第七章 滞納処分の裏側
六月初旬、慎一の机に一枚の差押え執行通知書が置かれた。対象は、個人事業主の山根浩二──滞納額百二十万円、三年間一度も納付なし。督促も再三行ったが反応はなく、銀行口座に残高があることも確認済み。課長は淡々と告げた。
「明日、現場に行って押さえてこい。これ以上待つ必要はない」
差押えは徴税吏員の権限の中でも最も重い行為だ。相手の生活に直接切り込むその仕事は、確実な回収をもたらす一方で、感情的な反発や破綻を招くこともある。
翌朝、梅雨入り前の湿った風の中、慎一は山根の自宅兼事務所へ向かった。二階建ての木造アパートの一室。玄関前には、雨に濡れた段ボール箱と使い込まれた自転車が置かれている。呼び鈴を押すと、中から小さな足音が近づき、ドアが開いた。
現れたのは、まだ小学校低学年ほどの男の子だった。目を丸くして慎一を見上げる。 「お父さんは?」 「……お父さん、奥で寝てる」
間もなく、無精ひげを伸ばした男が姿を現した。シャツはしわだらけで、目の下には濃い隈があった。 「市役所の藤川です。税金の件でお話しに来ました」 慎一が身分証を見せると、山根は苦い笑みを浮かべた。 「……もう、そういう段階か」
室内は狭く、仕事道具らしきノートパソコンとプリンターが小さな机に置かれている。カーテンの隙間から差し込む光が、積み重なった書類と家電を照らしていた。 「口座にある残高を差押えさせていただきます。通知は既に送付済みです」 慎一は事務的に告げ、執行書類を差し出す。
山根は受け取った紙をしばらく眺め、ため息をついた。 「……あの金は、来週、印刷会社に払う予定だったんだ。これが止まったら、もう仕事が回らなくなる」 「承知していますが、法的には回収を優先せざるを得ません」 「優先……ね」
その声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。奥の部屋から、男の子の「お腹すいた」という声が聞こえる。山根は振り返り、小さな声で「もうちょっと待ってな」と答えた。
「去年まではなんとかやってた。だけど、取引先が倒産して、一気に売上が半分になった。役所に相談しようとも思ったが、正直……怖かった」 「怖かった?」 「税金のことを話すと、すぐ差押えされるんじゃないかって。だから、つい……」 山根は言葉を飲み込んだ。
慎一は黙って聞いていた。差押えの対象はあくまで法の枠内だが、その金の行き先が「来週の仕事資金」だと知ると、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
「……分割納付の相談もできます」 思わず口にしたが、山根は首を振った。 「もう遅いよ。金がなくなれば、仕事が止まって、収入も止まる。そしたら税金どころか家賃も払えなくなる」
その瞬間、慎一は気づいた。制度の上では「正しい」徴収も、生活の上では「引き金」になることがあるのだと。差押えが滞納解消の一歩になる人もいれば、それが転落の始まりになる人もいる。
書類に署名をもらい、手続きを終えると、山根は最後にこう言った。 「……あんたも仕事だからやってるんだろう。恨まないよ。でも、できれば最初に会ったとき、こうなる前に話ができてたらな」 慎一は答えられなかった。
アパートを出ると、昼下がりの曇り空が重く垂れ込めていた。ポケットの中の執行書控えが、やけに重く感じられる。
市役所に戻る途中、ふと田嶋の言葉がよみがえる。 ──俺たちは人間と仕事してるんだ。机の上の数字とだけじゃない。
山根の部屋で見た男の子の顔が、視界から離れない。差押えた口座残高は、市にとっては微々たる回収額かもしれない。だが、あの家にとっては、生き延びるための最後の糧だった。
その日、報告書の備考欄に「生活状況:困窮、就労継続困難の恐れあり」と記した。
数字では測れない何かが、確かにそこにあった。