「兄妹水入らずなんだ」と婚約者が言うので、妹さんの婚約者だった公爵閣下と、今は水入らずです
「兄妹水入らずなんだ。君は閣下とでも話していてくれ」
王立歌劇場の桟敷で、婚約者のユリウス様はそう言って、前の席の椅子を引いた。
座ったのは、妹のルイーゼ様だった。ユリウス様はその隣の、もう一つの前の席に腰を下ろす。桟敷の前の二席は舞台のよく見える席で、女性の客を座らせるものとされている。男性が前に座るのは作法から外れるけれど、ユリウス様は気にしない。妹の隣が、ユリウス様の席だからだ。
残った後ろの席に、私と、もう一人が座った。
エーレンフェルス公爵、コンラート閣下。ルイーゼ様の婚約者である。
(今夜も、この並び)
四人で出かけるようになって、もうすぐ二年になる。
未婚のルイーゼ様が婚約者の閣下と出かけるには、付き添いが要る。その付き添いを、兄のユリウス様が買って出た。ついでに自分の婚約者も連れていけば四人で楽しい、というのがユリウス様の理屈で、私との婚約が決まった春に、ご自分で言い出したことだった。
そして出かけると、着いたとたんに兄妹が腕を組んで前を歩き、二人の婚約者が後ろに残る。園遊会では、兄妹が池の小舟に二人で乗って漕ぎ出し、岸に残された私たちは、日傘の影で一時間、水面を眺めていた。秋の狩りの集まりでは、兄妹が馬を並べて森へ入り、私は天幕で、閣下は馬の背で、帰りを待った。去年の私の誕生日に届いた贈り物の箱には、ユリウス様の字で「ルイーゼが選んでくれた」と書いた札が添えてあった。
人に「ユリウス様は?」と聞かれるたびに、私は「妹思いでいらっしゃるから」と笑って答えてきた。閣下も、ルイーゼ様のことを聞かれると「兄上と一緒だ」とだけ答えていた。取り残された者が取り繕うのが、いつのまにか当たり前になっていた。
隣の閣下とは、そのあいだ、挨拶と天気の話しかしたことがない。淡い麦藁色の髪を短く整え、夜会でも飾りのない黒の礼装を着ている方だ。口数が少なく、表情もあまり動かないので、王都では冷たい方だと言われている。兄妹が腕を組んで歩き出すたびに、閣下は何も言わず、ただ背筋を伸ばし直す。その仕草を、私はこの二年、何度も横で見てきた。たぶん私も、隣で同じように背筋を伸ばしていたのだと思う。
幕が上がった。この春の新しい演目、『湖の騎士』だ。ずっと楽しみにしていた。けれど舞台の半分は、寄り添った二つの黒い頭で見えない。ルイーゼ様は兄の肩に頭を預けて、何か囁いては笑っている。ルイーゼ様の髪のリボンと、ユリウス様のタイ留め。揃いの空色が、蝋燭の明かりを跳ね返した。
(兄妹水入らず)
家族など、内輪の者だけで過ごして、他人をまじえないこと。水入らずとは、そういう意味だ。
(では、締め出された私たちは何かしら。……ああ、水か)
なるほど。私たちは、水らしい。
そう思ったら、急に可笑しくなった。こらえきれずに、鼻から小さく息が漏れる。隣で、閣下がこちらを見た。
天気の話ばかりしてきた方に、私は初めて、天気ではないことを言った。
「閣下。私たち、水だそうですわ」
「……水?」
「水入らず、の水です。内輪に入れてもらえない、他人のほう」
閣下は一度まばたきした。それから白い手袋の手で口元を覆い、横を向いた。広い肩が、小刻みに揺れている。
(笑っていらっしゃる)
この方が笑うのを、私は初めて見た。
「失礼」と、閣下は低い声で言った。手の下で、まだ口の端が持ち上がっている。「水か。……六年、自分を何と呼べばいいのか分からなかった」
「でしたら、水です。水は水同士、せっかくの席ですから、舞台をちゃんと観ませんか」
閣下は少し考えてから、椅子を斜めにずらした。兄妹の頭のあいだに、舞台の真ん中がのぞく隙間がある。私も椅子を寄せた。前の二つの頭が傾くたびに、私たちもそろって首を傾ける。
「騎士が湖に向かって歌っているのは、亡くなった恋人の名前です」
私が小声で言うと、閣下も小声で返した。
「詳しいな」
「台本を読み込んでまいりましたので。このあと騎士は、恋人の沈んだ湖に、毎年同じ日に通います」
「何年」
「幕が下りるまでずっと、です」
「……長く通ったものだな」
「閣下ほどではございませんでしょう」
閣下はまた口元を覆った。今度は、手の下から小さな音が漏れた。前の席のルイーゼ様が、ほんの少しだけ眉をひそめて振り返り、すぐに兄の肩へ顔を戻した。
閣下が聞き、私が話す。前の席の兄妹は、それきり一度も振り返らなかった。
幕間になると、兄妹は二人で廊下へ出ていき、苺の氷菓子を二つ持って戻ってきた。一つはルイーゼ様の、もう一つはユリウス様の分だ。
「あ」とユリウス様が言った。「君たちの分を忘れた。閣下、ヴィルマを頼みます」
忘れた、というより、初めから勘定に入っていない。
閣下が立ち上がった。桟敷の戸口で振り返る。
「何がいい」
私は少し驚いて、それから答えた。
「檸檬を」
閣下は檸檬の氷菓子を二つ持って戻ってきた。一つを私に渡し、もう一つを手に、後ろの席に座り直す。器が、手袋越しにひんやりと冷たかった。
(何がいい、と聞かれたのは、いつ以来かしら)
ユリウス様が私の分を買ってきてくれたことも、何度かはある。どれも苺だった。ルイーゼ様の好きな味だ。私が苺より檸檬を好むことを、ユリウス様は知らない。聞かれたことがないのだから、知らなくて当然だった。
戸口の外の控えの椅子で、侍女のベルタが目を丸くしてこちらを見ていた。
第二幕も、私たちは後ろの席で最後まで観た。前の席では、ルイーゼ様が小さくあくびをして、ユリウス様がその耳に何か囁いていた。騎士が湖の底から恋人の形見の剣を引き上げたとき、ふと隣を見ると、閣下は身じろぎもせずに舞台を見つめていた。幕が下りた。拍手をしながら、私は、舞台を最初から最後まで観られたのがずいぶん久しぶりだと気づいた。二年のあいだ、私が観ていたのは、いつも誰かの後頭部だった。
帰りの大階段で、ユリウス様がルイーゼ様の手を取ったまま振り返った。
「来週の王宮の夜会も、四人で行こう。いいだろう?」
聞かれているのは返事ではなく、頷きだ。私が頷くと、隣で閣下が、前の二人には届かないくらいの声で言った。
「では、次も水同士で」
帰りの馬車で、ベルタが向かいの席から私の顔をのぞき込んだ。
「お嬢様。今夜は、久しぶりにお笑いになりましたね」
「そうだったかしら」
「はい。幕間に、戸口からお顔が見えました」
ベルタはそれ以上何も言わず、膝の上で手を組み直した。窓の外を流れる街灯を見ながら、私は檸檬の味を思い出していた。
* * *
王宮の春の夜会で、最初の曲が始まると、ユリウス様は当然のようにルイーゼ様の手を取った。
最初の踊りは、連れてきた相手と踊るものだ。婚約者がいれば、婚約者と。王都の誰もが知っている決まりである。
「閣下はヴィルマ様と踊ってらして」
ルイーゼ様は兄に手を引かれながら、閣下に甘い声でそう言った。悪気はないのだと思う。むしろ親切のつもりで、余っている私に自分の婚約者を回してあげた、という顔をしている。
(ご自分の婚約者を、人に回す)
私は閣下を見上げた。閣下も、私を見ていた。
「閣下。水同士で、一曲いかがでしょう」
「喜んで」
閣下の踊りは、拍の取り方が正確で、少しも急がなかった。回るたびに、私の裾がどちらへ広がるかを先に見て、足の運びを合わせてくれる。ユリウス様と踊ったときは、いつもルイーゼ様の姿を目で追う肩越しに、私のほうが合わせていた。合わせてもらう踊りがこんなに楽だとは、知らなかった。
「二年、天気の話しかしなかったな」
回りながら、閣下が言った。
「ほかの話を、思いつかなかった。兄妹の背中を見ながら、婚約者の連れに何の話をしたものか」
「私もです。晴れの日には晴れの話を、雨の日には雨の話を」
「去年の秋の狩りの日は、曇りだった」
「ええ。あの日は、何を話したのでしたかしら」
「曇りの話だ」
私はつい、踊りの最中に笑ってしまった。閣下の口の端も、わずかに持ち上がっていた。
広間の端を回るとき、壁際の夫人たちの話し声が耳に入った。
「ローテンベルクのご兄妹、また最初の踊りを」
「公爵閣下を放っておいて、よくまあ。六年、ずっとあれでしょう」
「ハルトマンのお嬢様もお気の毒よ。婚約者が妹さんとばかり踊って、お嬢様と踊るところなんて、私、ほとんど見たことがないわ」
背中に添えられた閣下の手に、少しだけ力が入った。私は聞こえなかったふりをして、次の回り方に足を合わせた。
咎める目は、取り残された私たちではなく、兄妹のほうに向いていた。それが分かっただけで、背中が少し軽くなった。
曲が終わると、ユリウス様がルイーゼ様を連れて通りかかり、私に笑いかけた。
「ヴィルマ、閣下のお相手をありがとう。助かるよ」
まるで、妹の婚約者の子守りを頼んだ人のような言い方だった。
(お相手をしていただいているのは、私のほうです)
そう言い返す前に、兄妹はもう次の曲の輪へ入っていた。
兄妹は、夜食の前の踊りも二人で取った。
夜食の前の曲の相手が、女性を夜食の部屋へ案内して隣に座る。それがこの国の夜会の決まりだ。ユリウス様がルイーゼ様と踊れば、ルイーゼ様を夜食へ連れていくのはユリウス様で、私は一人で夜食の部屋へ行くことになる。去年の夜会でも、その前の夜会でもそうだった。
壁際へ下がろうとしたとき、目の前に白い手袋が差し出された。
「夜食の踊りも、水同士で」
夜食の部屋で、閣下は私を席に座らせると、何も聞かずに出ていき、檸檬の氷菓子を持って戻ってきた。
「どうして、檸檬だと」
「先週のことだ」
閣下は何でもない顔で、私の隣に腰を下ろした。
一度聞いただけの味を、閣下は覚えていた。ユリウス様が二年のあいだ、一度も聞かなかった味だ。器を受け取る指先が、少しだけ熱くなった。
向こうのテーブルでは、兄妹が一つの皿から苺をつまみ合っている。閣下はしばらくそれを見ていて、それから、ぽつりと言った。
「ルイーゼ嬢との婚約は、父が亡くなる前に決めた、最後の取り決めだった。父とローテンベルク卿は古い友人でね。あのとき、ルイーゼ嬢は十二だった」
「まだ、子どもですわね」
「ああ。子どもなら兄に懐くのは当たり前だと思って、大人になるのを待った。……六年、一度も隣の席に座らせてもらったことがない。秋の婚礼を前に、一度だけ伯爵に話した。娘はまだ子どもで、と笑われた」
私は、氷菓子の匙を置いた。
「私は、まだ二年です」
閣下がこちらを見た。
「水としては、閣下が大先輩ですわね」
閣下はまた口元を手で覆った。今度は、桟敷のときより長く肩が揺れていた。
「……君は、それでいいのか」
笑いが収まると、閣下は低い声で聞いた。
いいとは思っていない。けれど、それを口に出したことは、一度しかなかった。
「去年、父に話しました。ユリウス様は、いつもルイーゼ様とご一緒で、と」
「伯爵は何と」
「妹思いなだけだ、嫁げば変わる、と」
嫁げば変わる。父はそう言って、話を終わらせた。私も、そうなのだろうと思うことにした。思うことにして、一年が過ぎた。
「変わるといいな」
閣下は言った。慰めるような口調ではなかった。自分に言い聞かせているような声だった。
それから閣下は、向こうのテーブルから目を戻して、こちらへ向き直った。
「芝居は、ほかに何が好きだ」
「……え?」
「秋にも新しい演目がかかる。台本を読み込む人に、聞いておきたい」
好きな芝居の話を、聞かれるままに話したのは初めてだった。閣下は、氷菓子が溶けてしまうまで、黙ってそれを聞いていた。
そこへ、兄妹が腕を組んで通りかかった。ルイーゼ様が私たちを見て、にっこりと笑う。
「まあ、閣下とヴィルマ様、すっかり仲良しね。お兄様ぁ、私たち、いいことをしたわぁ」
「だろう? 僕は前から、二人は気が合うと思っていたんだ」
ユリウス様は得意そうに頷いた。その「いいこと」のおかげで、私たちがどこに座らされてきたのかは、たぶん一度も考えたことがないのだと思う。
「ヴィルマ様、来週、うちの晩餐にいらして。新しいお部屋を見せてあげるわ。ヴィルマ様のお部屋よ」
* * *
ローテンベルク伯爵家の屋敷は、王都の西の坂の上にある。
晩餐の前に、ユリウス様が屋敷を案内してくれた。閣下も招かれていて、少し後ろからついてくる。
「ここが、君の部屋になる」
二階の北の端の客間で、ユリウス様は扉を開けた。職人が壁紙を張り替えているところで、窓の外には、隣の屋敷の灰色の壁が迫っていた。
「北のお部屋は、静かでいいでしょう?」とルイーゼ様が言った。「お兄様と私がうるさくしても、ここなら聞こえないわ」
(北の、客間)
嫡男の妻の部屋は、ふつう嫡男の寝室の隣にある。二つの部屋は続きの扉でつながり、夫婦の続き部屋になる。どこの屋敷でもそうで、私の家でも、両親の寝室はそうなっている。
「あの、ユリウス様。ユリウス様のお部屋の隣は」
「ああ、ルイーゼの部屋だよ」
ユリウス様は廊下を戻り、南向きの日当たりのいい部屋の扉を開けた。空色の天蓋の寝台、空色のカーテン。奥の壁にもう一つ扉があり、それが開け放してあって、向こうにユリウス様の寝室の書き物机が見えた。
「母上が亡くなった夜、ルイーゼは六つでね。夜中に泣いて止まらなかった。それで僕の隣に移したんだ。それからずっと、この扉は開けてある」
ユリウス様は懐かしそうに、扉の枠を撫でた。
「結婚しても、この部屋も扉もこのままにする。夜にルイーゼがうなされたら、すぐ行けるように」
「ユリウス様。このお部屋は、本来なら――」
「分かってくれるよね、ヴィルマ」
ユリウス様は、私の言葉の続きを待たなかった。いつもそうだった。この方の「分かってくれるよね」は、問いではなく、話の終わりの合図だ。
「公爵家に嫁いでも、週の半分は帰ってくるもの」と、ルイーゼ様が兄の腕にぶら下がった。「お部屋がなくなったら困るわ。閣下はお忙しいでしょう? お兄様の隣は、私の場所なの」
(週の半分。では、残りの半分は、どなたの奥方でいらっしゃるおつもりかしら)
北の客間の窓から見えた、隣の屋敷の灰色の壁を思い出した。あの部屋で、私は嫡男の妻になる。夜になれば、廊下の向こうの開け放した扉から、兄妹の笑い声が聞こえてくるのだろう。ルイーゼ様が週の半分帰ってくる日には、たぶん毎晩。
振り返ると、閣下は廊下の少し後ろで、黙って立っていた。
晩餐の席で、ルイーゼ様はユリウス様の隣に座った。本来なら、婚約者の私が座る席だ。私はその向かいの、閣下の隣に通された。伯爵は宮廷から遅れて戻り、テーブルの端で兄妹を眺めて「仲のいい兄妹で何よりだ」と目を細めた。
兄妹は、二人だけの昔話で笑い続けた。子どものころに庭の池で溺れかけた話、同じ風邪をひいて同じ部屋で寝込んだ冬の話。そのどれにも、私と閣下の出番はない。
スープ皿の縁を見ながら、私は分かってしまった。
嫁げば変わる、のではない。嫁いでも、変わらない。変わらないように、もう扉が開けてある。
隣を見ると、閣下がちょうどこちらを向いたところだった。目が合って、それだけで、閣下も同じところへ行き着いたのだと分かった。
食後、私はテラスに出た。夜風が冷たかった。ベルタが戸口に控えている。少しして、閣下も出てきた。
「週の半分、か」
「私の部屋は、北の客間だそうです」
閣下は手すりに両手をついて、暗い庭を見下ろした。
「父の最後の取り決めだった。だから、守るものだと思ってきた。秋になれば、変わると思っていた」
「私も、嫁げば変わると言われておりました」
庭の暗がりで、噴水の水音だけがしていた。
「変わらないな」
「変わりませんね」
手すりの冷たさが、手袋越しに伝わってきた。
「私、北の客間で、扉の向こうの笑い声を聞きながら暮らすのは、嫌です」
嫌だ、と口に出したのは、婚約してから初めてだった。言ってしまうと、胸の奥でずっと固まっていたものが、少しほどけた。
閣下は手すりから手を離し、私のほうへ体を向けた。
「私も、週の半分しか帰ってこない妻を、もう待ちたくはない」
広間のほうから、ユリウス様の明るい声が聞こえてきた。
「来週のうちの夜会で、父上が婚礼の日取りを発表するんだ。秋に、合同の婚礼にしようと思ってね。ルイーゼと僕で、同じ日に。素敵だろう?」
ルイーゼ様の笑い声が、それに重なった。
私は手すりから手を離した。
「閣下。来週も、水同士でお願いいたします」
閣下は私の顔を見て、何かを読み取ったようだった。
「ああ」
それだけだった。けれど、それで足りた。
その晩、家に帰ってから、私は父の書斎の扉を叩いた。
「お父様。来週のローテンベルク家の夜会には、お母様とご一緒に、必ずいらしてくださいね」
父は書類から顔を上げ、何か言いたそうにしたけれど、結局「ああ、行くとも」とだけ答えた。
* * *
ローテンベルク家の春の夜会には、王都の古い家々がほとんど顔をそろえた。私は両親と一緒に来た。
夜が半ばを過ぎたころ、伯爵が広間の奥に立ち、杯を上げた。
「今宵は皆様に、喜ばしいお知らせがございます。この秋、我が家の二人の子が、同じ日に婚礼を挙げます。息子ユリウスはハルトマン伯爵家のヴィルマ嬢と、娘ルイーゼはエーレンフェルス公爵閣下と。王宮の礼拝堂にて、合同の婚礼を」
拍手が起きた。私は両親の隣で、軽く頭を下げた。閣下は広間の反対側の柱のそばで、表情を変えずに立っている。
拍手が収まりかけたところで、ユリウス様が父の横に進み出て、自分の杯を上げた。
「僕からも一言。婚礼の後は、四人で南の湖へ旅をします」
客のあいだに、戸惑ったような視線が行き交った。新婚の旅に家族を連れていく話は、誰も聞いたことがない。
「それから、ルイーゼの部屋はこの家に今のまま残します。ルイーゼは公爵家に嫁いでも、週の半分はここへ帰ってくる。僕の部屋との間の扉も、そのままです」
ルイーゼ様が、兄の腕に頬を寄せた。
「僕らはこれからも、兄妹水入らずです。ヴィルマも閣下も、分かってくれている」
あちこちで、囁きが起きかけた。「南の湖へ、四人で?」「週の半分ですって」「扉が、そのまま……」。それもすぐに途切れて、広間が静まり返った。
誰も杯を上げなかった。楽士たちは、弓を弦から浮かせたまま止まっている。伯爵が「ユリウス、部屋の話など、ここで――」と言いかけたけれど、ユリウス様の言葉は、もう広間の隅まで届いた後だった。
その静けさの中で、扇の陰から、ゆっくりとした声がした。
「それでは、花嫁はどちらのお部屋へ参るのかしら」
シェーンフェルト侯爵夫人だった。王都で一番古い女主人の一人で、この方が扇の陰で言ったことは、翌朝には王都じゅうの客間に届く。
誰かが咳払いでごまかし、誰かがこらえきれずに息を漏らした。ユリウス様は、何を笑われたのか分からない顔で、杯を掲げたまま立っている。
(花嫁は、北の客間へ参ります。……いいえ、参りません)
私は、母の手をそっと離して、前へ出た。
「ユリウス様」
「ヴィルマ。ほら、皆さんにも――」
「水入らず、という言葉を、私はこの二年で一番よく覚えました」
声は、思っていたより震えなかった。
「家族など、内輪の者だけで過ごして、他人をまじえないこと。……桟敷でも夜会でも、私と閣下は、ずっとその『水』でございました」
ユリウス様の口が、ぽかんと開いた。
「お二人の水入らずを、もうお邪魔はいたしません。この婚約は、ここで解いてくださいませ」
すぐ隣に、父が立った。
「ローテンベルク卿」と、父は低い声で言った。「娘の申すとおりに。この縁は、こちらから解かせていただきたい」
それから父は、私のほうを見ないまま、小さく付け足した。
「……嫁げば変わる、などと言うのではなかった」
「閣下」と、ルイーゼ様が兄の腕にしがみついたまま、柱のほうを振り向いた。「閣下は、分かってくださいますわよね?」
柱のそばから、閣下が広間を横切ってきた。客たちが道を空ける。
「分かっている」
閣下はルイーゼ様の前で足を止めた。
「六年、君の隣はいつも兄上だった。私が隣にいなくても、君は一度も困らなかった」
「そんな、だって、閣下はお忙しいから――」
「ルイーゼ嬢は、兄上にお返しする」
閣下は、ローテンベルク伯爵に向き直った。
「ローテンベルク卿。私の婚約も、ここで解いていただきたい。署名は、追って」
「閣下、どうかお考え直しを」と、伯爵がようやく口を開いた。「娘はまだ子どもで――」
「十八だ。秋には、公爵夫人になるはずだった」
伯爵の手の中で、杯が傾いた。こぼれた葡萄酒が絨毯に染みを広げても、伯爵は気づかないようだった。
「お兄様ぁ……」と、ルイーゼ様が泣き声を上げた。「閣下が、ひどいことをおっしゃるわ」
「待ってくれ、ヴィルマ」
ユリウス様が、ようやく声を出した。妹の背中をさすりながら、私のほうへ手を伸ばす。
「僕は、君は閣下とでも話していてくれればいいと、そう言っただけで――」
「はい」
私は頷いた。
「そういたします」
閣下が、私の前で肘を軽く曲げた。私はそこへ手を預けた。父と母が後ろにつく。客たちが左右に分かれて、広間の扉までの道ができた。
扉のそばで、シェーンフェルト侯爵夫人が扇を下ろして、通りすがりの私の耳もとで言った。
「賢いお嬢さんね。水のほうが、よほど澄んでいるわ」
扉の前で、一度だけ振り返った。
広間の真ん中に、兄妹が二人きりで立っていた。ルイーゼ様はユリウス様の腕にしがみつき、ユリウス様は杯を持ったまま、父親と妹と扉のあいだで、目をさまよわせている。周りの客は、二人から一歩ずつ離れていた。
兄妹水入らず。お二人の望みどおりの眺めだった。
* * *
二つの婚約は、翌週のうちに解かれた。
ローテンベルク伯爵は、自分の家の側の非を認めて署名した。婚約の契約に書かれた違約の金を、ハルトマン家と公爵家の二つの家に払うために、領地の森を一つ手放したと聞いた。
夜会から帰った晩、父は私の部屋の戸口に立ち、しばらく言葉を探してから「すまなかった」とだけ言った。私は「お父様が隣に立ってくださったので、足が震えませんでした」と答えた。本当のことだった。
シェーンフェルト侯爵夫人の一言は、思ったとおり翌朝には王都じゅうに届いていた。夜会の話と一緒に。「ローテンベルクの兄妹水入らず」は、婚約者を放って兄妹で組む人を指す言い回しになり、学院の寄宿舎にいる弟のテオでさえ、「姉上、こちらでも流行っています」と手紙に書いてよこした。
兄妹のところには、縁談が来なくなった。招待状は、いつも二人の名前を並べた一通で届くようになったという。伯爵は宮廷でずいぶん笑われたらしく、娘の部屋の続きの扉を、ようやく塗り込めさせた。
ルイーゼ様は、公爵夫人になりそこねたことを、今も兄にだけ嘆いているという。それでも兄妹は、二人で同じ屋敷にいる。扉が一枚なくなっただけで、今も、兄妹水入らずだ。
* * *
社交期の終わりの、晴れた午後だった。
閣下は、解消の署名が済んでからも、社交期が終わるまでは訪ねてこなかった。手紙が一通だけ届いた。「解かれたばかりの婚約の噂に、私の名を重ねたくない。秋の演目が決まったら、伺う」。几帳面な字だった。
その日、閣下はまず父の書斎を訪ねて長いこと話し込み、それから庭へ出てきた。ベルタが心得た顔で、薔薇の生け垣の向こうへ下がる。
閣下は上着の内から、細長い札を二枚出した。
「秋の歌劇場の、新しい演目だ」
桟敷の札だった。
「四人掛けだが、前の二席に、君と私が座る。後ろは空けておく」
私は札を受け取って、思わず笑ってしまった。前の二席。首を傾けなくても、舞台の真ん中が見える席。
「六年、後ろの席にいた」
閣下は言った。
「惨めだと思ったことがない、と言えば嘘になる。……君が隣で、水は水同士と言ってくれた夜から、後ろの席が惨めでなくなった。氷菓子の好きな味も、芝居の筋も、あの席で君に教わった」
閣下は少し黙って、それから、まっすぐに私を見た。
「もう、後ろの席はいい。ヴィルマ。私と結婚してほしい」
何がいい、と、最初に聞いてくれた方だった。胸の奥が詰まって、すぐには返事ができなかった。
「どうして、私を」
聞かずにはいられなかった。閣下は、桟敷の札に目を落として、言葉を選んだ。
「隣の席の人が、水だと言って笑った。六年、誰もあの席のことを笑いにしてくれなかった。……それに、君は前の席が空いても、自分から座りに行かなかった。いつも、私の隣で舞台の筋を話していた」
そう言われて、私は初めて気づいた。前の席が空いた幕間にも、私は一度も、そちらへ移ろうと思わなかった。
「……はい」
声が少しかすれた。私は札を胸に抱えて、もう一度言い直した。
「喜んで、お受けします。コンラート様」
生け垣の向こうで、ベルタが小さく鼻をすする音がした。
閣下は口元を手で覆った。けれど今度は、肩は揺れていなかった。手の下で、ただ静かに笑っているのが分かった。
その手が下りてきて、私の手を、札ごと包んだ。
「これからは、私たちが水入らずだ」
お読みいただきありがとうございます。六年後ろの席にいた閣下の側から、あの桟敷の夜を書ける日が来たら嬉しいです。ブックマークと★★★★★で応援していただけると励みになります。




