第八章 家族の影
年末調整の繁忙期が過ぎ、徴税課の空気は一瞬だけ緩んだ。だが、藤川慎一の胸の中は、妙なざわめきが収まらなかった。
きっかけは、課の書庫で古い滞納整理簿を探していた時のことだ。紙の山の中から、一枚の黄ばんだカードが目に留まった。滞納者氏名欄に「藤川 誠」の文字。住所は、かつて自分が住んでいた団地。
——父さんの名前だ。
慌てて周囲を見回すが、誰もいない。手がかすかに震えていた。滞納額は二十数万円、年度は昭和の終わり頃。備考欄には、赤字で「給与差押実施、全額回収済」と記されている。
慎一は、記憶を掘り起こす。小学校高学年の冬、急に引っ越しをしたあの年。父は工場を辞め、母は内職を増やした。家の中はいつも重苦しく、夜、両親が押し殺した声で話し合うのが聞こえた。けれど、当時の自分は理由を聞けなかった。
その答えが、今ここにあるのか——。
午後の外回りも上の空だった。市内の住宅街を回り、滞納整理の案内文書を投函しながらも、父のことが頭から離れない。
翌週の休日、意を決して実家を訪れた。母が出迎え、台所で湯を沸かしながら「珍しいわね」と笑う。やがて、居間にいた父がゆっくり顔を上げた。今では白髪が混じり、背も少し丸くなっている。
「父さん、昔……税金のことで大変だったこと、あった?」
唐突な問いに、父は眉をひそめ、しばらく黙っていた。湯呑みの湯気が二人の間をゆらゆらと揺れる。
「……ああ、あったな」
ぽつりと出た声は、予想以上に重かった。
父は、三十代半ばの頃、小さな金属加工工場で働いていた。だが、バブル崩壊後の不況で残業も減り、給料が激減。母のパート代を合わせても生活は苦しく、固定資産税を後回しにしてしまったという。
やがて督促状が届き、最後には役所の人間が職場に来て、給料の一部を差し押さえていった——その屈辱を、父は今も忘れられないらしい。
「家にまで来られてな……。お前たち子どもがいたから、情けなかった」
父は苦笑のような、悔しさのような表情を浮かべた。
慎一は、自分が今まさにその「役所の人間」になっていることを告げられずにいた。もし言えば、父の目にどう映るだろうか。公平な徴収を担う職員としての自負と、家族としての感情が胸の中でせめぎ合う。
「でもな……払わなきゃいけないもんは、やっぱ払わなきゃいかん。あの時の役所の人も、仕事だったんだろう」
意外にも、父の口から出たのはそんな言葉だった。
慎一は言葉を失った。父は役所に恨みを抱えていると思い込んでいた。しかし、父なりに理解していたのだ。だからこそ、その重みが胸にずしりと響く。
実家を出る帰り道、冬の風が頬を刺す。市役所の徴税課に戻れば、また「払ってください」と言わねばならない日々が待っている。だが、今日知った父の過去は、これからの自分の言葉に影を落とすだろう。
——公平さと人情、その間で揺れながら、俺はこの仕事を続けていくのか。
夜、ひとりの机で、古いカードの写しを封筒に入れ、机の引き出しの奥へしまった。二度と誰の目にも触れさせないように。
外では冷たい風が強まり、街の明かりをかすませていた。