表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
徴の岸辺で  作者:
7/10

第七章 滞納処分の裏側

 六月初旬、慎一の机に一枚の差押え執行通知書が置かれた。対象は、個人事業主の山根浩二──滞納額百二十万円、三年間一度も納付なし。督促も再三行ったが反応はなく、銀行口座に残高があることも確認済み。課長は淡々と告げた。


 「明日、現場に行って押さえてこい。これ以上待つ必要はない」


 差押えは徴税吏員の権限の中でも最も重い行為だ。相手の生活に直接切り込むその仕事は、確実な回収をもたらす一方で、感情的な反発や破綻を招くこともある。


 翌朝、梅雨入り前の湿った風の中、慎一は山根の自宅兼事務所へ向かった。二階建ての木造アパートの一室。玄関前には、雨に濡れた段ボール箱と使い込まれた自転車が置かれている。呼び鈴を押すと、中から小さな足音が近づき、ドアが開いた。


 現れたのは、まだ小学校低学年ほどの男の子だった。目を丸くして慎一を見上げる。  「お父さんは?」  「……お父さん、奥で寝てる」


 間もなく、無精ひげを伸ばした男が姿を現した。シャツはしわだらけで、目の下には濃い隈があった。  「市役所の藤川です。税金の件でお話しに来ました」  慎一が身分証を見せると、山根は苦い笑みを浮かべた。  「……もう、そういう段階か」


 室内は狭く、仕事道具らしきノートパソコンとプリンターが小さな机に置かれている。カーテンの隙間から差し込む光が、積み重なった書類と家電を照らしていた。  「口座にある残高を差押えさせていただきます。通知は既に送付済みです」  慎一は事務的に告げ、執行書類を差し出す。


 山根は受け取った紙をしばらく眺め、ため息をついた。  「……あの金は、来週、印刷会社に払う予定だったんだ。これが止まったら、もう仕事が回らなくなる」  「承知していますが、法的には回収を優先せざるを得ません」  「優先……ね」


 その声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。奥の部屋から、男の子の「お腹すいた」という声が聞こえる。山根は振り返り、小さな声で「もうちょっと待ってな」と答えた。


 「去年まではなんとかやってた。だけど、取引先が倒産して、一気に売上が半分になった。役所に相談しようとも思ったが、正直……怖かった」  「怖かった?」  「税金のことを話すと、すぐ差押えされるんじゃないかって。だから、つい……」  山根は言葉を飲み込んだ。


 慎一は黙って聞いていた。差押えの対象はあくまで法の枠内だが、その金の行き先が「来週の仕事資金」だと知ると、胸の奥に鈍い痛みが広がった。


 「……分割納付の相談もできます」  思わず口にしたが、山根は首を振った。  「もう遅いよ。金がなくなれば、仕事が止まって、収入も止まる。そしたら税金どころか家賃も払えなくなる」


 その瞬間、慎一は気づいた。制度の上では「正しい」徴収も、生活の上では「引き金」になることがあるのだと。差押えが滞納解消の一歩になる人もいれば、それが転落の始まりになる人もいる。


 書類に署名をもらい、手続きを終えると、山根は最後にこう言った。  「……あんたも仕事だからやってるんだろう。恨まないよ。でも、できれば最初に会ったとき、こうなる前に話ができてたらな」  慎一は答えられなかった。


 アパートを出ると、昼下がりの曇り空が重く垂れ込めていた。ポケットの中の執行書控えが、やけに重く感じられる。

 市役所に戻る途中、ふと田嶋の言葉がよみがえる。  ──俺たちは人間と仕事してるんだ。机の上の数字とだけじゃない。


 山根の部屋で見た男の子の顔が、視界から離れない。差押えた口座残高は、市にとっては微々たる回収額かもしれない。だが、あの家にとっては、生き延びるための最後の糧だった。


 その日、報告書の備考欄に「生活状況:困窮、就労継続困難の恐れあり」と記した。

 数字では測れない何かが、確かにそこにあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ