第五章 同僚の迷い
四月末の午後、田嶋から「ちょっと同行してみないか」と声をかけられた。担当区域も違うのに、と首をかしげる慎一に、田嶋は意味ありげな笑みを浮かべた。
「まあ、現場の“別のやり方”を見せてやるよ」
向かったのは、市中心部から少し外れた住宅街の一角。木造二階建ての古い一軒家の前で田嶋は足を止めた。庭先にはプラスチックの植木鉢が並び、土の上には黄色いチューリップが咲いている。
呼び鈴を押すと、ゆっくりと玄関の戸が開き、腰の曲がった高齢の女性が顔を出した。
「おばあちゃん、こんにちは。田嶋です」
田嶋の声は、まるで古くからの知人に話しかけるように柔らかい。
女性は年金暮らしで、固定資産税の滞納が二年分。滞納額は三十万円ほどだという。慎一なら、まず滞納額と期限を告げ、納付計画の話に入るだろう。だが田嶋は、玄関先で世間話を始めた。天気のこと、庭の花のこと、最近の体調のこと。
十分ほどしてから、ようやく本題に入る。
「先月の分、少しでもいいから入れてもらえませんか。千円でも助かります」
慎一は驚いた。千円では延滞金の足しにもならない。それでも田嶋は笑顔を崩さず、女性が財布から皺のついた千円札を差し出すと、丁寧に受け取り、領収書を書いた。
帰り道、慎一はたまらず尋ねた。
「田嶋さん、あれじゃあ全額回収まで何年もかかるでしょう」
「そうだな。でもな、今日千円払ったってことは、このおばあちゃんは『逃げない』ってことなんだ。人って、一度払うと次も払いやすくなるんだよ」
その言葉は慎一の胸に残った。しかし同時に、制度上の数字と現実の温度差が、妙に居心地悪くもあった。
「でも、課長にそんな金額で回収してるって知れたら……」
田嶋は前を見据えたまま、小さく笑った。
「俺たちは人間と仕事してるんだ。机の上の数字とだけじゃない」
その日、課に戻った田嶋は報告書の「納付額」欄にしっかり「1,000円」と入力した。その数字は小さい。だが、そこに込められた意味を知った慎一の目には、妙に重く見えた。
夜、自宅の窓から見える街の灯りを眺めながら、慎一は考えていた。
自分は、机上のルールを守る徴税吏員として生きるのか。それとも、人の暮らしの温度に寄り添う徴税吏員になるのか──。答えはまだ、出なかった。






