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徴の岸辺で  作者:
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第一章 異動辞令

 三月の終わり、市役所の廊下は異動のざわめきに包まれていた。新しい部署へ向かう職員たちの足音と、机や書類を運ぶ音が交じり合い、独特の浮き足立った空気が流れている。

 藤川慎一は、自席で辞令を握りしめたまま、深く息をついた。総務課から徴税課へ──。八年間慣れ親しんだ部署を離れ、全く畑違いの業務に就くことになった。


 「徴税か……」

 思わず口の中で繰り返す。市の徴税吏員といえば、滞納者の家を訪ね、場合によっては財産の差押えまで行う役目だ。市民から感謝される仕事ではない。むしろ恨まれることのほうが多いと聞く。

 同僚の何人かは「ご愁傷さま」と冗談めかして言い、ある者は「胃薬を持ってけよ」と笑った。だが慎一の胸に浮かぶのは、笑いよりも重たい不安だった。


 異動初日、徴税課の事務室は他部署よりも静かだった。電話のベルが鳴っても、誰も慌てる様子はない。低い声で淡々とやり取りをし、書類をめくる音が続く。

 課長の小田は、五十代半ば、色の浅いスーツに黒縁眼鏡の男だった。淡白な挨拶のあと、「まずは仕事の流れを覚えてくれ」と言い、慎一を窓際の机に案内した。机の上には、分厚いファイルと名簿が積まれている。


 「これが滞納者一覧だ。今日から担当になる地区の分だよ」

 ざっとページをめくると、名前、住所、納付状況、滞納額がぎっしり並んでいる。中には三年分、百万円近くの滞納がある世帯もあった。


 午前中は、先輩の田嶋と一緒に地図を見ながら担当区域の説明を受けた。田嶋は四十代前半、柔らかな笑みを絶やさない男だが、その目の奥には職務の厳しさを知る者特有の陰りがあった。

 「最初は同行訪問からな。相手も新人だと警戒を解くか、逆に舐めてかかるかだ。どっちも注意しろ」


 昼休み、食堂で田嶋は唐揚げ定食をつつきながら、ぽつりと言った。

 「徴収ってのはな、数字を動かす仕事じゃない。人間を動かす仕事だ」

 その言葉の意味を、慎一はまだ理解できずにいた。


 午後、初めての外回りに出た。三月の風は冷たく、古い住宅街を抜ける道には梅の花がほころび始めていた。田嶋が歩きながら訪問の手順を説明する。

 「最初はあいさつ、次に滞納額と納期限を示す。払えない理由を聞くのも大事だ。ただし、情に流されすぎると、こちらが責任を問われることになる」


 一軒目の訪問先は、二階建ての古びたアパートだった。ドアを叩くと、中から年配の男性が出てきた。田嶋が名乗り、穏やかな口調で話し始める。滞納は一年分で十五万円。男性は病気療養中で、仕事を辞めざるを得なかったという。

 「来月から少しずつでもいいんです」田嶋は納付書を差し出し、相手の目をまっすぐ見た。

 短いやり取りの末、男性は渋々ながら納付書を受け取り、ドアを閉めた。


 その帰り道、慎一は田嶋に尋ねた。

 「今の方、本当に払えるんでしょうか」

 「わからんよ。でも、納付書を受け取ったってことは、少なくとも向き合う意思はある」

 その言葉は、数字の世界しか知らなかった慎一の胸に、微かな引っかかりを残した。


 夕方、課に戻ると、机の上に次の滞納者リストが置かれていた。これが毎日の繰り返しになるのだと理解した瞬間、慎一の肩に、見えない重みがのしかかった。

 夜、帰宅しても、あの年配男性の顔が頭から離れなかった。徴税吏員としての初日、慎一はすでに「仕事」と「人間」の間で揺れ始めていた。

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