第一話
「そんなのじゃありませんよ」
冬の間、固く締まっていた椿の莟がようやく顔を出し始めた頃、
京には初春の風が薫っていた。
鴨川の水も、薄汚い泥の混じった色から透明な澄んだ色に変わってきた頃である。
一人の若者と男が休息所の縁側で話をしていた。
時折髪をさらっていく風には、心ばかり暖かみがあった。
「先生は本当に心配性なんだから」
そう言った若者はまだ、二十歳くらいに見える。
長身で色が青く、朗らかな笑顔を浮かべ
ている顔には夜の穢れなど知らないような、そんな幼さが感じられた。
「俺は心配性じゃねぇ」
もう一人の男
―――その男は青年よりも十程年上に見える―――
は煙草を片手に胡坐をかいて座っていた。
髪を後方に纏め、こめかみよりも高い位置でくくっている。
肌の色は青黒く、青年と正反対な切目が、より整った顔を印象付ける。
「俺が言いたいのは、何でも相談してくれないと困る、ということだよ」
男は長い切目で遠く離れたところに見える東寺を眺めて言った。
「土方先生、私には、先生に心配してもらうようなことはありませんよ」
若者は笑ったが、内心少しとまどっていた。先日の事を思い出していたのである。
先日の事、とは後で述べてある。
けれど若者の言葉には、心の曇りなど、微塵にも感じられなかった。
逆にいつものような明るい口調だったのである。その声を聞いて少し安心したのか、
「それならいいんだ。何も心配などはしていないが・・・」
そういいつつも男はチラリと若者に目を見やった。若者は男と話をしながらも、熱心に修行に励んでいる。手には竹刀が握られていた。
(ああいっているが、納得しているとは思えない・・・)
若者は、自分に向けられた視線を受けて、男の気持ちを感じ取った。そして苦笑紛れに言った。
「土方先生も、私のことなどに気を使わないで、先生自身のことに気を使われたらどうです。最近、目まぐるしい環境の中で疲れも溜まっていることでしょうし・・」
若者の言うとおり、最近になって特に仕事が多くなった。芹沢の一件で一段落着いたと思えば、攘夷や薩摩などの浪士たちとの接触が目立ってきて、明日が明後日のように感じられる日々なのである。
暫く無言が続き、男が先に口を開いた。
「そろそろ屯所に戻ろうか」
煙草の煙が広がった。
「ええ」
「あんたはどうする」
男はすでに屯所の方へ、歩きだそうとしている。
「私は・・・」
若者は少し空を見上げた。先ほどまで曇っていた空は光が差してきている。
「私はもう少し残ります」
残る、というのは竹刀のことだろう。休息所の傍らで稽古をするのが、この若者の非番の日課であった。
「そうか。・・・総司」
若者は顔を向けた。
「はい」
「具合が悪いのであれば、医者に通え」
そういい残すと、さっさと屯所へ戻っていった。
「ええ。近いうちに」
(気づかれるはずのない、と思っていたのに。こうもあっさりと気づかれるとは)
苦笑紛れに青年が心の中で思ったのを、男は知らない。
男の名を“土方歳三”。
若者の名を“沖田総司”という。
(総司の奴、最近妙な咳をしやがる)
土方がそう思うようになったのは、年号が「元治」に変わった年の、三月あたりからだった。
鴨川の岸辺に植わっている柳の芽も、だんだんと淡い緑に変わりつつあった。
が、三月だというのに、突然霜の降りる朝が来たりして、京の天気は不順続きである。
そんなある日のことだった。
土方は一番隊を引き連れて、見回りに出かけていた。
一言で見回りといっても、新撰組が街を歩いているのをみると、人々は震えあがった程である。
毎日のように武士や浪人たちを容赦なく斬る姿は、鬼畜のように見えただろう。
その日は、屯所の近くの茶屋で酒を飲んでいた浪士たち、十数名とぶつかった。
相手は名も知らぬような、田舎の藩の者らしい。
新撰組だと知ってか、知らないのか、昼間から酔って、からんできたのである。
「斬る」
土方は真っ先に刀を抜いた。いつ、どこで闘争があってもいいように、刀はこまめに手入れしてある。
この男の几帳面なところが出ている。
ギラリと光った刀と、目の据わっている男を見て、浪士たちはうろたえた。
そんな浪士たちを見て、土方の隣に並んで歩いていた沖田は
「ただの酔っ払いですぜ。ほっときましょうよ」
と、なだめた。
けれども土方は
「無礼極まりない。叩き斬る」
と言って聞かない。
元々、仏や神よりも、自分の生き方を信じているような男だから、沖田が何を言おうと関係ないのである。
それは沖田もわかっていることだった。
結局、沖田率いる一番隊の隊士たちも、抜刀することになった。
何の手負いもせずに片をつけた。
相手がどんなに泥臭い田舎者であったとしても、手加減は許されない。
これは隊内の風紀を乱さないようにする為の決まり事なのだ。
局中法度に書いてある。
──私事で斬り合いにおよんだとき、相手を斃さず自分のみが傷を負うた場合、未練なく切腹すべし──
私事で闘争になったとき、自分が怪我をして負けそうになっても、逃げて帰るなどはしてはならない。
つまり、相手を斃すほか、自分の死をまぬがれる方法はないのである。
恐れをなして逃げた場合、切腹。
武士として、いったん白刃を抜いたのなら、逃げることなど許されないのだ。
近藤、土方らが考えた、厳酷な律令と言えるだろう。
戦国時代の武士たちの律令にさえ、なかったのではないだろうか。
この他にも、様々な隊規があり、恐くなって逃げ出す者もいたが、
局中法度の一条に、“士道に背くまじきこと。局を脱することを許さず”
とある。
当然、切腹。
近藤、土方、隊員の非違を聞いたならば、二言目には「斬れ」である。
容赦なく、断首、暗殺、切腹を下した。
新撰組結成以来、死刑になった者の数は、多い。
許され難いことであるとわかっていても、自ら脱走を図る者もいた。
これから先、不安定な世の中での自分の行方が恐くなったのだろう。
隊規を見ても、その様子が伺える。
しかし、武士としても、新撰組隊士としても、半端な覚悟ではやっていけない。
情に心を揺るがされてはならない。
人間の最大の弱みが「臆病な心」であることを、近藤、土方は十分にわかっていた。
「・・・・・」
土方は道端に倒れこんだ浪士たちには目も向けず、振り返ると無言のまま、屯所の方へと歩き出した。
続いて沖田。
その後に、一番隊の隊員が続く。
人々が恐れ、散ってゆく道を、土方が先頭をきって歩いていた。
その土方の横に、沖田が近づいてきた。
「土方先生」
沖田は明るい若者である。
朗らかな笑顔を浮かべて言った。
「今日、清水の方へ出かけようと思います」
「何でだ」
土方は無愛想にいう。
こういう性分なのである。仕方が無いといえば、仕方が無い。
「あそこにいい茶店があるんですよ」
「そうか」
沖田は無邪気に言った。
「先生も行きませんか?」
「俺が?」
「ええ。久しぶりのいい天気ですし」
沖田は笑った。
「それに、いい俳句が出来ますよ、豊玉宗匠」
からかい半分で言った。
豊玉、というのは土方の俳号で、この男は柄にもなく句を詠むのである。
沖田はそれを、知っている。
というよりも、沖田だけが知っている土方の弱みなのである。
このことは、近藤でさえ、気づいていなかった。
一人で自室にこもり、吟味しているときもあれば、外出時に詠むこともある。
だが、この句がまた、とてつもなく、下手なのである。
これは、素人の沖田が見てもわかることだった。
(この人の頭のどこから、こんな下手な句が出来るのだろう)
沖田は土方の句を読む度に、可笑しさがこみあげてくる。
しかし、沖田はこんな土方をかわいいと思った。
天性の才能を持って生まれてきたこの男が、句まで完璧だと、どうしようもない。
「俺は忙しい。他の奴らを誘っていけ」
土方はぶっきらぼうに言った。
「そうですか。それは残念だ」
沖田はそう言ったが、全く残念だという顔をしていない。
しばらく二人は黙って歩いていたが、土方が口を開いた。
「それより・・・」
「それより、何です?」
沖田は聞いた。
いつの間にか、口に草をくわえている。
「総司、体の具合はどうなんだ」
「どう、とは?」
「医者には通っているのか」
「それほどじゃありませんよ」
「なに」
土方は横目で沖田を見た。というよりも、少し睨む、といった感じだった。
「いやだなぁ、土方先生は」
沖田は、にっこりと笑顔を浮かべた。
「相変わらず心配性なんですね」
先日、池田屋での切り込み騒動があった。
あの有名な池田屋異聞である。
この事件については、前から京で噂になっていた。
長州の浪士たちが、京都に集まり、話し合いを行うというのである。
目的は、もちろん”攘夷”。
国論を攘夷にもっていこうと、長州の浪士が集まっていた。
その集まり先が、池田屋だったのである。
討ち入ったのは、たったの五人。
そのときの討ち入りの一人が、沖田総司だった。
剣の使い手として有名だったし、隊内でもこの若者に勝てる者は、そうそういなかったのだから、当たり前と言えばそうかもしれない。
人数で戦えば不利だった、この池田屋での騒動で、新撰組が勝てたのも
この若者無しでは、難しかったのではないだろうか。
それほどの実力者であり、生まれつきの才能もあった沖田が、池田屋で死に追いやられたのである。
(死ぬ)
沖田はそう思った。
相手の長州の浪士にやられたわけではない。
「亭主、御用改めであるッ」
そのとき池田屋に駆けつけた隊士たちは、近藤勇ら、合わせて十人。
土方はいなかったが、何故いなかったのかということについては、また他の機会に説明しようと思う。
予定では、会津から援護がくるはずだったのだが、いっこうに来る気配がない。
だんだんと夜が更けていき、あたりが真っ暗になった。
新撰組の頭であり、討ち入りの命令も全てこの男がうけもっていた。
新撰組局長、近藤勇。
「どうするよ、総司」
援護がこないのと、京の夏の蒸し暑さに限界を感じていた近藤は、焦りと不安でいっぱいだった。
これ以上、時を待つと長州の獲物を逃がすかもしれない。
だが、たったの十人で、二十人の相手を倒すのには、少し無理があった。
なかなか考えがまとまらない近藤は、横にいる沖田に聞いてみたのである。
聞いて、考えをまとめようとしたのだろうか。
沖田はいつもと変わらない、明るい声で答えた。
「さぁ、私にはよくわかりません。
でも、やると決めたからには、命をかけてやりますよ」
近藤は黙っている。
けれど、沖田の笑った顔を見て、決心をつけた。
「よし!今から斬りこむぞ!」
近藤勇は勇者である、と後の世に伝えられているのならば、
このときの判断が大きく関わっているのではないだろうか。
「いいでしょう」
近藤の言葉に、少し戸惑ったものもいたが、
沖田の声を聞いて、皆安心した。
まるで、今から散歩に出かけるような、そんな明るい声だったのである。
(これ以上待つと、大魚を逃がすことになる)
近藤は立ち上がると、低い声で内側を呼んだ。
内側には新撰組監察の一人、山崎丞が近藤の到着を待っていた。
これもまた別の機会に詳しく話そうと思うのだが、
近藤らの討ち入りが果たせたのは、山崎丞の働きが大きく関係していると言っても、過言ではないだろう。
戸の桟を外し、隊士たちを内側へ入れると、山崎は状況を近藤に話した。
「浪士たち十数名、いずれも二階にいます」
「山崎君、ご苦労だった」
言い残すと、近藤は刀を抜き、二階へ続く階段を、いっきに駆け上った。
それに続き、沖田、永倉が駆けていった。
永倉とは、副長助勤の永倉新八である。
この男も、そうとうの腕がたった。
二階での乱闘の中で、沖田はかすり傷一つ受けず、浪士共を相手にしていた。
向かってくる敵を次々と斃し、戦場の真っ只中にいた沖田は、不意に息が止まるのを感じた。
喉の奥がつまり、直後、生暖かいモノが込みあげてきたのである。
体中の力が抜けそうになり、刀を床に刺して身体を支えたが、こらえきれずに、かがみこんだ。
途端、込みあげてきた生暖かいモノを吐いた。
(・・・・・血・・!?)
見ると、口を押さえていた片方の手の甲に、赤黒い血がべっとりとついていたのである。
(もしかすると)
感の鋭いこの若者は思った。
(自分はもうすぐ死ぬのではないのか)
喀血といえば、ただの体調不良ではない。
嫌な予感が頭をかけぬけた。
が、ゆっくり考えている暇もなかった。
──ヒュン──
と空を切る音が聞こえ、刃の先が沖田の頬をかすめ、わずかだが、髪を切った。
気づかぬうちに、背後から敵が迫っていたのである。
沖田は飛びさがると、下段に構えた。
長い廊下から土間につながっている。
さきほどから、廊下や土間など、一階で刀を交えていた。
細長い廊下では突きで、土間では斬った。
長刀は屋内で戦うのには、あまりむいていない。
短い脇差の方が、使いようによっては有利なのだ。
危機一髪、沖田は土間へと跳ねた。
だが、突然の体の異変についていけず、目が眩むのを感じながら、必死に歯を食いしばって敵に太刀打ちを与えた。
相手は吉田稔麿。長州尊攘派の頭と呼ばれた一人である。
沖田は再び構えを取ったが、相手は絶命していた。
沖田とやりあう前にも、すでに太刀打ちを食らっていたらしく、右肩から股下にかけて血が滲んでいた。
あたりはだいぶ静まってきた。
敵の数も、序々に減ってきているのだろう。
二階から飛び降りて、庭に落ち、路上へ逃れようとする浪士たちを、外で固めていた隊士たちが斬っていった。
池田屋の土間付近にいた沖田は、二階で戦っている近藤らを助けるようと、駆けた。
が、十歩も歩かぬうちに、またも息がつまった。
顔から血の気が引いていくのがわかる。
さっきは底力というものなのか、潜在能力なのか、それとも偶然か、若者の腕には力が戻った。
けれど今はそんな力など、残ってはいない。
苦しくなり、胸を叩くと、さっきとは比べ物にならないほどの血が床一面に広がった。
急に力が抜け、沖田はそのまま床に折り崩れ、意識を手放した。
それから数日後。
屯所で医者に具合を見てもらっていた沖田だったが、特に目立って異常はないと言われた。
この若者は、池田屋での喀血のことは、たれにも言わなかったのである。
「返り血を浴びただけですよ」
他の隊士にはそういって、ごまかしていた。
周りに心配をかけたくない、というのもあったし、もしかすると自分は病気なのではないかと思い始めていたからである。
少し熱が出たので、医者に解毒剤を貰い、自室で寝ていた。
ニ、三日休むと体はずいぶん楽になり、沖田は屯所を出入りするようになった。
なのだが、体が楽になったといえども、完全には回復していないようだ。
時折、乾いた咳をした。
「沖田さん、無理しちゃいけねぇよ。風邪はこじらせたら大変だ」
そういって沖田を風邪だと心配する隊士もいたが、
そのつど、沖田は笑っていった。
「なに、大そうなものじゃありませんよ」
けれども、感づいていた。
風邪ではないのだということを。
(もしかすると、労咳なのではないか)
このことは誰にも言わなかったので、他の隊士や医者も、疑わなかった。
第一、 この明るくて朗らかな若者が労咳であることなど、考えてもしなかったのである。
労咳と言えば、治る見込みのない不治の病とされ、家族からもきらわれた病気だということは、子供でも知っていた。
結核のことである。
が、沖田は隠していたのだが、この男だけには隠し通せなかったようだ。
「総司、お前最近変な咳ばかりしねぇか」
屯所のはずれにある、休息所で話をしていたときにも聞かれた。
洞察力にも優れた男である。
新撰組、鬼の副長と呼ばれた土方歳三。
あのあと、
「具合が悪いのであれば、医者に通え」
と言われた。
「ええ。近いうちに」
沖田は言葉を濁した。
その後も何度か薦められたが、笑っているだけだった。
そのうち、土方も忘れたようだ。
一日が一瞬で過ぎていく日々の中で、他人の病気などを気にかけることなど、この男には出来なかったようだった。
そういう性分なのだから、仕方が無い。
もしその場に沖田の義姉である、お光がいたとすれば、引きずってでも医者に連れていっただろう。
新撰組の発端である、道場のある江戸から離れ、京に来てから、ちょうど一年が経とうとした。
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こんにちは。昴です。今回初めて、小説を投稿させて頂いたのですがいかがだったでしょうか…。まだまだ、いたらぬ点は多々あるかと思いますが、どうぞ広いお心で見守って頂けたら幸いです。