第三章 凍る会話
四月に入り、徴税課には新年度分の納税案内と、昨年度からの滞納整理が同時に押し寄せていた。慎一の机の上には、訪問予定の名簿が一層分厚く積まれ、赤字で「要注意」と書かれた付箋がいくつも貼られている。
その中に、一つの名前があった。高瀬佳代、三十二歳。未納期間は二年半、滞納額は八十万円を超えている。生活状況の情報は乏しく、「母子家庭」とだけ記されていた。
訪問先は、市の外れにある古い団地だった。エレベーターのない四階まで階段を上がると、踊り場に干された洗濯物が風に揺れていた。色あせた子ども服が目に入る。
呼び鈴を押すと、ドア越しに小さな足音が近づき、やがてチェーンを掛けたままの隙間から若い女性が顔を出した。
「市役所徴税課の藤川です。高瀬様でいらっしゃいますか」
女性は無言のままうなずいた。
慎一は名刺を差し出し、滞納額と納付期限を説明した。言葉を選びながらも、事実は事実として告げなければならない。
「……そんな大金、払えるわけないじゃないですか」
低く震えた声。奥から幼い女の子が顔を覗かせ、「ママ、おなかすいた」と囁いた。
佳代はわずかに顔をゆがめ、子どもを部屋の奥へ戻し、再び慎一を見た。
「保育園も行けなくなるかもしれないし、仕事も安定してない。どうしても払わなきゃいけないんですか」
その問いに、慎一は答えを詰まらせた。払わなければ延滞金が膨らみ、差押えの対象になる。それが制度だ。だが、目の前の細い肩や、かすかに漂うカレーの匂い──それはたぶん、昼に作った子どもの夕飯──が、言葉を重くした。
「……分割での納付も可能です。月五千円からでも」
「五千円あったら、あの子に果物くらい買ってやりたい」
冷たくはないが、深く沈んだ声だった。
沈黙が数秒続き、やがて佳代はチェーンを外さないまま「帰ってください」とだけ言った。
階段を降りる途中、慎一は背後から視線を感じた。振り返ると、踊り場の影から女の子がこちらを見ていた。小さな手には、まだ温かそうなぬいぐるみが握られている。
課に戻り、面談記録欄に「応対あり・納付意思低・経済困窮」と打ち込む。その冷たい言葉は、佳代の部屋に漂っていた生活の匂いや、女の子の視線を何ひとつ映してはいなかった。
退庁後、慎一は無意識にスーパーに立ち寄った。果物売り場で、赤く熟れたリンゴを手に取る。──あの子の小さな手でも握れそうだな、と思った瞬間、慎一は自分が職務の線を越えかけていることに気づき、慌てて棚に戻した。
彼の胸の奥で、制度の冷たさと人間の温もりが、静かにぶつかり合っていた。