第十章 春の納税相談会
春先の柔らかな陽射しが、市役所前の広場を包んでいた。花壇のチューリップが風に揺れ、淡い香りが漂う。今日は年に一度の「春の納税相談会」。普段は重苦しい徴税課の窓口も、この日ばかりは折り畳み椅子や長机が並び、テントの下で市民と職員が向き合っている。
藤川慎一は、深呼吸を一つして席に着いた。机の上には徴収猶予や分納計画のパンフレット、そして新しく作成された「生活支援と納税の両立ガイド」。これは先月、課長に提案してようやく許可された試みだった。納税は義務だが、追い詰めれば生活が崩れ、結局は回収不能になる。制度の範囲内でも、寄り添える道はある――それが、慎一が辿り着いた答えだった。
午前中、若い母親が小さな女の子の手を引いてやってきた。書類を差し出しながら、申し訳なさそうに頭を下げる。
「今、パートも減らされて……少しずつしか払えません」
慎一は書類に目を通し、生活費の収支を確認する。従来なら、厳格な納付計画を提示しなければならなかった。しかし今日は違う。
「では、こちらの制度をご利用できます。収入に応じて、月々の額を調整できます。生活費を優先してください。その分、長期になりますが、無理なく続けるほうが大切です」
母親の表情に安堵が浮かび、隣の女の子が小さく頭を下げた。
「ありがとうございます……」
ほんの数分のやり取りだったが、慎一の胸には温かい感覚が広がっていた。
昼を過ぎると、見覚えのある顔が相談ブースに現れた。藤野だ。昨年、工場の売上低迷で滞納が続き、激しく口論になった相手だ。あの時は互いに声を荒げ、机を叩くほどだった。
「……今日は怒鳴りに来たんじゃない。話をしに来た」
藤野は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「工場は相変わらずだ。でも、あんたの言ってた通り、何とか形を作らないと、全部終わるって分かった。分納計画、改めて頼みたい」
慎一は少し驚きながらも、資料を差し出した。条件を説明しながら、彼の目を見据える。
「お互いに、前みたいなやり方はやめましょう。僕も、できる限り制度の中で柔軟にやります」
藤野は黙って頷いた。最後に立ち上がるとき、少しだけ口元が緩んだのを慎一は見逃さなかった。
午後も次々と市民が訪れた。年金暮らしの老夫婦、失業中の男性、コロナ禍で借金を抱えた飲食店主。それぞれに事情があり、それぞれに苦しみがあった。以前の自分なら、ただ「納期限内に」と繰り返すしかなかった。しかし今は、背景を聞き、使える制度を探し、無理のない提案を出す。その一つひとつが、小さな橋を架ける作業のように感じられた。
日が傾き始め、相談会は終わりに近づいた。片付けを手伝っていると、課長が近づいてきた。
「藤川、今日はよくやったな。市民からのアンケートにも、お前の名前が何件か出てたぞ。“話を聞いてくれた”“安心した”ってな」
慎一は少し照れくさく笑った。
「ありがとうございます。でも、僕一人じゃなく、課全体でこういう対応ができれば、もっと変わるはずです」
課長は短く「そうだな」と言い、トラックに荷物を積み込む職員たちを見やった。
広場から見上げた空は、春特有の淡い夕焼けに染まっていた。今日も完全に解決できた案件は少ない。滞納がなくなる日は来ないかもしれない。それでも、目の前の誰かが少しでも前に進めるように手を差し伸べる――それが、今の自分にできる精一杯の「公平」だ。
帰り道、ふと幼い頃の記憶がよぎる。父が肩を落として役所から帰ってきたあの日。あのとき父にも、こんな相談会があったなら、少しは違っただろうか。答えは出ないが、慎一は足取りを止めなかった。
春の風が、頬をやさしく撫でていった。