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黒髪乙女とバンパイア  作者: 紗々
第三章
20/27

#20

 自室に戻った小夜子は朝食を食べる気にもなれず、ぼーっと天井を見上げています。


 此処に来てどれくらい経ったのでしょう。もうとっくにスマホの電源など切れていますから、手元に日にちを確認するものもありません。

 しかし確実に、旅行期間の終了は迫っているのです。小夜子は考え込みました。


 いくら今の状態が楽しいからと言って、一生此処で生活する訳にはいきません。海外旅行へ行った若い娘が消息不明になれば、両親が黙っている筈ないでしょう。

 それに、またこの前みたいに、城の管理人やその他の人が来る可能性だってあります。何時までも居座ったままで、誤魔化しきれないでしょう。


(ああ、そうだわ)


 小夜子は胸の内で呟きます。


(私は日本に帰らなくてはいけない。もうじき伯爵様とお別れしなくちゃいけないんだわ)


 けれども伯爵と別れた後、一体彼はどうなるのでしょう?

 現代を生きる術すら身に着けていない時代錯誤のバンパイア。力を無くし、老いてなお生き血を求める哀れなバンパイア。

 現世にたった一人残されてしまった彼は、誰を頼りに生きていけば良いのでしょう。そう考えると、小夜子はガラにもなく切ない気持ちになってしまったのです。

 あのすっとぼけ伯爵と面白おかしく暮らした後、適当にトンズラこいてやろうと考えていた小夜子がです。どうやらこの数日間で、小夜子はすっかり伯爵に情が湧いてしまったようです。


 更に困った事に、先程の会話からしてあの伯爵ですら、小夜子に対して何らかの情の念を抱いていると考えられます。

 バンパイアにとって人間とは、いわば家畜。いいえ餌のようなものでしょう。そんなバンパイアの彼自らが生き血を欲しているにも拘らず、小夜子の身を案じてどうにか血を啜る衝動を抑えようと苦悩しているあの姿。


 もしも伯爵にとって小夜子が何でもない存在であれば、さっさと首筋に噛みついて美味しく血を頂いたでしょう。だけど彼は実行しなかった。無防備な小夜子を前にして、バンパイアとしての本能を押し殺したのです。


 人間は情に脆い生き物です。小夜子がどんなに他人を突き放し、軽蔑しながら生きている人間であっても、伯爵と過ごしたこの数日間と身を伝う伯爵の心が、小夜子に小さな情を植え付けたのかもしれません。


 ぼんやりとしている小夜子の前に、パタパタと蝙蝠達が飛んできます。気が付くと、足元には鼠達の姿もありました。

あれ程気持ちが悪かった伯爵の下僕も、こう懐かれると不思議と可愛らしいものです。まだ触れないけど。


「貴方達とももうじきお別れね」


 蝙蝠と鼠が何やら鳴き声を発していますが、何を言っているかは判りません。

 さようなら、と言っているのか、お別れしたくないよ、と言っているのか、或いはさっさと出て行け居候め!と言っているのか……。


「そうよね、私が出て行っても伯爵様にはこの子達が居るもの。心配しなくても平気かもね」


 自分で自分に言い聞かせるようにして、とりあえずこれ以上考えるのはよそうと思いました。どうしたって、多分小夜子は日本へ帰らなければならないのです。あの伯爵を一人、この場所へ置いて。


(伯爵様はどうしているかしらん)


 酷く興奮した様子でしたが、大人しく眠っているでしょうか。小夜子はそっと席を立ち、伯爵の様子を伺う事にしました。


 音を立てないように、静かにドアを開けます。眠っているのでしょうか?目を瞑ったままぴくりとも動きません。


「小夜子……」


 うわ言の様に、伯爵が名前を呼びます。


「起こしてしまいました?」


 うっすらと目を開ける伯爵の顔を覗きこみます。


「いいや、眠れなかったのだ。君の気配を感じたから、つい名を呼んでしまった」


 伯爵の皺だらけの手が小夜子の手に向かいます。まるで風邪をひいた幼子が母親を求めるように、頼りない手つきで小夜子の手を握りました。


「どこか苦しい所でもあるのですか?」


 小夜子はそのまま、伯爵の手を両手で包み込みました。かさかさとした細い指先は、まるで氷のように冷たくなっています。


「小夜子よ、暫く傍に居てくれないか?」


 震えるような小さな声で言います。


「ええ、構いませんけど……。本当にお具合の方は大丈夫なのですか?」


「傍に居て欲しい……。只それだけでいいのだ。すまないがこちらへ来てくれないか?」


 何しろ今朝方襲われたばかりの身ですから、いくら弱っているとはいえ傍に来いと言われたら多少は警戒します。

 しかしどうしてか今の小夜子は、自分の身よりこの弱り果てた伯爵をどうにかしてあげたいという思いが強いのです。


 言われるが儘に、小夜子は伯爵のベッドへ横になりました。男性に添い寝するなんて、なんと不潔でいやらしいのでしょう。と、何時もなら考えるところですが、不思議と嫌な感じがしません。普段の小夜子なら、駅前でティッシュを配っている人が男性と言うだけで、ティッシュ一つ受け取る気にすらならないと言うのに。


 伯爵の手が小夜子の髪を撫でます。真っ直ぐな黒髪が、指の間を流れてゆきます。


「不思議なものだな。こうして君に触れていると、心が落ち着いてくるようだ」


 伯爵の手が小夜子の頬まで動きます。


「温かい。血の通った人間の温もりだ」


「この血が欲しければいつでも差し上げましてよ?」


「その気持ちだけ頂いておこう。自分でも判らないのだが、こうして君といる間は、不思議と体が血を欲しないのだ。まるで何かで満たされているようにな」


 とても弱々しく小さな声ではあるけれど、伯爵の言葉は落ち着きがあり安心しているようでした。少なくとも今朝のように、突然襲い掛かるような敵意は感じられません。


 小夜子はそのまま伯爵の手の中で考えていました。


 恋人同士って、こういう感じなのかしら。或いは親子のような、親友のような、不思議な感覚。


 何とも言い難い気持ちを胸に秘めたまま、小夜子と伯爵は暫くの時を共に過ごしました。

 会話も無く、時折目くばせをするだけで、ただ横になったまま静かに時間が過ぎてゆきました。


 何時しか小夜子は、伯爵の横ですやすやと眠ってしまいました。


 どれくらい眠った頃でしょうか。ふと小夜子が目を覚ますと、隣で眠っていた筈の伯爵が居ません。

 おトイレかしら?そもそもバンパイアって排泄するのか?そんな事を考えながら、小夜子は辺りを見回します。


「伯爵様―」


 返事、ゼロ。今この部屋の中に、小夜子以外の気配はありません。


「何処へ行かれたのかしら……」


 伯爵を探しに廊下へ出ます。


「あっ」


 廊下にある大きな窓が開いています。吹き寄せる風がカーテンをしきりになびかせます。


 嫌な予感がする。そんな不安に襲われながらも、小夜子はただ伯爵の帰りを待つしかありませんでした。

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