第九章 決断の日
朝から胃の奥に重たい塊が居座っていた。
藤川慎一は、机の上に置かれた赤いバインダーを見つめる。そこには一件の滞納処分案件が挟まっていた。
対象は、藤野正雄。
春先に納税を巡って藤川と激しく口論した工場経営者だ。
「今日が最後の猶予日だ。差押えの準備は整っている」
課長の低い声が、容赦なく現実を突きつける。
市の徴税吏員として、法に基づく徴収は義務だ。公平性を守るために、例外は許されない。
――それは分かっている。頭では。
しかし、藤野の工場で見たあの油にまみれた機械や、焦げ臭い作業服の匂いが、頭から離れない。「……考えとく」という彼の最後の言葉を思い出す。
慎一は、書類を鞄に入れながらも、足が机の下で固まって動かなかった。
午前十時、田嶋先輩とともに市役所を出る。
「藤川、おまえの判断次第だぞ」
助手席から投げられた言葉は軽い響きに聞こえたが、その裏にある重さは痛いほど伝わってきた。
冬の風がフロントガラスを叩き、車内の空気まで冷やす。
工場の前に着くと、鉄のシャッターは半分だけ開いていた。中からはかすかな金属音。
慎一は深呼吸し、シャッターをくぐる。
そこにいたのは、やつれた顔の藤野だった。手には油で黒く染まったレンチ。
「……来たか」
声は予想以上に穏やかだった。
事務机の上に、差押えの告知書を置く。藤野はそれをしばらく見つめた後、小さく笑った。
「わかってる。払えないのは俺の責任だ」
その声には諦めと同時に、どこかで自分を守るための虚勢が混じっているように感じた。
「でも……これを持ってかれたら、もう工場は終わりだ。従業員はいないが、この機械だけは守りたかった」
田嶋は何も言わず、慎一に目で合図を送る。
机の上の書類にサインすれば、すべては規定通りに進む。差押えは即日執行され、機械は競売にかけられるだろう。
それが法の正しさであり、市民全体の公平を守る行為だ。
しかし――慎一の脳裏に、父の顔が浮かぶ。
八年前、父は自営業の不振で税を滞納し、家の道具を差し押さえられた。あの日の悔しさと屈辱が、家族の間に長い影を落とした。
「税は平等だ」そう言われても、当事者の胸の奥には別の感情が残る。
藤野も、あの日の父と同じ場所に立っているのではないか。
「……藤野さん」
慎一はゆっくりと口を開いた。
「今日、差押えを執行することは可能です。でも、市役所には“分納計画”という制度があります。これを使えば、機械は当面守れるかもしれません。ただし、厳しい条件になります」
藤野の目がわずかに揺れた。
「……それ、本気で言ってるのか」
「本気です。ただし、約束を守れなければ即座に差押えです」
声に迷いが滲まないよう、慎一は腹の底から言葉を押し出した。
田嶋が横で黙って頷く。
「じゃあ……やらせてくれ。その代わり、必ず払う」
藤野の声は震えていたが、握りしめた拳には力がこもっていた。
工場を出ると、冬の空が少しだけ明るくなっていた。
車に乗り込む慎一に、田嶋がぼそりと言った。
「おまえ、甘いかもしれない。でも、それで救えるもんもある」
慎一は窓の外を見た。
――法の下で、どこまで人を信じられるか。
その問いはまだ胸の奥でくすぶっていたが、今日だけは少しだけ答えに近づけた気がした。