわいくなかった。とりあえず応急処置としてかるくメイクして隠しておく。せめて明日までには治るといいのだが。


 さて、私は顔に水が残らないようにしっかりと拭いて、のそのそとリビングへと向かう。

 その境界へ足を踏み入れると同時に鼻孔を貫くウインナーの匂いが、優香の食欲を刺激した。さらなる食欲増進を試みようと匂いの出所を探すと、そこにはエプロン姿の椿樹がフライパンを握って優香を呆然と見ていた。


「……おはよー」

「あ、お、おはよう……」


 朝日の差し込む爽やかなリビングに、ぎこちない挨拶が交差した。

 リビングダイニングとなっているその部屋の食卓に向かい、優香は椅子を引いて座る。目線は自然とテレビの方へと吸い寄せられた。

 

『今日は午後から雨が降ります。傘を持ってお出かけしてくださいね!』


 画面には屋外でお天気キャスターと番組マスコットが、今日の天気と気温と必要なものについて紹介している様子が映し出されている。

 だがそれも、今でちょうどおしまいらしく、すぐに事件や政界などのニュースに切り替わってしまった。優香としては、もう少しマスコットを見て癒されたいところだったが、仕方がない。

 右耳にゴトゴトと食卓に料理が置かれる音が届いた。優香はそちらに視線を向け、朝食を確認した。

 今日のおかずはウインナーとスクランブルエッグ。シンプルだ。シンプルなのに朝に食べるこれは、ほかのどんな食事よりもおいしく感じてしまう。

 特に椿樹が作るこの料理は絶品だった。前に優香が同じく作ってみて食べ比べしたのだが、同じ材料、同じ工程で調理したのに断然椿樹のものの方が美味であった。こんなおいしいものは食べたことがないと、少々大げさに称賛した。

 以降、この料理が朝に出てくる頻度が上がった。その称賛はどうやら椿樹にとってものすごくうれしいものだったらしい。優香もそのさりげない態度に気づいてほほえましく思った。


 ――しかし、今の椿樹の表情はいたたまれなさでいっぱいのような感じだった。


 いつもは朝の和やかな団欒の場である食卓だが、今日の雰囲気はなんだか冷たくてぎこちない。ごはんを渡すときの「はい」は今にも消えそうな声だった。

 

「いただきます」

「……い、いただきます」


 食事の挨拶も優香が言った後に思い出したようにつぶやいた。

 団欒とは見る影もない。まるで裁判のようだ。実際に裁判を見たことはないのだが、おそらく雰囲気はこんな感じであろうと優香は思った。

 特に会話もなく食事は進んでいく。優香は食べるのに集中しながら椿樹の様子をうかがう。

 その時、椿樹もそちらを同じタイミングでチラと見て、目が合ってしまう。そしてまたほぼ同時に、二人は視線を外した。

 

 ――気まずいなぁ……。


 恋人二人対面してごはんを食べているというのに、まったく会話をしないなどまさに気まずさの再骨頂である。

 その雰囲気に耐えかねた優香は、残った味噌汁を早々に平らげて席を立った。


「私、今日ちょっと友達と遊び行くから、留守番よろしくね」

「……あ、うん、気をつけて」


 この際もう帰らないか。

 そんなことをぼんやりと考え、優香は食器を流しに出して寝室に戻って着替え、出かけて行った。行く先は……ただ雰囲気に耐えかねて出てきただけなので予定などない。カフェにでも行こう。


 そう思い立った優香は、朝早い休日の街に繰り出していった。



   ◇      ◇      ◇



 休日の街は人がとにかく多かった。

 彼女のように一人でいるような女子は少なく、恋人、家族、各々皆笑顔を浮かべて街を闊歩していた。

 ある女性はまるで見せつけるように彼氏にべったりとくっついて、飲食店の前でガラス越しに展示されている、食品サンプルを指さしている。

 おそらくこれから中に入って何を食べるのかを事前に決めているのだろう。

 キャップをかぶった男の子が往来の中、箱を掲げて無邪気にはしゃぎまわる。それを後ろから母親らしき人物が、少し怒ったような表情で早歩きで追いかけてくる。子供が持っている箱にはプラモデルの完成済みの写真がプリントされている。

 おそらくずっと欲しかったそれを母親に買ってもらった喜びで、思わず走り回ってしまっているのだろう。人が多いので迷わないか心配だ。

 老夫婦が腕を組んで、にこやかな顔で歩いている。何をそんなにうれしそうなのだろう。そう思いながら老父の手に目を向けると、大手おもちゃ会社のロゴが描かれた買い物袋をぶら下げている。

 おそらく孫への誕生日プレゼントか何かを買った帰りなのだろう。孫の喜ぶ顔を想像して、今からにやけているようだ。孫は男の子だろうか、それとも女の子だろうか。


 一人で歩いていると、やけに周囲へ意識が向いてしまう。

 優香はこんなにも周囲に対して関心を向けたことはなかった。所詮は他人なのだし、これから関わることもないのだから、さほど興味などわかなかった。

 休日とはすばらしいものだ。

 日々の大変な労働や勉学から解放され、各々が自由なひと時を過ごすことができる。平日に頑張った分、おもいっきり羽を伸ばして楽しめるのだ。


 ――せっかくの休日なのに、自分はどうしてこんなにも陰鬱なのだろう。


 周りが目いっぱいの笑顔で楽しんでいる分、優香の寂しさは一層際立った。まるで自分だけ彼らと別の世界にいるような感覚だと、優香は思った。

 普段の休日なら、彼女の隣にはたいてい椿樹がいる。

 優香の前でだけ積極的に会話しようとする椿樹。それは外出先でも変わらず、優香に休日を思いっきり楽しんでもらいたいという一心で、休む間もなく会話をする。正直少ししつこいぐらいだ。

 だが今日の休日はいつもと違い、隣には誰もいない。


「……いつもはあんなにしつこいくせに」


 そんなことを考えているうちにカフェに到着していた。

 中に入ると先程同様、様々な人がいた。子供連れ、カップル、高校生、パソコンをひろげて作業をする男性、ケータイをポチポチ打っている女性の集団。

 見渡す限り人ばかり。空いている席は無いかと思われたが、幸い一つだけ空いていた。入口付近、窓際の小さなテーブルだ。そこに座って、店員を呼び出してコーヒーを注文して、間もなく湯気が立ち上るその黒い液体が運ばれてきた。


 コーヒーを一口すすった。

 苦くてコクのある味が舌を包み込み、その身にやすらぎが訪れていく。

 ふと、優香はあることを思い出した。

 人の往来を見ながら、あの人はどうだ、あの人はこうだと、向かい側に座って、正直あまり興味の湧かない話をする椿樹の姿を。

 そういえば一度、彼とデートにここに来た日も、この窓際の陽光がまぶしい席に座っていた気がする。

 彼はテンションこそは高くはないが、とてもよくしゃべる。

 大学時代、友人に誘われた合コンで初めて出会った彼は優香が口を開くたびにびくりと飛び跳ね、何度も噛んだり小声になってしまったりしていた。そのキョドリっぷりはちょっと引いてしまうレベル。

 しかし会う機会が増えていくごとに彼の口数も多くなり、今では見違えるほどに優香に積極的になっている。

 だが彼は、他の人と話すときは基本的に口数は最小限にし、聞き手にまわっているのだ。

 そんな彼が優香と話すときには自分から話題を持ち出して、会話を進行させる。

 それを、優香はうれしく思っていた。


 だが……。

 今日の食卓で、椿樹は完全に知り合って間もない頃の態度に戻ってしまっていた。優香が口を開くたびに、キョドって反応に困る。


 ――そんなに態度変えなくってもいいじゃん……。


 そういえば、どうしてこんなにも椿樹の態度が一変してしまったのか、優香はそれを思い返した。

 ――そう、それは「『最愛の人』が設定されたパスワードが、『優香』でなかった」からだった。

 あの時はなんだかショックを受けてしまい、彼を放って寝室に行き、そのまま寝てしまった。布団の中で、少し泣いてしまった。

 この事実はつまり、優香が椿樹にとって最愛の人では、ないということ。

 あれだけ積極的なのに。同棲までしているのに。最愛の人ではないというのだ。

 つまり浮気相手がいるのだろうか。それとも彼の極度の人見知りで、彼女をまだ受け入れきれてないのだろうか。だがどっちにしたっておかしい点はたくさん見つかり、いくらでも否定できる。

 本当にショックだったのだ。今だって信じ切れていない。

 しかし朝食時のあの様子を見れば、嫌でもそうなのかなと信じてしまいそうになる。

 なぜ。なぜ。なぜ。頭の中ではその二文字でいっぱいだった。


 いつの間にかコーヒーが空になっていた。

 普段ならばおかわりするところだが、今日はやめておく。気分が乗らないし、なんだか歩きたい気分だ。

 お会計をさっさとすませ、十分もしないうちに店を出た。人の多い街へとまた戻っていく。時刻はお昼を過ぎていたが、お腹は全く減っていなかった。



   ◇      ◇      ◇

 

 

 街を後にし、今は河川敷に来ていた。

 街からはだいぶ遠かったが、今の自分なら歩いて県もまたいでしまうのではないかという変な思い込みが優香にはあった。まぁ思い込みなので無理なのだが。

 流れる水は陽光を反射してキラキラと輝きながらどこまでもどこまでも流れていく。一体どこへと向かうのだろうか。いっそのこと私も連れて行ってほしいと、優香は物憂げなことを考えた。

 街ほどではないが、歩く人はそれなりにいた。野原で遊ぶ親子連れもいて、とてものどかな光景だった。

 それでも河川敷で一人でいるのは優香だけだった。ジョギングに来ているおばさんやら、散歩に来ているおじいさんやらがいるかと思ったのだが、意外とこの時間帯はいないらしい。一人は自分だけではないと、優香は自分と同じ人を見つけて、一人でいるさみしさを紛らわせようとしたが、どうやら神様はそれを許してはくれなかった。

 道路から降りて行って、橋の下の土手に座り込む。雑草がくすぐったかったが、そんなのはどうでもよかった。


「はぁ……」


 優香は盛大にため息をつく。その姿は儚げで、今にも消えてしまいそうだ。

 散々考えた。道中で、カフェで、なんなら立ち寄ったトイレの中ででも考えていた。

 しかし、どうしても信じられない。なぜ椿樹のパソコンのパスワードは「Yuuka」ではなかったのだろう。浮気、不完全な信用。理由は思い当たるが、どれも自信を持って否定できる。

 本当に何故なのか分からない。それともほかの理由が思い当たる前に、無意識に否定してその考えを頭の中に押し込めてしまっているのだろうか。そんな考えが、優香の頭にふと浮かんだが、あまり追及する気にはならなかった。

 今、何時なのだろうか。携帯も腕時計も持たずに、逃げるように出てきてしまったものだから、確認のしようがなかった。

 でも時間は今は関係ない気がした。

 これからどうすればよいのだろう。あのように微妙な雰囲気になってしまった後では、帰ろうにも帰れない。財布の中にはあまり入っていないので、ホテルという選択肢は除かざるを得ない。

 ならばここでもうずっと、ホームレスのように暮らそうか。橋の下の生活、なんだかわくわくしてきそうだ。


「なに考えてんだ、私」


 でも、そのようなおかしな考えが否定できないほどに、もう何もかもすべてがどうでもよかった。明日食べるご飯も、お風呂も、仕事も睡眠も生きることさえも。


 ふと、優香はあたりを見回してみると、いつの間にか雨が降っていたようだ。

 今朝はあんなに晴れていたのにと思ったが、すぐに今日のニュースで「午後から雨が降る」ということをキャスターが言っていたのを思い出した。今の今まで忘れていたが。

 雨が降っているので、あたりに人の気配がない。どうやら本当に一人ぼっちになってしまったようだ。優香は抱き寄せた脚に顔をうずめた。

 さっきは何気なく思案したのだが、なにやら本当にここでこのまま暮らせと言われているような気がした。雨もこのまま止むことなく降り続けるのだろうか。


「いやだよ……私」


 本当に、本当に何でこんなことになってしまったのだろう。

 今日の食事の時に、いや、もっと前、パスワードを入力した直後に、なぜ違ったのかを聞いていればよかった。

 あの時に、あの時に冷静な判断ができていれば、こんなことにはならなかったのに。

 それとも怖かったのだろうか。何かの間違いであると否定されずに、そうだ、自分の最愛の人はお前ではないと言われてしまうことが。

 それって自分も彼のことを信用していないということになり得ないだろうか。よく理由も聞かずに、勝手に自分の思い込みを事実としてしまい、独りよがりになってはいないだろうか。

 

 ――ひょっとしてこれは、彼のせいではなく、私のせいなのか。


 雨脚が強くなった。

 耳にたたきつけるような音が無数に響く。

 まるで――責め立てられているかのように感じた。その責め立ては、優香の心のキャパシティに釣り合うはずはなく、強まった雨のような勢いで、優香は涙を流した。

 

 ――雫が足元に落ちて、地面へと吸い込まれていく。



「優香……?」


 ふと、声がした。

 低めだがそれが逆に聞き取りやすく、散々聞いて聞きなれた、彼の声が。

 雨の音が聞こえなくなっていく。優香はもう雨がやんでしまったのかと錯覚した。本当はあまりに唐突にかけられたその声に驚いて、それ以外の声が聞こえなくなっただけであった。


 優香はおそるおそる顔をあげる。隣には心配そうでありながらもどこかびくびくとした表情の椿樹がいた。優香の泣き顔を見た椿樹は、あたふたと目を右往左往させたが、すぐに優香に視線を戻した。

 その姿を見て優香は見間違いでないことを悟る。


「優香、こんなとこにいたんだ、その、探したよ」


 優香の目に映るのは、懸命に言葉を探して自分に話しかける椿樹の困ったような表情。朝よりは幾分もとの調子だが、まだ戻ったわけではなかった。


「なんで……」


 思わず漏れ出た言葉。

 さっきまで何度も何度も抱いていた椿樹への疑問。


「あ……あの、あれは、ご」

「なんでなの、なんでここに来たの……」

「え、あ、それは……迎えに」

「どうして来たの!? 私は、椿樹にとって、最愛の人じゃないんでしょッ? だったらなんで迎えになんてきたのよッ! もうあなたと過ごす理由なんて、どこにもないじゃない! 帰ってよ!」


 ――口から出たのは、拒絶の言葉だった。

 妥当だ。その反応は妥当と言える。恋人に裏切られたのだ。このように怒って当然だ。

 しかし、優香が椿樹にかけたい言葉はもっと別にあった。パスワードのことや、自分にも負い目があったということ。そのことを、椿樹にもし会えたのなら、真っ先に言いたいと考えていた。けれど口から出たのは、思ってもいないその言葉。

 優香は言い終わってから後悔した。あぁ、今度こそ終わりだ。彼との恋人同士の関係も、ましてや会ったことすら無かったことになる。なんでこんなことを言ってしまったのだ。


 椿樹は暗い顔を浮かべた。

 口を硬く結び、目線は横を向いていていたたまれなさそうだ。額に汗も浮かべている。

 

「……ごめんなさい」


 優香には、それが謝罪の言葉のようにも、縁を断ち切るような音にも聞こえた。

 

 ――しかし、椿樹は優香の目をしっかりと見据え、それ以降の言葉を紡いだ。


「パスワードの件については、本当に謝る、申し訳ない。だけど、もし優香がいいのなら、話を聞いてほしいんだ。なんでパスワードが優香の名前じゃなかったのか、ちゃんと理由があるから………………いい、かな」


 強い瞳でそう告げる。

 優香は、ゆっくりと時間をかけて、こくりと控えめにうなずいた――



   ◇      ◇      ◇



 その部屋には、パソコンの冷却ファンの音だけしか、今は存在していない。かつて会った扇風機はもうすでに仕舞われてしまっている。あれから数ヶ月、季節は冬に差しかかろうとしていた。

 デスクに向かう眼鏡をかけた青年は、「うーーむ……」とうなりながら、なにごとか考えていた。眼鏡がディスプレイに映し出されたログイン画面を、青白く反射している。パスワードを入力する画面だ。

 この画面から察するに、まだ起動して間もない。だが実際は、彼が部屋に入ってパソコンを起動し、この画面を見て頭を悩ませること、四十分ほど経過している。


「椿樹ー、お茶持ってきた……ってどうしたのー?」


 そこへ、二つのマグカップを乗せたお盆を持つ、一人の女性が片手でドアを開けて部屋に入ってきた。ピンク色のもこもこパジャマを上下そろえて着用し、髪はポニーテールにまとめた端正な顔立ちの美人な女性だ。もう夏も終わったので、キャミソールのラフな格好は数か月お預けだ。


「はい、お茶だよ、薄めの」

「……おー、優香さーんくす……」

「なに考えてたの」

「見終わったアニメのヒロインの意味深な発言の考察と、お前が風呂からあがるのがいつもより遅いことかな」

「あぁ、ごめん、なんか寒くなるといつもより長く入っちゃうんだよね」

「ほんとだよ、見終わったアニメってお前が風呂に入ってる間に見てたアニメだからね」

「えー、そんなに長く入ってた?」

「入ってた、ついでに言うと意味深な発言の答えも出た。レミィちゃんはおそらく」

「はいはいレミィちゃんかわいいねー」


 興味なさげな優香に、むっとした表情をする椿樹。


「今日はいつも使ってるパソコンじゃないんだね」


 優香の言ういつも使ってるパソコンとは、彼らのちょうど背中側に置かれたノートパソコンで、仕事用でもあるし動画視聴用でもある。このパソコンの出番の方が多いのだが、今日はどうやらこちらの大きなデスクトップパソコンを使うらしい。


「今日は久しぶりにこっちのゲーミングパソコンで、代わりばんこでゲームでもやろうと思ってな……」

「えー、昨日まであの仕事用のパソコンでうーつーぶ見てたじゃない」

「いや、動画見ることにしたのは優香の方じゃない。二人でアニメでも見ようかなって思ってたのに。今回はほんっとにで要望通り全年齢対象で、何を言っているかがはっきりわかって、老若男女問わず楽しめる健全なアニメを用意してやったのに、なんでそんな男が騒いでる動画の方がいいの」

「あんなやつ見てるよりも、断然こっちの方が楽しいもんねー」

「楽しくない! それにあんなやつって……」


 ぶつぶつ言う椿樹。それを見て優香は、そういえば昔こんなやり取りをしていたなと思った。あの時もゲームしようとしていたんだっけ。そしてパスワードが分かんなくて、ヒントに「最愛の人」なんて出てきて、それを見た椿樹がからかいながら優香の名前を入力したら、「間違っています」なんて言われて……。

 

 それから、二人はどことなくぎこちなくなってしまった。優香はプラプラと街に繰り出して、もう何もかもどうでもいいと投げやりになり、全てを投げ捨てようとしたとき、雨が降ってきていたことに気づいて、その空の様子と同じように泣いていたら椿樹が声をかけてきたのだ。

 優香は一度強くあたりはしたが、椿樹はそれでも懸命に理由を説明しようとして――


「あれから何度か記憶を思い返してパスワードを入力してみたんだけど、なんか母親の名前入力したら入れちゃったんだよね。それにはちゃんと理由があって……あぁ! ドン引きしないで! お願いだから! ……その、あのパソコン買ったのって、大学に受かったすぐ後なんだよね。それで、母さんもいたから、ちょっと設定とかを手伝ってもらってて、パスワード何にしようかってなったときに、母親が無理やり入力しちゃってね、ヒントに『最愛の人』なんて書いちゃって。絶対わかるわけねーよこんなヒント、って言ったらぶん殴られたりもして、それが効いてて今の今まで変えてなかったんだよね。ほら、母さん怒ると怖いからさ、もういっつもあなたのこと見てますよって感じじゃん。だから、あれは本当に、その、浮気とかじゃなくて、ほんとのほんとに誤解なんだ。ほんと、ごめんなさい!」


 それから椿樹は頭を深く下げた。

 聞き終えた優香は一瞬ぽけっとしたが、すぐに「なんだよそんなことかよー!」と、椿樹の胸にとびこんで泣きながらぽかぽかとたたいた。

 他の女性が聞いたら「そんなの嘘でしょ! まるわかりなんだよ!」と、すぐさま否定しそうなだいぶファンシーな理由だったが、優香はそれで納得してしまい、問題なくすんなりと椿樹を受け入れてしまったのだ。なんだか、とっても椿樹らしい理由だとも思った。

 ともあれ、本当に良かった。もう椿樹と歩んだゆったりとした時間は、一生戻ってこないのだとあきらめていたのだ。そんな理由で本当によかった。涙が次々と流れ出てきて、感化されたのか椿樹も泣き始めていた。


 そんな泣き虫二人組は、椿樹の持ってきた一本の傘の中で肩を寄せ合って仲良く彼らが家のマンションへと帰っていった。傘は二本あったが、優香のお願いで椿の傘に入れてもらった。


 あの日は、彼らにとって一つの分岐点となる一日だった。

 これまではもちろん仲よく暮らしていたが、それまでよりもより一層その絆は深まった。椿樹はさらによくしゃべるようになり、優香は自分の行動に気を付けるようになった。そしてデートの回数も増えた。恋人としての仲も右肩上がりで深まっていった。


「ねぇ!」

「ん、どうしたの」

「今日は私にパスワード入力させてくれない?」

 

 そう言って、優香は椿樹の返答を聞かずに彼の膝の上に座る。そして、キーボードへと右手を伸ばした。


「いいけど、恥ずかしくないの?」

「いいのいいの」


 パスワード入力の欄にアスタリスクマークが刻まれていく。優香はタイピングは苦手なので、人差し指で一つずつ、合計五文字のマークが並んだ。

 いいとは言ったものだが、「最愛の人」を入力する欄に自分の名前を打ち込むのは、やっぱり少し恥ずかしかったようで優香はほのかに頬を染めた。その様子を椿樹が盗み見て口元を緩ませる。


「ほら、やっぱり恥ずかしいんじゃん」

「い、いいの! アスタリスクマークが隠してくれるから!」

「うわ、さらに恥ずかしいこと言ったな……」

「うるさい、よ!」


 エンターキーをわざとらしく強く打ち込む。カチャッ、という気持ちのいい音が部屋に響き渡った。


 ――そして、高く跳ね上がった優香のその右手の薬指には、椿樹の左薬指にはめられたものと同じ、銀色のリングがキラキラと輝いていた。



     〈  了  〉

女性は右手の薬指に指輪をつけてる割合が多いらしいですね。

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[良い点] 日常の観察眼が素晴らしいと感じました。 とくに、女性が怒って家出をする場面の寂しさを表現した部分です。 日常会話も自然で、ショートムービーの一場面を見ている感じがしてほっこりしました。たぶ…
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