これでも青春だ! 知らんけど ~中編~
~前編~からのつづき。
中村は勤務していた雷電高校の理事長と気が合わなかったため、竜巻高校に飛ばされたことは以前に書いた。
雷電高校のサッカー部は名門で強い。全国大会にも出場してベスト四になったこともある。竜巻高校に新しくサッカー部を作ると、予選であろうが、いつか戦う時が来るだろう。そのとき、こてんぱんにやっつけて、左遷されたリベンジを果たしてやる。そんな個人的な理由のために、中村はサッカー部を作ったのである。中村の胸の奥に隠された途方もない野望であった。自分勝手のトンデモない野望とも言えた。
竜巻高校の校長・教頭室。大きさが三メートルを越えるミニ四駆のサーキットが設置されている。コース長は三周で約二十メートルもあり、ジャパンカップジュニアサーキットと呼ばれている組立式の専用コースである。普通の民家の六畳間には大きすぎるが、この大きな校長・教頭室ではまだ余裕がある。
雷電高校の花桐理事長が、ぶっちぎりで勝利したお気に入りのロードスピリットを大きな指でつまみ上げ、愛おしそうに見つめた。今にも頬ずりをしそうだ。
「今日もよく走ってくれたな!」
横目で竜巻高校の草野校長愛用のアバンテJrと、森教頭の愛車ビクトリーマグナムを、見下したような目で見つめる。――ふっ、わしの相手ではないわ。
ときどき、雷電高校の花桐理事長と西見校長は竜巻高校の見学にやって来る。見学といっても、校長・教頭室から出ることはなく、ひたすらミニ四駆を走らせて勝負をしている。
花桐理事長の機嫌はいい。竜巻高校の校長と教頭を相手に、三十五連勝したからである。見守っていた西見校長もうれしそうだ。レースはいつもこの三人で行われる。
西見校長は見張りの役目も担っている。ドア付近に陣取り、ノックがされるとすぐ、廊下に出て行って、今は草野校長と花桐理事長が大事な話をしているので、後にするようにと追い返すのである。相手はこの学校の生徒だったり、先生だったり、教材を売り込みに来たセールスマンだったりするのだが、かまうことはない。いい年した大人がこんな場所で、ミニ四駆を使って遊んでいるのを、決して見られてはいけないのだ。特に、生徒の親に見られようなら大変だ。最近はモンスターペアレントという面倒な親も増えて来ているからである。
なぜ、校長・教頭室でミニ四駆のレースをやっているのかというと、そもそも雷電高校の花桐理事長と竜巻高校の草野校長が、全国理事長・校長決起集会で偶然隣の席になり、社交辞令で他愛もない話をしているうちに、共通の趣味がミニ四駆だと分かったからである。そこで、以前から人の目を盗んでは、ミニ四駆を走らせていた草野校長が花桐理事長を校長・教頭室へと誘い、それ以来、理事長は校長を伴って、竜巻高校にやって来ては、四人でミニ四駆を走らせているのである。
しかし、草野と花桐はミニ四駆以外ではことごとく気が合わず、しまいに、自分から誘ったのにもかかわらず、草野は花桐のことを、自分でサーキットを買わず、他人のコースで遊んでいるケチな野郎と思うようになり、今では大嫌いな存在になってしまっていたのである。しかし、今さら、もうやめましょうと言い出せず、惰性でこの大会を続けているのである。
そんなことに気付きもしない花桐は、
「どうだ。ロードスピリットは最高だろう」と森教頭に話しかける。
「さすが最新の機種ですね」森は愛想よく答える。「それに素晴らしく改造されてますね」
花桐理事長と草野校長の仲は悪いのだが、草野校長は森教頭と仲が悪い。つまり、敵の敵は味方だということで、花桐と森は仲良しなのである。
花桐としては、早く草野が辞めて、森が校長になればと願っているし、森は花桐が応援してくれていることを知っている。
花桐理事長は森教頭と同じくらいの長身だが、横幅は倍くらいある。また、草野と同じく口髭を生やしていて、声と態度は大きい。つまり、あまり評判のよろしくない理事長を絵に描いたような人物である。一方、西見校長は真面目で謙虚な人物なのだが、理事長の腰巾着のような存在で、草野と同じくらい小柄なのである。
つまり、森教頭と花桐理事長は大柄で、草野校長と西見校長は小柄というダブルのデコボココンビが、ミニ四駆でワーワーキャーキャー遊んでいるのである。もちろん、学校は授業中である。
「いやあ、今日も楽しかったよ」
花桐理事長は愛車のロードスピリットを大事そうにアタッシュケースへ入れた。専用のポータブルピットで運搬して、ミニ四駆好きの生徒にでも見られたらすぐにバレてしまうため、気を使っているのである。バレたら草野校長にも迷惑がかかる。
花桐は校長の机の上に一万円札を一枚置いた。一応、ミニ四駆のプレイ代として、毎回置いて行ってくれるのである。
「いつもすいませんね」森教頭がコースを分解しながらお礼を言う。
コースの設置と片付けは教頭の仕事である。
「ほんの少しだけだが、新しく机を買うときの足しにしてくれたまえ」
森教頭の机は、予算がないため、生徒と同じ安物のスチール机である。一万円あれば二台も買える。だが、教頭は自分に相応しい豪華な机を狙っている。校長に負けない大型の机だが、今度こそは入口のドアが通れるように、しっかり寸法を測ろうと心に決めている。草野校長は、一万円が花桐にとって屁のようなものだと知っているので、見つからないように、冷たい視線を送る。
「ところで」帰ろうとした花桐が立ち止まって訊いてくる。「うちから赴任した中村先生はしっかりやっとるかね?」
「サッカー部を作るんだといって張り切ってますよ」草野校長が教えてあげる。
「ほう、サッカー部かね」花桐は眉間にシワを寄せる。「竜巻高校にはサッカーがうまい優秀な生徒はいなかったはずだが」
雷電高校サッカー部の名は全国にも知れ渡っている。中学生のうちから優秀な生徒には目を付けてスカウトしている。よって、近隣の学校に所属するサッカーができる生徒については詳しいデータを揃えている。ゆえに、どうやってサッカー部を作るのか、花桐は不思議に思った。
「はい」草野が続ける。「他の運動部にも声をかけて、部員を集めているようです」
「ああ、テニスのサークルみたいなものかね。男女混合で、体を鍛えるようなしんどいことはせず、ヒマさえあれば、合コンをして、遊んでいるような集まりを作ろうとしているのかね」
「いいえ、サークルではなく、正真正銘の体育会系男子サッカー部です」
「――そうかね」
花桐は思った。
まさか、中村の奴、サッカー部を創設して、うちに対抗しようとしてるんじゃないだろうな。あいつは熱い奴だから、左遷された恨みから、そんな企みを抱くかもしれん。――ならば、どうやって人材を確保するというのか? 寄せ集めで間に合わせようというのか?
窓からグランドを見下ろした。歓声が聞えてきたからだ。ちょうど体育の授業中で、男子生徒がサッカーをしている。しばらく眺めていたが、まったく様になっていない。あれでは、ちょっとサッカーを習ってる小学生の方がうまい。
我が雷電高校サッカー部に勝つには十年、いや三十年、早いわ!
花桐理事長は、うちのサッカー部に対抗するのかと少しでも不安を覚えた自分を恥じた。
「草野校長、森教頭。また遊びに来ますわ。――西見校長。今日は
疲れたから帰るとするか」
気を取り直した花桐が西見を伴って、ドアに向かう。
「理事長。そこまでお送りしましょう」森教頭が申し出る。
「いや、かまわん。すぐ下に車を止めておる。いつものロールスロイスだ」
理事長は、金だけはたくさん持っていた。一万円なんて、小銭みたいなものだ。もちろん、ケチだから金持ちになれたのである。
「それではまた」二人が出て行った。
草野校長は机の引き出しから調味料入れを取り出すと、ドア付近に塩をぶちまけた。
竜巻高校には半年に一回、練誠会という行事がある。学校の近所にある諏訪一大寺に行って、坐禅をし、写経をするという、とても有り難いようだが、生徒にはまったく人気がなく、マラソン大会、ぎょう虫検査に続いて嫌われている学校行事だった。
竜巻高校が由緒ある仏教系の学校というわけではなく、たまたま学校の近所にヒマそうで、つぶれそうなお寺があったので、草野校長が一人で交渉して、そんな行事を作り上げたのである。校長は自分で考えた練誠会が学校で採用されたことを、校長会で自慢げに報告したらしいが、生徒には迷惑な話であった。
反面、お寺は半年に一回のこの臨時収入のお陰で、屋根や石畳の修理を行うことができ、バラバラになりそうだった竹ぼうきも高級品に新調した結果、落ち葉の回収も楽になり、境内にも活気が戻って来たのである。
再びおいしいものが食べられるようになったためか、住職の顔色はよくなり、袈裟はしだいにキンキラキンの派手なものになっていった。
今週いっぱいを使って生徒はクラスごとに歩いてお寺まで出かけて行く。学校のすぐそばにあるのだが、憂鬱のかたまりのような生徒の足は重く、その道のりは遠い。途中でコンビニの前を通るのだが、まるで砂漠の中で見つけたオアシスのように輝いている。練誠会を終えて、再びここを通るとき、どんな気分なのだろうかと、明るい店内を恨めしそうに覗きながら、通り過ぎて行く。
「今日は確か新しいスイーツが発売されたんだよな」「マジかよ。帰りに寄ろうや」「俺はアイスだな」「俺はおにぎりだな」「お前ら、揚げ物を忘れんじゃねーぞ」
煩悩が制服を着て歩いているような男女八十人の集団が、朝日を浴びながら、ダラダラと決戦場へ歩いて行く。朝日が爽やかだなんて、絶対ウソだとみんなは知っていた。
諏訪一大寺の山門で出迎えてくれたのは、作務衣を着た、住職の星輝和尚である。以前は、いかにも厳しい修行をしているかのように体が細かった住職も、実入りがよくなってからは、こちらも煩悩のかたまりのような体型に変わってしまっていた。動物に例えると、キツネが堕落して、タヌキになったようなものである。
「これはこれは、竜巻高校二年三組のみなさん。ようこそ、いらっしゃいました、住職の星輝でございます。今日一日、よろしくお願いいたします」大きなゴマ塩頭を深々と下げた。
午前中は坐禅から始まる。二クラス約八十人の生徒が禅堂に入り、畳に並べられた座布団の上へ順番に座っていく。
坐禅を行う際の足の組み方は二種類ある。左足だけを右足の太ももの上に乗せる半跏趺坐と、さらに右足を左足の太ももに乗せる結跏趺坐である。両足を乗せる結跏趺坐が無理な生徒は、片足だけを乗せる半跏趺坐で坐る。
生き物係の犬井は太っているため、両足で組むことができず、片足の半跏趺坐で坐ることにした。いつものことである。ちらっと左隣を見ると、宮井君がちゃんと両足を太ももに乗せて、結跏趺坐で座っている。背筋もピンと伸ばし、臨戦態勢はバッチリといったところだ。
宮井は痩せている。何かのスポーツをしているとか、ヨガをしているとかで、痩せているわけではない。家が貧乏でロクなものを食べてないのである。本人から聞いた話によると、母親と弟と一緒に、酒乱の父親から逃げてきたらしい。母親がいくつかのパートを掛け持ちしながら、女手一つで育てているのだが、生活は苦しいらしい。長男である宮井の下に弟が六人もいるからである。つまり七人兄弟で、一番下が七男である。まさに七難である。
令和の時代に、こんな昭和のような貧乏家族が存在するのかと、犬井は話を聞いたとき、大いに驚き、大いに同情してあげた。宮井は何とか家計を助けたいと思っているのだが、うちの高校はアルバイト禁止である。
ところが、話を聞きつけた教頭先生が特別扱いで、宮井にアルバイトを紹介してくれた。学校内にある食堂の皿洗いである。昼休みに学食で皿洗いをし、まかないとして、うどんかそばを一杯もらい、千円がもらえるというものである。もともと、皿洗いは食堂のおばちゃんの仕事の一つだったのだが、教頭が宮井のために交渉して、仕事をもらったのである。食器洗い乾燥機を導入する予定だったのだが、宮井が在学している間は見送るように指示をしたらしい。
生徒のためにここまでしてくれる教頭は、校長と違って、生徒に人気がある。宮井は教頭先生に足を向けて寝られないと言って、毎晩、学校がある方向に頭を向けて寝ているらしい。宮井の学食のバイト収入は一か月で二万円になる。しかし、自分で使うことなく、これをすべて家に入れている。家賃か食費の足しにしているのだろう。毎日をいい加減に過ごしているクラスメートからすると、宮井は苦学生のカガミのような立派な生徒であった。
そんなことを思っているうちに宮井と目があった。宮井は僕の方を向いてニヤッと笑った。これから一時間もの辛い坐禅が始まるというのになぜ笑えるのか? その笑顔の理由を僕は知っている。この坐禅が終わったら、昼ご飯が待っているからである。いつも一杯のうどんかそばを食べている宮井にとって、お寺で出される精進料理は半年に一度のご馳走であった。
全員が着席するまで坐禅は始まらない。ヒマなので宮井に声をかける。
「ネコは元気?」生き物係の犬井らしい質問だ。
「おかげさまで二匹とも元気だよ」
宮井家ではネコを飼っている。貧乏なのに猫や犬などのペットを飼う。貧乏人あるあるだ。
エサはバイト先の学食でもらった肉の切れ端や、魚のアラである。当初、ネコは一匹だったのだが、もらったエサをビニール袋に入れて、ブラブラさせながら帰宅途中、ニオイに釣られたのか、見知らぬノラネコが付いて来て、そのまま宮井家の二匹目のネコになったらしい。
「三匹目がやって来る予定はないの?」
「うーん。欲しいけど、それはうちの家訓からして無理だね」
多頭飼いをして、家の中がグチャグチャにならないようにルールを守っているわけではない。経済的に厳しいだけである。
ネコを飼うなら二匹が限界で、ハムスターなら三匹、金魚なら五匹までと家族会議で決めたらしい。それを家訓と呼んでいる。基準はよく分からない。しかし、経済的な余裕があれば、七人兄弟で一匹ずつネコを飼いたいという。つまり、七男に七猫の割り当てである。宮井家の夢は大きい。
「生き物係はポチを飼うことになったらしいね」今度は宮井が訊いてくる。
「そうなんだ。中村先生に押し付けられて、僕が飼育主任に任命されたんだけど、なんだかよく分からない理由で飼うことになったんだ。あの先生は強引だから宮井君も気を付けた方がいいよ」
「僕に頼み事なんかしないでしょう」
そう宮井は言ったが、彼は金の力で動く。金の前では無力と化す。何も起きなければいいがと犬井は心配になった。
ウワサの中村先生は禅堂の隅に他の先生と並んで、座っている。練誠会がどういうものか体験に来たらしい。何事も積極的に関わっていくタイプなのか、単に物好きなのか分からない。だが、よく見てみると、中村先生はしっかり結跏趺坐で座って背筋を伸ばしている。体育の先生だけあってガタイは大きいのだが、体は柔らかいのだろう。先生は気配を感じたのか、ふとこちらを見た。僕はあわてて目を逸らした。また変なお願い事をされては困るからだ。
学食・宮井君のさらに左隣に座っているのは松寿司・中島君である。中島もちゃんと結跏趺坐で座っている。宮井と同じように痩せているので、両足を組むことができるのである。
しかし、中島の家は貧乏ではない。それどころか、ウマイ寿司の常連で、家族で行ったときはいつも松寿司を頼んでいるという。ウマイ寿司の大将が、出席者三千人の父兄会の場で、中島家の個人情報をベラベラしゃべってしまったので、全員が知るところとなった。
宮井は貧しくていいものを食べられないから痩せているのである。中島はヘルシーで高級な寿司を食べているから痩せているのである。同じ痩せている人でも事情が真逆なのである。だから、人を見かけで判断してはいけないのである。
まだ、坐禅は始まらないため、ヒマな犬井は右隣にいる男子生徒を見た。左隣の二人と違って半跏趺坐で坐っている。両足を太ももの上に乗せられないのだ。だが、彼は犬井のように太っているわけではない。背は高くてスリムだ。足も嫌がらせのように長い。しかし、子供の頃から、イスに座っていて、床に直接座る習慣がなかったため、あぐらが苦手なのである。
彼の名前はチャーリー。イギリスからの留学生だ。本名はチャールズ何とかと聞いたけど、ややこしかったので忘れた。だから、愛称のチャーリーでいいだろう。みんな、そう呼んでいる。英語と日本語がペラペラのチャーリーは普通の留学生ではない。ヤンキーなのである。
全国の高校の数はざっくり言って、五千校くらいある。各校に三人のヤンキーがいるとして(一人もいない高校もあるだろうから平均だ)、合計五千校×三人=一万五千人のヤンキーが、日本全国に存在している。その中でおそらく唯一無二のバイリンガル留学生ヤンキーがチャーリーだ。
チャーリーはヤンキーらしく、今から厳粛な坐禅が始まろうとしてるのに、ガムをクチャクチャ噛んでいる。しかし、その音は半径二メートルくらいにしか聞こえないほど小さい。彼なりに気を使っているのである。気を使って噛むのなら、いっそのこと吐き出せばいいと思うのだが、ヤンキー留学生の考えていることは分からない。チャーリーがヤンキーになったきっかけは、チャーリーのさらに右隣に座っているスコット山田のせいである。
彼は留学生ヤンキーに続いて珍しいハーフヤンキーである。お父さんが日本人で、お母さんはイギリス人というハーフである。そのお母さんとチャーリーのお母さんは知り合いらしく、チャーリーは日本に留学する際、スコット山田君の家にホームステイすることになった。――運命としか言いようがない。
同い年の二人はきっと気が合うと考えたようだ。だが、気が合うどころか、合い過ぎた。もともとヤンキーだったスコット山田の影響で、チャーリーも遥か異国の地でヤンキーになってしまったのである。
竜巻高校には全国平均より多い、七人のヤンキーがいる。リーダーはスコット山田で、サブリーダーをチャーリーが務めている。スコット山田も半跏趺坐で坐っている。結跏趺坐で坐ろうと思えばできるのだが、やろうとしない。これがヤンキーたる所以である。些細なルールでも、破ればカッコイイと思っているのである。もちろん、ガムもクチャクチャ噛んでいる。お坊さんに聞こえない音で。
しかし、二人が友達になることで、いい面もあった。チャーリーは日本語がペラペラになり、スコット山田は英語がペラペラになったのである。学校でも家でもずっと一緒なら語学も上達するものである。だが、スコット山田の英語の成績は悪かった。英語を聞いたり、しゃべったりできるのだが、書けないし、読めない。英文法がさっぱり分からないのだ。
チャーリーに訊いても現在進行形や現在完了進行形のことはうまく説明ができないようだ。
「チャーリーよ。英語の現在進行形って何?」「知らん」「英国人がなんで知らんの?」「現在進行形って、日本語でしょ」「ああ、気づかんかったわ。――過去進行形というのもあるんよ」「なぜ過ぎ去った過去が進行するのか?」「ああ、不思議なんよ」「過去が進行したら、現在に追い付いてしまうのではないのか?」「おまけに未来進行形もある」「未来が進行したら追い付けないよ」「それでなくても追い付けないからな」「日本語の英語は難しいね」
「――だろ?」
日英ヤンキーの二大頭脳を合わせても分からない。
だが、チャーリーは語る。
「心配しなくてもいいよ。日本で英語ができなくても困らない。だって英語がペラペラの人なんて、日本で三パーセントくらいだよ。それでも日本は国際社会においても発展していってるし、それなりの地位を築いているよ」
「英国人に言われたら説得力があるな」
「スコット君は英語がしゃべれるから、それでいいんじゃない。英字新聞を読んだり、翻訳の仕事をしたりしなければ、ペラペラというだけでモテるでしょ」
確かに、英語ペラペラのハーフヤンキーであるスコット山田は、チョイ悪に憧れる年頃の女子には人気がある。だが、しゃべれるだけで、アルファベットが筆記体で書けないなんて、彼女たちは知らない。英検なんか持ってない。受かるわけないから受けてない。何しろ、問題文が読めないし、理解もできない。だが、教科書に載ってないスラングや放送禁止用語はたくさん知っている。これでいい。あまり成績優秀なヤンキーだと、ヤンキーとしては逆にカッコ悪い。ちょっと崩れている所がいいのだ。
「日本の英語では、過去が進行して、現在も進行して、未来も進行するんでしょ。なかなか忙しいね」
「バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいだろ」
結局、あの映画は最高だという結論になって、いつも英文法の話は終わる。
坐禅が始まった。禅堂が静けさで包まれる。これから一時間の長丁場だ。しかし、気温は快適だ。汗がダラダラ流れるほど、暑くないし、震えるほど寒くもない。絶好の坐禅日和だ、なんて誰も思ってないだろうが、余計な執着を一切捨て切ること。これが坐禅の極意だ。決してエロいことなんか考えてはいけない。男子高校生には過酷だ。そこまで気を使ってるとは思えないが、一応、同じ禅堂でも男子と女子が座る場所は離されている。約八十人の生徒が無言で座り、鼻呼吸をしながら(デブにはツラい)、両手の親指の先が軽く触れるように組んでいる。目は半眼にして、四十五度下を向き、一メートル先を見つめている。目はカッと見開いてもいけないし、閉じてもいけない。
チャーリーは慣れないあぐらで足が痛そうだ。禅堂の中で金髪のチャーリーは目立つ。竜巻高校では髪を染めるのは禁止されているため、全員が黒髪なのだが、チャーリーは生まれつきの金髪だから仕方がない。ヤンキー仲間からは羨望のまなざしで見られている。高校を卒業と同時に染めようと、みんなは目論んでいるのだが、彼はわざわざ染める必要がないからだ。美容院代が浮く。
チャーリーはヤンキーの定番のウンコ座りもマスターした。スコット山田が見本を見せながら教えてくれたのだ。竜巻高校の全ヤンキー七人が放課後、近所のコンビニの駐車場に集まって、ウンコ座りをしていても、大柄で金髪のチャーリーはひと際目立つ。みんなと同じ制服を着ているため、後ろから見ると外国人に見えず、ヤンキー集団の中で、唯一髪を染めることを許されたヤンキーリーダーのように見える。
ある日、スコット山田が「ウンコ座りを英語で何と言うんだ?」と訊いたが、チャーリーは分からないらしい。
「イギリスにはウンコ座りがないのか?」
「ウンコ座りはあるけど、ウンコ座りとは呼ばない」
「なんでだ?」
「便所が洋式だからだ」
スコット山田の前を住職の星輝和尚が生徒の顔を見ながら、ゆっ
くり通り過ぎる。ガムを噛むのを一時止める。
早く歩けよ、俺の目の前から去れよ坊主と心の中で叫ぶ。もしも
口に出して言ったら、警策と呼ばれる棒で叩かれる。あれは痛い。聞いているだけでも痛そうな音が五回くらい禅堂内に響き渡る。体がキツくて失神しそうになったときは、自ら叩いてもらえるようにお願いする。その場合は、お坊さんが目の前に来たとき、胸の前で両手を合わせて、体を前に傾ければいい。後は歯を食いしばって、警策が肩の辺りに飛んで来るのを待つだけだ。
最初は警策を肩に当てて、お坊さんは間合いを測る。
そして……。
バシッ、バシッ、バシッ、バシッ!
終わったら、ちゃんと手を合わせて感謝する。体はすっきりする。叩かれることによって、煩悩が去って行くとか何とか、小難しい理由があるのだろうが、おそらく叩かれた痛みで、体のキツさが麻痺してしまうのだとスコット山田は思っている。それにしても、叩かれて感謝するのだから変な文化だと思う。
星輝和尚が嫌がらせのような遅い足取りで、目の前を通り過ぎた。スコット山田はガムを噛むのを再開しようとした。だが、和尚の後から、さらに一人の男が歩いて来る。
もう一人、坊主がいるのか!?
よく見ると用務員の岡戸だった。手に竹刀を持って、険しい顔をして歩いている。
あのオッサン、なんでこんな所にいるんだ?
岡戸はスコット山田を見つけると、迫力のある顔でニヤリと笑い、竹刀を肩に担ぎながらやって来た。耳元に口を寄せて来る。
「やあ、ヤンキーのスコット山田君。練誠会の後はヒマでしょう。終わったら、用務員室に来ないかね。一生のお願いがあるのだよ」
周りに聞こえないほどの小さな声でそれだけ言うと、岡戸は返事も聞かずに、和尚の後について歩き出した。その背中をスコット山田は冷やかな目で見つめる。岡戸もスコットも学校では有名人だから、お互いよく知った仲だ。だが……。
若いネエチャンならともかく、オッサンの一生のお願いって何だよ。気味が悪い。しかし、ヤンキーの売りの一つに男気がある。ここで引き下がっては男がすたる。どんなお願いか知らんが、終わったら、用務員室に寄ってやろう。
確かに言われた通り、放課後はヒマだからな。もしも、くだらないお願いだったら、暴れて用務員室をグチャグチャにしてやる。ヤンキーにお願い事をするには覚悟がいるということを知らしめてやる。
そして、スコット山田は思った。あんなオッサンがエリートサラリーマンだったというウワサはウソに決まってる。
スコット山田が心の中で歌を何曲も歌っているうちに、坐禅の終了の鐘が鳴った。きっと、ラッパー・安藤の奴も心の中でラップを刻んでいたのだろう。体が揺れてたし、手も動いていたからな。後で注意してやろう。あれでは歌ってることがバレて、いつか警策でぶん殴られる。ラッパーが警策でバシバシ叩かれて、お礼に手を合わせてる光景なんてクール過ぎるだろ。奴は保健室でしばらく意識不明だったらしいから、そのときの後遺症が出ているのかもしれないな。
スコット山田はゆっくり立ち上がった。あちこちで足が痺れて立てない奴や、転んでる奴がいる。バカな奴らめと思った瞬間、スコットも派手に転んだ。自分の足も痺れていることに気づかなかったからだ。だから、坐禅は嫌いなんだ。
だが、畳だから転んでも大したケガはしない。俺はヤンキーだけど畳は大好きだ。あの匂いが好きなんだな。
さて、いよいよ昼ご飯の時間だ。
といってもここは寺だ。出てくるのは肉を使わない精進料理だ。育ち盛りの高校生に肉を喰わせないのは虐待じゃないのか。そのうちにバチが当たるぞなどと、生徒たちはブツクサ言いながら、禅堂から食堂へゾロゾロ移動する。長身のチャーリーの隣に、同じくらいの身長の男がやって来て、隣に並んだ。
「チャーリー君。俺は新しく赴任した体育教師の中村だ」
「えっ? あっ、はい」同じ身長の日本人にはあまり会わないため、一瞬驚いたが、立ち止まらずに返事をする。中村も歩いたままだからだ。
先日の父兄会で見かけたから知っている。ボクに何の用事だろう。二人は並んで食堂へ向かう。周りの生徒は気を使ってか、二人から離れている。
「君はイギリスからの留学生だな。向こうでは何かスポーツをやっていたのか?」「クリケットをやってました」「ほう、英国の国技だな。クリケット何段だ?」「そういうのはないです」「あれは十一人でやるな」「はい」「そっくりだな」「何とですか?」「サッカーだ」「全然似てませんよ。――まさか、先生。ボクをサッカー部に勧誘しようとしてます?」「おお、してますぞ。クリケットができればサッカーもできるだろ。サッカーはクリケットみたいに複雑なルールじゃないぞ。ボールは一つで済むし、ゴールは二つだけだ」「だけど、ボクはヤンキーですよ」「知ってる。金髪だからな」「これは天然ですよ」「スコット山田とツルんでるだろ。ウンコ座りも板に付いたと、もっぱらの評判だぞ」「そこまでご存じなら、お分かりでしょう。ヤンキーに体育会系のクラブは似合いませんよ。歯を食いしばって、汗を流すなんて、ヤンキーの流儀に反しますよ」「ヤンキーのようなワルが好きな女子と、爽やかなスポーツマンタイプが好きな女子と、ダブルでモテるぞ。両手に花だ。ダブルハンドフラワーだ。ああ、俺は羨ましいぞ!」「別にモテなくても……」「チャーリー君、聞きなさい。俺の国と君の国は、つい先日まで日英同盟を結んで仲良くしていたという歴史を忘れたのか?」「そんな昔の話を……」「君がサッカー部に入らなければ、俺は今後、ビートルズもクイーンもレッドツェッペリンも聴かないぞ。チャーリー君のせいでイギリスの音楽シーンが打撃を受けてもいいのか?」
訳の分からない理屈で勧誘は進んで行く。すぐ目の前に食堂が見えてきたので、チャーリーは何とか話を終わらせようとする。
「では、前向きに検討しておきます」
「そんな三流の政治家みたいなセリフを言ってたらダメだ。――よし、分かった。少しだけ時間をあげよう。今週中に返事をくれ。それまでにチャーリー君のユニホームとスパイクは用意しておこうじゃないか」
「中村先生!」
「ソックスもな」
「先生が生徒を脅迫してもいいのですか?」
「これは脅迫ではなく、無理なお願いだ。だから頼む!」と言って頭を下げる。
「どう違うのですか?」
「頭を下げるかどうかの違いだ。――それにしても、チャーリー君は日本語が上手だなあ」
「今さら取って付けたように褒められても」
イギリスでは見かけないタイプの教師にチャーリーは戸惑う。
食堂ではすでにお膳が並べられていた。各自、順番に座って行く。スコット山田はチャーリーと並んで座った。目の前の精進料理を
見て、うまそうと思う。だが、それを口に出して言ってはいけない。
「相変わらず、クソまずそうだな」
ヤンキーっぽく、ケチを付ける。ここで、何ておいしそうなんだなどと言うと、ヤンキーの名がすたる。とりあえず、何事にも逆らって、文句を言ってみる。相手が何であろうと迎合せずに、突っ張ってみる。そうすると、社会に流されないように生きているカッコいいヤンキーに思われるだろ。
しかし、この質素な料理を見て、本当にうまそうと思っているのは、スコット山田と貧乏な学食宮井くらいだろう。毎日うどんかそばの宮井の目は、精進料理を前にして輝いている。だが、座ってもすぐに食べられない。食べる前に、お経だか呪文だかをナムナムと唱えなければならないからだ。味噌汁が冷めるだろうよ。
食事中は無言だ。家での食事時のように、今日学校であったことや、好きな子ができたことなんかを楽しそうに語ってはいけない。黙って口に運ぶ。いつもおしゃべりをしながら食べている女子には過酷な時間だ。しかし、心の中は自由だ。
(このがんもどき、うめえ!)何を叫んでも叱られない。
それでも、スコット山田は隣のチャーリーに小さな声で話しかける。こうやって、些細なルールでも破るのがヤンキーのポリシーだ。
「チャーリー、さっき中村先生に何を言われていたんだ?」
「サッカー部に入れって」
「入るのか?」
「入らない。ヤンキーとサッカー部の両立は難しい」
「文武両道はムズいからな」
「ヤンキー行為は“文”に含まれるのか?」
「そんなもんだろ。ところで、イギリスの料理はまずいらしいな」
「ああ、クソが付くほどマズい。しかし、この精進料理はうめえ。ナスの天ぷらは最高だ!」
「おい、そんなことをデカい声で言うなよ。俺たちはつっぱりヤンキーだぞ」
「そうだった。このメシまずいな。イギリスのソウルフードのフィッシュ・アンド・チップスよりマズい」
「それは言い過ぎだろ。料理を作ったお坊さんに悪い。俺は以前、ショッピングセンターのフードコートでフィッシュ・アンド・チップスを買って帰って、うちのネコにあげようとしたら、ニオイを嗅いだとたん、ネコパンチで叩き落されたことがある。あれは、それほどヒドいぞ」
「すまない。英国国王に成り代わってお詫びを申し上げる」
チャーリーは律儀に頭を下げる。スコット山田が周りを見渡してみると、星輝和尚も一緒に食べていた。
「なんでこんな質素な料理で、あんなに太れるんだ?」
首を伸ばして眺めてみると、なんだか和尚の食事の量が多い。ご飯もおかずも汁物も山盛りだ。
――自分だけデカ盛りかよ!
和尚は弟子らしきお坊さんにお椀を差し出した。
――お代わりかよ!
精進料理を大盛で食べて、お代わりをしていれば、いくらヘルシーな精進料理でも太るだろう。いつかきっとバチが当たる。当たってほしい。絶対当たれ。俺が不動明王なら、ピンポイントで確実に当ててやる。
食堂の隅には、ちゃっかり用務員岡戸も座って、黙々と精進料理を食べている。後で聞いた話だが、オッサンは星輝和尚に頼まれて、坊主の真似事のバイトをしているという。持っていた竹刀は自前らしい。まかない付きのバイトみたいなもんだ。
まったく、ここにはまともな奴はいないのかよ。
俺みたいなヤンキーに言われたら世も末だな。
昼食後はその場で用紙が配られて、みんなで写経をした。黙って見本を書き写すだけなのだが、お経は漢字ばっかりで、英国人のチャーリーはかわいそうだ。慣れないあぐらをかきながら悪戦苦闘している。
「スコット君、これはどういうことが書かれているの?」
写している般若心経の意味を聞かれたけど、俺に分かるわけない。以前の練誠会の法話の時間に聞いたような気もするが覚えていない。他の奴らも覚えてないだろう。
だが、たまたま俺の隣に姫宮瑠伽が座っていて、きれいな字で写経をしている。マドンナと呼ばれている学級委員長だ。姫宮は少し抜けていたが、俺たちよりかは知性も教養も常識もある。そして、少しかわいい。
「よお、姫宮、般若心経はどういう意味かとチャーリーが知りたいんだと」
チャーリーのせいにする。名前を呼ばれると、マドンナ姫宮は黒髪をふわっとさせて、こっちを向いた。
「知らん」
「……」
「冗談だよ、ヤンキー君」写経の手を止めて説明をしてくれる。「般若心経のポイントは三行目に書いてある色即是空と空即是色だよ。色というのは形ある物という意味。形ある物なんて、空っぽ。何もないということ。つまり、死んだら、形あるお金とか家とかはあの世に持って行けないから、そんなものにこだわらないで、執着心を捨てて、さっさとあの世に旅立ちなさいということ。たとえば、家とか土地にこだわってると、あの世に行かないで地縛霊になるわけ」
「怖いな」
「生きてる人はどう解釈すればいいかというと、それも同じ。お金とか車みたいな形ある物よりも、愛とか真心とか思いやりを大切にしなさいという意味。もちろん、形ある物が悪いわけじゃないよ。物欲に囚われたらダメということ」
「ほう、姫宮はすごいな。――チャーリー、分かった?」
「ものすごく分かったよ。でも、質問が一つ。その形ある物の中に食べ物も入ってるの?」
「入ってるよ。食べることも欲だよ」
「じゃあ、あれはどうなの?」
写経が始まっているというのに、星輝和尚は精進料理のデカ盛りをまだ食べている。
「……」マドンナ姫宮はポカンと口を開けたまま、絶句する。
チャーリーもスコット山田も、姫宮の形の良い唇に見とれる。
寺にいても煩悩は消えない。寺に住んでる星輝和尚があれなのだから、消えるはずがない。姫宮の隣で写経していた英語の酒井先生がポツンとつぶやいた。
「あんな奴は死んだら地獄行きでしょうね」
チャーリーもスコット山田も姫宮も、ギョッとして先生を見る。
「そういうことは決まってるのですか?」チャーリーが訊く。
「もしも地獄に落ちなければ、私が閻魔大王を脅して、あいつを地獄に叩き落してやるわ」
――バキっ!
酒井先生の握り締めていた写経用の筆ペンが真っ二つに折れた。
スコット山田は思った。
酒井先生がキレて、ラッパー安藤を意識不明に陥れたというウワサは本当に違いない。閻魔大王を脅すなんて、恐ろしい先生だ。ヤンキーの俺が恐れを感じるのだから間違いない。
写経は黙々と続く。できあがったら、最後に住職からデカい朱印をバーンと押してもらって完成する。その後は各自、家に持って帰って、お守り代わりとして大切に保管しておく。しかし、この写経を疎かにしてはいけない。前回の練誠会で、よほど練誠会が嫌だったのか、帰宅の途中見つけた焚火の中に、憂さ晴らしで写経を放り込んだ奴がいた。
「お前、バチが当たるぞ」俺は親切に忠告してやったのだが、
「バチなんか当たるわけないだろ」と一蹴しやがった。
その夜、そいつは謎の高熱を発し、翌日学校を休んだ。
この世に謎の高熱ほど恐ろしいものはない。
それ以来、俺はこの世にバチというものが存在すると信じることにした。信心深いヤンキーがいてもおかしくないだろ。
練誠会を終えて、晴れ晴れとした表情の生徒たちが諏訪一大寺を出て行く。来たときとは足取りが全然違って、とても軽やかだ。生徒たちはこのまま直帰する。
「さあ、コンビニ寄ろうや」「スイーツが待ってるぜ」「アイスが待ってるぜ」「おでんが待ってるぜ」「オヤジかよ」「高校生もおでんを喰うだろ」「お前、ちくわぶしか喰わんだろ」
はしゃぎながら帰る生徒を横目に、用務員岡戸が社務所を覗き込んでいた。どうやら、数珠を選んでいるようだ。その中で大きめの数珠を掴むと、岡戸はさっそく右手首に巻きつけてみた。
「巫女さん、大きな数珠の方が、仏さんはより早く助けに来てくれるものかな?」
白衣と緋袴の巫女装束に身を包んだ若い女性が答えてくれる。女子学生のアルバイトかもしれない。
「大きければいいというものではないですが、仏を信じていれば、助けに来てくれますよ」
「仏というのは足が速いものかな?」
「足……ですか? どうでしょうか。足がどうかされましたか?」
「先日、お化けに追いかけられたものでね」
「そうですか」巫女は冗談だと思って、軽く微笑む。「走ってる仏さんは見たことがないですね」
「でしょうな。私も走ってるお化けを初めて見たのだよ。――まあ、これをもらっていくよ」
岡戸は二千円の本水晶の数珠を一つ買って行った。そもそも数珠はお経を唱えるときの法具なのだが、持っているだけでも仏のご加護を受けることができるし、お守りにもなる。もちろん、岡戸はお守りとして買っていったのである。
ウマイ寿司の大将は、妻である女将と一緒に教会に来ていた。中央の椅子に並んで座っている。正面の中央祭壇に十字架のイエス・キリスト像。正面右には聖母マリア像。左にはキリストの養父聖ヨゼフ像が設置されている。
大将は手を合わせて、ぶつぶつ言っている。
「……どうかお許しください」
女将が隣から口を挟む。
「あんた、何を懺悔してるの?」
「まあ、いろいろあってな」
「商売繁盛のお願いをするからと連れて来られたのがこの教会。なのに商売のことは何も言わず懺悔してるし、あたしゃ、おかしいと思ったわ。あんた、何を企んでるんだい?」
女将が大将を睨みつける。
「商売繁盛ならお稲荷さんとか恵比須さんでしょう。お寿司の売り上げが上がりますようになんて、イエス様が聞いてくれるかい? そもそもイエス様は寿司を知ってるのかい? 食べたことがあるのかい? 最後の晩餐のテーブルの上に寿司が乗ってるかい?」
女将の言葉がマシンガンのように飛んで来る。
「――で、あんたは何を懺悔してたんだい? そのブサイクな顔じゃ、浮気ではないだろうけどね」
大将は女将のマシンガンの弾丸が尽きて、ほっとした表情を浮かべる。
「実はお前に黙ってたことなんだが、竜巻高校にサッカー部ができることになって、コーチに就任することになったんだ」
「いいじゃない! あんた、サッカー好きだし。ワールドカップのときなんか、仕事そっちのけでテレビに齧り付いてるじゃない。あんたが抜けている間、店は見習い君と一緒に、私が何とかするよ。ずっと学校に行ってるわけじゃないでしょ。任せておきなさいよ。もちろん、月給も出るんでしょ。五万くらい? 十万くらい?」
「いや、違うんだ。コーチはお前なんだ」
「はあ?」女将の目が見開く。「何でよ。私はサッカーの経験はないし、全然詳しくないよ」
「お前は衛星放送に齧り付いて見てるじゃないか」
「あれはお気に入りの韓流選手がいるからよ。見てるのはその選手の顔と体よ。ゲームなんか見てないし、ルールも知らないし」
「そうなのか?」
「そうよ。オフサイドなんて、いまだに意味が分からないし。――ああイエス様、あたしにオフサイドの意味を教えてください」
「イエス様も知らんと思うぞ。あの時代にサッカーはないだろ」
「イエス様が知らなければ、あたしも知らんわね」
「だがな、もう決まってしまったんだ」
「はあ?」女将の目がさらに見開く。
「お前がコーチで、わしが監督をやることになったんだ」
「その間、店はどうするの?」
「考えてなかった」
「あんた、寿司屋の大将が店の経営を忘れるかい? あんたは歌を
忘れたカナリアか? 手洗いを忘れたアライグマか? フンを忘れ
たフンコロガシか?」マシンガンが再び火を噴く。
「校長のたっての頼みだったもので」大将はしょぼんとする。
「そりゃ、あの校長と教頭はうちのお得意さんだよ。いつも競い合
うように高級寿司を頼んでくれるよ。先生だったら教育とか学問で
競うべきなのに、なんで寿司のランクを競うんだい? それにいつ
も松寿司を頼んでくれる中島君の家族もいるよ。竜巻高校にはお世
話になってるよ。だけど、それとサッカー部の件は違うでしょう」
「でも、もう返事をしちゃったし。男に二言はないし」
「だったら、あたしが断ってやるよ。あたしゃ女だから、二言もヘチマもないでしょうよ」
女将に押される大将。いつも口ではかなわない。
「そう言わないで、頼むよ」大将は手を合わせる。いつも酢を扱っ
てるから手は白くてスベスベだ。「正式な監督やコーチが決まるまで
の間だけだから。つまり、俺たちはつなぎということさ。そもそも
寿司屋の夫婦がいつまでもサッカー部の監督とコーチを兼ねるわ
けないだろ。そんな高校、どこを探してもないぞ。ほんの三か月く
らいのことだよ。給料も出るからさ」
とっさに適当なことを言ってごまかすが、これは自分の気持ちでもある。自分だって、引き受けたくないのだが、勢いに押されてなってしまったのだから。ほんの三か月くらいということで、しぶしぶ女将も承諾する。
大将が機嫌の直らない女将を連れて、教会を後にしようとしたとき、目の前に売店が見えてきた。一人の男性が十字架を見ている。どうやら、若いシスターが店員を兼ねているようだ。
「あそこで何かを買ってやろう」口では負ける大将は、物品で女将を懐柔しようと企む。「何でも好きな物を買ってやるぞ」たぶん、それほど高価な物は売ってないだろう。
「教会の売店に何が売ってるというの?」
「イエス様の扇子とか湯呑とか、聖母マリアさんのぬいぐるみとかおせんべいじゃないか」
近づいてみると、きれいな貴金属がたくさん並べてあった。
ネックレス、ペンダント、ブローチ、イヤリング、指輪、スカーフ……。
しかも、そんなに高くない。高価な壺や印鑑を売り付ける怪しい宗教ではない。世界に名立たるキリスト教である。――大将は喜んだ。
いいぞ! 女性は何歳になっても、ヒカリ物が好きだ! 寿司もヒカリ物がいい! これだと機嫌も直るだろう。
「おお、たくさんあるな。気に入ったものがあれば買ってやるぞ」
大将が太っ腹なところを見せたとき、
「ウマイ寿司の大将じゃないですか!」
売店を覗いていた男性が声をかけてきた。
「これは用務員さんじゃないですか!」
売店にいた男性は岡戸だった。
「ここで何をしてるのですか?」大将は驚く。
「いやあ、お守りを探してましてね」岡戸は大きめの十字架を手に取った。
「大将は教会で何をされてるのですか?」
「いやあ、ちょっとした懺悔をね」
「人間、いろいろと謝りたくなることもありますわな。――シスターさんよ、デカい十字架の方が、神様はより早く助けに来てくれるものかね?」
店員のシスターはやさしく微笑んで答えてくれる。
「大きさに関係なく、神は私たちを見守ってくださいます」
「神様は足が速いかね?」
「神様が走ってる姿を見たことはありません。おそらく飛ぶのではないでしょうか?」
「ほう。神は飛びますか」
「天使は飛びますから、神も飛ぶでしょう」
「ならば走るより速いな」
岡戸は大きめの十字架を買って帰った。
大将と女将さんもお揃いの十字架を買って帰った。
女将の機嫌は直っているように見えた。
岡戸が草野校長から頼まれた校庭の深夜の見回りも今日が十日目。待ちに待った念願の最終日である。
――私は十日間よくがんばった。今日が千秋楽だ。
偉いぞ私。やるな私。素敵だ私。惚れるぜ私。
岡戸は自分で自分を褒める。誰も褒めてくれないからだ。
そして、午後十一時。校庭のど真ん中で、いつものように岡戸は刺股と虫取り網を抱えて、椅子に座っている。あたりは暗く、月の光だけが校庭を照らしている。
初日は警官が乱入し、二宮金次郎像らしきものに追いかけられた。だが、その後は何も起きてない。しかし油断は禁物だ。何事も最後が肝心なのだ。十日間を無事に終えないと、一日につき三千円の特別手当がもらえない。ズボンのポケットには、いつものように、家にあった古い悪霊退散のお守りを入れている。そして、今日は特別に、諏訪一大寺で買い求めた大き目の数珠を右手首に巻いて、教会で買った大き目の十字架を首から下げている。これで和洋のお化けに対応できる。空から神に助けてもらい、地上から仏に助けてもらうという魂胆だ。
神社と寺と教会。神様、仏様、イエス様の三者による全面協力の元、バックアップ体制は万全である。そして、最終日の今日はさらに万全を期していた。助っ人を頼んだのである。
「こんな夜中に付き合わせて悪いね」
「いいっすよ。岡戸さんの一生のお願いですからね」
隣にスコット山田が座っていた。助っ人のスコットである。
練誠会の最中に一生のお願いをされたスコットが用務員室に行ってみると、岡戸が待っていて、夜中のバイトを依頼された。校庭に三時間座って、不届き者が現れないか見張るというバイトらしい。時給千五百円、三時間で四千五百円と言われたから、引き受けてあげた。
座ってるだけで四千五百円なら楽なもんだ。その間、何をしていてもいいという。ちょっと眠いけど、スマホをいじっていたら、三時間なんかすぐだ。
岡戸は校長からもらう特別手当のうち千五百円を時給として支払うことでスコット山田に仕事をお願いした。下請けみたいなものである。
最近、学校に侵入しようとしていた不届き者がいたと近所の人から通報があったから一緒に見張ってほしい。老人一人では心細い。スコット山田君は義理人情に厚いヤンキーではないか。だから頼むと、一生のお願いを申し出たわけである。
そして今、二人はパイプ椅子を並べて運動場の真ん中に座っている。スコット山田はスマホでゲームをしているようだ。ときどき顔を上げて辺りを見渡している。意外と仕事熱心だ。
「岡戸さん、不届き者は現れませんね」
「現れなければ、それはそれでいいよ。校長先生から言われているのは、今夜までの約束だから、あと少しだ。でも助かったよ。スコット山田君がボディガードで来てくれて」
「俺は岡戸さんのボディガードですか?」
「そうだ。君はケビン・コスナーだ。カッコいいだろ」
「じゃあ、岡戸さんは?」
「私はホイットニー・ヒューストンだ。♪アンドアイウィルオールウェイズ~」
「歌わんでいいです」
「♪ラヴユ~」
岡戸のまさかの歌が校庭に響く。
顔に似合わず、ホイットニー・ヒューストンも驚くくらいの高い声が出ている。
「♪ハァ~」
スコット山田は唖然として、椅子の上に立ち上がって、両手を広げ、白髪のポニーテールを揺らしながら、月に向かって熱唱している岡戸を見上げる。
観客は俺しかいないのに、なぜここまで陶酔できるのか?
なぜ、あんな怖い顔でこんなキレイな曲が歌えるのか?
深夜のよく理解できない時間が過ぎて行く。
やがて、午前二時になった。
「さあ、行こうか」
歌い終わった岡戸は、唯一の観客であるスコット山田に軽く膝を曲げて、一礼をすると、満足げな表情でパイプ椅子を折り畳み、刺股と虫取り網をかついで歩き出した。スコット山田もあわてて後を追う。
「用務員室で約束の四千五百円を支払うよ」
「俺は何もしなかったけど、約束だから遠慮なくいただきます」
二人は真っ暗な中、用務員室に向かって歩いて行く。岡戸がときどき後ろを振り返る。
「なんすか?」スコット山田が気になって尋ねる。
「不届き者がいないかなと思ってね。念を入れて歩いてるんだ」
「出ないでしょう。こんな真っ暗な所に」
スコット山田も釣られて振り返った。――何かが猛スピードで走って来る。
「スコット君、逃げろ!」岡戸が駆け出す。
「あれは、なんすか?」スコットも駆け出す。「着物を着た奴が追いかけてきますよ!」
「二宮金次郎だよ!」岡戸が前を向いたまま答える。
「まさか、七不思議ですか!?」スコットも全力で走る。「恐ろしい形相で追いかけて来ますよ!」
「スコット君、もっと早く走れないのか?」
刺股と虫取り網をかついで走る岡戸が、振り向いて言う。
「俺たちヤンキーは普段から足腰使わずバイクに乗って、タバコを吸って、酒も飲んでるから、体力がないんすよ」
短距離を走っただけで、スコットはもうヘロヘロで、足はカクカクで、岡戸の後を、遅れずに追いかけるのが精一杯である。
「スコット君。君に謝らなければならない」岡戸が走りながら言う。「実は“ボディガード”ではなく、私たちは“ゴーストバスターズ”なのだよ」
「今頃言われても…」
岡戸は十字架と数珠と悪霊退散のお守りに触って助けを求める。
「イエスさんよ、仏さんよ、神さんよ、飛んできてくれー! アーメン、ナンマイダ~、かしこみ、かしこみ~」
そして、スコットの方を振り返って叫ぶ。
「それともう一つ。その辺に木があるから気をつけて。いつも私が剪定しているケヤキ……」
――ドン! + 「ぎゃっ!」
スコット山田が木に激突した音と、激突した声が同時にした。
「スコット君、大丈夫かね?」岡戸が声のした方へ探しに行く。
――ドン! + 「ぎゃっ!」
岡戸も木に激突した。
もう一本、大木が立っていたことを忘れていた。
両手で木の幹を抱きかかえながら、岡戸はズルズルとずり落ちて行く。
突然、木の幹の表面がニュルッと女の顔に変化して、ニタリと笑った。
「この木が木娘だったのか……」ここで岡戸の意識が切れた。
その横を二宮金次郎像が薪をかついだまま、音も立てずに駆けて行った。
岡戸が目を覚ますと、ベッドの上だった。隣にスコット山田が寝ている。
――うう、また保健室か。
岡戸は起き上がろうとしたが、おかしなことに気づいた。
なんで、スコット山田君と私がダブルベッドで寝てるんだ?
囲んでいたカーテンをササッと開ける。保健室の主、アラフィフの美魔女、ボディコン白衣の佐藤恵子が、キッチンスペースでまたチャーハンをガチャンガチャンと中華鍋を振りながら作っていた。焦がしニンニクのいい香りが漂ってくる。
「あら、岡戸ちゃん、また目が覚めた?」
どこかで見た光景だ。
ループ現象が起きてるのか? ただのデジャブーか?
しかし、頭のコブが二つに増えている。――ああ、現実か。
「もしかして、私はまた木にぶつかって気を失っていたのかな?」
「そうらしいわよ。スコット君と一緒にね。朝、出勤して来た先生が見つけたのよ」
「なんでダブルベッドに寝かされているのかね?」
「面倒だから、ベッドをくっつけて、二人いっぺんに診ているわけ。その方が合理的でしょ。そろそろスコット君も目を覚ますはずよ」
突然、スコット山田がガバッと上半身を起こした。
「ほらね」
「恵子先生はすごいね」
「養護教諭歴は三十年ですからね」ドヤ顔をする。
スコットはあたりをキョロキョロ見ている。
「わっ!」すぐ隣の岡戸を見つけて驚く。
「あら、スコット君。目が覚めたかしら?」
「俺はここで何を? ――そうだ。二宮金次郎に追いかけられたんだ!」
「スコット君も見えたということは、私の幻覚じゃなかったんだなあ」岡戸が言う。
「岡戸さんはあれが現れるのを知ってましたよね。俺たちはゴーストバスターズだと言ってましたから」
「以前、一度だけ遭ったことがあるんだ。そのときも走って追いかけて来た」
「まさか、七不思議は本当だったのですね」
「そうだ。そして、あの晩はもう一つの七不思議を見た。私がぶつかった木は木娘だった。ニタリと笑いやがった」
「怖いっすね。俺、もうこのバイトは遠慮しておきます」
「バイト代はいらんのかい?」
「いえ、もらうものはもらいます」
ベッドの脇に立って話を聞いている恵子先生は、二人が頭を打ったために、二宮金次郎だの、木娘だのと、おかしなことを言い合っていると思っている。
「でも、二人とも無事でよかったじゃない。夜中にあんな所で何をやってたか知らないけど、頭にコブができたくらいで済んだからね。二人がそろそろ目を覚ますと思ってたから、チャーハンを作ってあげていたから」
アラフィフの美魔女恵子は腰をくねらせながら、コンロにかけてある中華鍋へ向かって行くが、いきなり振り返る。
「二人とも、なんで、チャーハンなのかって思ってない?」
「はあ、思ってます」とスコット山田。
「前の男がチャーハン好きだったんだよねえ。チャーハンをガツガツ食べている横顔が特に良かったんだよねえ。あの人、今頃どこで何をしているのだろうねえ」
恵子先生は遠くに目をやりながら、二人だけのメモリーに思いを馳せるが、中華鍋はがっしり掴む。
二人は、恵子先生がチャーハンの素のテレビCMでも見たのではないかと思ったのだが、くわしくは触れないでおこうと決めた。思い出は美しい方が素敵だ。
二人は頭にコブを作りながらも、ダブルベッドの上であぐらをかきながら、チャーハンを頬張る。恵子先生からあんなことを言われたら、寝起きは食欲がないなんて言ってられない。ガツガツ食べるしかない。彼女の思い出は大切にしてあげよう。
スコットは岡戸を見る。何も言わず、一心不乱にレンゲを口に運んでいる。
俺たちはいい人だ。恵子先生の元彼の思い出に付き合ってあげているのだから。
なぜ、保健室でチャーハンを食べているのか、二人にもよく分からない。恵子先生が作ってくれたから、食べているのである。もうすぐ昼だから、今日の朝食と昼食の代わりにもなる。ケガをして寝ていたのだから、スタミナを付けなさいということなのだろう。二人はそう思うことにした。
「恵子先生、このチャーハン、チャーシューがゴロゴロでうまいっす」スコットが褒める。
「チャーシューを大き目に切って入れておいたからね。それとニンニクもたっぷり入ってるよ。チャーシューもニンニクもいっぱい食べて、がんがん精力を付けてね」
美魔女恵子先生は意味ありげな視線を送って来る。なぜか、腰をくねらせている。スコットは思わず、目を逸らして、残り少ないチャーハンを食べ進める。
恵子先生はおそらく、俺のオカンより十歳は上だ。家に連れて帰って、この人と付き合ってるなんて紹介したら、オカンは逆上して包丁を振り回すだろう。アラフォーのオカンとアラフィフの恵子先生の対決なんか見たくない。岡戸さんがもらってあげればいいんだよ。
隣を見ると、冗談はやめておけと言いたげに睨まれた。
俺の心の中のつぶやきが読めたのか!?
オカルトの異名を持つ岡戸さんにも拒否される美魔女というのは、ちょっとかわいそうな気もするが、ここで同情したら、オカンの包丁がビュンビュン飛んで来る。そして、それは間違いなく、俺の体と心に突き刺さり、一生傷として残る。
その日の午後。北校舎の職員室から保健の恵子先生と用務員岡戸が出てきた。たった今、職員会議が終わったのだ。職員会議は必要ならば不定期に何度も行われているが、月に一度のメイン会議のときは、二人とも呼ばれて参加している。
恵子先生は岡戸と別れ、急いで保健室へ向かった。スコット山田に留守番を頼んでいたためだ。
「スコット君、ただいまー。今帰ったよー。あれ? いないね」
ベッドはもぬけの殻だったが、ポツンと置き手紙が置いてあった。
“恵子先生へ。
ケガの治療をありがとうございました。
チャーハン、おいしかったです。
男子生徒を誘惑しないでください。
さようなら。――スコット山田より“
恵子先生は手紙を片手に天井を仰いだ。
「あちゃー、またフラれちまったか! しかもヤンキーに!」
手紙が書かれたB5のコピー用紙を丸めて捨てようとしたが、ふと思いつき、紙飛行機を折って、保健室内で飛ばしてみた。
ふらついて墜落しそうになりながらも、機体を立て直し、意外と長く飛んだ。
負けそうになっても、泣きそうになっても、あきらめずに飛び続ける。いつか良い日がやって来ると信じて。いつか夢が叶うと信じて。そして、いつまでも自分を信じて。
――そう、これが私の人生。これが私の生き様。
「紙飛行機だよ、人生は! あたしの生き様はチョベリグー!」
美魔女恵子先生が両手を突き上げて、絶叫した。その声は保健室の外まで響き渡る。たまたま通りかかった用務員岡戸があわてて逃げ出した。これ以上かかわりを持ちたくないため、二度も失神して、二つもコブを作った体とは思えない速度で走り出す。
「さて、大声を上げて、せいせいしたところで、仕事に取り掛かろうかな」
恵子先生は保健室の隅を見る。そこには段ボール箱が積まれていた。次の仕事は、ぎょう虫検査のセロファン紙を全校生徒に配布するという重要なミッションだった。
「ぎょう虫なんかぶっ殺してやるわ!」
岡戸は用務員室から水の入ったバケツとタワシを持って、二宮金次郎像の前に来ていた。用務員として、ときどき掃除をしてあげているため、像のそばにいても、誰もおかしく思わない。熱心な用務員と思われるだけだろう。
タワシで像の汚れを落として行く。定期的に手入れをしているため、そんなには汚れてない。洗剤を使うまでもなく、水洗いで十分だ。
十五分くらいで像を拭き終え、像の足元の雑草を引っこ抜いて、ビニール袋に入れ、さっと清掃を終えた。
そして、岡戸は高さ約一メートルの二宮金次郎像と向かい合う。
「金次郎さんよ、あなたが夜中に校庭を走り回っているのは知っておるよ。ここにずっと立っていて、ストレスが溜まっておるのだろう。ストレスというのは精神的肉体的負担のことだよ。それを解消するために夜中に走っておった。昼間に走ると目立ってしょうがないからねえ。それをどこかで見た人が七不思議の一つに加えたというわけですな。ところが、最近、別の理由で走り出した。この像の撤去の話が出たからねえ。そのことを訴えたくて、私の前に姿を見せたのだね。あなたが私に何の危害も加えず、脅かすなんてこともせず、走り去った姿を見て、分かったよ。だが、心配無用じゃ。先ほどの職員会議で、あなたの像は残すことに決まった。像の撤去の予定は撤回されたのだよ。ですから、これからもまたこの場所で生徒たちを見守っていてくださいな」
岡戸は金次郎像に向かって一礼すると、タワシの入ったバケツをブラブラさせながら去って行った。
二宮金次郎像が岡戸の背中に向けて礼を返したことには気づかなかった。
学食のテーブルに三人の男が座っていた。草野校長と森教頭と年配の白髪の男性である。時間は十三時二十分。昼休みは十二時四十分から十三時三十分までのため、あと十分ほどで昼休みは終わる。そのため、生徒たちはすでに食べ終えて、教室に戻っていた。
しかし、たった一人だけ、食堂の隅でうどんをすすっている男子生徒がいた。特別にバイトの許可をもらって、昼休みに学食で皿洗いのアルバイトをしている宮井である。家が貧しい宮井は、月曜日から金曜日までこの学食で皿洗いをし、賃金として千円をもらい、まかないとして、うどんかそばを一杯もらっているのである。今日のまかないはネギがたっぷり乗ったキツネうどんであった。学食の大森店長が気を使って大盛にしてくれている。
うどんを食べ終えた宮井が、器を返却して、三人の元へやって来た。
「教頭先生、ご無沙汰してます」頭を下げる。
「おお、宮井くんか。最近会ってなかったね。元気にやってるかい?」教頭はうれしそうに顔を向ける。
「はい。せっかく教頭先生にお世話してもらったバイトですから、休まずに働いてます」
「ほう、がんばってるね。お母さんの具合はどうかね?」母の体調を気遣ってくれる。
「はい。元気にパートを掛け持ちして働いてます」
「六人の弟くん達も元気かい?」
「はい、みんな元気です。僕と違って、よく勉強する優秀な弟たちです」
「ほう、そうかね。君が社会人になって、家にたくさんお金を入れられるようになったら、少しは楽ができるねえ」
「はい。僕たち兄弟はみんな年子ですから、毎年、一人ずつ、どんどん社会人になって、どんどん家にお金を入れて、どんどん裕福になって、ついには豪邸を建てる予定です。これが僕たち宮井家の夢です」
「ほう、すごいね。夢が叶うといいね。また何か困ったことがあったら、いつでも相談に来なさいよ。これからもがんばってね」
「はい、ありがとうございます」
宮井は教頭に深々と頭を下げて、教室に帰って行った。学食には三人が残った。自分に頭を下げてくれなかった校長はブスッとして、恥ずかしさを誤魔化すように、自慢のヒゲに手をやっている。白髪の男性は事情がよく分からず、困惑した表情を浮かべていた。ただ、校長と教頭は仲が悪そうだと感じた。
ときどき、校長と教頭は学校の食堂で昼食を食べる。いつも出前のウマイ寿司を食べているわけではない。学食を利用するのは、生徒とのコミュニケーションを取りたいらしいのだが、当然、誰も近寄って来ない。生徒に人気のある教頭にだけ、数人が挨拶をして通り過ぎて行くだけだ。校長なんて眼中にない。学校における校長と教頭の存在なんてそんなものだ。
今日は学食で食事をした後に、一人の男性と話をすることになっていた。目の前に座っている年配の男性がそうである。
今年から竜巻高校は社会人入学を受け入れることになっていた。彼がその第一号である。名前を大久保田といい、年齢は六十六歳である。背は高く、スリムで、髪は豊かだが、真っ白になっている。落ち着いた柔和な表情を浮かべている。
三人でカレーライスのウェルカムランチを終えた。ウェルカムと言っても、三人はそれぞれ自分でお金を出して、食券を買ったのである。校長と教頭のどっちが新入生に奢るかで、大いに揉めたからで、結局、自腹を切ってもらったらいいという結論になり、名ばかりのウェルカムランチになったのである。校長も教頭も自分のためならお金は払う。ましてや、お互いに相手を出し抜くためなら、金に糸目は付けない。しかし、他人のためにはケチに徹する。そもそも新入生といっても、自分たちよりも年上なのである。なぜ、年上の人にご馳走をしなければならないのか。このことで二人は三十分も議論を重ねたのである。
だが、三人は無事にカレーライスを食べ終えた。そこへ学食の店長がやって来た。
「食器をお下げいたします」
学食はセルフサービスになっていて、食べ終えた器は各自が片付けるのだが、校長と教頭に気を使って、下げに来たのである。
「ああ、これは大森店長。さっき、バイトの宮井君に会いましたよ。がんばってるようですね」教頭が声をかける。
「はい。真面目に働いてもらってます。さすが、教頭先生が推薦された生徒ですね。こちらから何も言わなくても、自分からテキパキと動いてくれます」
「大森店長がまかないを大盛にしてくれてるそうですね」
「いや、大したことはありませんよ。ネギを多めに入れるとか、天かすを山盛りにする程度です。育ち盛りなのに宮井君は痩せてますからね。たくさん食べてもらわないと」
「いつもありがとうございます」教頭は頭を下げるが、校長は店長から自分に挨拶がないため、またブスッとして、自慢のヒゲに手をやっている。
育ち盛りだから、たくさん食べてもらいたいと言いながら、サービスしてるのはネギと天かすか? どれだけセコいんだと、校長は自分のセコさを棚に上げて、頭の中で批判している。
「では、失礼します」大森店長は食べ終えた三つのカレー皿を持って行った。
だが、すぐに戻って来た。
「食後のコーヒーでございます」マグカップを三つ並べ始める。
「いや、悪いねえ」校長がお礼を言うが、
「一杯、二百円でございます」
「なに! 金を取るのかね!?」校長の声が裏返る。
「はい。もちろんでございます。こちらも商売ですから」大森店長は平然と答える。
自販機の缶コーヒーは百二十円だぞ。子供向けのキャラクターが描かれたマグカップに入ったインスタントコーヒーが二百円かね。どれだけセコいんだと、またもや自分のことを棚に上げて、校長は頭の中でブツクサ文句を言う。
三人はそれぞれ二百円ずつ払い、マグカップコーヒーをズルズルと飲み始めた。
「カップはここに置いておいてください。後ほど取りに来ますから」
大森店長は六百円を握り締めて、厨房に戻って行った。
校長は六十六歳の新入生に話し掛けた。簡単な挨拶はすでに済ませてある。
「ご苗字は大久保田さんと言うのですか。変わってますね」
新しく高校一年生になるといっても、校長よりも年上であり、用務員の岡戸と同い年である。よって、敬語を使っている。
「大久保さんという苗字はありますし、久保田さんという苗字もよく聞きますが、二つ合わせたような大久保田さんという方には初めて会いましたよ」
大久保田は説明を始める。
「もともと、先祖は大久保姓でした。大久保姓ばかりの人たちが村を作って住んでいたそうです。隣には久保田姓の人たちの村がありました。あるとき、村の境界線のことで争いが起こり、大久保村が久保田村を襲撃したそうです。村に火を放ち、焼き尽くし、村人を次々に襲い、皆殺しにし、半日で全滅させたそうです。それで、大久保村が久保田村を吸収合併して、大久保田村になったそうです」
「そんな歴史がありましたか。それは驚きました」校長が目を丸くする。「村人を皆殺しとは恐ろしいですね」
「子どもからお年寄りまで、殴ったり、刺したり、斬りつけたりして、村人全員を殺した後は、首を全部切り離して、村の広場に並べ、勝利の証とし、最後は火をつけて燃やしたそうです。胴体はそのまま埋めたのですが、焼却後に残った頭蓋骨は大久保田村の入口に山積みにして、村のランドマークのようにしていたそうです」
「そんな気味の悪いことを、やさしそうな顔でよく語れますね」
「苗字の由来はよく訊かれますからね。そのたびにこの皆殺しの話をしてますよ。その村はもう消滅したそうですが、困った先祖ですよ。ははは」
「子孫のあなたに祟りはありませんか」
「そんなものはありません。ときどき寝ているときに首が締め付けられるように苦しくなって、夜中にハッと目が覚めますよ。ははは」
「それは祟りじゃないですか。供養した方がいいのではないですか。私がいいお寺を紹介しますよ。私の紹介でしたら、格安で引き受けてくれますよ」
「大久保田さん」隣で聞いていた教頭が強引に割り込んだ。
校長が紹介しようとしているのは、諏訪一大寺の星輝和尚だと察知したからだ。あんな生臭坊主に供養されたら、祟りが倍増して、大久保田さんは夜中にポックリ死んでしまうに違いない。私が適当にナンマイダとお経を上げた方が余程効果があるだろう。
「失礼ながら、お年は六十六歳ですね」教頭が質問する。
大久保田は、テレビでよく見る人気芸人と同い年だとうれしそうに言ったが、その芸人よりもかなり老けて見える。頭髪は白いし、シワも多く、腰も曲がっている。
「社会人入学ですが、我々は二十代前半くらいの人を想定していたのですよ。何かの事情で高校に行けなかった人を支援しようということです」教頭が困惑気味に言う。
「私は経済的理由で進学を諦めたのですが、この年になって、学びたいとう意欲がふつふつと沸いて来まして、応募させていただきました次第です」大久保田はハキハキ話す。
「ほう。そう事情があったのですか。大久保田さんの入学は、うちの生徒への刺激にもなると思います。ぜひ、がんばってください」
「私の年齢からすると、彼らは子供というより、孫のようですが、学問以外にも、今の流行りとか、若者言葉とか、いろいろなことを学びたいと思います」
「いろいろとクラブ活動がありますよ」教頭だけが話を続ける。
校長に話をさせたら何を言い出すか分からないからだ。
「私は手芸部に入りたいと思ってます」
「手芸部ですか!? 確かにうちの高校にありますが」
「私は編み物が趣味でして、セーターでもマフラーでも手袋でも編むことができますよ。ときどきフリマに出品して、ちょっぴり売れてます」
「手芸部は三人の女子が所属してますので、話しておきます。大久保田さんは手芸部唯一の男子生徒になりますね」
「はい。がんばって編みますよ」
竜巻高校には一年に一回、登山研修という行事がある。登山というと、マラソン大会、ぎょう虫検査、練誠会に続いて嫌われている行事のように思われるがそうではない。登る山が低く、ほとんど丘のようであり、登山というよりもピクニックだからである。生徒と付き添いの先生たちは午前中を使ってブラブラと頂上を目指し、午後の時間を使ってブラブラと戻ってくるという楽チンな行事である。しかも、その小さな山は学校のすぐ裏にあり、わざわざバスに揺られて行く距離ではなく、これまたブラブラ歩いて行って、ブラブラ帰って来れるからである。一日、丘で遊んで授業をサボるようなものである。
しかし、こんな楽しそうな行事を欠席する生徒たちもいた。スコット山田をリーダー、チャーリーをサブリーダーとする竜巻高校の七人のヤンキー集団である。理由はヤンキーには自然も汗も似合わないからだという。今頃は七台のバイクで市内を走り回っていることだろう。
天気は快晴で言うことなし。といっても、この山登りが苦痛に思える人物がいた。ラッパー安藤である。授業中にラップを歌っていて、英語の酒井先生に半殺しにされた安藤だったが、性懲りもなく、また授業中に踊ってしまったのだ。
前回は東北の三つの祭――盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、青森ねぶた祭りを踊って怒られたのだが、今回は先生のご機嫌を取ろうと、仙台・青葉まつりの中で踊られる“仙台すずめ踊り”を、持参した手作りウチワを持って、ソレソレと踊ったのだ。しかし、これも先生にとって逆効果のようだった。またもや、バカにされたと解釈されてしまったのだ。
「すずめを舐めるんじゃねえ!」
ふたたびキレた酒井先生が、容赦なく教卓に蹴りを入れた結果、前回と同じように安藤は滑って来た教卓と窓ガラスに挟まれて、瀕死のすずめのようになり、また足の骨にヒビが入ってしまっていたのだ。
「安藤君、今度の登山研修はどうするのかな?」数日前、酒井先生が優しく訊いた。
「足がこの通りですから、欠席します」足にギプスをはめている。
「たかが骨のヒビくらいで学校の大事な行事を休むのかな?」
酒井がニコニコしながら安藤の目を見つめる。
「レントゲン撮ったら、三本のヒビが入ってまして……」
「……」酒井は決して視線を外さない。
「痛みがあって、昨日も寝れなくて……」
「……」笑っているだけに、返って恐ろしい。
「痛み止めの薬も効かなくて……」
「……」酒井の目の奥は笑ってない。
「お母さんにも休むように言われたし……」
「……」目の奥にあるのが本性だ。
「お医者さんも安静にしておくようにと……」
「……」黙って安藤の返事を待つ。
「たった今、痛みが消えました!」
「そうでしょう。病は気からよ」
よって、安藤は松葉杖をついての参加である。
しかし、酒井先生も鬼ではない。安藤の介添えとして、ラグビー部の玉本と足立を付き添いにしてあげたのだ。歩けなくなったら、持参した担架で運んであげろということである。歩けなくなるまで歩けということでもあるのだが、担架を持参しての登山研修は全国でも珍しい試みだろう。二度もキレてしまった酒井先生はまだ元に戻りそうにない。
先頭を歩くのは草野校長であり、そのすぐ後ろを森教頭が追いかけている。こんなところでも、二人は張り合っているのである。ついさっきまでは森教頭が先頭だったのだが、ほどけた靴のヒモを結んでいる間、校長に追い抜かれたのである。そして今、教頭は抜き返そうと必死の形相で歩いている。
特に険しい道というわけでもなく、高低差がほとんどない平坦な山道なのだが、二人のお年寄りにはちょっとしんどい。
校長はこの日のために、登山用の杖=トレッキングポールを新調してきた。二本セットになったアルミ製の三段伸縮の銀色のステッキである。このステッキを校長・教頭室のパソコンからネット注文をしているのを、教頭は目ざとく見つけ、校長がいなくなったときに、注文履歴からこの商品を特定し、どうしても負けたくない教頭は、カーボンファイバー製の五段伸縮の金色の防水仕様の収納袋も付いた一番いいやつを買い求めたのである。
そして、二つの商品は同日同時刻の宅配便で校長・教頭室に届いた。箱を開封してお互いのトレッキングポールを比較した瞬間、教頭が勝ち誇ったような顔をしたのを、校長は見逃さなかった。
トレッキングポールは左右の手に一本ずつ持って使う。二本を同時に使って歩いた方がバランスを取りやすいからである。
「校長、トレッキングポールの調子はいかがですか?」後ろから教頭が訊いてくる。
「ああ、調子はいい。膝にかかる負担も軽減されとるからな」
「私のトレッキングポールも調子がいいですよ。何といってもカーボン製ですからね。まあ、軽い、軽い。おまけに丈夫とくれば、カーボン製しかないでしょうなあ。――校長のポールは何でできてましたか?」知っているのに、わざと訊いてくる。
「これはアルミ製だが」校長は悔しがるが、「いくらいい道具を持っておっても、使う人がヘナチョコなら何の意味もなかろう」果敢に言い返す。
ヘナチョコ呼ばわりされた教頭はいきなりスピードを上げて、校長を追い抜きにかかる。
校長も抜かれてたまるかとばかりに、スピードを上げる。教頭の長い足に負けじと、校長は短い足をフル稼働させて、トップの座を譲らない。二人の脇でトレッキングポールが前後にビュンビュン揺れている。
まだまだ若い者には負けんと校長は心の中で叫ぶ。こんな年寄りには負けんと教頭は心の中で叫ぶ。年齢は一歳しか違わないというのに。
校長と教頭の歩いた跡にはたくさんの足跡と、たくさんのポールが刺さった跡が点々と続き、砂煙と落ち葉が舞っている。
二人のゼエゼエという死にそうな息切れに驚いたリスが一目散に逃げて行く。お互い相手を打ち負かそうとして、周りは見えていない。前から来る登山客があわてて道を譲り、今のオヤジたちは何だと振り返る。二人はたちまち他の生徒たちを引き離し、やがて、豆粒のように小さくなっていった。
「相変わらず、あの二人はバカだ」「あんな大人になりたくないな」
生徒たちは冷静である。反面教師とはこのことであった。そんな中、生き物係の二人、犬井と鳥谷は多忙を極めていた。登山の途中で見かける昆虫や咲いている花の名前を教えろと、生徒たちがうるさいのだ。
「お前らは生き物係だろう。こいつの名前くらい知っておけよ」と、木に止まっている見たこともないヘンテコリンな茶色い昆虫を指差して言う。
生き物係といっても、十二匹の鯉と一匹の犬しか飼育してない。迷い犬ポチは犬井の足元に座っている。犬井はポチの飼育主任である。ポチも登山研修に連れて来たのである。
女子からも声がかかる。
「この花は何という名前なの?」
「僕たちは生き物係だから」分かるわけない。
「お花だって生き物だよ」知ってて当然でしょ。
「それはそうだけど」花に詳しい男なんて珍しい。植物園の職員か植物学者くらいだろう。
「おい、鳥谷。あれは何という鳥だ?」
別の男子生徒が木に止まってる黒色と灰色が混ざった変な鳥を指差して、訊いてくる。
「分からないなあ」
「お前、鳥谷という苗字だろう。鳥に詳しくなくてどうするんだ」
「名前は関係ないだろ」鳥谷が言い返す。「お前なんて、デブのくせに苗字は細井じゃないか」
「そんなことを言うと、チビなのに高井君がかわいそうじゃないか」
「頭が悪いのに金田一君もかわいそうだよ」
「貧乏なのに金山君の立場もないぞ」
「美人なのに姫宮さんはどうなんだ?」
「それは合ってる」「確かに」
生徒が入り乱れているうちに、犬井はスマホの画像検索機能を使って、昆虫や花や鳥を撮影し、名前を調べ上げる。
「おお、さすが犬井君!」
みんなが犬井を取り囲む。一方、バカにされて腹の虫がおさまらない鳥谷は、見つけた五十センチほどのヘビを持って、生徒を追いかけ始めた。
そして、先ほど文句を言って来たデブの細井が追い付かれた。
「さっきはよくもバカにしやがったな!」
「おう、やれるもんならやってみろ!」
鳥谷が蛇を持って細井に近づいて行く。細井が木の幹に足を取られて尻もちをついた。鳥谷はすかさず目の前に蛇を持っていく。
「これはヒバカリという蛇だ。噛まれたら、その日ばかりの命。略してヒバカリと言うんだ」
「待ってくれ! ボクが悪かった。鳥に詳しくない鳥谷さんなんて全国に一万人くらいいるから、蛇をどけてくれ。まだ死にたくない。家には食べ残した食材がたくさんあるんだ」
やって来た犬井が鳥谷の横でニヤニヤして立っている。以前、ヒバカリは毒蛇だと思われていたのだが、今では毒のない蛇だと知られていて、大人しく、めったに噛み付くこともないことを知っているからだ。さすが生き物係だ。
鳥谷はヒバカリをそっと地面に置いた。ポチが驚いて逃げようとするが、ヒバカリは何事もなかったかのように、草むらの中へと入って行った。
「ああ、怖かったよう」デブの細井がのそっと立ち上がった。
生徒たちの喧騒を尻目に傍らの岩に座って、おにぎりを食べている男がいる。
やっぱり、山で自然に囲まれて食べるおにぎりは最高だ。普通に食べるよりも三倍はうまい。具は、梅干、昆布、おかか、鮭に明太子。なんでもうまい。いっそのこと、具がなくても塩だけでもうまい。登山で疲れた体には塩が合う。海苔もいらない。米だけでうまい。ああ、日本人に生まれて来てよかったなあ。明日、地球が滅びるとして、最後の晩餐はおにぎりにしたいね。おふくろの味だ。ソウルフードだ。シンプルイズベストだ。
男は水筒からお茶をラッパ飲みする。
――プハッ。ああ、お茶が合う。
やっぱり、おにぎりには日本茶だ。おふくろのお茶だ。ソウルドリンクだ。
山で食べる幸せに浸っていると、後ろから声をかけられた。
「まだ昼食の時間じゃないですよ、星輝和尚さん」
振り向くと、男子生徒が立っていた。
「おお、君は生徒会長の平井一郎君じゃないか。どうだい、君もおにぎりを食べるかい」
「いいえ、まだ十時ですから」
「そうだったかな?」
和尚さんは作務衣の袖を引っ張って、金色の高級腕時計を見る。
「おお、平井君の言う通り、わしのロレックスも午前十時だ。腹が減ったもんで、てっきり十二時半くらいだと思っておったのだよ。どうやら、私の腹時計は故障しているようだなあ」
「お昼ご飯は十二時からと決まってます。ちゃん規則を守ってください」
「さすがに生徒会長殿はルールに厳しいのう。だが、心配無用じゃ。まだおにぎりは五個残っておるし、お茶も半分残っとるわ」
水筒をブンブン振る和尚を残して、平井は仲間の元へ戻る。この和尚には何を言っても無駄だと思ったからだ。
なんで、こんな全身が煩悩のような人がお坊さんをやってるんだ? この人の辞書には戒律という文字はないのか?
それにしても、なぜ和尚さんが高校生の登山研修に来ているのか? まさか、生徒が滑落死したとき、すぐにお経があげられるようにか? 残念ながら、この山は滑落して命を落とすような険しい箇所はない。ならば、町内の慰安旅行と勘違いしてるのか?
平井の優秀な頭脳で考えても分からなかった。
川べりにたたずんでいる坊主頭は生徒会副会長の金森である。手を洗って、水を飲んでいる。話している相手は岡戸さんのようだ。手に虫取り網と虫かごを持っている。和尚さんもそうだけど、いったい用務員さんが、何のためにこの登山研修に参加しているのか? 二人を見下ろす平井は不思議がる。
「結局、二宮金次郎像には二度、追いかけられたよ」岡戸が恐ろし気な顔をして言う。
「本当に出たのですか?」金森は驚く。
「出たよ。この目で見た。たまたまそこにいたスコット山田君も一緒に見ているから、見間違いではないよ」
「えっ、スコット山田君がいたのですか?」
「彼は晴れて、我がゴーストバスターズの一員になったのだよ」
「あのヤンキーがそんな面倒な役をよく引き受けましたね」
「いい子だよ、彼は」金で雇ったとは言わない。
「それで、二宮金次郎はその虫取り網で捕獲できたのですか?」
「いいや。捕獲できておったら、私は今ごろマスコミに取り囲まれて、ヒーローになっておる。残念ながら素通りして行きおった。だが、二宮金次郎像を撤去する話はなくなったから、これからは彼も安心して走るだろうよ」
「やはり走るのですか?」
「そうだ。長生きするには足腰を鍛えないとダメだぞ、金森君。毎夜、走って足腰を鍛えておる二宮君は江戸時代からずっと生きておる。――おっ、蝶だ!」
岡戸は虫取り網を持って駆け出した。
「岡戸さん、もしかして、その蝶もゴーストですか!?」金森も後を追いかけて行く。
「いや、これは現実の蝶だ。昆虫を採集して、生き物係に売りつけるんだ。――ほら、見てみなさい」
岡戸は虫かごを示す。トンボとカナブンが入っている。
「ここに蝶を加えた昆虫三点セットで売りつけようと、私は企んでおるんだ。待て、蝶! 人間に逆らうんじゃない。こりゃ、すばしっこいのう。それっ!――よしっ、捕まえた!」
「その昆虫三点セットはいくらで売れるんですか?」
「せいぜい、虫かご込みで八百円だろう。だが、心配には及ばん。ここまでは準備運動だ。狙いはこんな昆虫ではなく、鳥だ。――いたぞ! オオルリだ。これはキレイだ」岡戸が見上げる。
青色と白色の小さな鳥が木の枝に止まっている。見た目が美しく、青い鳥御三家の一つであり、鳴き声も美しく、日本三鳴鳥の一つでもある。
「つまり、彼女は鳥業界で二冠を達成しておる」
「野鳥を捕獲してもいいんですか?」
「オオルリはダメさ。密漁に決まっているだろう」
どこまで本気なのか分からない。
「だがな、オオルリは一羽七千円で売れるんだ」
岡戸が振り回す虫取り網で捕まるドジな野鳥はいないだろう。せいぜい、弱った昆虫だ。それに、オオルリを捕まえたところで、生き物係の二人は買い取ってくれるのか? 学校で飼育してもいいのか? ダメだろうな。生き物については素人の僕にでも分かる。岡戸さんは逮捕されて、新聞に載るだろうし、学校も強制捜査されるだろう。
草野校長と森教頭はお互いに負けじと張り合って歩いているうちに疲れ果て、たどり着いた広い場所の真ん中にある石の上に座り込んでいた。歩き出してすぐ、痛みが膝に来て、腰に来て、背中に来て、両腕に来て、頭に来て、二人して歩く気力が奪われてしまったのである。
「教頭先生、なかなかやるじゃないか」
「校長先生こそ、お達者ですな」
ゼエゼエ言いながら、お互いを褒めたたえる。仲がいいのか悪いのか分からない。昨日の敵は今日の友だ。強敵と書いて友と読むようなものだ。二人仲良く、水筒の水をゴクゴク飲む。そのとき、前方からお揃いの黄色いジャージを着た集団がやって来た。
「ほう、雷電高校の生徒たちですなあ」教頭が首を伸ばして確認する。
校長も立ち上がる気力はなく、首だけを伸ばして、確認する。
「おお、そうだな。彼らも今日登っておったのか」
雷電高校は竜巻高校のライバル校である。
眺めているうちに、竜巻高校の生徒たちも後ろから追い付いて来た。両校の生徒と先生たち約三百人ずつ、合計六百人が山の中腹にある広場で対峙する。
ちょうど真ん中に竜巻高校の校長と教頭がいる。普段から仲の悪い両校の一触即発の状態を仲裁するため、自ら中央に進み出たのではなく、たまたまここで疲れて休んでいたら、挟まれただけである。まだのんびりと水筒を片手に座っている。
好き勝手に私服を着て来た竜巻高校と違って、黄色いジャージで統一した雷電高校の生徒の集団が、モーゼが割った海のように割れて、真ん中に道ができた。その道に十人ほどの生徒にかつがれた御神輿のような物が出現した。二本の大きな木に渡された神輿の部分に豪勢な椅子が設置されている。その椅子に座っていたのは、雷電高校の花桐理事長であった。神輿の横には西見校長が従っている。
「やあ、草野校長と森教頭じゃないか!」下々を見下ろしている理事長がデカい声で叫ぶ。「そんなところで、なぜ油を売っておるのかね?」
雷電高校の生徒は、どうだうちの理事長はすげえだろうという顔を向けて来る。竜巻高校の生徒は、なんだこの神輿ジジイは、モーロクしたのかという顔を向けてやる。
仕方なく、二人は立ち上がる。
「理事長」草野校長が見上げる。「それは一体何ですか?」
「見ての通り、人間神輿じゃわい。この年になると、小さな山とはいえ、登るのはしんどくてな。さすがのロールスロイスもここまでは登って来れん。かと言って、生徒たちとの触れ合いは大切にしたいんじゃ。というわけで、このように屈強な生徒諸君に神輿をかついでもらってるわけだ。――おお、中村先生じゃないか!」
竜巻高校の集団の中から中村を見つけたようだ。この理事長と気が合わなかったため、中村は雷電高校から竜巻高校へと左遷された。その恨みは今も忘れないでいる。
「これは理事長、ご無沙汰しております」
それでも、挨拶はちゃんと交わして、頭を下げる。
「少し小耳に挟んだのだが、君は竜巻高校にサッカー部を作ろうとしておるらしいのう」
「はい」中村は御神輿に近寄り、理事長を見上げる。「いずれ、そちらのサッカー部とも対戦する機会がやって来ると思います。そのときはお手柔らかにお願いします」
お手柔らかにと言ったが、心の中では叩きつぶしてやると思っている。
「ほう。この中途半端な時期によく部員が集まったな」
「いえ。まだ十一人は揃っておりません」
それを聞いた雷電高校の生徒は笑い転げる。
「十一人いないんじゃ、九人で野球をやればいい」「九人もいないんじゃないのか」「六人だったら、スリーエックススリーのバスケができるじゃん」「六人も集まってないんじゃない」「じゃあ、一人で相撲部でも始めればいい」
それを聞いた竜巻高校の生徒は悔しがる。中村先生がサッカー部員を集めていることは知っているが、集まってないことも知っているからだ。
「中村先生。わしが乗っている人間神輿をかついでいる生徒を見なさい」
見覚えのある生徒たちだ。
「分かったかね。全員サッカー部なのだよ。その中でも精鋭の十一人なのだよ。この神輿は彼らの足腰の鍛錬も兼ねているというわけだ。これで登山研修をすると、けっこうキツイぞ。だが、彼らにとっては大したことでない」
確かに理事長をかついでいる生徒の足は丈夫そうで、みんな精悍な顔つきをしている。
「最低の人数十一人が揃ったら連絡をくれたまえ。サッカー部設立記念試合を開催してあげよう。どうしても揃わないようなら、女子も加えればどうかね。男女混合チームで戦えばよろしい」
ふたたび雷電高校の生徒は笑い転げる。中村は歯ぎしりをして悔しがる。
「さて、行くとするか!」理事長が右手をあげて、神輿の横にいる西見校長に指示を出す。「その山道を右折してくれるかね」
ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ。
人間神輿は雷電高校の生徒集団を引き連れて、広場の道をカチカチと音を立てて、右に曲がって行く。
理事長を乗せた神輿には、なぜか方向指示器が付いていた。
中村は悔しそうに神輿を見送った。
一方、竜巻高校はこの広場で昼食だった。
集まった生徒たちは雷電高校の悪口を言っている。
「言いたいことを言われて悔しいよな」
「黄色いジャージ集団なんて、ブルースリーオタクかよ」
「なんだ、あの神輿は。神様気取りかよ」
「あのタヌキ理事長の奴、男女混合サッカーだって、ひどいよな」
「サッカー部は中村先生が何とかしてくれるんじゃない。俺は園芸部だから無理だけど」
「俺も天文部だから無理だけど、早く部員が集まってほしいよな」
「それで雷電高校サッカー部を撃破すると」
「でも、あの名門に勝つなんて、草野球チームがプロ野球チームに勝つようなものだよな」
「小学生横綱が照ノ富士に勝つようなものだからなあ」
「AKBが乃木坂に勝つようなものだからなあ」
「微妙だな」
「まあ、長い人生には大逆転があるさ」
「そうだな。俺たちが歩んで来た人生はまだ短いからな」
「あんな変な連中は放っておいて、メシにしよう。――おお、みんな並んでるじゃん!」
広場の隅でお弁当が配られていて、すでに長い行列ができている。もちろん、午前中に早弁をしていた星輝和尚もちゃっかり並んでいるし、岡戸もトンボとカナブンと蝶が入った昆虫三点セットが入った虫かごを持って並んでいる。
「はい、お弁当ですよー。みんな並んでくださいよー」白い割烹着を着た年配の男性がお弁当を渡している。「お弁当を受け取ったら、隣でお茶も受け取ってくださいよー」
「はい、お茶はこちらですよー」同じく割烹着を着た年配の女性がペットボトル入りのお茶を手渡している。
「お茶はこちらにもありますよ」もう一人の黒と白の服を着た若い女性もペットボトルを手渡している。「はい、どうぞ」
生徒会長の平井と副会長の金森が木製ベンチに並んで座った。お弁当の包みをほどく。
「おお、ちらし寿司だ!」平井が思わず声をあげる。
「すげえ。トロにウニにイクラ……。こんな豪華なちらし寿司は初めて見た」金森も驚く。
「とりあえず、水分補給といきますか」平井はペットボトルを開けて、お茶を口にする。「でもな、なんでウマイ寿司の大将と女将がここまで出張って来て、ちらし寿司を配ってるんだ?」
「分からないね」金森はトロを口にして、つぶやいた。「お店の宣伝かもね。あるいは校長あたりが格安で準備させたんじゃないか」
「これ、三千円はするな」
「それを、あの校長が二千円くらいに値切りやがったんだよ」
「とんでもない校長だな。そんな学校の生徒会長が僕だもんなあ」平井がボヤく。
「副会長が僕だもんなあ」金森も同調する。
「おかしなことがもう一つある。女将の隣でお茶を配ってた若い女性は教会のシスターだったぞ」
「黒と白の修道服で登山している人を始めて見たわ。通販で買ったコスプレかと思ったが、あれは本物のシスターさんだな」
「娘にしちゃ、キレイだったな」
「あの二人の娘じゃないな。全然似てない。トンビがタカを生んだとは思えん。どういう関係か知らないが、慈善事業もシスターの活動の一つだからね」
「お茶を配るのも慈善事業というわけか」
「星輝和尚に用務員の岡戸さんにウマイ寿司の大将と女将に教会のシスターまで参加しているとは、変な登山研修だよな」平井もトロに齧り付く。「研修の趣旨がよく分からん」
「ちらし寿司がおいしいからいいことにしようや。ムシャムシャ」
「そうだな、ムシャムシャ」
午後はスマホの自撮り合戦になった。お腹も一杯になり、後は山を下りるだけなので、生徒たちも気楽で、先生たちも大目に見ている。被写体で人気があるのは、もちろん学校のマドンナだった。つまり、小久保“マドンナ”先生と、姫宮“マドンナ”生徒のダブルマドンナである。
「小久保先生、一緒に写真を撮ってください!」
「生き物係の犬井君ね。いいよ。ここに並んで」小久保は自分の隣を指差す。
「鳥谷、悪いけど、シャッターを押してくれ」犬井は自分のスマホを渡す。
「あら、犬井君、手に何を持ってるの?」
「ああこれですか。用務員の岡戸さんに買わされたトンボとカナブンと蝶の昆虫三点セットです」
「いくらで買ったの?」
「虫かご込みで八百円です」
「しょうがないオジサンだよね」
「生き物係ですから、大事に育てます。――鳥谷、シャッターを頼む」
「おお、まかせておけ!」
鳥谷は、犬井が小久保先生に気があることを知っている。
「お二人さん、もっと近づいて。いや、もっともっと。ピッタリと。ベッタリと。はい、犬井、ここで先生の肩に手を回して!」
「できるか!」
――カシャ!
犬井が顔を赤らめて叫んだ顔がバッチリ撮れた。
「鳥谷、殺すぞ、お前!」犬井が迫って来る。
「待て待て。生き物係として、命は大切にしよう」鳥谷がなだめる。
「ああ、そうだな。次は僕が撮ってあげるよ。マドンナ姫宮の所へ行こうや」犬井が誘う。
鳥谷は姫宮に気があるのだが、姫宮の前にはツーショット撮影の順番待ちの行列ができている。男子ばかりではなく、女子も並んでいる。姫宮は女子にも人気があるのだ。
「おいおい、ライバルが多いぞ。大丈夫か、我らの鳥谷君」犬井が茶化す。
「生き物が好きな人に悪い人はいないからね。その辺をアピールしてくるよ」
「昆虫三点セットを貸そうか?」犬井は虫かごを掲げる。
「いらない」鳥谷は即座に断る。「それを見ると岡戸さんの顔がチラつく」
「それは致命的だな」
小久保“マドンナ”先生に次いで美しい酒井“準マドンナ”先生の存在も忘れてはいけない。酒井先生は二度に渡って、ラッパー安藤をボコボコにしたが、クラス内で口止めがされていて、他のクラスの生徒たちは、相変わらず、酒井が青森県出身の大人しくて、真面目で、純朴な先生だと思い込んでいる。男子と女子、両方の生徒に人気があり、こちらも行列ができていた。しかし、担任をしているクラスの生徒は一人も近寄らなかった。酒井の正体を知っているだけに、恐ろしくて近寄れないのだが、あのクラスの子たちは、普段から会ってるから、今さら一緒に写真なんか撮らないのだろうとみんなは思い違いをしていた。
二人のマドンナと準マドンナに続いて人気があったのはシスターのマリー・アマーチェだった。白と黒の修道服は、山のてっぺんでは浮いてしまっているが、集まった生徒たちが人垣を作っていた。
普段、教会なんかに行かない生徒たちはシスターに会ったり、話をしたりしない。おまけに美人となると、興味津々なのだろう。
「シスター、僕と写真を撮ってください!」
「待て。俺が先だ!」
「何だと、シスターは俺が先に見つけたんだ」
「絶滅寸前の希少動物みたいに言うなよ」
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せよ!」
「お前こそ、汝の敵を愛せよ!」
男子が揉めているうちに、女子がシスターを取り巻いた。
唖然とする男子。
「おいおい、女子は要領がいいよなあ」男子がボヤく。
「あんたたちがトロいだけでしょ」女子は余裕だ。
女子がシスターを囲んで集合写真を撮っている。大学を出たばかりの女性新任教師と生徒たちのように見える。各自のスマホを順番に受け取ってシャッターを切っているのは教頭であった。そんなことは生徒か、他の教師にやらせればいいのにと誰もが思うのだが、教頭も楽しそうなので任せることにした。こんな森教頭も生徒たちの人気者だった。
ここが嫌われ者の校長と違う所なのだよと、生徒に囲まれた教頭も満足げだ。ただ、シャッターを押すだけなのだが。
「はい。皆さん、写しますよー。笑って、笑って。シスターも笑ってくださーい!」
中央に立っていたシスターがVサインをして、叫んだ。
「イエーイ!」
――カシャ!
シスターもイエーイなんて言うのか!?
イエス様に許しを請うているのか?
一瞬、山の上は騒然としたが、また笑い声が戻った。
「平井君!」
呼ばれて振り返ると星輝和尚が立っていた。
「君が生徒会長だと見込んで頼みがある。御仏からのお願いだと思って聞いてほしい」
「はい、何でしょうか?」嫌な予感しかしない。
「わしもキレイな娘さんと写真が撮りたいんじゃ」
予感は当たった。嫌な予感は当たるものである。何とかの法則だ。それでも、平井は愕然とする。この和尚さんの体は煩悩でできているのか? 食欲の次は性欲か? 練誠会という行事も、金に目がくらんで引き受けたらしいから、金銭欲も旺盛だ。食欲、性欲、金銭欲。――三大欲望の揃い踏みだ。
だが、ニコニコ笑うタヌキ顔を見ていると、かわいそうにも思えてくる。
「では、僕が話を付けてきます」生徒会長として責任を果たしてあげよう。「見てみると、二人のマドンナとシスターに人気が集まっているようですが、どなたと撮りたいですか?」
「三人全員に決まっておろう。差別はいかん。御仏の下では、みな平等じゃ」
都合よく、仏を持ち出す。いつかバチが当たるだろう。
人のいい平井はタヌキ和尚のために、三人に声をかけて、撮影をセッティングしてあげた。
和尚は三人の美女に囲まれて、ヨダレがこぼれそうだ。
「はい、和尚さん。チーズ!」平井はシャッターを押してあげた。
和尚はこの世のモノとは思えないほどの眩しい笑顔をレンズに向けた。紺色の作務衣を着た和尚と、白と黒の修道服を着たシスターが同じ写真に入っている。シュールな光景だ。
「いやあ、三人のお嬢さん方、お忙しいところをどうも。三人に御仏のご加護のあらんことを。ナンマイダ~」
星輝和尚は手を合わせたが、三人のうちの一人はシスターであった。ナンマイダ~と言われたシスターは、どう返していいのか分からず、とりあえず胸の前で十字を切っていた。
アーメン。和尚さんにも神のご加護を。
和尚がニコニコ顔で平井の元にやって来た。
「ありがとう。これで何の迷いもなく、成仏できるよ」
平井は「それはよかったです」と答えたが、心の中では、そんな迷いだらけで、煩悩のかたまりのような人が成仏できるわけないでしょうと、たくさんの罵声を浴びせていた。
「平井君、実はもう一つ、頼みがあるんだが」
また嫌な予感がする。
「あのお二人も、三人のお嬢さんと写真が撮りたいと言っておるのだよ」
平井が振り向くと、定年間近の美術の野呂先生と社会人入学の大久保田が肩を組んで、ニコニコ笑いながら立っていた。
また嫌な予感は当たった。
二人は仲が良くて肩を組んでいるのではなく、疲れ切って、お互いを支え合っていたのだ。“人”という字がお互いを支え合っているようなものだ。低い山を登るといっても、五十九歳と六十六歳には大変だったようだ。
しかし、三人の美女と写真を撮るために、最後の力を振り絞って、ガクガクの膝で立っていたのである。煩悩のなせるワザであった。
両マドンナとシスターと違って、男子生徒が見向きもしなかったのが、保健室の主、アラフィフの美魔女佐藤恵子先生だった。
今日は登山のため、いつものボディコン白衣ではなく、深紅のボディコンジャージを着ての参加である。気合十分である。この広場にたどり着くまで、救急セットを持って、ケガ人はいないか、具合の悪くなった人はいないかと、登ってる学校関係者に訊いて回っていた。傍から見ると、保健室の先生が甲斐甲斐しく仕事をしているように見えたのだが、訊いて回る相手はすべて男子生徒と男性教師で、下心が丸分かりだったので、女子たちには白い目で見られていた。
「恵子先生はいい人なんだけどねえ」
「私たちの悩みも聞いてくれるのにねえ」
「保健師としての腕も確かなんだけどねえ」
「男に目がないのよねえ」
「男にだらしないのよねえ」
女子生徒の評判はさんざんである。あとは山を下りるだけなのだが、恵子先生は深紅のボディコンジャージ姿で、腰をくねらせながら、しつこく男子生徒と男性教師を追いかけ回して、顰蹙を買っていた。
「足は大丈夫かしら? 冷却スプレーを吹きかけてあげるわよ。サービスで、私の吐息も吹きかけてあげるわよ」
「熱中症には気を付けてね。具合が悪くなったら、木陰で休んでね。私の膝を枕の代わりに貸してあげるわよ。寂しいのなら、添い寝してあげるわよ」
「腰は痛くない? 湿布があるわよ。先生が心を込めて、貼って、あ・げ・る」
「すごい汗ね。普段から汗っかきだから大丈夫? ダメよ。私が汗を拭いて、あ・げ・る」
そんな恵子先生を見て、男性教師はいつものことだと思いながらも、私は大丈夫ですよ、どこも痛くありませんからと、うまくあしらっている。一方、男子生徒はというと、そんな社会人のような気の利いた芸当ができるわけもなく、ワーワー言いながら、本能で逃げ回っている。
気が付けば、恵子先生の周りに男子はいなくなっていた。
「おかしいわ。大き目のジャージを体の線がくっきり出るように加工して、深紅のボディコンジャージに仕上げて来たというのに、なぜ世の男性は私の魅力に気づいてくれないのかしら。男子高校生と言えば、性欲のかたまりのような存在よ。そんな子も逃げて行くって、どういうこと? それに、年上の女性に憧れる年頃のはずよ。あの子たちの母親よりも、ちょっぴり年上なだけじゃないの」
もう誰もいなくなった山の上に救急セットを持って、たった一人で呆然とたたずむ恵子先生。
「一学年は三百人、その半分の百五十人が男子生徒として、私は百五十人の男子プラス五人の男性教員から同時にフラれたことになる。ギネス級だ。――すごいじゃん、私!」
だが、こんなことで挫けるようなアラフィフの美魔女ではなかった。
手鏡を取り出して、顔を映してみる。
「あら、かわいい! 美しすぎる保健師だわ」
吹いて来る風が少しだけ、頬にやさしい。
「大丈夫。まだまだ地球上にはたくさんのオスがいるわ!――ヤッホー!」力いっぱい叫んでみる。
こだまは返って来なかった。
周りには声が反響する山がなかったからだ。
「こだまのバカヤロー!」
ちょうど真下を黄色いジャージを着た雷電高校の生徒たちが下山していた。奇妙な声を聞いて見上げる生徒に、恵子先生はいくつもの投げキッスを飛ばした。
「わっ、やまんばが出たぞ!」「昭和の妖怪だ!」「UMAだ!」
生徒は大騒ぎする。
そのうち生徒たちは石を投げだした。あわてて避難する恵子先生。神輿に乗った花桐理事長も何事かと、丘を見上げたが、美魔女の恵子先生が好みのタイプではなかったようで、嫌な物を見たような顔をして、すぐに目を逸らした。神輿は方向指示器をカチカチ点滅させながら、北の林の中へと消えて行った。
各自が山を下りて行く。登山研修はこれで終わりだった。結局、松葉杖をついていたラッパー安藤は、途中で足が痛くなって、歩けなくなり、ラグビー部の玉本と足立が持参していた担架に乗せられて、下山することになった。
当然だろう。足の骨に三本のヒビが入っていたのだから。
「あらかじめ担架を持って登山をするっておかしくないか?」玉本が言う。
「だって、酒井先生の命令だから」足立は諦めている。
「もう、あの先生には逆らえないな」
「正体があれだもんな」
「みちのくの妖怪」
「酒井先生の前では、ハイハイとイエスマンに徹することが身を守ることになるな」
「さもないと、こいつみたいに」足立は安藤を見下ろす。「半殺しにされる」
安藤は気持ちがよくなったのか、目を閉じたまま運ばれている。
「爆睡とは、いい気なもんだな。こんなことじゃ、棺桶を持ってくればよかったよな」と足立。
「おい、棺桶はないだろ!」安藤が目を開く。
「なんだ、起きてるのか?」
「ずっと起きてるわ!」
「ウソつけ。今、目が覚めたのだろうよ。――えいっ! これでも喰らえ!」
「待て! 揺らさないでくれ!」
玉本と足立が息を合わせて担架を揺らす。
「俺はケガ人なんだぞ!」
「何だ、偉そうに!」玉本が怒鳴る。
「いや、すまん。偉そうにしたお詫びと、担架で運んでくれているお礼に、俺の即興ラップを聞かせてやろう」
「聞いてくださいだろっ!」足立も怒鳴る。
「お二人さん、お聞きくださいませ。今から歌のスタンバイをさせていただきます」
安藤はしばらく目を閉じて、精神統一らしきものをした後、おもむろに歌い出した。
♪山を担架で下って行く~。山の中に担架があったんか~。僕はこんな担架に乗ったんか~。ラグビー部の二人がおったんか~。二人で担架を持ったんか~。お昼ご飯は喰ったんか~。この担架、どこで買ったんか~。
♪山を担架で下って行く~。僕の心は砕け散り~。お腹も痛くて下りそう~。だけど、くだらないケガ~。
上半身を動かせる安藤はリズムに合わせて、腕を振っているが、そのリズムはバラバラだ。担架で運んでいる玉本と足立には揺れて、うるさいだけだ。
♪行き着く先は天国か~。なんで下に天国がある~。上にあっても登れない~。だったら下ろう、どこまでも~。俺たち三人離れずに~。三人は運命共同体~。二人はラグビー部のスターだぜ~。YOYO!
あまりにもヘタで下らない歌のため、玉本と足立は担架を地面に放置して、脱兎のごとく、駆け出した。
安藤はむくりと上半身を起こす。
「おぉーい!」置き去りにされた叫びが、空しく山道に響く。「待てー、薄情者! お前ら、それでも健全たるアスリートかー!?」
「おーい、安藤。早く下りないと、夕暮れ時はクマが出るぞー!」振り返って玉本が叫ぶ。
もちろん、こんな丘にクマはいない。
野性の動物が出たとしても、せいぜいウサギかリスだ。
だが、「マジかよー!」と安藤はマジで信じる。
「クマは時速六十キロで走るぞー!」足立も叫ぶ。
「それは速い方なのかー!?」安藤も大声で尋ねる。
「ウサイン・ボルトは時速四十五キロだー!」
「クマ、速いじゃん! デブなのに速いじゃん! 四足だから速いじゃん! 足をケガしてなくても、追いつかれるじゃん! 僕の武器は松葉杖しかないじゃん! ラップを歌ってヒマはないじゃん!」
その後、どうやって安藤が下山したかは、誰にも分からなかったが、翌日はちゃんと学校に来ていたし、担架もラグビー部の部室に戻されていた。ただ、足の骨のヒビが三本から四本に増えたというウワサだった。
竜巻高校のヤンキー七人がバイクで街を疾走していた。先頭はハーフヤンキーのスコット山田で、二番手は留学生ヤンキーのチャーリーだ。その後を五台のバイクが続く。
この七人の集団には名前がない。暴走族のようにカッコイイ漢字の名前を付けようという案もあったのだが、リーダーのスコットもサブリーダーのチャーリーも揃って漢字が苦手だったのでやめたのである。では、カタカナの名前はどうか、となったのだが、地方都市の売れないビジュアル系バンド名のようだというので諦めたのである。
「みんなー!」スコット山田が振り向いて、大声で叫ぶ。「スピードを落とせ!」
これから警察署の前を通り過ぎるため、速度を落とすように指示したのだ。
「OK!」国際免許でぶっ飛ばすイギリス人チャーリーが返事をして、さらに後ろに伝言する。「レディースアンドジェントルマン、スピードダウン!」
「レディースなんか、いないだろ!」三番手を走っていた井川が叫ぶ。
署の玄関には、立ち番をしている新人警官が二人いる。署の前なんかで見つかって、スピード違反で捕まったら、ヤンキーの名折れだ。
七人はスピードを落とすと、背筋と両腕をしゃんと伸ばして、健全なツーリング集団のフリをして通り過ぎる。
そして、署の前を通り過ぎると、またぶっ飛ばす!
「チャーリー!」スコット山田が呼ぶ。「そろそろ登山研修も終わった頃だろうな」
「ああ、そうだな。あんな丘には登りたくないよ。こうして飛ばしてるのが最高だ」
「俺たちに、あんなボーイスカウトみたいなことが似合うわけない。コンクリートジャングルの間をぶっ飛ばして、すり抜けるのお似合いだぜ!」
「そうだぜ!」
七人は信号を守るものの、ジグザグ走行を繰り返し、クラクションを鳴らして、暴走を続ける。あわてて道を空ける車や、横断歩道を早足で渡る人々を見て、喜んでいる。
街で最も大きな道路に出たとき、最後方の男が叫んだ。
「みんな、道を開けるんだ!」
「何だと!」スコット山田は叫ぶ。「俺たちがなんで、道を譲らなきゃならないんだ!」
文句を一つ吐いて、後ろを振り返ると、黒くてデカい車が猛スピードで走って来る。
だが、デカい割にはエンジン音がしない。――なんだ、こいつは!?
チャーリーが叫んだ。
「スコット、道を譲れ! こいつはロールスロイスファントムだ! 六千万くらいする最高級車だから、ぶつけたらヤバいぞ。すげえ金を巻き上げられるぞ」
「なんだ、詳しいな」
「ボクの国の車だからね」
「ああ、イギリスの車か。メシは不味いが、車はすげえな。だが、やけにエンジンが静かだな」
「だから、ファントム=幽霊と言うんだ。ロールスロイスとネッシーはイギリスの二大自慢なんだ」
七台のバイクは仕方なく、脇に避けて、ロールスロイスのファントム様に道を譲った。
少しの傷がついても、俺たちのお小遣いでは払えないだろう。宮井の学食のバイトを代わってもらうしかない。それでも足らないだろうが。
一体どんなセレブが乗ってるのかと、スコットはすれ違いざまに、車の中を覗いた。
ロールスのデカい後部座席に、雷電高校のデカい花桐理事長が、踏ん反り返って座っていた。
「あの野郎か!」スコットはギシギシと歯ぎしりをする。
ロールスロイスファントムには同じく黒塗りの後続車がいた。大きな国産車だったが、こいつが七人に幅寄せをしてきた。道の端をゆっくりと並んで走っているというのに、嫌がらせをするかのように、ギリギリの所を追い抜いて行ったのだ。中を覗くと、デカい後部座席に、ちっこい西見校長が座っていた。さらにその後ろから、荷物を乗せた大型トラックが走って来た。
「あの校長もいやがるのか!」スコットはギシギシギシと歯ぎしりをする。
三台の車は連なって、そのまま猛スピードで去って行った。二台の車には登山研修帰りの雷電高校の理事長と校長が乗っていて、三台目の大型トラックには方向指示器付きの神輿が積んであったのだが、登山研修に参加してなかったスコットたちは知る由もなかった。
おそらく、やつらに俺たち七人の顔は見えていない。ヘルメットをかぶっていたため、竜巻高校の生徒だとは気づかなかったはずだ。竜巻高校への嫌がらせではないにしろ、道を譲らされて、さらに幅寄せをされたとなれば、無性に腹が立つ。ヤンキーの面目が丸つぶれだ。
三台の車の後をつけて、雷電高校に入って行くことを確認すると、七台のバイクはスコットの合図で、作戦会議をするため、近くのコンビニの駐車場に入った。
「今のは雷電高校のお偉いさんだ。だが、相手がお偉いさんであろうと、ファントムであろうと、やられたらやり返す。それが俺たちヤンキーの宿命だ」
「おう!」五人がヘルメット越しに叫んで、片手を突き上げた。
しかし、チャーリーだけは黙ったままだ。
「宿命って、どういう意味だっけ?」日本語は難しい。
「英語でデスティニーだ」スコットが教える。
「なんだ、デスティニーか。なんだか、ロマンチックだな」チャーリーは笑う。
「ああ、歌の歌詞によく出てくるからな。だが、俺たちが奴らに思い知らせて、デスティニーを悪い意味に変えてやればいい。デスティニーという単語を聞くたびに、吐き気を催させればいい。俺たちは言葉さえ支配するヤンキーだ!」
スコット山田が叫んだが、他の六人は意味が分からなかった。チャーリーはもう一度意味を訊こうかと思ったが、気を使ってやめることにした。チャーリーは優しい英国紳士だ。
なぜ、紳士がヤンキーをやっているのか分からないが、その優しさが、後でややこしいことを引き受けることになる。
その後、七人はホームセンターに行き、バールとカナヅチなどを購入して、花桐理事長と西見校長、そして雷電高校への復讐の準備を進めた。
「善は急げだ! 今夜、決行する! たとえそれが悪であっても、俺たちにとっては善だ。俺たちにとっては聖戦だ! 負けられない戦いだ!」スコット山田がデカい声で吠えた。
しかし、他の六人は思った。
何もホームセンターの中で叫ばなくてもいいだろ。
みんなは他人のフリをしようと、近くにある商品を手に取って、品定めをしているフリをした。
チャーリーはたまたま緑色の便座カバーを手に取ってしまい、途方に暮れていた。
「What? 何これ?」
そして、夜の八時半。もっと遅い時間に決行したかったのだが、ヤンキー七人のうち、二人の家の門限が夜の九時だったから、この時間になったのだ。
俺たちはチームワークを大切にする。連帯責任も大切にする。そして、家族も大切にする。
二手に分かれて、雷電高校の周りを一周して、校門の前で落ち合う。
「チャーリー、どうだった?」スコットが訊く。
「俺たち以外に怪しい奴は歩いてない」
「こっちもだ」
外から見る限り、学校内のどの校舎も真っ暗で、もう誰も残ってないようだ。スコットたちは七台のバイクを学校から少し離れた空き地に止めて、歩いて校門に向かった。
どうすれば雷電高校に一矢報いることができるのか? 俺たち七人は無い知恵を絞って考えた。学校の窓ガラスを割ったり、放火したり、爆破することは大きなダメージを与える。しかし、俺たちはただの高校生ヤンキーだ。そんな極悪人のようなことはできない。まるで高校球児のような、爽やかで清々しい復讐が似合っている。
「俺たちにとって、もっとも頭に来て、もっとも痛手を受けることは何だ?」スコット山田が問う。
「名を汚されることじゃないか?」チャーリーが答える。
「俺たちヤンキー集団には名が無い。たとえば、名前がある暴走族にとって、それは何だ?」
「暴走族が掲げている旗を奪われることじゃないか?」
「それだ!」スコットがひらめいた。
七人は“雷電高等学校”という学校名が記された看板=学校銘板を盗み出すことにした。それは校門にあるコンクリートの壁に埋め込まれている、横120センチ×縦20センチ×厚さ15センチの金属製の銘板であった。四人を見張りとして学校の周りに配置し、三人でバールとカナヅチを使って、銘板を外すという作戦だ。
あらためて集合した校門付近には誰も歩いてない。
「よしっ、決行だ!」スコットが小さく叫ぶ。
チャーリーは首の周りに緑色の何かを巻き付けていた。
「何だ、それは?」スコットが訊く。
「さっきのホームセンターで買ったマフラーだよ」
「それは便座カバーだろ!」
「暖かくていいよ」
「便器に座ったとき、お尻が冷てぇ! とならないように暖かいんだよ。なんで、そんなものを買うんだよ」
「手に取った物は買った方がいいかなと思って」
「ヤンキーにそんな律儀さは不要だ。律儀もカバーもここに捨てておけよ」
スコットとチャーリーと井川が仕事に取り掛かる。
銘板の上の部分のコンクリートに三人で穴を開けて行く。左右と真ん中の三か所だ。
「意外に大きな音がするな」チャーリーが不安げに言う。
夜の街にカナヅチでコンコンと叩く音が響くのだ。
「心配するな、四人が見張ってくれている」スコットがなだめる。
十五分ほどが過ぎた頃、見張りの一人が電話をかけてきた。学校の前を誰かが通るようだ。
三人は作業を止めて、校門でウンコ座りをする。こんなこともあろうかと、全員学生服を着て来ている。チャーリーは急いで帽子をかぶり、金髪を隠した。
やがて、スーツ姿の中年男性が通りかかった。一度、こちらをチラッと見たが、ヤンキーが校門でタムロしていると勘違いして、目を合わさないよう、足早に通り過ぎて行った。
「よしっ、再開しよう」スコットが立ち上がる。
さらに二十分が経過し、銘板の上部に三か所の穴が開いた。その穴にスコットとチャーリーと井川が手をかける。
「いいか、せーので引っ張るぞ。――せーの!」
――バキバキッ!
“雷電高等学校”と書かれた学校銘板が見事に外れた。
「やったぜ!」
翌朝、雷電高校に出勤してきた教師が校門の壁に埋め込まれているはずの学校銘板が外されていることに気づいた。そして、なぜかそこには緑色の便座カバーが落ちていた。
理事長も校長も訳が分からず、首をひねる。
「校門=肛門、だから便器→便座カバーというシャレじゃないのかね?」
「ややこしいシャレですな」
「ところで、校長。うちの高校の銘板なんか盗んでどうするんだ?」理事長が疑問を呈する。
「銅なんかの金属は高く売れますからね」
「高校名が入っていたら、盗んだことがバレるだろう」
「買い取り業者に何者かが銘板を売りに来たら、すぐに通報してもらえるように、警察から通達を流してもらいましょう。先ほど110番させましたから、もうすぐ到着すると思います」
「しかし、学校銘板なんか売るかね。他に使い道といったら何だね?」
「受験のお守りにするとか」
「あんな大きな物をお守りにするかね?」
「もっとも、うちの高校は銘板をお守りにされるほど、偏差値は高くありませんがね」
「校長のアンタがそんなことを言うかね。まあ、確かにその通りだがな」
理事長の財力をもってしても、雷電高校に優秀な生徒は集まって来てないのだ。
昼食を食べ終えた頃、スコット山田とチャーリーが放送で呼び出された。校長・教頭室まで来いという。この二人が呼び出されるのは珍しくないので、誰も気にしていない
スコットとチャーリーは連れ立って歩き出すが、なぜ校長に呼ばれたのか、その理由が多すぎて分からない。チャーリーが心当たりのある理由をスコットに確認する。
「音楽の沢村先生の車に十円玉で引っかいて傷付けたことかな?」
「あの野郎が女子の肩に手をやったりしてセクハラをしていたから懲らしめてやったんだ」
「校内に飛んで来たハトに石を投げたことかな?」
「あちこちにフンを落として、用務員の岡戸さんも困っていたから、懲らしめたんだ」
「体育館に転がっていたバランスボールの空気を全部抜いて回ったことかな?」
「使ったきり片付けないから、整理整頓するように忠告をしてやったんだ」
二人は渡り廊下を歩いて行く。
「なあ、チャーリー。俺たちがやってることは正義だよな」
「弱きを助け、強きを挫く。これが真のヤンキーだよ。だから僕はヤンキーになったんだよ」
「俺に大和魂が宿っているように、チャーリーには騎士道精神が宿ってるというわけだ。俺たちはカッコイイよなあ」
スコット山田は、登山研修をさぼり、バイクでぶっ飛ばしながら、横断歩道を渡ってる人を蹴散らしていることなんかすっかり忘れて、自分の言葉に酔いながらも、ふと窓の外を見た。
「チャーリー、俺たちは昨日の件で呼ばれたらしい」
職員用の駐車スペースにロールスロイスファントムが、ケツをはみ出させて停まっていた。傍らに運転手らしき男が立っている。
「あれじゃ、十円玉で引っかけないね」チャーリーが言う。
スコットはどこかに電話をかけていた。
「――そうだ。十五分後に頼む。お礼はカヌレ? なんだそれは?」
校長・教頭室に入ると、草野校長と森教頭が応接セットに座って待っていた。向かいには雷電高校の花桐理事長と西見校長が座っている。
草野校長が声をかけた。
「スコット山田君とチャーリー何とか君。そこに座りなさい」
空いてるソファを指差す。チャーリーの本名はいまだにややこしくて覚えられないようだ。
「さっそくだが、昨日の夜、君たちはどこにいたかね?」
花桐理事長と西見校長が鋭い視線を向けて来る。
スコット山田は考えた。俺たちが呼ばれたということは、バイク七台で走っているところを、誰かに見られたか、どこかの防犯カメラに映っていたのだろう。ここでウソを吐くと墓穴を掘る。
「仲間とバイクで健全なツーリングにいそしんでおりました」
「仲間というのは、うちの生徒かね?」
「はい。ここにいるチャーリー君も含めた七人の気のいい奴らです」
「実はね」花桐理事長が割り込んで来る。「うちの銘板が盗まれたのだよ。君たちは知らんかね?」
「メーバンって何ですか?」チャーリーが訊く。
「銘板も知らんのか?」
「僕はイギリス人なもので知りません」
「俺はオカンがイギリス人のハーフなもんで、食べたことありません」
「食べ物ではない」理事長はムッとする。
「バームクーヘンのようなものじゃないのですか?」
「あんなもん、堅くて喰えん」
スコット山田もチャーリーも昨晩校門から盗んだ物を銘板と呼ぶことを知らなかった。つまり、とぼけているのではなく、本当に知らないのだ。
「学校名が書いてある看板みたいなものだ」理事長が説明する。「それがなくなったのだよ」
「はっきり言うと」今度は草野校長が口を挟む。「君たち七人が雷電高校の前をバイクで通るところを見ていた人がいたんだ。それで、君たちが犯人じゃないかと疑っておるのだよ」とはっきり言う。
あの看板が銘板と言うものだと分かったスコット山田がとぼけて訊く。
「その銘板というのはどのくらいの大きさなんですか?」
「だいたい、長さは一メートルちょっとだな」西見校長が答える。
「そんなデカい物を抱えてバイクに乗っていたら、おまわりに止められますよ。それとも、銘板を抱えてバイクで走る俺たちの姿を見た人がいるのですか?」
「いや、それはないんだが」理事長の歯切れが悪くなる。
「じゃあ、物的証拠が揃ったら、また声をかけてください」
スコットがズバッと言い切ったとき、理事長の電話が鳴った。
「なに。銘板が見つかった!? ――ああ、うん、そうか。分かった」
電話を切った理事長はみんなの方を向いて言った。
「たった今、見つかったようだ。校門の塀と花壇の隙間に落ちていたらしい。どうやら犯人は銘板を外した後、塀から校内に投げ込んだようで、園芸部の女子生徒が花壇に水をやりに行って見つけたようだ」
その女子生徒は雷電高校生なのだが、スコットの女友達で、さっき電話をかけた相手だ。
校門近くに学校名の書かれた看板が落ちているはずだから、今から十五分後に、なくなっている看板を見つけましたと、誰でもいいから先生に報告するようにお願いをしておいたのだ。その先生から、計画通り、このタイミングで理事長に電話が入ったというわけだ。
お礼に、スコット山田はカヌレという名前のスイーツを、その女子生徒に奢ることになっていた。
最近やっとマリトッツォという名前を覚えたというのに、今度はカヌレかよ。カヌレなんてスイーツはうまいのか? 日本人なら豆大福だろうよ。
外した銘板は意外に重くて大きかった。こんな物は持って帰れないし、持って帰っても扱いに困るということで、塀の向こうに放り投げていたのだ。スコットが強気だったのも、手元に証拠品である銘板を持ってなかったからである。
犯人不明のまま、スコットとチャーリーは釈放された。うちの教頭からは時間を取らせて済まなかったねと言われたが、向こうの理事長からは一言の謝罪もなかった。
だが、そんなことは想定内であった。あいつはそんな奴だ。一時的にせよ、雷電高校のお偉いさん方をアタフタさせて、少しは気が晴れた二人であった。
校長・教頭室から出て来たスコットとチャーリーは伸びをして、定番のセリフを言った。
「ああ、娑婆の空気はうまいぜ!」
建物から外に出てみると、昨日一緒に銘板を外した井川が立っていた。二人を心配して、ここまで迎えに来てくれていたのだ。
そして、彼も頭を深々と下げて、定番のセリフを口にした。
「お勤めご苦労さんです!」
ロールスロイスファントムの脇に立っていた運転手にジロリと見られた。
「ノープロブレム!」
チャーリーが片手をあげて、見事な発音で叫んだ。
ああ、キングズ・イングリッシュは美しい。
~後編~につづく。