第二章 初めての訪問徴収
翌週、慎一はついに単独で現場に出る日を迎えた。田嶋から「もう大丈夫だ」と言われたが、自信はなかった。朝の課内ミーティングで担当先を確認し、訪問用の鞄に納付書と督促状を詰め込む。
鞄の重さは紙の量だけではない。そこには、他人の生活に踏み込み、支払いを迫るという使命の重さが詰まっていた。
最初の訪問先は、市の郊外にある築四十年の長屋だった。細い路地に入り、足元の砂利が靴底でじゃりじゃりと音を立てる。軒先には錆びた自転車が倒れかけて置かれ、郵便受けには古いチラシが詰まっていた。
「不在……か」
慎一は深呼吸し、ドアをノックする。三度目のノックのあと、内側からかすかな物音がした。
ガチャ、と鍵が外れる音。ドアの隙間から、やつれた中年の女性が顔をのぞかせた。
「市役所徴税課の藤川と申します。○○様でいらっしゃいますか」
女性は眉をひそめ、返事をしないままドアを少しだけ開けた。慎一は名刺を差し出し、滞納額と期限を簡潔に伝える。
「……払えるわけないでしょう」
低く吐き捨てるような声。台所の奥からは、小さな子どもの泣き声が聞こえてきた。
女性は夫が失業し、生活保護申請も審査中だという。水道や電気の支払いにも困っている状況で、市税の支払いは到底無理だと訴えた。
慎一は督促状を差し出す手を一瞬止め、田嶋の言葉を思い出す。「情に流されすぎるな」。
「それでも、このままですと延滞金が加算されます。少額でも構いませんから……」
言いかけたとき、女性は勢いよくドアを閉めた。金属音が廊下に響き、砂埃が舞った。
しばらく立ち尽くしたあと、慎一は次の訪問先へ向かった。二軒目は、小さな町工場を営む初老の男性だった。油の匂いが染みついた作業服のまま応対に出てきた男性は、慎一を見るなり「またか」と眉をひそめた。
「仕事も減ってるのに、税金税金って……こっちは潰れろってことか」
声を荒らげる男性に、慎一は資料を見せながら説明を試みる。しかし相手の怒気は収まらず、「帰れ!」と手で追い払われた。
午後、三軒目の訪問では、留守だった家の郵便受けに督促状を投函するだけで終わった。
事務室に戻るころには、肩が鉛のように重く、靴底の感触さえ鈍っていた。机に鞄を置き、滞納整理簿に「応対拒否」「納付意思なし」などと記録を打ち込む。その文字は、冷たい印鑑のように画面に並んだ。
退庁間際、田嶋が慎一の机に寄ってきた。
「今日はどうだった」
「……厳しいですね。話す隙もくれない人が多い」
田嶋はうなずき、「それでも、明日も行くんだ」とだけ言って自分の席に戻った。
夜、帰宅して食卓についた慎一は、妻の作ったカレーの匂いにようやく息をついた。しかしスプーンを持つ手は、昼間の女性の顔や、工場主の怒声を思い出して止まりがちだった。
「どうしたの、元気ないね」
妻の声に、慎一は笑ってごまかした。けれど、心の奥底では、既に「仕事」と「人」の間の溝が深まりつつあった。