異端者のENGAGEMENT
第一話 嫌いな人
初めて会ったときにジャンヌのことが嫌いになった。
それは彼女を知る人の中ではとても稀な部類に入る。
「ねえメアリー、わたしたち明日ヴォージュの森へ遠足に行こうと思うの。あなたも行かない?」
偶然出くわしたジャンヌからそう言われた。黒い瞳は不安そうにメアリーを映していた。そのそばには彼女の親友である四歳年下のオメットが、その青く大きな目で黙ったままじっとメアリーを睨んでいる。断ったら許さないと考えていることがバレバレだ。偶然などではなく、ジャンヌがわたしを誘うために来たのだろう。
くす、とメアリーは笑った。
「そうね、行こうかしら」
メアリーが自身の明るい茶髪を指でいじりながら言うと、ぱあ、と分かりやすくジャンヌの顔が明るくなった。
「でもちょっと遅れるかも」
「いいのよ、来てくれるならそれで」
「そう。ありがとう。それじゃあ明後日になったら行くわ」
すっ、とジャンヌの顔が悲しそうに色を変える。オメットが顔を赤くして眉間にしわをいくつも作った。
「ちょっとあんた、せっかくジャネットが誘っているのに酷いじゃない!」
「酷い? ただわたしはわたしの都合を述べただけよ。貴女たちがいるときだと、わたしは口がとっても忙しくなるの。だから休むにはあなたたちがいなくなってからじゃないと」
結局その日の口喧嘩は、メアリーの悪態に負けて泣きながら怒るオメットをジャンヌがなだめるまで続いた。
メアリーは口が上手く、オメットはすぐ言葉に詰まる。それはいつものことで、けれどこの日のオメットはまだ頑張った方だ。まあ、結局メアリーは痛くもかゆくもなかったわけだが。
そんな調子だから、メアリーはこのドンレミ村で友人の一人も出来ていない。しかしそれはメアリーにとってとても気楽なことだった。
ドンレミ村に来て三年経つものの、まだもとの村で暮らした記憶の方が色濃く残っている。このドンレミ村もまだ絶対に安全とは言えないが、それでも生まれ育ったもとの村よりも圧倒的に空気がましだった。
メアリーのいた村は……あれは、そう。つまりはタールのようなものだったのだ。べったりとタールに浸かってしまったような村。便利で厄介な空気に、思わず口をつぐんで古い慣習のままに生きる村。
今、メアリーはこのドンレミ村で歯に衣着せぬ物言いができる。嫌われるけれど、叱られるけれど、それだけだ。それだけですむ。なのに……いや、だからこそ疑心は完全には消えない。その火はメアリーの中で今もずっと消えずにくすぶっている。いつ燃え上がるともしれない、危険な火だ。
ドンレミ村で一番気立てが良く真面目で信心深い優等生。それは間違いなくジャンヌを指す。そんな彼女に悪態ばかりつくのはただのひがみだろうと言われ、言ったやつが泣くまで罵倒すればジャンヌ自身が仲裁に入るのだからメアリーの神経はまた逆なでされた。
本当ならば、メアリーはジャンヌに対して感謝してもしきれない立場だ。戦禍から逃れてきたメアリーたち一家をこの村で一番に受け入れたのは彼女だったのだから。
あのとき、十になったばかりのメアリーは布に包まれ眠る弟を背負っていた。
母は咳をしていて、父はあちこち怪我をしていた。ドンレミ村には入れたものの世情は優しくなく、その日は村の隅で野宿をすることになった。
ヴォージュ山脈と平地との間。そこはロレーヌとシャンパーニュの境で、ずっと戦禍に見舞われている場所だ。理由は簡単だ。片側に『敵』がいるからそうなる。だから多くの人は余裕をなくして、よそ者には強い警戒心を持っていた。ドンレミ村も同じで、避難民であるメアリーたち一家に積極的に手を差し伸べようとする者はそういなかった。
もうちょっと元気なら、小枝と枯れ葉で簡易のベッドを作ることが出来た。だけどメアリーにはそんな体力もなかった。ぐずり始める弟をあやす自分の手は傷だらけで、伸びた爪の先は泥がつまって黒くなっていた。
父はまだ起きていて、静かに横になっている母の頬をなでていた。大丈夫だ、と示すように父はうなずいて見せた。だけどもメアリーはちっとも安心はできなかった。
寒くはないかという父の問いに、大丈夫と言う。だけどこれから冬が来たら大丈夫ではなくなるのだろう。
今起きている戦争はメアリーが生まれる前からずっと続いている。自分が体も心も幼く、知識も乏しいと知っていた。けれどこの戦争が王位継承のいざこざでずっと昔から続いてきたものだということだけは知っていた。
今、フランスにはちゃんとした王様がいない。フランスの王太子様はお家に帰られなくなってしまったのだ。
王太子派とも呼ばれるアルマニャック派はブルゴーニュ派というものに敵対していて、ブルゴーニュ派はイングランドと手を組んでいるらしかった。だから『敵』がどこの出身であろうとほとんどの人にとってそれは『イングランド人』だった。
フランス王家もイングランド王家も、メアリーにはどうでもいい。そいつらはわたしたちの暮らしを守ってくれるのか。メアリーには厳しい税を取るばかりの領主をぽんぽん生み出すだけの厄介者なのだとしか思えない。
それにしたってどうしてこう、自分が生まれる前に終わってくれなかったのかと思う。戦争は人の心を歪ませる。メアリーは平和というものがよく分からない。
これからわたしたちは、どうなるのだろう。そう思ったときだった。
「大丈夫?」
ほとんど閉じかけた目を大きく開いた。弟を抱いて眠ろうとしていたメアリーの目の前に、すまなさそうに眉尻を下げている者がいた。メアリーと同い年くらいの少女だ。
「立てる?」
少女はメアリーに手をさしのべて言った。ここの村人であることは確実だろうが、これは一体どうしたことだろう。この村に来てから今まで、村人たちからは怪訝な目しか向けられなかったのに。それとも同情を言うためだけにやってきたのか。
「ジャネット、先に行っちゃだめだよ」
若い男の声。いよいよメアリーは警戒心をむき出しにした。ジャネットと呼ばれた少女は緊張したように自身の両手をぎゅっと握りしめた。
「あの、もしよければわたしの家に泊まりませんか? 食べものはあまりないけど……」
何を言っているのか全く分からない。こんな風体の人間を家に迎え入れようなどと、相当のお人好しなのか、それとも頭がおかしいのか。普通は見て見ぬふりだろう。
「いた、ジャネット……ここか」
後からやってきた男が顔を出した。メアリーと、後ろで様子を見守っていたメアリーの父に向かって頭を掻きながら言う。
「見ての通りこいつが言い出しっぺだよ。あんたらのことほっとけないってさ。いつものことだし、たぶん親父も許してくれるだろうけど、もし変なことしたら俺は容赦しねえから」
「兄さん!」
「ああもう、うるさいなあ。少しくらい感謝しろよ」
いきなり目の前で喧嘩をし出した兄妹を、メアリーは怪訝な目で見るほかなかった。一体こいつらは何が目的だろう。わたしたちから奪えるものなど一切ないというのに。
だけどしばらくして、御言葉に甘えようという父の言葉にメアリーは仕方なく従った。
ジャネットという少女の家は、素朴な、しかしメアリーにとっては立派な石造りの家だった。農民でもまだゆとりのある家なのだろう。
迎え入れられ家の中に入ると、少しばかり空気が暖かく感じた。台所で火を使っているのかもしれない。
ジャネットにうながされるまま近くの椅子に座った。父に助けられ母もなんとか座った。ジャネットの母らしき女性がスープを持ってきて、メアリーはそれをじっと見つめた。底の深い皿によそわれた透明なスープに野菜のくずが浮いていた。表面がかすかに光で反射してゆらめいている。それからやや大きめの丸いパンが一つ机に置かれ、メアリーは父に促されて家族分ちぎってそれぞれに配った。
無言のまま食事は始まり、お腹は空いていたけれどなるべくゆっくり食べた。いきなり食べると胃が震えてせっかくの食べものを吐き出してしまう。
薄味のスープは温かかった。貰ったパンは固くて噛めなかったから、スープに浸して食べてみた。少し柔らかくなったパンから、じわりとしたたるスープの感覚がとても美味しかった。弟の口元にスープに浸したパンをくっつけると、弟はあぐあぐと口を動かしてスープの滴るパンをなめて吸った。
食事に夢中になっていたメアリーだが、いつの間にか見知らぬ男が食卓の近くに立っていることに気が付いた。男はメアリーたち一家の食事が一息つくのをみはからい、自己紹介をした。
ジャック・ダルク。ジャネットの父で、ここの家主。
ジャネットとは違って、この男はちゃんとわたしたちを疑心に満ちた目で見た。そのはっきりとした口調は、メアリーたちのことを好ましく思っていないと言外に伝えていた。それに比べて、ジャネットの母親、イザベルは幾分か優しかった。気づかう言葉のはしばしに信心深さを感じた。
ジャネットはメアリーたちを寝室に案内をした。お客様用だと彼女は言っていたが、それは彼女の寝室であることに間違いなかった。事実、翌日起きてきたメアリーに、昨日見かけたジャネットの兄が、よく恩人のベッドを使う気になれるよなと嫌味を言ってきた。どうやらジャネット自身は屋根裏部屋で寝たらしい。
ジャネットはそれからもメアリーたちに良くした。メアリーたち一家がドンレミ村に移住することを決めたときには、はりきってその手伝いをした。
実家はすでに住める状態ではないし、今もとの村に戻れば確実に盗賊の餌食だ。メアリーたちが避難したのは、村に盗賊が来るようになってしまったからだった。赤ん坊を抱える体の弱まった母と、一人娘のメアリー。
父はこのまま村で耐えることより、まだ安全な場所へと移住することを決心した。でも親戚がいるはずだった村はすでに焼かれた後で、行くあてがなくなったどころか、血縁者が消息不明になっていた。ジャネットの父、ジャックは一応その村の生き残りについて気には止めておく、と言っていた。期待はできなかった。
ジャネットはいろんなことを教えてくれた。
まず教会の場所、それからドンレミ村の風習についても聞いた。聖歌を歌う日曜日には、近くのヴォージュの森に行き《婦人たちの樹》と呼ばれるブナの巨木の下で歌って踊り、そばにある泉の水を飲んでその周りで花を摘んだりするのだとか。泉の日曜日と呼んでいるらしい。
生活の基盤は、ほとんどジャネットを通して作られた。
それからドンレミ村へやってきて三年過ぎたころ。
その頃にはすでにジャネットという名前が愛称であり、本当はジャンヌという名であることをメアリーは知っていた。
第二話 妖精たちの樹
同い歳ではあったものの、ジャンヌとメアリーの性格は硬貨の裏表のように違った。
ジャンヌはとても素朴で優しく、信心深かった。教会には欠かさず行き、村一番のできた娘だと言われていた。
対してメアリーは気が強く、よく働きはするが人にとても厳しかった。ジャンヌを見れば眉間にしわを寄せて悪い言葉を使った。そんなメアリーにそれでも優しくするジャンヌがメアリーにとっては許しがたいことであり、ジャンヌの全てを否定したいと思っていた。「誰にでも良い顔をする偽善者」というのがメアリーのジャンヌに対する見解であり、ジャンヌへの嫌味はもはや日課になっていた。だって嫌みを言ってやると、えらく気分がすっきりするのだ。
だがある日のこと。もう一つ日課が増えることになった。
父や母からの「ジャンヌを悪く言うのはいい加減やめなさい」というお小言から逃げ、メアリーが村の中を歩いていたときのこと。
道端で会ったオメットと目が合い、相手が睨んできたからこっちも睨み返してやった。そうしたら「あんたに友達なんて絶対できない」と言われたからつい追いかけまわしてしまった。地の利もあるのだろうが、オメットはなんとも逃げ足の速いことですぐにまかれてしまった。が、きっと今頃くちゃくちゃになった赤ら顔のまま往来を歩いているに違いないのだ。ざまあ見ろ。
オメットめがけて全力で走っていたものの、息切れは少ししたら治まった。こちらとてだてに働いてはいない。逃げた家畜をよく追いかけまわしていたものだ。別に逃げたのはメアリーが失敗したわけではない。家畜が悪いのだ。
額の汗を乱暴に拭い、ここはどこかとあたりを見渡した。オメットのせいで家から随分と離れてしまった。今まで行こうとしなかったヴォージュの森も近くに見える。
不意に、森の方から誰かが歩いてくるのが見えた。女性だ。体をちぢこめて足早に立ち去ろうとしている、ように見える。
何だか気になって、相手に気付かれないよう背の高い草に隠れ近づいた。彼女が誰なのか分かって息を止めた。ジャンヌだ。連れの姿はいない。一人なのだろうか。
様子がおかしい。ジャンヌの顔は青ざめ、両手を口にやって何かを考え込んでいるようだった。そんなジャンヌを見たのは初めてだった。
森で何かあったのだろうか?
あのジャンヌをあんなにさせるまでのものとは、一体なんなのか。メアリーはなんとなく周囲を見回してから、森に向かった。
そう深く森に入る前に気がついた。ヌーフシャトーの街に通じる道の近くにあるブナの巨木の根元。そこで見てはならないものを見てしまった。
『よお』
視界に入ってしまったそれを一度は無視したものの、見てしまったものは仕方がないと、もう一度視線を戻した。
滑らかな光沢を持つ黒に近い緑の鱗。鈍重そうな蛇の体から飛び出た四つの小さな、しかし長く鋭い爪を持った手足。琥珀色の透き通った目。額には灰色に濁り、くもっていて綺麗とは言えないが、それはきっと宝石なのだろうと思った。ああ、これは知っている。想像していたものよりもずっと、子犬みたいに小さくて驚いたけれど。
妖精、ウィヴル。
『おい、気付いてるだろ。お前だよ。ごまかすな』
「……気安く話しかけないでもらいたいものだわ」
メアリーは昔からこうして妖精を見てしまうことがある。いつだって妖精の声は普通に音として耳に届くが、どこか遠い場所から聞こえ、不思議な感覚がする。
決して距離を詰めないように気をつけながら、メアリーはウィヴルを睨みつけた。
「あんた、ウィヴルって妖精でしょ」
『そう言うのならそうなんだろ』
人間と全く違う姿であるのに、意地の悪そうな目でにやにやとメアリーを見ているのが分かってしまう。
ウィヴルというのは伝承でちょくちょく登場するトカゲみたいな姿の妖精だ。メアリーが知っている中でも野蛮で、たちの悪い妖精である。人を襲うのはもちろんだが、何故だか衣服を身に付けた者を特に襲ってくるらしい。本物を見るのは初めてだが、妖精がよく出没していたと言われているこの森では珍しくもないのかもしれない。
『おい、こっちこいよ。暇なんだ』
ウィヴルは短い足で樹の根元をペしペしと叩く。
「近付くわけないでしょ。どうしてわたしがあんたの言うことを聞かないといけないの」
『そんなこと言うなって。お前が嫌いなジャンヌの秘密を教えてやるからよ。本当ならもう退屈しのぎにお前を襲っているところなんだぞ、メアリー』
ぴくりとメアリーの眉が動いた。名前を、それどころかジャンヌが嫌いなことも当てられた。どうやったのかは知らないがジャンヌの秘密、と今こいつは言ったのか?
「あんた、封じられているわね」
ウィヴルは答えない。その代わりにフン、と顔を背けた。
この森では毎年村の司祭がミサをあげる。古い神々を追い払うためと聞いていたが、こうしたウィヴルのような悪い妖精を封じ続けるためにもやっていたのかもしれない。
メアリーは心の中で笑ってしまう。こうして話せるとはその程度が知れる。妖精に対する封印とはそんなに生易しいものなのか。
『ああそうさ。オレはここに封じられている。だからここから離れられない。しかもこりゃ《妖精たちの樹》だ。オレを封じるにゃおあつらえ向きってわけさ』
「《妖精たちの樹》?」
それは、確か以前ジャンヌが言っていた《婦人たちの樹》の別称だ。昔は妖しい女たちがこの樹の下で踊ったという。その《婦人》はここらでは《妖精》と呼ばれている。このブナの巨木は何か魔的なものを秘めているのだろうか。
ふふ、と笑いがこみ上げた。そんな場所でジャンヌやオメットたちは歌い、踊って花飾りを作っているのか。
「ねえ、秘密って何よ。教えなさい」
『だったらこっちへ来い。それで、封印を解いてくれよ』
「誰が解くものですか。明らかに自殺行為じゃない」
『……だったら、せめてオレの話し相手にでもなれ。そしたら、ジャンヌの秘密を話してやってもいい』
ウィヴルは機嫌が悪そうにブルル、と鼻を鳴らした。
話し相手。それだけ聞くと可愛い響きだ。だが、長い間ここに一匹で何をするでもなく過ごしていたのなら、仕方のないことなのかもしれない。
「いいわ、分かった。話し相手になるから色々教えなさい」
これでいよいよあのジャンヌの面の皮をはがすことができるというわけだ。ウィヴルから一定の距離を保つのを忘れないようにしながら、メアリーはその場に座りこんだ。
最初のうちはウィヴルの自慢話ばかりだった。
聞けば、封印がなかった頃のウィヴルは、それはもうすごかったのだとか。どうすごかったのかはよく分からないが、とにかくすごすぎて人は容易にウィヴルのことを口にはしないし、関わろうともしなかったらしい。
一度悪魔よりも悪魔みたいな奴に捕まったりもしたが、果敢にも隙をついてお宝を盗みだし、一時その街を支配したこともあるとか。……一時、ということはすぐにやり返されたんだろうなとメアリーは思った。
そう自信満々にそう言うウィヴルの言葉を否定する気も、からかう気もない。
信じるも信じないもない。まず確かめるための材料が不足している。とりあえず人間よりはまあ能力は上だと認めてあげる。そう言ったらまた不機嫌になった。少し可愛いかもしれない。
次にまた、ウィヴルのもとへ人目を忍んで行ってみたら、メアリーを見ると丸めていた体を持ち上げて『よお』と少し嬉しそうに言った。気がした。
よく見てみれば、ウィヴルの背中には翼があった。器用に折り曲げて背中に密着させていた。木陰の中にいたせいで気づかなかった。蝙蝠のように骨ばっていて、固そうだった。はて。ウィヴルという妖精に翼などあっただろうか。
メアリーは昔聞いたおとぎ話を思い出そうとして、途中であきらめた。妖精のことを全て理解把握しようだなんて正気の沙汰ではない。妖精なんて神秘、深入りしない方がいいと親に何度言われたかしれない。
ウィヴルは、ジャンヌたちがここで遊んでいる姿をずっとここで見てきた。見ているだけしかできなかった。眠ることも飽きてしまっていた。
でもある日変化が訪れた。ジャンヌがウィヴルの存在に気付いたのだ。
ウィヴルの声も姿も声も聞こえないのに、何かの気配を感じた樹の根元にパンの欠片を一つ置いたのだという。
そうしてウィヴルは久々の食べ物を前に我慢できずペロリとたいらげてしまった。見えない何かにパンが食べられたのをジャンヌは見てしまった。それからはこの《妖精たちの樹》のもとへやってくるたび、ジャンヌはこっそりパンやクルミなんかを樹の根元にそっと置いていくようになったのだとか。
なぜ封じられているのにパンが食べられるのか、とウィヴルに聞けば、さあな、とにやりと笑った。ように見えた。
それから何度もヴォージュの森へ足を運んだが、ウィヴルが話すのは何がいいのかよく分からない自慢話と、泉の近くで遊ぶジャンヌたちのことばかりだった。
結局その日もジャンヌの秘密を知ることはできなかった。ジャンヌがウィヴルに食べ物をやっている、というのはウィヴルの言う『ジャンヌの秘密』とはまた違うらしい。
うなりながらメアリーは今日も考える。ジャンヌが抱えている秘密とは何か。今までのウィヴルとのやりとりで分かったことと言えば、その秘密とはジャンヌという少女の人生を揺るがしかねないものだ、ということだけだった。
人目を盗んでウィヴルの話し相手になるようになってから数日後。
メアリーはジャンヌに呼ばれた。それだけでも不快なのに、ジャンヌが連れてきたオメットを見てもっと不快になった。
オメットは少し不満げではあったが、メアリーに「この間はごめんなさい」と謝った。どうやら前追いかけまわした後にジャンヌに見つかり、理由を聞いたのちにオメットも悪いと説教されたらしい。メアリーは人目を忍んでウィヴルのところに行っていたから、オメットが謝ろうにも今まで見つけられなかったのだ。
「ねえ、メアリー。オメットから色々聞いて思ったのだけど、やっぱりオメットもメアリーもどっちも悪いんじゃないかしら。
最初に睨んであなたを嫌な気持ちにさせたことを今、オメットは謝ったわ。これで全部帳消しにはできないだろうけど、メアリーからも何か言うことはない?」
高圧的というわけでもなく。へりくだっているわけでもなく。ジャンヌはただメアリーにそう提案していた。いつも通りの真摯な態度だ。
それが、メアリーにはたまらなく嫌なのだ。
「ジャンヌ、あんたってやっぱり偽善者にしか見えないわ」
「え……」
「わたしはね、あんたみたいな偽善者が嫌いなの。あんたが信心深いのも癇にさわる。お祈りをし始めるところに居合わせてしまっただけで後悔するの。
わたしのいた村ではね、よく『悪者』を探してこらしめていたの。『悪者』に全ての厄を背負わせて、自分たちは神様を信じて日々を安全に過ごす。
『悪者』に選ばれた者は毎日石を投げられて、他にも酷いことをたくさんされて、され続けて……だからね、最後には死んじゃう。死ぬしかないのよ。それで、大抵その『悪者』を探し出して告発するのがあんたみたいな奴よ。神の言葉を代弁して悪しきものを言い当てる。腹が立つ。腹が立つわ。許すことなんかできるわけない!」
だから、メアリーは両親以外には妖精が視えることを言っていない。親に口止めされていなければ、今頃魔女だと指をさされて縄であちこちを縛られていたに違いない。
メアリーがあの村にいた頃のこと。『悪者』に選ばれ石を投げられたのは、メアリーの数少ない友達だった。病弱だったからすぐに死んでしまった。
村人は皆喜んだ。厄の源が死んだと大喜びした。動かなくなった彼女を抱いて、彼女の両親は村を去った。
しばらくして、盗賊が村に来るようになった。きっと村を出てったあいつらが呼び寄せたんだと誰かが言った。『悪者』探しがまた始まった。さて悪事を働いたのは誰か。厄を引き寄せたのは誰か。そこに住む老夫婦か。そこにいる汚い子どもか。そこで咳をしている女か。
――そういえば、お前のところはまだ盗賊に押し入られてなかったな?
沈黙がおりた。オメットだけがジャンヌとメアリーをちらちらと見ていた。
ぽろり、と一粒透明な水滴がジャンヌの頬を伝った。
「あれ……」
続いてぽろぽろと涙がこぼれ始めたジャンヌを見て、オメットが慌てて自分の手でジャンヌの頬を拭う。ジャンヌは顔を歪ませるでもなく、ただ茫然と涙を流していた。
「メアリー!」
オメットがメアリーを睨みつけた。
「あたしやっぱり、あんたのこと好きになれない。あたしの大事な友達を泣かせるあんたなんか、もう知らない」
オメットの澄んだ青い瞳にメアリーが映った。だけどメアリーには自分の姿がよく分からなかった。だって彼女の目は小さいから。なのに大事な友達を守ろうとするオメットの姿だけはよく分かったのだ。
しばらくして、メアリーは何も言わずその場を去った。
第三話 聖なるもの
すでにウィヴルは、メアリーにとって気の置けない存在だった。というのも、愚痴の言い合いができるからである。
『なんだ。嫌いなのに罪悪感なんか感じてるのか』
「わたしが一方的に悪者だわ。ただ意見を言っただけなのに」
『女ってなあ分からん生きものだな』
「ほんとそうだわ」
『お前も女だろ』
「そうね」
はあ、と息を吐くと、ウィヴルは面倒そうに折り曲げた膝に肘をついて顔を支えているメアリーを見上げた。
『つまんねえな。刺激的な話でもするか? 特別に提供してやってもいい』
「偉そうね」
『ジャンヌは死ぬ。十九歳でな』
メアリーが目を見開いてウィヴルを視た。確かに、刺激的だ。刺激的にも程がある。
ウィヴルは平然と言ってのけた。
『言ったろ。オレは本当にすごいやつなんだ。人の一生を見通せる。このままだとジャンヌは死ぬぞ』
「何……病気? あんなに元気なのに」
『詳しく言うつもりはない。が、ジャンヌの秘密に関わっていることは確かだ』
「分からない、分からないわよ、それだけじゃ。ちょっと、詳しく教えなさいよ!」
『だったらオレの封印を解いてくれよ』
ぐっとメアリーは言葉に詰まった。それを出されると何もできない。
ウィヴルが琥珀色の目をすがめた。
『オレは、お前とジャンヌのことは、ただ封印を解くために使えそうな人間としか思っていない。だがジャンヌには一応感謝しているんだ。長い年月ずっと暇で仕方がなかったオレに食べ物をくれた。オレが見えないくせに、馬鹿なくらい優しい娘だ。穏やかそうに見えるこの村でだって、妖精に関わっていることが知られたらやばいのにな』
「ジャンヌは、甘いから」
『ちょっと違うな。ジャンヌは平和な甘ちゃんじゃない。何度も人間が起こしたむごたらしい現実を見ている。その上で神を信じた。メアリー、近いうちに嫌でもそれが分かるよ。あと少ししたら、な』
ウィヴルは言うだけ言うと、自身の体に頭を預けて目を閉じた。メアリーはそっと気付かれないようにウィヴルに触ろうとしたが、見えない何かがウィヴルの体に触れる前にメアリーの手を押しのけた。
ジャンヌが泣いたのは、メアリーの言葉が原因だ。だが気になるのは、メアリーのどの言葉に反応したか、ということだった。
だって今まで同じようなことをジャンヌに言い続けていたのに、どうして今回に限って泣いたのか、メアリーには分からなかったのだ。
ジャンヌの秘密が分からないまま、そしてウィヴルとの交流もそのままで何カ月か経った。そしてまたウィヴルの言葉を思い出す出来事が起こった。
ドンレミ村に盗賊が来た。兵士の格好をしていた。どこの兵なのかも分からない。イングランド兵ではなく、もしかしたらフランス兵だったのかもしれない。
そのときは何軒かの家のものが強奪されたが、幸い奇跡的にも死者は出なかった。その代わりその家々は暮らしを続けて行くことが非常に難しくなった。
メアリーたち一家も含め、ドンレミ村の人々は近隣のヌーフシャトーの街に避難した。
約四日間ではあるが、それでもやっと住み慣れた家から離れたということに、少しばかり焦燥感があった。ジャンヌも同じように避難していたが、変わらず神への祈りを絶やさなかったと聞くからメアリーはまた苛立った。
ドンレミ村へ戻るとき、街道の近くにある森を見て、どきりとした。
木々の根元には捨てられた麻袋や、壊れた荷車、他にも盗賊たちが捨てて行ったのであろうものがたくさんあった。
ウィヴルは大丈夫だろうか。
そんな心配はいらないのだろうが、どうしても考えずにはいられない。あの《妖精たちの樹》に傷がついたりしたら、ウィヴルはどうなるのだろう。
はたと気付けば、メアリーと同じく真っ青になって森を見る者がいた。ジャンヌだ。じっと見つめていると彼女も気付いてメアリーを見たが、メアリーはすぐに顔を背けた。
村は酷い有様だった。
教会は焼け落ち、全ての家が踏み荒らされていた。悪ふざけとしか思えないのは、壊す必要のない柵や家の扉などが斧か何かで壊されていたことだった。
多くの人が茫然として、それから嘆いた。
大事なものを持って避難していたとはいえ、帰る場所がこんな、侮辱されたような扱いを受けたのでは、悔しくて腹が立った。だけどもこちらは抵抗することはできず、ただ避難するしかできないのだ。
ジャンヌは教会へ向かっていた。自宅を見たあとで教会へ行った。こんな、こんな悲惨なことがあったときにも、あいつはいるかどうかも分からない神へと祈るのか。
ふざけているとしか思えない。一発ぶってやる。メアリーはジャンヌの後を追った。
教会に着くと、ジャンヌはそのままフラフラと中へ入っていった。メアリーも中へと入る。扉はすでに開け放たれていて、物音に気遣うことはなかった。
教会もやはり村と同様で、金になりえそうなものは全て根こそぎ奪われていた。床は泥で出来た足跡がいくつもあって、何かをこぼした跡さえところどころにあった。
ジャンヌはそんな汚れた床に、力が抜けたかのように膝をついた。それから苦しそうにかがみ、祈った。
「神様……」
ジャンヌの呟きが聞こえた。続いて嗚咽が聞こえた。
「わたしが……村娘の一人でしかないこのわたしが、あなた様の言うとおりに王太子様を救えば、こんなこともなくなっていくのでしょうか? わたしにそんなことが出来るのでしょうか? メアリーに言われたように、わたしはただの偽善者なのではないでしょうか? そうです。わたしは、不安なのです。だからあなた様の御言葉さえ疑ってしまう。なんと愚かなことでしょう……」
ジャンヌが呻き、さらに体をかがめた。そんな彼女を見ていて、ギクリとした。
彼女の肩に手を置く者がいた。白く淡く光る、人の形をした者がいた。
輪郭は分かるものの、はっきりと視ることが出来ない。生きた人間でないことは分かる。ここは教会だ。たとえ荒らされていたとしても、妖魔にとっては近寄り辛い場所のはずではないのか。
白い人影は、ジャンヌの耳元に口を近づけたように見えた。その途端にジャンヌはびくりと体を震わせ、「ありがとうございます、ありがとうございます……」と言った。それから白い人影が物影に隠れているメアリーの方へ、頭を向けたように見えた。
この子に近付くな、と言っているような気がした。いや、言っている。何故だか確信できた。そしたら、急にウィヴルが言っていたことを思い出した。
ジャンヌは、一九歳で死ぬ。
「ジャンヌ!」
咄嗟に叫んでいた。
教会の中にメアリーの声が響きわたった。この空間が保っていたジャンヌを取り囲んでいた静謐さが割れ、砕け散った。
今だ、とメアリーは走り出した。
メアリーの声に驚いたジャンヌが「ひゃっ」と小さく声をあげた。その反応はわずかに遅かった。それは今の今まであった彼女を囲んでいた『何か』がなくなったからなのか。ジャンヌが振り返るころには、もうメアリーは目の前にいた。
「ちょっとあんたここで何してんのよ。こんなとこにいたってなんにも出来やしないでしょ! ここで祈るよりも先に村を優先するべきなんじゃないの?」
「メアリー、なんでここに」
「わたしの話聞いてる? 早くここから出るわよ! こんな陰気なことしてたってどうにもならないわ。大体あんたあの森を見たでしょ。どうしてウィヴルの様子を見に行かないのよ、あいつはどう考えたって、あんたのことが大好きなのに!」
ジャンヌの目が丸くなった。
「ウィヴル? 昔話で出てくるあの妖精のこと? その妖精があの森にいるの?」
「あんたがいつも何くれと世話をしてやってた、《婦人たちの樹》にいる妖精のことよ!」
ぽかん、とジャンヌがメアリーの顔をただただ見つめた。
「あなた、どうして」
そんなの、ウィヴルに聞いたからに決まっている。
言おうとしてメアリーはぐっと口をつぐんだ。
そんなことを大嫌いな奴に、しかも信心深いやつに言えるはずがない。妖精が見えて話ができるなどと言えば、どうなるか。
口ごもったメアリーの手を、ジャンヌが優しく自身の手で包みこんだ。潤んだ黒い瞳はメアリーの顔をはっきりと映した。そこには、ひどく怯えている子どもがいた。
「ねえ、メアリー。ここにはわたしとあなたしかいないわ。それにここはドンレミよ。あなたが昔いた村ではないわ」
もう大丈夫なのよ。ジャンヌは言って、体の横で拳を作ったメアリーの手をなでた。
ぶわ、と何かが胸の中にあふれ出すのを感じた。
本当のことを言えば確実に魔女と言われた。だけど本当のことを言わずにいたら、友人が『悪者』に……魔女なのだと言われてしまった。自分を恨むのが辛くて他人を恨むことにした。もっともなようにジャンヌを罵倒するが、それはただの逆恨みでしかない。
「わたしは、小さい頃から妖精が見えるのよ」
絞り出した言葉の後に、後悔した。どうして大嫌いなジャンヌに、しかも信心深いやつに言ってしまうのだろう。何も言わず、何もしなければ無事でいられるのに。
「あんたがウィヴルに毎回食べ物をやっていたことは……信じられないでしょうけど、ウィヴル自身から聞いたのよ」
「それは、本当?」
先程まで元気がなかったジャンヌの顔が明るくなっていく。本当に、分かりやすい。
「あの子、ウィヴルは喜んでくれてた?」
「喜んではいたけど……あんた、ウィヴルって妖精がどんなものなのかちゃんと分かってる? 村の司祭が毎度あの森でミサをあげているでしょ。ウィヴルは人間に害をなすような妖精なのよ」
「だけど、喜んでくれていたのならそんなに嬉しいことってないわ!」
うふふ、と幸せそうに笑う目の前の彼女に何か悪口でも言ってやろうとしたが、止めた。その無邪気な笑顔は、偽善者というよりも純朴な子どものそれであるように見えたから。
「ジャンヌ。ウィヴルがあんたには秘密があるって言ってた。あんたの人生を揺るがしかねない秘密だと。わたしはあんたに秘密を言った。あんたもわたしに秘密を言うべきではないの?」
「それは」
ジャンヌの顔が再びくもる。うつむいて、何かを思案したのちに顔を上げる。
「ごめんなさい。今は言えない」
「なんで」
「時が来るまで……いえ、わたしの覚悟がちゃんと出来るまで言えない。まだわたしは迷っているから。ごめんなさい」
「さっき、あんたが話をしていたのは、天使?」
ジャンヌの顔がわずかに強張った。それで十分だった。
メアリーが現れる前にジャンヌが『誰か』に言っていた『王太子を救う』という言葉。ジャンヌみたいな奴が、軽々しくそう言うものか。もし言うきっかけになるとすれば。
メアリーはジャンヌに掴まれていた手でジャンヌの手を逆に掴んで強く握った。
「もういい。今のは忘れなさい。早く村に戻るわよ。ここでした話はお互いの秘密。しゃべったりしたらその髪引っ張って泣かすから!」
「あ、メアリー」
ジャンヌの手を引いて教会の出口へと一歩踏み出していたメアリーは、逆に手を引かれて立ち止まった。ジャンヌは緊張したように、メアリーの手を握り返した。
「わたし、覚悟が出来たらきっとあなたに秘密を言うわ。あなたはわたしにわたし自身の弱い部分を気付かせてくれたから。ねえ、そのときは聞いてくれる?」
メアリーの目の前に、すまなさそうに眉尻を下げている者がいた。メアリーと同い年くらいの少女だ。
ドンレミ村で、初めてジャンヌに会ったときを思い出した。緊張して、不安そうにメアリーに家に来ないかと言ってきたあの少女は、今も変わらない。
「……聞いて、やらないことも、ない」
なんだか恥ずかしくなって視線をそらして言った。ジャンヌが嬉しそうに笑い、すぐにまた教会の出口を向いて彼女の手を強く強く握ったまま、足を速めた。彼女がたたらを踏んだ気配がしたが、速度は緩めてやらなかった。
――ここで、もし。
もしもわたしが彼女のお願いを聞いていなかったら。
あるいは彼女を酷く罵倒して落ち込ませていたのなら。
そうであったのなら、彼女はこの村を出て行く決心などしなかったのではないのだろうか。
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第四話 誓約
ジャンヌが家へ帰るのを確認し、メアリーも家に戻った。ひとまずたき火用にと小枝を拾いながら。
父は荒れ果てた家の端々を直す作業をし、母は落ちているものを片付けたり、掃除をしたりしていた。弟はその母の背中にいた。
弟のおんぶを代わり、メアリーもその作業に加わった。どこに行っていたのか、とは言われなかった。それがメアリーを信頼していたからなのかは知らないが、そんなことよりもまずは元の暮らしを取り戻すことがより重要だった。
数日後、メアリーは久々にヴォージュの森へと出向いた。メアリーがそこへ行くことは今のところ誰にもバレてはいなかった。……ジャンヌを除いて。
ジャンヌは嘘を吐かず、正しいと思ったことをしっかりと言う。それはメアリーがジャンヌに寄り添う白い人影を見たあの日から、ますます精錬されていったように思う。ジャンヌは人と話すのが少しずつ上手になっていった。本当はひどく内気で、男と話すのさえ戸惑ってしまっていた彼女は、少しずつ苦手を克服しようとしているように見えた。
「ウィヴル」
メアリーが名前を呼ぶと、ウィヴルは《妖精たちの樹》の後ろから顔を出した。
『よお。久しぶりだな。どうだった、盗賊の襲来は』
「最悪よ」
『だろうな。ここにも来たぜ。泉の水じゃなく酒を飲んで歌って踊っていた。見苦しいもんだ。どうして盗賊には若い娘がいないのかね。そっちの方が断然良いのにな』
「うるさいわよ。それよりあんた、その体、どうしたのよ」
ウィヴルの濃い緑だった鱗は青みがかり、表面で波打つ光の全てがウィヴルを取り巻いるように見えた。
『オレだって着飾るときぐらいあるさ』
「それは着飾る内に入るの? というか、あんた今まで一歩も樹の傍から歩けなかったじゃない」
『歩けたさ。疲れるから歩かなかっただけで』
「今は疲れないってわけ?」
『さあ。どうだろうな』
ククク、とまたウィヴルは不気味な笑い声を立てた。
『それよりも、お前まさかオレの安否確認のためだけにここに来たわけじゃあるまい』
「そうよ。わたし、ジャンヌの秘密が分かったの。だから一応答え合わせしておこうと思ってね」
『ほう。言ってみろ』
ウィヴルの琥珀色の目がギラリと挑むような光を宿す。メアリーもそれに負けないように精一杯ウィヴルを見つめ返した。
「ジャンヌは、神にフランスの王太子を……つまりフランスを救えと言われたのね。それが原因で、一九歳で死んじゃうんじゃないの?」
『――御名答。ついでに言うと、この樹は霊気を宿している。オレがいることもあってそれは強い。天使どもはたびたびこの樹を地上へと降りるための良い着地場所として使って、ジャンヌに啓示をした。嫌みにも、このオレ様の目の前でな。ほら、だからお前がここに初めて来た日にジャンヌは血相を変えて走ってったろ?』
樹の裏から出て来たウィヴルは、その短い尻尾の先がかろうじて樹の肌に離れないところまでメアリーの傍へ近付いた。
『やっぱまだここまでだな』
「まだ、封印は解けていないようね」
『時間の問題だ。あと二、三年ぐらいで解けるさ』
「司祭様を呼んできましょうか」
『無駄だ。盗賊どもは下品で気分が悪くなるばかりだったが、あちこち荒らしてくれたからな。おかげでここらの空気も良くなった。そう簡単に以前と同じには戻るまい。お前ら人にとっちゃ悪い空気なんだろうがな。そこでお前に提案だ』
すっ、とメアリーは目をすがめた。
この妖精が人間にとって悪いものであることはすでに理解している。だけどメアリーにとっては、すでに悪友のような感覚さえあった。きっとろくでもない提案だろうが、聞いてやらないでもない。
『オレの封印が解けたあかつきには、ジャンヌをあの憎き神から奪わないか? でないとこのオレはまた目的もなく無差別に人を襲う化け物に戻っちまうぜ? あんな娘を神の国へくれてやるなんてもったいねえ。オレのものにしなきゃな』
「奇遇ね。確かに神にあの子を渡すのはもったいないわ」
『ハッ、分かってるじゃねえか。ああ、良いことを教えてやる。ジャンヌは一六歳になったらこの村を出て伯父と一緒にヴォークルールの守備隊長、ボードリクールの元へ行く。何をしに、なんて分かるよな?』
メアリーはフン、と鼻を鳴らした。
「ジャンヌのことなら、もう大体分かるのよ、わたし」
言いつつ、持ってきていた荷物の中から殻をとったクルミとパンを包んだ手ぬぐいを取り出して、ウィヴルの前へそっと置いた。
「じゃあね。わたしそろそろ家へ帰るわ」
『次は?』
「あんたがわたしのところまで来なさいよ」
『上等』
こみ上げる笑みを押し殺しながら、メアリーは森を出た。
ずっと遠くに、ジャンヌの家が見えた。メアリーにとっては立派な石造りの家であり、このドンレミ村に来て初めて眠った場所だった。
ジャンヌがいるべき家だった。
――三年経った。
ジャンヌは以前よりもまたさらに素晴らしい娘へと成長した。
人と話すことに誰よりも優れ、自身の神への情熱を余すことなく他人へと伝えることができる、敬虔な信徒となった。
他人に対しての愛情は人一倍深くなり、前よりも既然とした態度で人と関わるようになった。ドンレミ村の教会をよく鳴らし忘れていた見習い小僧なら、鐘を鳴らし忘れるたびに受けたジャンヌの叱責が、日増しに精度が上がっていったことがよく分かることであろう。
ある日ジャンヌはメアリーの家まで訪ねてきて、人気のない場所で話をした。予想した通り、それはジャンヌの秘密についてだった。
フランスを救えという神様の声を聞きずっと迷っていたが、やっと外へ行く覚悟が出来たこと。これから伯父にも秘密を話し、村を出る手伝いをしてくれるよう説得しようと考えていること。ジャンヌが話した内容についてはまだメアリー以外には知らず、ずっと小さいときから一緒にいたオメットとは会わずに村を出ようと思っていて、もし塞ぎこむようなことがあったら元気づけてやって欲しいということ。
それら全てをメアリーは腕を組んだまま表情を変えずに聞いた。それでもジャンヌは臆さなかった。自信に満ちた態度だった。
ジャンヌは伯父と話がついたなら早々に村を発つようにするという。それを聞いて、メアリーは最後に一つだけジャンヌに聞いた。
「ジャンヌ、神がフランス王国を救うと決められたのなら、あなたは何もしなくても大丈夫なんじゃない?」
ジャンヌは驚いた顔をしたが、すぐに自信に満ちた顔になった。
「それは違うわ。わたしが行動を起こすからこそ、神様はわたしを導いてフランスを救う活路を開いてくださるのよ」
そう言うと、ジャンヌは一度考えるように視線を泳がせてから、少しはにかみながら言った。
「メアリー、わたしが戻ってきたら、今度こそみんなでヴォージュの森へ遠足に行きましょう?」
そんなことを言われ、少しどう答えたものか迷ったものの、メアリーは今度こそ嫌味などなしに「ええ」と言えた。
途端にジャンヌはメアリーの体を抱きしめた。ぎゅっ、と離れがたそうに抱きしめられ、その体温に安心した。ああ、この子はやはりどこにでもいる優しくて素朴なただの村娘なのだ。
ジャンヌがその場を後にしたあと、物影から出てきた妖精を見つけてメアリーはひねくれた笑みを浮かべた。
「ウィヴル。ぎりぎりね」
『丁度いいだろ』
ウィヴルの姿は随分と様変わりしていた。鱗は完全にサファイアと同じ輝きを宿し、内から淡い光を発しているようだった。そして七色の光を反射させる額の石はもう疑いようもない。それはまさしくダイヤモンドと呼ばれる宝石だった。
まじまじと見ていると、ウィヴルは偉そうに胸を張るような仕草をした。
『当分はこのオレの姿を眺めてため息を吐くがいい』
「何を言っているのよ」
ついつい笑ってしまう。この妖精は悪い妖精であるはずなのに、もうメアリーにとっては心強い仲間だ。いつ裏切るか分からない危なっかしいものではあるが、ジャンヌを神から奪い、自分のものにするまではメアリーに協力するだろう。それは言える。
けれど言っておかなければならないことがある。
『あ? 今なんか言ったか』
「ええ言ったわ。聞こえないフリなんかしないでよ」
昔の弱いわたしにはできなかった。
そうよ。絶対、絶対よ。
他の誰にも、ウィヴルあんたにも奪わせない。
わたしは今度こそ、大切な友達を助けに行くの。
◆参考にさせて頂いた文献
レジーヌ・ペルヌー,マリ=ヴェロニック・クラン著,福本直之訳『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年。