第六章 反発する納税者
五月初旬、春の陽気が街を包み始めたころ、慎一は担当地区の滞納者リストを抱え、工業団地へ向かっていた。
その中に、特に課長から「要注意」と言われた名前があった。
──藤野正雄。町工場の経営者で、法人市民税と固定資産税、合わせて二百万円以上の滞納。過去に督促を繰り返したが、納付履歴はゼロ。応対も荒く、徴収吏員が足を運ぶたびに口論になってきた人物だ。
工場のシャッターは半分開き、機械音と金属の匂いが漂っていた。慎一は呼吸を整え、ドアを開けた。
「市役所徴税課の藤川です」
奥から現れたのは、五十代半ば、肩幅の広い男。油で黒く染まった作業着と、深く刻まれた眉間のしわが印象的だった。
「またお前らかよ。何回来りゃ気が済むんだ」
藤野は声を荒らげ、手に持ったスパナを机に置いた。その金属音が室内に響く。
「藤野様、滞納額が増え続けています。このままでは差押えの手続きに入らざるを得ません」
慎一は資料を差し出し、冷静に言葉を選ぶ。
しかし藤野は資料を一瞥し、鼻で笑った。
「お前ら、机の上で数字ばかり見てるから分からんのだ。こっちは仕事が減って従業員を食わせるのに必死なんだぞ。税金なんて後回しに決まってる」
「お気持ちは理解します。ただ、市税は市のサービスを維持するために必要な財源です。払っていただかないと──」
「必要? じゃあ聞くが、道路はガタガタ、ゴミ収集も遅れてる。そんな市のために金を出す価値がどこにある!」
言葉が鋭く、慎一の胸を刺す。市民サービスに不満を持つ声は少なくないが、こうして真正面からぶつけられると返す言葉が詰まった。
「払ってない人がいれば、その分、きちんと払ってる人の負担が増えます。それは不公平です」
自分でも驚くほど、声が少し強くなった。
藤野は机に手をつき、身を乗り出した。
「不公平? ふざけるな。大企業は裏で優遇されてる。土地を持ってる連中は税金を減免されてる。そういう“本当の不公平”には目をつぶって、弱ってる中小企業から取るのか!」
工場内の機械音が止まり、奥で作業していた若い従業員たちがこちらをちらりと見た。緊張感が空気を固める。
慎一は視線を外さず、できるだけ落ち着いた声で言った。
「制度の不備や不公平感は、私も感じています。ただ、それでも納付義務は法律で決まっています」
「法律? その法律が間違ってるんだよ!」
藤野の声は怒りと諦めが混ざり、乾いた響きを持っていた。
一瞬、沈黙が落ちた。工場の奥で風が鉄板を揺らす音だけが聞こえる。
「……分割でもいいです。月一万円から始めませんか」
慎一がそう提案すると、藤野は椅子に深く腰を下ろし、しばらく天井を見上げていた。
「……考えとく」
それだけ言い、背を向けた。
工場を出ると、外の光がやけに白く眩しかった。慎一の耳には、まだ藤野の言葉が残響のように響いていた。
確かに、藤野の言う“本当の不公平”は存在する。大企業や特定の土地所有者への優遇措置、政治的配慮で生まれる制度の歪み──それは市役所の内部でもささやかれてきた話だ。
しかし、現場の徴税吏員にそれを変える力はない。
市役所に戻り、報告書に「納付提案:検討中」と打ち込みながら、慎一は深く息を吐いた。
数字と制度の正しさを守ることが、自分の仕事だ。だが、正しさの背後にある歪みを見てしまったとき、その正しさはどれだけの価値を持つのか──。
机上では答えの出ない問いが、心の中で静かに膨らみ続けていた。