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黒髪乙女とバンパイア  作者: 紗々
第三章
15/27

#15

 その晩、小夜子の空腹は限度を迎えていました。

 火も水も無い厨房にあるのは、無造作に転がる生野菜だけ。いっそこのまま丸齧りするか?今の飢えを凌ぐには、それ以外方法がありません。小夜子は暫く、厨房のテーブルに置かれた野菜を虚ろな目で見詰めていました。


「娘、これを食べたまえ」


 その時、厨房の窓から颯爽と伯爵が飛び込んできました。比喩ではありません。本当に飛んできたのです。だってコイツ、バンパイアですから。


「伯爵様、お出掛けなさっていたのですか?」


「娘、私は出掛ける前に一言言ったぞ。気付かなかったのか?」


「ええ…。すみません。ボーっとしていたものですから」


「だろうな。私が出掛ける前から、君はずっと其処に座って野菜を睨み付けているままだ」


 そう言うと、伯爵は小夜子の目の前にパンを置きました。


「わあーっ!パンだ!パン!山崎春のパン祭りー♪」


 念の為言っておきますが、小夜子は普段からこんな子ではありません。ただ、空腹の余りに少々思考回路がショート寸前なだけです。


「ふん、哀れな人間よ。この程度の空腹も我慢できぬとはな。それを食べれば少しは腹も満たされるだろう」


「ええ、有難う御座います。でも、このパンは何処から?」


「街にあったものを頂戴してきた」


 やっぱり盗品ですか。もう仕方あるめぇ。少々良心が傷みますが、ここは一つ泥棒さんして御免なさいと心の中で謝って、このパンを美味しく頂きましょう。


「それとこれも……。よければ飲むがいい」


 伯爵が差し出したのは一本のワインです。ワインに関する知識は余りありませんが、状態から察するになかなかのビンテージものです。


「これも街から?」


「このワインは城の貯蔵庫に眠っていたものだ。これなら古くなっていても飲めるだろう」


 伯爵はワインのコルクを開けると、二つのワイングラスに真っ赤なワインを注ぎ入れました。まるで血のように、深い緋色の液体が流れ落ちてゆきます。

 どうでもいいけど小夜子さん、貴女確か未成年ですよね?でも次の誕生日で二十歳を迎える訳だし、一つ大目に見てあげますか。


「頂きます」


「本当に無礼な娘だな。食事の前の乾杯も知らないのか」


「あら御免なさい。私誰かとお酒を頂くのは、これが初めてなものでして。ならば失礼して。はいかんぱーい!」


 紳士淑女の乾杯と言うよりは、飲み屋のサラリーマンみたいなノリですが、ここも一つ大目に見てあげましょう。

 なんせ小夜子は、人生初のお酒と乾杯を、憧れのバンパイア様相手にして舞い上がっているのですから。


「プハァ~。うんめぇ~!キクーッ!」


 なんだか益々飲み屋のサラリーマンですが、これも大目に見てあげましょう。


「有難う御座います伯爵様。生き返った気分になれました」


「人間は本当に大袈裟だな。たった数時間食べられないだけで、死んだような気分になるとは」


「あら失礼。確かにほんの少し前まで本当に死んでいた方の前では、大袈裟な言い方でしたわね」


「死んでいたのではない!眠らされていただけだ!」


「あははは。失礼失礼!あ、親父!もう一杯!」


 すでに酔いが回っているのか、小夜子は随分上機嫌です。


「それにしても伯爵様、随分気前のいい真似をしてくださるのね。こんなに上等のワインまで開けてくださって」


 二杯目のワインを口にしながら、ほろ酔い気分の小夜子です。


「気にするな。私も少し、君と飲みたい気分だったのだ」


 そう言った伯爵の顔は、どこか少し陰りのあるようにも見えました。


「伯爵様。今朝から少し元気がないようですけど、何か御座いました?」


 伯爵がワイングラスを持つ手を降ろします。グラスの中に揺れる紅い波紋をじっと見詰めています。


「宜しければお話ししてくださいません?ホラ、お酒の席では愚痴を言うのがセオリーってもんじゃないですか」


 伯爵はそのままグラスを置くと、ぽつりと口を開きました。


「思い出してきたのだ。封印される前の事を……」


 伯爵は何か思い詰めたかのような口振りで、ゆっくりと話し始めました。


「目覚めたばかりの間は少々記憶が薄れていた。まるで記憶の一部が抜け落ちてしまったようにな」


「寝起きは記憶がぼーっとしがちですものね」


「しかしこうして目が覚め、君と話をしているうちに記憶が鮮明となってきたようだ。最もその記憶は、私にとって思い出さぬ方が良かったのかもしれぬがな……」


(訳ありだな?)


 小夜子はそう思い、伯爵の話を更に根掘り葉掘り聞く事にしました。

 意外にも伯爵は嫌がる素振りも見せず、過去の記憶を語り出したのです。


 伯爵が封印される以前、今より何世紀も前の話です。その頃の伯爵はそりゃあもうすこぶる美青年で、バンパイアの魔力を使わなくとも充分に女性を魅了する力を持っていたようでした。

 バンパイアの生命を潤すのは人間の生き血。

 その鮮血を手に入れるには、人間を誘い込み狩りをしなければなりません。伯爵の狩りはこうでした。


 古城の麓にある街は、今でこそ過疎った田舎と化していますが、当時はもう少し賑わいを見せていたそうです。

 賑わう街には当然人が集まります。伯爵がお目当てとする美しい女性も。


 伯爵はターゲットの女性を決めると、夜毎女性の元へ現れ、その美貌と魔力で女性を魅了しました。伯爵の怪しい魅力に惑わされた女性は、まるで誘き寄せられるように自らの足でこの城へ向かいます。


 このように、美貌と魔力を駆使して餌を惹き付けるのが、バンパイアの狩りなのだそうです。例えるなら、食虫植物がフェロモンを出し、餌となる虫をおびき寄せるようなものでしょうか。


 一度伯爵の術に嵌った女性はもう逃げようがありません。頭の中は伯爵でいっぱい。メロメロ、ゾッコン、フォーリンラブ状態です。


 すっかり伯爵の虜になった女性は、無我夢中で城へ来て、「伯爵様!どうぞ私の血をお吸いになって!」と、その肉体を捧げるのです。 強引に襲い掛かるのではなく、あくまで優雅に、翻弄して誘い出すところが、バンパイア流狩りのポイントなのでしょう。


 最終的にターゲットの女性は血を吸い尽くされておっ死んじまう訳ですが、女性にとってそれが不幸な死とは言い切れません。

 少なくともターゲットになった女性は死に物狂いで逃げ回るのではなく、むしろ最高に甘い恋に浸るような気分で恍惚の死を遂げるのですから。


 このように、伯爵は定期的に優雅な狩りを行なう事で、その魔力と美貌を保っていました。ところがある時、伯爵の人生を狂わす者が現れます。バンパイアハンターです。

 いくら年に数回の狩りとはいえ、一つの街で何度も女性の失踪・怪死事件が起きては、人々も怪しむでしょう。


 まだバンパイアの存在が真しやかに信じられていた時代。事件の犯人はバンパイアの仕業であると、何者かが特定したのです。

 バンパイアハンターは城に乗り込みましたが、伯爵の魔力には太刀打ち出来ません。そこで街の人々は、せめてバンパイアから身を守ろうと、夜間に若い女性の外出を禁じたりバンパイア除けの護符を身に着けたりなどしてやり過ごしたそうです。


 これが意外にも効果覿面だったようで、伯爵はすっかり狩りが出来ない状態となってしまいました。無防備にうろついていた若い娘も、今では護符をびっしり張った部屋の中に閉じ籠っています。

 その上懐には大蒜や香草を忍ばせているから、たまったものではありません。


 夜間にしか狩りが出来ないバンパイアですから、どんなに昼間人々が外をほっつき歩いても手出し出来ません。

 文字通り人間に指一本触れられなくなってしまった伯爵は、次第に魔力が衰え、バンパイアとしての能力も失いつつありました。


 バンパイアにとって人間の生き血は生命を潤す大事な糧。一滴の血も吸えない伯爵は、みるみる不老不死では無くなっていきます。

 青白く透き通った若々しい肌は皺つき、美しい漆黒の髪は白髪化し、あの美青年の姿が嘘のように老衰していったのです。


 血に飢えてすっかりカサカサになってしまった伯爵には、もはや獲物を誘い出す程の魔力すら残っていません。

 ただ城の中に籠り、なるべく体力を消耗しないようベッドに横たわるだけの毎日です。これでは麗しのバンパイア伯爵どころか、ただの隠居した死にぞこないの老人です。


 人間共の対策により狩りが出来なくなってから、どれくらい過ぎた頃でしょうか。あのバンパイアハンター達が、一斉に城へと攻めて来たのです。最早魔力を殆ど失ったバンパイアを襲撃するなど、赤子の手を捻るように簡単なのでしょう。


 伯爵は僅かに残った魔力で抵抗しましたが、老衰したバンパイアなど猛威ではありません。

 こうしてバンパイアハンター達の手によって捕えられた伯爵は、そのまま棺桶の中に押し込まれ、みっちりと梱包された挙句深い封印の闇へと堕ちて行ったのです。


「悲劇ですわね」


 ここまで聞き終えた小夜子は、グラスに残ったワインを一気に口の中へ流し込みながら呟きました。


「相変わらず冷たい言い草をする娘だな。心にもないような感想を言いおって」


「そんな事ないですわぁ。可哀相だと思いますもの。あ、おかわりくださいな」


 本当に可哀相だと思っているのか怪しいところです。


「でも伯爵様、私にそんな話をしてどうするのです?」


 伯爵の表情が曇ります。


「別に理由などない。ただなんとなく、話をしたかっただけなのだ」


「ふーん」


 小夜子の顔色がそろそろほろ酔いからガチ酔いになりつつあります。真面目に聞いているのか適当に聞いているのかよく判りませんが、伯爵は続けて語りました。


「バンパイアの命を繋ぐ生き血にありつけなかった私は、日増しに衰えていった。老醜したのだ」


「別に醜いとは思いませんけど」


「以前の私はもっと美しかった……!髪は君のように艶々とした黒髪で、顔も手も皺一つない永遠の美貌を保っていたのだ……」


 悔やんでいるのか(おご)っているのかよく判りませんが、とりあえず悲観しているのは確かです。


「しかし生き血を失ってからはこの様だ。髪は白髪になり皮膚は衰え、醜い老人のようになってしまった」


「醜い老人は言い過ぎですわ。せいぜい素敵なロマンスグレーですよ」


 小夜子なりの慰めも、最早耳に入っていません。伯爵は俯いたまま話を続けます。


「私は恐ろしかった。永遠の若さと命を失い、ただ醜く枯れ果てていくだけの運命が」


 伯爵の声が徐々に張り詰めていきます。


「こんな姿で生き残る位なら、いっそあの時絶命していれば良かったのだ。何故人間は私から生き血を奪い、こんな姿にしてまで生かそうと思ったのか!?醜いまま生きるなど死ぬよりも残酷だ!記憶が蘇る程、私の胸は締め付けられるような思いになる」


 激情する伯爵の前で、紅いワインの波紋が広がります。まるで伯爵のやり切れない心情を表すように、グラスの中には不安定な波が揺れました。


「……ちょいと伯爵様」


 今まで黙って聞いていた小夜子が、口を開きました。


「言わせて頂きますけど!」


 バンッとテーブルを叩き、小夜子は勢いよく立ちあがりました。


「貴方贅沢だわ!そんなに美しい容姿をしているのに自分を醜いと卑下するなんて!」


 ビシッと伯爵を指差して、小夜子は大声で叫びました。(良い子のみんなは人に向かって指を差しちゃいけませんよ)


「どこが醜いというの?全然美しいじゃないですか!ハッキリ言ってあなたより醜いオッサンはいくらでも居るわ!脳天が河童みたいにハゲ散らかしていたり、お腹にたっぷり脂肪を溜めこんで肥え太っていたり、そんな親父ごまんと居ます!それに比べたら貴方なんで充分過ぎる程美しいじゃない!それの何が不満なのよ!?」


 余りにも激しく論ずる小夜子の姿に、伯爵なんだかキョトン顔。


「大体ねえ、私の顔を見て御覧なさい!何時だったか貴方が仰ったように、私は目もちっこいし鼻だってぺしゃんこよ!その上スタイルも悪くて白人様の容姿には到底敵わないわ!だけどどうしたって自分を認めるしかないじゃない。卑下したところで顔が変わる訳じゃないし、こう生まれてしまったのだから有りの儘に生きていくしかないじゃない!」


 ここまで言い終えると、小夜子は伯爵の両頬に両手を添えて、というより力強く掴んで自分の顔に近付けました。


「貴方は醜くありません。私が証明します。というか、充分恵まれている容姿なのにそれに文句言ったら私の顔なんてどうなるのよ?ただの不細工な欠陥品じゃない」


 とても真剣に、だけど優しく諭すような口調で言い聞かせます。


「大体貴方何年生きているというの?何世紀も長生きしていれば顔なんてそれほど重要じゃないというくらい判る筈でしょう。例え今の貴方が昔の貴方より醜かったとしても、それで絶望するなんて陳腐な考えだわ。貴方は人間の何倍も長生き出来るのですから、もっと広い目で人生を見詰めるべきだと思います。折角長い人生楽しめるのに、外見なんかにこだわってウジウジ無駄に過ごしているようじゃ勿体ないでしょう?」


 それは励ますような優しい言葉ではなく、かと言って檄を飛ばすように力強い言葉でもなかったけど、小夜子の想いが強く伝わってくるような、不思議な言葉でした。

 すると落ち込んでいた筈の伯爵の顔が、徐々に晴れてゆきました。にんまりと牙を覗かせ、クスクスと笑い出します。


「あ、あら?伯爵様、どうなさったのです?ついに壊れちゃったのかしら」


 さり気なく失礼な言い種も気にせず、伯爵は笑い続けます。


「君は本当に変な娘だな。なんだか真剣に悩んでいるのが馬鹿らしくなった」


 なんだかよく判らないけど、何故か伯爵を励ましたようです。


「確かに君のようなちんちくりんに比べたら、今の私でも充分マシな方だな」


「ちょっと伯爵様!そういう台詞は他人から言われると腹が立つのですけど」


 伯爵は相変わらず少年みたいにケラケラ笑っています。


「私とした事が長い封印期間のせいで少々気が滅入っていたらしい。気高き魔族がこの程度でセンチメンタルになるなど、私らしくなかったな。君の馬鹿げた言葉で目が覚めたよ、有難う」


 馬鹿げていて悪ぅ御座いました。と思いながらも、とりあえず伯爵の笑顔が戻ったので良しとする小夜子でした。


「先刻の話は忘れてくれ。目覚めたばかりで精神が不安定になっていたのだ。そもそも君に相談する自体、間違っていた。君が真面目に人の話を聞く筈がないしな」


「よく御存じで。それにしても意外ですわ。伯爵様が愚痴を仰るなんて。長生きしている割に人間臭い部分があるんですねぇ」


「忘れろと言った筈だ」


「忘れませ~ん!うふふふ」


 伯爵の意外な一面を知ってしまったお蔭で、小夜子はますますニタニタと意地悪そうな笑顔を浮かべます。その上アルコールもいい感じに回ってきていますので、更にご機嫌度が増しているようです。


 伯爵はほんの少し過去を思い出しおセンチになったせいで、この娘に愚痴を言ってしまった事を猛烈に後悔しています。こんなガキに話したところで何が解決する訳でもないと自分でも判っていた筈なのに。弱気になると誰かに愚痴りたくなるのは、人間も魔族も同じのようですね。


「うふふ…。伯爵様~」


 小夜子がとろけた声で話しかけます。


「まだ何か言いたいのか?」


 ふと小夜子の方に目を向けると、すっかり酔い潰れてしまったのかテーブルに突っ伏したままスヤスヤと眠っています。

傍らには空になったワインの瓶。何時の間にか一人で一本飲み干していたようです。


「まったく年頃の娘が酒を飲んだまま眠るとははしたない……」


 そうこう言いながら、伯爵はすっかり夢の世界を旅する小夜子をそっと抱き上げ、部屋まで運んだのでした。

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