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もう一人の恵子

作者: 中尾秀樹

 春木恵子は外交官の娘として育った。

 幼少時代を海外で過ごした恵子が東京大学へ進むことは、家族にとってはしごく当然のことだった。ただ、父と違い法学部へ進まなかったのは、祖母に連れられていった歌舞伎やミュージカルを見たからである。恵子は文学部へと進学した。大学時代を勤勉に過ごした恵子は、卒業後出版社へ勤務する。しかし、文学に興味があったわけではない。ただ文化的な仕事に就きたいと思ったにすぎなかった。二年間勤務した後、子供のころに祖母に連れられていった舞台が忘れられず自分も演技をしてみたいと思うようになっていた。出版社を退社すると、四つのアルバイトを掛け持ちしながら演技の勉強を始めた。勉強のかたわら幾つかのオーディションを受けると、その中にテレビのオーディションがあった。たまたま受けたそのオーディション恵子は合格してしまった。それが人気番組の『進め!電波少年』だった。

 東大出身という恵子の経歴から、坂本ちゃんという芸人の家庭教師となり、東京大学へ入学させるという企画に起用されたのである。恵子は一躍この番組で「ケイコ先生」として脚光を浴びることになった。

 番組終了後も人気は衰えず、ドラマやバラエティの仕事が舞い込むようになった。しかし、恵子自身はそのことに満足を覚えることはなかった。当時、恵子は雑誌のインタビューに応えてこういっている。

 「芸能界のお仕事って受け身ですよね。一つの仕事が終わったら、また、次の仕事が来るのを待つ。こんな状態にストレスを感じてしまうんです。自分で待つということよりも、もっと積極的に前に出て、何かをしたいんです。最近は、そう思うようになっているんです」

 そんなとき、恵子が幼少のころ見ていた歌舞伎とミュージカルを融合したものに出会ってしまった。それが浪曲だった。恵子が見た浪曲は女性が演じるものだった。このことに恵子は衝撃を受けた。舞台に立っていたのは二代目春野小百合である。女性が自分で主役を演じて時代劇ができる。恵子は自分がやりたいことを見つけて興奮を覚えた。舞台が終わるのを待って恵子は春野小百合の楽屋を訪ねた。大阪の国立文楽劇場である。

 「なんだって、あなた浪曲師になりたいんだって。お嬢さん、冗談いうのはお止めなさい」

 春野小百合は呆れた顔でそう言った。芸歴五十年の大御所には恵子がふざけているようにしか思えなかったのである。

 「本気で、浪曲師になりたいと思っているんです。自分の進むべき道、やりたいことが分かったんです。お願いです。弟子にして下さい」

 恵子はやさしい顔立ちながらしっかりとした口調で、きらりと目を光らせてそう言った。

 「いいお嬢さんが、遣る仕事じゃあないんだよ。それにあなたタレントとして、もう売れてるじゃあない。なにも芸人の、おじいちゃんおばあちゃん相手の浪曲なんかやらなくたっていいじゃあないの。お若いお嬢さんなら、芸能界にはもっと他にいい仕事があるでしょうに」

 「でも、どうしてもやりたいんです。わたし、子供のころから歌舞伎やミュージカルが大好きだったんです。でも歌舞伎は、女にはできないし、ミュージカルだって時代劇のミュージカルはありません。わたしは音楽が鳴っていて演技をする時代劇がわたしには合っているんです。今日、師匠の浪曲を拝見させていただいて、これだって、思ったんです。これしかないって。これはわたしにぴったりのものなんです。師匠、お願いです。わたしはどうしても浪曲がやりたいんです。弟子にしてください」

 春野小百合は呆れ果てた。

 「そういってもねえ。あなた東大でてるっていうじゃない。そんな一流大学出てるなら、ほかにいくらだっていい仕事があるでしょうに。それに収入だってもっと貰えるでしょう。浪曲師なんて、いまどき流行らない仕事したって、たいした収入にはならないわよ。まだ、落語や漫才ならいざ知らずね。浪曲師なんていくらも仕事がないんだから。東大卒のエリート社員とくらべたら比較にならない暮らしが待っているのは間違いないんだから。それでもいいの?」

 「はい、収入じゃあないんです。自分のやりたいことをやりたいんです。ただのタレントとしてではなく、一人の人間として、悔いのない生き方をしてみたいんです」

 「まあまあ、ほんとに、困ったお嬢さんね」

 春野小百合はそういって煙草に火を点けた。恵子は火の点い煙草を、まんじりともせず見つめた。

 その日から、春野小百合への入門願いは一週間も続いたのである。

 恵子は、自宅のある東京から新幹線に乗って、毎日大阪国立文楽劇場へ通った。

 一週間後、春野小百合は恵子のしつこさに根を挙げてしまった。

 「仕方ないわね。あなた、ほんと、変わった人ね。なかなか強情だし」

 「はい、わたしは、思い込んだら後へ引かない性格なんです」

 「仕方ありません。この小母さんも、あなたには負けたわ。それなら弟子として徹底的に厳しく鍛えますから。それでいいですね」

 「はい、覚悟はできています」

 こうして恵子は、浪曲師春野恵子となったのである。


 2012年、大阪市の文化芸術活動の振興に寄与する者として春野恵子は『咲くやこの花賞』を受賞した。入門して10年の歳月が経過していた。


 難波津なにわずに 咲くやこの花 冬ごもり

      いまは張るべと 咲くやこの花

                  (古今和歌集より)


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